困った事
ケミカルが久し振りに登城してシアの前に現れたかと思うと開口一番―――
「ミーファに振られて来たから。」
あっけらかんとのたまった。
意気揚々とすっきりした笑顔かつ陰りのない緑の瞳で報告されたシアは、一瞬彼が何を言っているのか分からず眉間に皺を寄せる。
すると何を勘違いしたのかケミカルは、表向きだけ切なそうな視線をシアに向けた。
「俺は大丈夫だからそんな顔するな。」
一通り傷ついて落ち込んで来たから大丈夫だとシアの肩をぽんぽんと叩く。
「ごめん、話が見えない。」
男らしく当って砕けて来たのか?
それよりも何よりも、ミーファさんはどうなったの??
ケミカルよりもミーファの方が気になるシアであった。
ケミカルの話によると、修道院に籠っていたミーファはシアが訪問した翌日、エルフェウロ家に無事帰宅したという。
それを聞いたケミカルはシアの後押しもあってミーファのもとを訪れたが、落ち込んで世を捨てようとしていたミーファが生気を取り戻し、それに加えてオルグへの愛を貫こうとしている姿を目撃して玉砕して来たのだそうだ。
恋する乙女は輝きを取り戻し、それを目の当たりにしたケミカルは純粋な思いでミーファの恋を後押ししたいと思った。今までのようにこっそりと切ない眼差しを送るのではなく、心の底からミーファの幸せを願い、嫌味抜きで自分の気持ちをあきらめる事にしたのだ。
その証拠に、今まで好きだったとすんなり告白する事が出来た。
受け入れてもらえるとは思っていなかったし、受け入れてもらおうとも思ってはいなかった。今まで胸の内に抱えていた想いを告白した事で、ケミカルはある意味、呪縛から解放された様なすがすがしい気持ちになっていた。
勿論ミーファの事は今でも好きだが、手の届かない存在だとか、あきらめなければならないとかそういった負の感所は何処にもなく、ただ彼女の事を大事な女性として位置付け、今まで通り友人として接して行く事を選んだのだ。
「とにかく不思議なんだよな。ミーファの事を思うと苦しいばかりだったっていうのに、今の彼女を見ていると素直に応援してやりたい気持ちしか浮かんでこない。告白したら思いがすっきりしたというか―――俺はいったい何に対して自棄になっていんだろうなぁ。」
ミーファが修道院に籠ってしまったショックで遊び歩いていたケミカルの姿はない。
これでもかという程にすがすがしい笑顔で事後報告するケミカルとは対照的に、シアの表情は陰りを帯びて行く一方だった。
「どうした、顔色悪いぞ?」
「いや…なんか現実に困った事になったなぁと―――」
ミーファが自分に正直になって生きる事を選んでくれた事はシアも素直に嬉しい。
だが―――
シアは本当に自分で自分を追いこんでいると自覚する。
自分はいったい誰を夫として選ぶべきなのか?
約束もある事だしケミカルは問題外。
次に候補者の筆頭であるオルグだが、彼を愛してもいないシアがミーファを差し置いて奪い取るのも気が引ける。というか、オルグはシアを好きだと言ってはくれたが、その思いを利用するのも後ろめたい。
オルグの告白を無視する気持ちはないが、どうもシア自身が彼に特別な愛情を持てない気がするのだ。優しいだけではなく時に厳しく叱咤してくれる。役目とはいえシアの事も最初から良く面倒をみてくれたし、宰相の息子であり、その後継者となるべくして育ったオルグは、今後のラウンウッドにはなくてはならない存在だろう。まさに時代の国を担うには必要で、うってつけの存在だ。
だが…ミーファが復活し、オルグに彼女自身の思いでぶつかって行こうとしている今、それだけの理由でミーファの邪魔するような事は絶対にしたくはない。
かと言って利害関係で結びつける相手をシアは知らなかった。
三ヶ月という期間を貰っておきながら、選べる僅かな存在の全てが消去されてしまった時点でそろそろやばいと切実に悩みだす。
時間を与えられておきながらゼロを好きだという思いが先立ち、特別な相手を見出そうともしていなかった。
こうなってしまうと次の宴の時には、最初にダンスを申し込んでくれた人にお願いしてみようかという気に本気でなって来る。
愛のない結婚というのも寂しい気がするが、それでもシアに近付いて来る男はラウンウッドの国王になりたいという野望を持っている筈だ。その役目をしっかりと果たしてくれるのならシアとて文句は言えない。
「お前、ミーファに気を使ってオルグの事消したな?」
「気を使ってって言うか…二人に後ろめたい。」
正直な所、ミーファの件がなければオルグを夫に選んでいたかもしれない。気持ちの方は結婚した後で精一杯努力を重ねる。
だがやはりシアは彼らと育ちが違う、何の変哲もない自由な一般市民なのだ。どんな理由があるにしろ結婚は好きな相手としたいと夢を描く。
シアからこれまでにない程のやり切れない溜息が洩れた。
「ねぇケミカル、やっぱりわたしの息子にならない?」
「いや…それだけはやめてくれ―――」
視線を外し冷や汗を拭うケミカルにシアは苦笑いを浮かべる。
「だよねぇ…」
半分冗談で半分本気だったが、それを口にするのは気の毒だ。
いったいどうしたものかと両腕を頭上に上げて大きく伸びをするシアを、ケミカルは不思議そうに眺める。
「なに?」
「いや…お前はもう少し我儘になってもいいんじゃないかと思ってさ。」
「我儘って―――?」
意味が分からないとばかりにシアは眉間に皺を寄せた。
「夫選びに関して言えば、お前は人のことばかり考えて遠慮してばかりだろ。俺やミーファの事とか抜きで、お前が自分に有利になる様に行動しても誰も文句は言えない地位にいるって分かってるか?」
確かに押し通してしまえば誰も文句は言えないだろう。言える相手と言えば父親である国王位のものである。
だからといてシアがここで自由にできる事など限られていた。全てに対してきままに過ごそうと思えば周囲に多大な迷惑をかける事は必至だ。
「じゃあゼロを選んでも誰も文句は言えないって事?」
「勿論反対には合うだろうしかなりの強硬手段で阻止されるだろうが、ゼロリオ王子が腹を括れば何とかなるんじゃないのか?」
「ラウンウッドはそれでいいと思う?」
「政を司る側からすれば思わないな。アセンデートに取り込まれる事には国民からも不満はでるだろう。」
その辺りはゼロリオの采配一つだ。
同情気味に見据えるケミカルにシアは苦い顔でう~んと唸る。
「駄目、ゼロとはお別れしたんだもの。もともと会うべくして出会った人じゃないし―――」
あきらめた気持ちを再燃焼させる気もない。
そう言ってほほ笑むシアにケミカルは「そうか」と呟く。
「でもありがとね。ゼロでもいいって言ってくれたのはケミカルだけだよ。なんか嬉しいや。」
シアでさえ、ゼロリオは駄目なのだと遠ざけてしまっていたのに。
ケミカルの言葉をもっと早くに聞かされていたら、今の現状は変わっていたかもしれない。
「それよりも、わたし今から出かけるんだけど。」
「出かけるって何処に?」
「前に住んでた家。」
「そんな所に何しに行くんだ?」
そんな所って…ケミカルからすれば庶民の家など小屋の様な物かもしれないが、シアにとっては十七年間生活して来た、母との思い出の我が屋だ。
「パンを作って孤児院に持って行ってるの。」
シアは母親と共にパン屋で生計を立てていた。あの家に戻れば残った小麦があり捨ておくのは勿体ない。
オルグの講義が無くなって暇になったシアは、時々パンを焼いて孤児院に届けるという事をしていた。
「ふ~ん、パンねぇ…」
ケミカルはさして興味もなさそうにこめかみを人差し指で掻き、明後日の方向に視線を馳せる。
「そう、だから今日はこれでね。」
客人をおいて自分はさっさと部屋を出て行こうとするシアの背をケミカルは呼び止めた。
「俺も行っていいか?」
興味などなさそうだったというのに同行を申し出るとは…意外な態度にシアは眉間に皺を寄せた。
シアの暮らした庶民の粗末な家など、ケミカルの様な良い所のお坊ちゃんが訪れても楽しい事など一つもない。
「―――いいけど…ケミカルって暇なの?」
「暇とは何だ暇とは!」
「だってオルグさんはすっごく忙しそうにしてるのに、ケミカルは朝帰りして道楽息子丸出しじゃない?」
今だって時間つぶしにシアと話し込んでいた。
「朝帰りって…あれは止めたよ。」
ばつが悪そうに答えるケミカルに色々突っ込んで虐めてやりたい気持ちが芽生えるが…時間もないので止めておく。
「来てもいいけど面白くないよ?」
一応の為に忠告すると、ケミカルは楽しそうに緑の目を細めた。
「王女様の労働する姿なんて滅多に見れるものじゃないだろ?」
生まれはどうあれ、現在のラウンウッドの王位継承権第一位であるのはシアである。
それを思うと…王女らしからぬ行動だとは思うが、シアは未だに自分が王女だという自覚が足りない。
「悪趣味ね。」
辟易した様に呟くとケミカルが白い歯を見せて少年の様に爽やかな笑顔を向けた。
クロードだけならまだましも、庶民ばかりの集う街の一角に貴族然としたケミカルが姿を現した事で周りは密かに騒ぎだす。
好奇の視線にさらされながら馬車はシアの家から少し離れた場所に停車し、そこから三人は徒歩で向かった。
明るい日差しの外から薄暗い屋内に入ると、たった今まで後ろにいた筈のクロードの姿が見えない。
「あれ、クロードさんは?」
「外を見回ってるんじゃないか?」
ボロ家の周りをクロードの様な綺麗な顔をした騎士がうろつけばそれだけで目立ってしょうがないのだが、今更そんな事を気に止めるシアでもない。
シアはケミカルに近付くとおもむろに背を向けた。
「じゃあケミカルでいいや。後ろ解いてくれない?」
「は?」
狭いうえに薄暗い室内を物珍しそうに見渡していたケミカルは、意味が分からず眉を顰める。
「こんな恰好じゃパンなんて焼けないから着替えるの。後ろの紐、自分で解けないからお願い。」
シアは王宮で過ごしていたままの姿でここまで来ていたので、無駄に裾の広がったドレスが狭い室内を更に占領して窮屈になっている。
ケミカルは躊躇しつつも指を伸ばし、言われたとおりに編み込まれた背中の紐を慣れた手つきで解いていった。
「―――これ、いつもクロードにやらせてるのか?」
細過ぎると言っても過言ではないシアの華奢な腰を絞める紐を解きながら、ケミカルは何処となく緊張し、余所余所しく視線を彷徨わせた。
紐が解けて行くたびにドレスの合わせが広がり、その向こうには白い肌着が見える。
「他に誰がいるのよ?」
当然のように答えられ返す言葉がない。
「ありがとう。着替えて来るからちょっとここで待ってって。」
何でもない事のように隣の部屋に姿を消すシアの背を見送りながら、着る時も当然あれを手伝うのかとケミカルはらしくもなく頬を染め溜息を落とした。
丁度そこへクロードが姿を現し、ケミカルは何とも言えない視線を送る。
「あいつは自分が女だって自覚が足りないんじゃないのか?」
ドレスの紐が背後にある為自分で解く事が出来ないと言っても、密室で男にドレスの紐を解かせるなど誘っているとしか思えない。
しかも今日はたまたまケミカルが同伴していたが、いつもはクロードと二人きりの筈。これをオルグが知ったらどんな事になるやらと想像し、ケミカルは頭を掻き毟る。
「私にはやましい思いなど微塵もありませんよ。」
シアへの絶対的な忠誠心を疑われるなど心外とばかりに、クロードの冷ややかな視線がケミカルに降り注がれた。
「俺がやましいってか?」
一方ケミカルは腕を組んでクロードを見上げ抗議の意を表するが、その顔色を見たクロードは余裕の笑みを浮かべる。
「顔が赤いですよ。」
自分でも分かってはいたが薄暗い室内でそれを指摘され、更にケミカルは顔を赤らめる。
「―――ちっ」
全く―――規格外のシアを前にして調子が狂うと、ケミカルは目の前の台に転がる細い棒を意味もなく手に取った。