騎士の告白
現実逃避とばかりに一心不乱になり、こねあげた白いパン生地を渾身の力で叩きつける。
ふう…と、大きく息を付き粉で汚れた腕で額の汗を拭った。
「窯の方はそろそろのようですが?」
「じゃあ急いで形成するね。」
クロードの言葉にシアはありがとうと笑顔で返す。
有能なのか、何でもそつなくこなすクロードはパンを焼く窯の温度調節も手際良くできるようになってしまっていた。
それでも彼が身に付けている衣服はラウンウッド王国騎士団の白い制服。薪を抱え火をおこして窯を灰をならしてさえ、その制服が灰に汚れる事はない。
全く騎士にしておくのは勿体ないと感嘆するが、シアはまだ目にした事はないクロードの剣の腕はかなりの技で、そんな彼にパンを焼く為の窯の世話をさせていると知れたら色々な意味で大騒ぎになるだろう。しかもそれを命令ではなく、クロード自身が喜んでやっているのである。嫡男でないとはいえ、台所仕事など伯爵家の生まれである貴族の男がやる事ではない。ここにいるのがシアだからクロードも遠慮なく手が貸せ、シアも貴族社会に育たなかったからこそクロードの手伝いを喜んで受けているのだ。
無知とは末恐ろしい。この様を目撃する城の者がいたなら、間違いなく明朝には城中の噂になっているだろう。
そんな事は全く想像できず、シアがパンを窯に入れ終えた所で、シアの生まれ育った粗末な家にケミカルが顔を出した。
「あれ、もしかして終了?」
「手伝いに来てくれたの?」
「そのつもりだったんだが…一歩遅れたようだな。」
前回手伝った時の時間配分で寄ってみたが、あの時はシアがケミカルに手ほどきしながらだったので余計に時間がかかっていた。今日はクロードと二人、いつも通りの手際でちょうど終わらせた所だったのだ。
まぁいいやとケミカルは粗末な木の椅子に腰を下ろし、シアがてきぱきと後片付けする様をぼんやり見つめていた。
洗い物を終え白い小麦だらけの台を拭きながら、シアが思い出したようにケミカルへと向き直る。
「孤児院の事、色々やってくれてるみたいでありがとう。」
「あ~あれな。俺が気になったからやってるだけだから、別に礼を言われる事じゃない。」
少し照れたようにケミカルは視線を外し、シアは止めていた手を再び動かした。
「あの状況に馴染んでたせいで全く気付かなかったわ。流行り病で親を失くした子供が一気に増えていたし、仕方がないんだって思いこんでた。ケミカルってただのぐうたらなお坊ちゃまかと思ってたけど実際は違ったのね。」
「ぐうたらって…」
「だってそうでしょう?」
まぁ否定のしようはないが、事実を改めて指摘されると何故かムカつくものだ。
「そんな怒んないでよ、これでも褒めてるんだから。」
「それが褒めてるって言えるのかよ。」
顔を顰め拗ねた様子のケミカルにシアは声を上げて笑った。
「褒めてるわよ、弱きを助ける貴族なんて庶民の憧れじゃない?スロート公爵家の良い跡取りになるわ。」
「いや、これ以上やる気ないし…」
孤児院の件は目にして気になったからやったまで。自ら父親の後を継ぐために何かの手伝いをしたいとは思わない。特に権力に執着もない為、それとなく日常を過ごして行くのが性に合っていた。
「そうなの、勿体ない。遊び暮らすより仕事した方が絶対楽しいのに。」
「確かにパン作りは楽しかったな。」
「じゃあパン屋でも開く?」
「考えておくよ。」
シアは台を拭き終ると、側にある木の椅子に腰を下ろした。
何時の間にかクロードは姿を消しており、狭い部屋にパンの焼ける匂いが漂い始める。
「で、何か話があった?」
こんな所までわざわざ足を運んだ理由がパン作りを手伝う為だなんて思えない。
シアの言葉にケミカルは腕と長い脚を組んだ。
「おまえ、夫選びどうすんだよ。」
「どうするって―――」
嫌な事を思い出させるなぁと、シアは苦虫をつぶしたように顔を顰める。
「別にミーファの事気にする必要ないんじゃないのか?」
ケミカルはここに来る前にオルグに会って来たのだが、何処となく元気がない様子だったのでそうだと感じた。シアがオルグを拒否する理由がミーファとの婚約の件にあるのなら、そんな事に拘っている暇はないだろうと言いに来たのだ。
「ミーファさんの事じゃないわ。わたしを好きだって言ってくれる人の気持ちを利用できないだけよ。」
「別に利用してもいいだろ?」
そんな事何でもないと言った風に口にした。
「あいつはお前の側にいられるなら文句はない筈だ。お前を所有する権利を与える代わりに王になってもらうって考えには至らないか?」
「至らないわよ。」
ばかばかしいとばかりにシアは吐き捨てる。
「あなたオルグさんを愛してるミーファさんを手に入れて嬉しい?わたしは嫌だわ。自分が嫌な事をそれでいいって言われてはいそうですか、それならお願いしますって気持ちにはなれないわよ。」
「そう言われたらそうだけどさ…お前の場合は違うだろ?」
シアは溜息を付いてケミカルを一瞥した。
「何度も言うけど、ケミカルが選ばれる様な事態にだけはしないから安心して。」
「あ…いや…まぁそうだったな。」
自分だけが嫌なことから逃れようとしている事に、ケミカルは歯切れの悪い返事をしてしまう。
その歯切れの悪さにシアは眉間に皺を寄せ、ケミカルの瞳をまじまじと見つめた。
凝視されたケミカルはばつが悪そうに視線を外し、薄っすらと白い肌が赤く染まった。
なに、その反応?
シアの眉間の皺が更に深まる。
「ケミカルって…誰か好きな人出来た?」
ミーファの言葉が思い出され、その瞬間には口に出していた。
だがその質問にケミカルの顔色は元に戻り、何を言い出すんだと疑問の表情が浮かぶ。
「なんだそれ?」
「そんな情報耳にしたから。」
「何処からそんなデマ―――」
さして興味なさそうに組んでいた片方の手を顎にあてがう。
「まぁいいわ、わたしの方は何とかなるから大丈夫。心配してくれてありがとね。」
シアは言いながら立ち上がると窯を開き中の様子を伺う。
ちょうどいい具合に焼き上がっており、焼き立てのパンの匂いが部屋中に漂った。
するとそこへタイミングよくクロードが戻って来て、窯からパンを取り出すのを手伝う。
二人並んで作業する様を見ながら、ケミカルは口を開いた。
「クロード、資格云々は別として、お前はシアの伴侶になりたいとかは思わないのか?」
突然の問いかけにクロードとシアが同時に振り返り、問われた側ではないシアの方が顔を真っ赤にして声を上げた。
「なんて冗談いうのよ馬鹿!」
こんなに美しく完璧なクロードの相手として比較される事だけでもおこがましくて恥ずかしい。
気を使って応えられても嫌だったし、全否定されて断られても落ち込んでしまうではないか。
シアは真っ赤になって馬鹿な質問をしたケミカルを睨みつけた。
「ちょっと聞いてみただけだろ?」
あまりの剣幕に思わず引いたケミカルだったが、クロードはいつもと変わらぬ態度で丁寧にも質問に答える。
「資格があったとしても、私ならシア様の伴侶になる事は考えません。」
クロードの当然とも言える素直な答えに、シアは真っ赤になったまま俯く。
「そ…そうよね…」
何て事を聞いてくれるんだ馬鹿―――と、シアは恥ずかしさと怒りから両の手を強く握り締めた。
二人だけなら今直ぐケミカルの首を絞めて黄泉送りにしてやる所だ!
そんな射殺さんばかりの視線にケミカルは気付かない。
「そうか?シアの役に立てるってお前なら了解するかと思ったんだけどな。」
「お役に立ちたいとは思いますが、シア様の夫になるという事は王になるという事。王になると政務に追われ、シア様の傍らに有る事が叶わなくなります。私の望みはシア様のお側でその身をお守りし続ける事ですので、伴侶よりも近衛であり続ける方が望ましいのです。」
「―――お前…何気にすごい事言うよな。」
そうですかと、クロードがシアを見下ろすと、シアは俯いたまま更に顔を真っ赤に染めて固まってしまっていた。
ある意味、愛の告白よりも強烈だ。
夫として生活する場合、シアの夫はラウンウッドの国王となる立場にある為、当然それに見合う生活を送る事になる。王と王妃の寝室は扉で繋がってはいても別物だし、状況によりけりだが一日顔を合わさずに生活する事も可能だ。実際、現国王クロムハウルと王妃も毎日顔を突き合わせている訳ではない。そんな会えない生活よりも、常にシアの側に有れる近衛でいたい―――そこに恋愛感情がなくてもそう取られかねない、まるで崇拝しているかの言葉にシアは絶句していた。
言葉を失い赤くなっているシアに、クロードは何食わぬ顔で焼き立てのパンを入れた籠を差し出す。
「どうぞシア様。」
「あ…りが、と…」
茹でタコのようなシアの顔が可笑しくてケミカルは豪快な笑い声を上げ、シアは恥ずかしさを隠すように籠を受け取るとケミカルに対して「煩いっ!」と毒付いた。