心の内側
リラレンツェ修道院。
都の中心部に位置する女子専用の修道院には、嫁ぎ損ねて屋敷に居づらくなった貴族の娘や、教育や純潔を守るために押し込められる婚前の娘が集っていた。
貴族や金持ちの娘が集まるこの修道院は彼らの寄付で賄われ、他の修道院のように世を捨て神に仕えるといった気持ちに欠ける者が多い。
修道院でありながら侍女や下女と言った存在があり、多額の寄付をする良家の娘達はこれと言って修練する訳ではなく、ただ静かに神に祈り、教養を身に付け、あるいは残された人生をつまらなく過ごしているものばかりだ。
実際の修道院のように自らの手を使って労働し、粗末な食事に空腹を覚える事もない。冬には寒さに震える事はなく、周りに男の姿がない隔離された区域と言う点では修道院ではあったが、単に修道衣を着た金持ちの女の集まり程度のものとも言える場所だった。
庶民のシアなら門を潜る事すら許されない場所であったが、今のシアにはリラレンツェ修道院が拒めない程の地位と権力がある。
対応にあたった修道女はクロードを知っていたようで、その姿を見るなり彼が護衛するシアが誰であるのかも察して小さな礼拝堂に招き入れてくれた。
礼拝堂は一般庶民には解放されておらず、リラレンツェ修道院に身を置く者だけが使用できる祈りの場所だ。
「エルフェウロ家のご息女に面会を申し込みたいのですが。」
シアの言葉に修道女は困惑の表情を浮かべる。
「ミーファ様はこちらにいらした時からとてもお心を乱されておいででして、エルフェウロ家のお方ですらお会いするのを拒まれておいでなのでございます。」
ここに来たから即修道女になれると言う訳ではない。特に貴族の娘であるミーファなどは親の許可が必要で、同時にリラレンツェ修道院に身を置くには継続しての多額の寄付が必要になる。今の所はここに身を預けられていると言った状態に過ぎないのだ。
「シアが来ていると、お取次だけでもお願いできませんか?」
シアは身分を明かさなかったし、シアが誰かを察した修道女もそれを口にはしない。王女が来たとなればそれ相応の対応をしなければならないし、ミーファは嫌でも強制的に出て来なければならなくなるからだ。出来る事ならミーファ自身にシアと面会する気持ちになって欲しかった。
修道女はシアにここで待つように言い残すと、修道女の住まう区域へと入って行く。
ここから先は修道院に身を置く者以外の入室は認められていない。
シアが礼拝堂の硬い木の椅子に腰を下ろすと、クロードは辺りを見回した後で入り口付近まで下がり、その足音だけがゆっくりと響いた。
半時ほどして、ミーファが一人礼拝堂に姿を現す。
前に一度見た時とは打って変わって可愛らしかった姿はなく、傷心の為か頬はこけ顔は青白い。化粧はしておらず、泣き腫らした眼が赤く痛々しい程憔悴しきっている様子だった。
同じ失恋でもシアとはまるで違う。これではまるで死んでしまいそうではないか。
深窓の令嬢と言うものは失恋で死んでしまえる程か弱いのかと眉間に皺を寄せるが、シアに喧嘩を仕掛けて来たセフィーロ王女の事を思い出し、これがミーファの性格なのだろうとシアは肩の力を抜いて立ち上がる。
するとミーファは腰を下げて礼を取った。
「突然押し掛けたりしてごめんなさい。」
「いいえ、この様な場所にお尋ね頂いてわたくしの方こそ申し訳ありません。」
力なく微笑む姿が儚げで痛々しい。
シアはミーファに歩み寄ると優しく微笑み両手を取った。
「ねぇミーファさん、わたしはあなたと違ってとても貧しく卑しい育ちをしたわ。」
「そんな事―――」
ミーファは驚いたように目を見開く。
「シア様はラウンウッドの王女です。わたくしはシア様の事を一度もそのような者と卑下したりしてはおりませんわ!」
何かの勘違いにより攻められるとでも思ったのか、ミーファは首を横に振りながら訴えた。
「違うの。わたしはそんな育ちのお陰で逞しいのかもしれないって言いたかったのよ。」
「…逞しい?」
シアは微笑んだまま大きく頷いた。
「わたしね、アセンデートのゼロリオ王子の事が好きだったの。でもわたしがラウンウッドの王位継承権を持つって理由でお別れしなきゃいけなかった。でもね、それでもわたしはゼロが好きよ。」
シアはミーファの手を握ったまま、泣き腫らした瞳を覗き込む。
「ミーファさんは…オルグさんの事が好きなのでしょう?」
問いかけにミーファの瞳がじんわりと涙で揺れ、俯いた。
「何か言いたい事はない?このままだとわたしはオルグさんを夫に選ぶわよ?」
俯いたままのミーファの肩がピクリと動く。
「わたしとゼロの間には大きな超えてはいけない壁があったけど、ミーファさんとオルグさんの間にあるものって何?こんな所で泣いてる間に、他の男を思っているわたしなんかに大事な人を取られてもいいの?」
シアの言葉にミーファは身を縮め、消え入りそうな声で囁く。
「それをシア様がお望みになられるのなら―――」
仕方のない事だと後ろ向きなミーファにシアは目を吊り上げた。
「心にもない事言わないで!」
声を荒げたシアにミーファは驚いて顔を上げた。
「いいえ、オルグ様はシア様を愛しておいでです。オルグ様の幸せがわたしの望み…それにわたくしはこの事に関して意見できる立場では御座いません。」
「馬鹿みたい―――」
シアは呆れたように溜息を付く。
「わたしはオルグさんを好きだけど愛してないわ。そんなわたしの夫になっていつまでも幸せでいられると思う?」
シアは切ない微笑みをミーファに向けた。
そうだ…自分はオルグの事が好きだけど愛している訳ではない。王に相応しいかそうでないかと言う国益の前に、相手の気持ちを思うとシアは酷い事としている気分に陥った。
好きな女を手に入れて初めはいいかもしれない。だけど結婚生活を続けていてシアの心がオルグに向くとは限らないのだ。愛を得られない先にあるものは何だろう。醜い別れではないのだろうか?
「婚約を解消されたからって何なの、そもそも婚約だって親が決めた事だったのでしょ?オルグさんの事が好きなら何もない所から始めても遅くはないんじゃない?」
「シア様―――?」
「世を儚んで修道女になるのもいいけど、やるだけの事やってからでも遅くはない筈よ。途中であきらめるなんて勿体ない。それにミーファさんは一人の人しか見て来なかったんじゃない?世の中にはオルグさん以外にもいい男は沢山いるわ。」
たとえばケミカルとか…と言うのは本人を差し置いて言葉には出来なかったが。
笑顔で語るシアをミーファは揺れる瞳で覗き込む。
「シア様は―――わたくしを励ましに来て下さったのですか?」
「う~ん…それもあるけど自分の為でもあるかな?」
「自分の…為?」
「次の国王としてオルグさんを選ぶのは悪い事ではないと思う。でもそこに恋愛感情はないの。そんな気持ちでオルグさんを利用していいのかなって…心苦しいって言うのかな?」
ミーファが瞬きすると瞳に溜まっていた涙が零れ落ちた。
「わたくしはそう言う世界で育ちました。それでもあの方の唯一の人になれる事が誇らしくて…子供の頃からずっとお慕いしてまいりましたわ。オルグ様の御心も自分にあるのだと勘違いをして―――」
ぽろぽろとミーファの瞳から涙が零れ落ちる。
その様をシアは不謹慎にも可愛らしいと、羨ましく感じていた。
「勘違いなんかじゃない。王子達が立て続けに死んでわたしが現れたりしなければ、オルグさんはずっとミーファさんだけのものだった筈なの。」
流行り病で次々と命を落とした、垣間見た事すらないシアの異母兄達。彼らの一人だけでも生存していたならシアは出生の秘密を知らずに、今も小さなパン屋で仕事をしながら懸命に生きていた筈なのだ。
勿論そうなればゼロと出会う事もなかった。
王子達の死が多くの人間の人生を変えたと言っても過言ではない。
「こんなわたしにオルグさんを盗られて悔しくない?悲しい気持ちのままでいてもいいけど、取り返してやるって前向きに生きて行った方が絶対人生楽しいよ。オルグさんだって泣いてるミーファさんより、笑ってるミーファさんの方に魅力を感じると思うわ。」
「シア様、わたくし―――」
ミーファは言葉を詰まらせる。
「人の心は他人がどうにか出来る物じゃないけど、時間をかけてぶつかれば変える事だってできると思うの。悲観してやる前にあきらめてたら絶対に無理だけどね。」
目を細めて微笑むシアに、ミーファは何か言いたげだったが涙が溢れ嗚咽が込み上げて来ては言葉を紡げない。
シアはミーファの背を優しく撫でつけ、しばらく二人は黙ったまま寄り添い合っていた。
あの後ミーファは再び修道院の中に戻って行った。
これからミーファがどうなるかは分からなかったが、シアは言いたい事は言えた様に思い、一つ肩の荷が下りた気がした。
それでもシアはリラレンツェ修道院を後にしながら深い溜息を落とす。
「何だか自分で自分を追いこんでる気がする―――」
シアは馬車に乗るのを断り、シアに同行して斜め後ろを歩くクロードに向かって問いかけるように呟いた。
城の中にいる時のように煌びやかなドレスを身に纏ってはいなかったが、庶民では到底手に入れる事の出来ないシンプルだが上質な生地で出来たドレスに身を包んで街を歩くシアと、白い王国騎士団の制服に身を包んだ青年の組み合わせはそれだけで目立つ。
それを全く気にせず歩くシアは、単に住み慣れた街並みに自分が浮いているなど思いもしていなかっただけだ。
「クロードさんには婚約者とか恋人とかっている?」
振り返って高い位置にあるクロードの瞳を見上げると、いつも通りの綺麗で穏やかな笑顔が向けられた。
「いいえ、そのどちらもおりませんよ。今の私には特定の女性に裂く為の時間などありませんから。」
確かにクロードは役目の為とはいえ、一日の殆どをシアの為に使っている。
「わたしクロードさんの恋愛の障害になってる!」
朝から夜寝ている時もクロードはシアの警護に追われているのだ。恋人がいたとしても会えないのであれば、たとえクロードのように素敵な人でも愛想を尽かされたりするのかもしれない。
慌てるシアにクロードはゆっくりと頭を横に振った。
「とんでも御座いません。私はシア様をお守りできる事に誇りを持っております。シア様がご無事で、尚且つ心穏やかにいて下さる事が私の幸せです。」
あなたの幸せが自分の幸せ―――
まるで告白でもされている気分に陥り、違うと分かっていてもシアは恥ずかしさに頬を染めた。
クロードの言葉はシアに対する忠誠心からくるもので、決して愛の告白をしている訳ではない。分かっていても、破壊的なまでに綺麗な顔で優しく微笑まれると…恥ずかしさで顔を見る事が出来なくなってしまう。
シアは赤くなった頬を手で包み込んで前を見据えた。
「ねぇ、たとえばの話だけど…本当にたとえばの話よ?」
「はい、例えばですね?」
幾度となく『たとえば』と念を押しながら勇気を持って質問する。
「たとえば、わたしがクロードさんを夫に選んだらクロードさんは困る?」
「私が困ると言うよりも父や兄が困るでしょう。」
「お父さんやお兄さんが?」
何で?
「私は伯爵家の生まれですが嫡子ではありません。身分から申しますと選別に漏れる立場なのです。その私が恐れ多くもシア様の夫の座に治まる様な事が起これば周囲は混乱するでしょう。」
身分が低くても貴族であればいい、身分など後付けでどうでもなる。
だがそれは建前で現実は違う。
オルグやケミカルといった、少なくとも王家の血を引く者なら周囲は納得するが、嫡子でもない伯爵家の次男が王になると言う事は、その上の位に立つ貴族たちにとっては屈辱的な話しだ。見かけではなく、心から納得し政治を行っていくには忠誠心に事欠くのは目に見えている。
「そんな事言ってたら宴にやって来る人たちはどうなの?」
夫候補の筆頭として上がっているオルグやケミカル以外にも、シアの気持ちを優先すると言う理由で必然的に用意された出会いの場。
「シア様に近付く事を許された方は皆少なからず王家の血が流れる、相応の位を持たれる良家の嫡男です。」
出会いの場として設けられてはいたがそこに出席し接近して来る者は、シアの夫に相応しい、選別された者たちなのだ。
どんな綺麗事を並べていようとも、結局シアは決められた世界でしか生きて行く事が許されない。
でもそれは、庶民として何も知らずに生きていた時も同じ様な物だ。世界は異なるが、与えられた世界から出られないのは今も昔も変わりはない。
違いはシアが両方を知り、過去の世界を望んでいると言う事。
シアはクロードを見上げ、そのついでに夕闇に染まりかけた空を見上げた。
「あ~あ…このまま逃げちゃおうかなぁ…」
面倒な事何もかも捨てて逃げ出せるほどの無責任さはないが、心の内を吐露してみたくもなる。
シアに付き合ってクロードは、彼自身の偽りない言葉を紡いだ。
「その時は私もお供しますよ。」
そんなクロードの言葉が冗談でない事をシアは理解していた。
彼は任務に忠実である以上に、主とするシアに誠実かつ忠実に仕える。
それでも彼の言葉は女であるシアの心を擽るもので―――
「無意識かもしれないけど…クロードさんみたいな騎士にそういう事言われたら、世の中の女はみんな勘違いしますよ。」
シアの周りにいる侍女たちを見ていても分かる様に、クロードの何げない言葉や微笑み一つで陥落させられている女は多いのだ。
この人はそう言う事を分かっているのだろうかと不思議に思う。
分かってやっているようには見えないのだが―――
「私がこの様な事を口にするのはシア様に対してだけです。」
忠誠心を疑われたとでも感じたのか、クロードはシアに真剣な眼差しを送る。
(分かってないのね―――)
そんなクロードにシアは苦笑いを浮かべた。