恋に落ちますか?
「いやぁ~お前ホント最高!」
ケミカルは長椅子に背を預け手を叩きながら息が詰まる程大笑いした後で、目尻に滲んだ涙を拭った。
ケミカルの賛辞を浴びるのはこれでいったい何度目になるだろう…シアは頬を引き攣らせ俯き気味にそっと溜息を漏らす。
忌わしいあの『蛇事件』から既に三日、暇なケミカルは日を開ける事なくシアのもとを訪れては何かとその話題を持ち出し大笑していた。
あの日、浴室から蛇の死骸を鷲掴みにして出てきたシアに、ケミカルとクロードは目が点になりながらも遅れて後を追いかけ一部始終を目撃していたのだ。
「あん時のセフィーロの顔ったらなかったよな。親父たちには上品ぶる癖に俺達には高慢ちきなあの王女がっ…白目剥いてぶっ倒れてんだ。久々に気持ちがスーッとしたぞ!」
「それもう聞き飽きたわ。それでセフィーロ様は今はどうなさっているの?」
蛇を浴室に放たれ溺れかけたシアがブチ切れ、その蛇の死骸を手に握らせられたセフィーロはショックのあまり寝込んでしまったと言う。
あれしきの事で寝込むとは不甲斐無い限りだが、庶民として打たれ強く育ったシアと生粋のお姫様であるセフィーロとでは神経の図太さが違うのだろう。
今になって少しやり過ぎたかとシアは僅かに後悔していたのだが―――
「ああ、寝込んだってのは芝居じゃね?」
宰相のモーリスがご機嫌伺いに行った時にはショックのあまり話も出来なかったらしいのだが、そのすぐ後にオルグがセフィーロを訪れると態度一変、シアに対する不平不満をぶちまけて凄い剣幕だったと言う。
「今夜は国王主催の宴があるだろ?早朝から自分磨きに精を出してるみたいで、セフィーロの周囲は侍女らが右往左往して慌ただしいみたいだったしな。」
ケミカルの言葉に、側に控えていた侍女がピクリと反応するがシアは気付かぬふりをした。
国王主催の宴。
それが終われば里帰りしていたセフィーロもやっとのことアセンデートに帰る事になっている。
敵対視されているシアとしても嬉しい限りであったし、夫選びの為にも気合を入れて宴に臨むと決心してはいたものの…流石に朝から着飾らせられるのは遠慮したかった。そこでささやかな抵抗とでも言うか、いつも通り訪れて来たケミカルの相手をして宴の準備を先延ばしにしているのである。
今はケミカルがいると言う事で、忠実な護衛であるクロードは他の仕事を片付ける為にここにはいない。代わりに部屋の外では二人の騎士が目を光らせていた。
「オルグさんにも迷惑かけちゃってるのよね。早く会ってお詫びを言いたいけど、叱られると思うと会いたくない気もするなぁ~」
あ~やだなぁ、どうしよう―――と、大きく伸びをしながら長椅子に置かれているクッションに顔を埋める。
「寝間着姿のうえ蛇の死骸ひっつかんで城を闊歩したんだから雷くらいは覚悟した方がいいかもな。」
他人事と、ケミカルはにんまりとしてシアに笑いかけた。
そんな訳でシアは嫌々ながらも窮屈な宴に出席している。
同じく宴に出席しているセフィーロは華やかな金色のドレスを身にまとい、今夜も眩いばかりに輝いていた。
アセンデートの王太子妃として自信と威厳に溢れた異母姉は、離れた場所からシアを威嚇し、勝ち誇ったように微笑みを湛えている。
(あーはいはい、見てくれから何もかもあなたの勝ちです、降参で―――す)
諸手を上げて惨敗宣言してもいい程煌びやかなセフィーロに対して投げやりなシア。
今夜のシアは王女にはあまり似つかわしくない程に質素にまとめ上げられていた。
ドレスの色は薄い黄色で、動きに合わせて波打つ度オレンジの影を落とす。髪には先日クロムハウル王と共に摘んだ、アデリが好きだった黄色の花が枯れずに残っていたのでそれを飾っていた。
けして派手ではないが落ち着いた雰囲気の衣装は、一見地味に見えてシアの黒髪に良く映えた。
セフィーロの来ているドレスの様な豪華さはないが、落ち着いた色合いがシア自身の美しさを醸し出させている。あまり豪華な物を好まないシアの意を組んでドレスを選び、着付けた侍女の腕も良かったと言えよう。周囲の男達の反応で、最初は勝ち誇っていたセフィーロの顔色がどんどん悪くなっていった。
しかしシアはセフィーロの顔色が変わる前に、セフィーロの隣に立つゼロリオの姿を見るのが辛くて宴の席から遠ざかり庭へと抜け出していた。
「やってらんない―――」
深い溜息と共に思わず泣き言が漏れる。
諦めると決めはしたものの、未練がましい自分にシアは再び溜息を落とした。
「この様な場所に王女を一人にするとは、候補者の男どもはいったい何をしているのだろうね?」
非難めかした感じだが低音で心地よい声に振りかえると、一人の紳士がシアに笑顔を向けていた。
「えっと…?」
年の頃はモーリスと同じくらいだろうか?
きりりとした眉に切れ長で形の良い灰色の目。茶色の髪は白髪交じりで顔にはいい具合に皺が刻まれ―――はっきり言って渋い、素敵っ!と若い頃は確実に騒がれただろう―――いやいや、今でも十分にナイスミドルだ。
厳しさと優しさを兼ね備えた様な、思慮深さも伺える大人の雰囲気に思わず見惚れて言葉を失う。
シアがぼんやりと見上げていると男は跪き、シアの手を取って指に口付けた。
一連の動作がそつなく流れる様だったので、自分の身に起こった事が何なのか分からず呆けたまま…男が手を離して立ち上がった所でシアはやっと我に返り頬を染めてうろたえた。
「一度お目にかかっておりましたが覚えておられぬようですな。」
「えっ?」
いつ何処で?!
慌てて記憶を辿るが思い浮かばず冷や汗が背中を伝った。
目の前の紳士は現れた時のまま笑顔を絶やさないが心の中では失礼な娘だと怒っているのかもしれない。そう思うといたたまれなくなり必死に思いだそうとするが…何処かで見た様な気もするがどうしても思い出せなかった。
顔色を変えて思案するシアに男はくくっと喉の奥で笑い声を淀ませ、失礼したと咳払いをする。
「実の所名乗るのは初めてで―――クレリオン=スロートで御座います。」
名乗ってないなら知らないも同じだとほっとしたのも束の間――シアはその名を聞いて目を見開いた。
「―――って、ケミカルのお父さん?!」
驚きに絶句し、思わず声を上げてしまい慌てて口を押さえた。
淑女らしからぬ言動にクレリオンは一瞬動きを止めたものの、シアの『まずい』と言った表情に思わず噴き出しそうになる。
「愚息が何かと世話になっているようで―――」
「いえっ、そんな事ありませんっ。ケミカル様にはわたしの方がお世話になりっぱなしでっ!」
あたふたと慌てまくるシアを前に流石のクレリオンも必死で笑いを堪えた。
クレリオンがシアを目にするのはこれで二度目だ。
最初はシアが初めて城に上がり王に謁見した日。
あの日のシアは粗末な衣服に身を包み、交戦的な態度でクロムハウルを睨んでいた。
王弟であるクレリオンの息子に降って湧いて来た王位継承権を横から掻っ攫って行った庶民育ちの娘。忌々しかったが国王の血を引いている限りシアが王位継承権第一位にあるのは変えられない事実。それでもケミカルを夫に選びさえしてくれれば何の問題ないと息子をけしかけるも、当のケミカルは全くやる気を見せないでいる。
最近になってようやくケミカルがシアに接触し出したようだったので、シアの真意を探る為にもこの場にてクレリオンはわざわざシアに話しかけて来たのだったが―――
なんとまぁおかしな態度を取る娘なのだろうか。
庶民育ちとは言えクレリオンを正面から見据え、ころころ顔色を変えて慌てふためく。先日はセフィーロと一戦交えたと言う話も耳にしていたし、あまりの不躾さにいつものクレリオンなら顔を顰めたであろうが何故か不快ではない。
笑いを堪える様子のクレリオンにシアは不安を覚える。
「あのっ…すみません。わたし何か無礼な事を―――じゃなくてっ、無礼な事をしましたよね!?」
相手は国王の弟。オルグ情報では怖い人である様に思われ、シアは何かとんでもない事になるのではと言う不安に襲われ必死に頭を下げる。
「そうではないのだよ。」
顔を上げてとクレリオンの指がシアの頬に触れ、シアは思わず飛び退いた。
触れられた個所が赤く染まり―――動悸が起こる。
真っ赤になりかけたシアだったが、優しく微笑む灰色の瞳に飲まれそうになった時―――
「何をしておいでですか?!」
二人の間にケミカルが血相を変えて分け入って来た。
「彼女に何か?」
いつもはどちらかと言うと温厚な緑の瞳が鋭くクレリオンを見据え、ケミカルを前にしたクレリオンの方も途端に狡猾そうな笑みを浮かべてそれを受け止めた。
シアはケミカルの背に隠され、目の前の広い背中からはその緊張が伝わってくる。
「姫君に挨拶をしていただけだ。」
「私にはそうは見えませんでしたが?」
余裕綽々のクレリオンに対しケミカルの方は焦りが伺え、シアは二人の親子関係があまり良好ではないのだと実感する。
「お前達の方こそ何なのだ。先日あんな事件が起きたばかりだと言うのに、よくも大事な姫を一人に出来たものだな。」
「それは―――!」
痛い所を突かれたケミカルは返す言葉がなく口籠った。
大事にならなかったとは言え、シアの浴室に蛇が舞い込み溺れかけたと言う事態など本来ならあってはならない事。上手くモーリスがもみ消しはしたが、事が公にされていたなら侍女のマリナだけではなくセフィーロすらラウンウッドに牙を向けたとされ処罰を受ける。セフィーロはアセンデートの王太子妃故に、両国間の問題に発展してもおかしくはないのだ。
事態はシアが考えている程軽い物ではない。
「あのねケミカル―――」
シアは袖をひっぱりケミカルを覗き込んだ。
「本当にご挨拶して頂いただけよ。それでわたしの対応がまずくて笑われてたの。」
「笑ったって―――親父がか?」
ケミカルは訝しげにクレリオンへと視線を向ける。
ケミカルの認識から言うとクレリオンにとってシアは苦手な部類だ。何もかも全てにおいて掌の上で転がしたがるクレリオンは、自由奔放な常識外れの女を好まず嫌悪する傾向にある。
そのクレリオンが笑ったとは―――馬鹿にしてか不敵にか―――ケミカルは眉間に皺を寄せた。
「別にあなたの対応がまずくて笑ったのではありませんよ。」
ケミカルに向けるのとは違い、クレリオンは優しく目を細めた。
「次々に変わる様を見ていると楽しくてね―――不躾にも笑ってしまい申し訳ない。」
本来笑う為に刻まれたのではない皺が弧を描き、たとえようのない魅力にシアは再び囚われた。
「そんな―――こんなわたしで良ければいくらでも笑い飛ばして下さい。」
またもや突拍子もない事を言うものだからクレリオンは笑いを堪え、再び咳払いをした。
同じ兄弟でもクロムハウル王の様にだらしなく破顔する訳ではなく、クレリオンはあくまでも整った容姿を崩しはしない。
「いやいや、今宵は実に楽しかった。愚息も参った事だし私はこれにて失礼するとしよう。」
そう言ってクレリオンはシアにだけ優しく微笑むと明かりの灯る建物の方へと向かって行った。
「―――素敵」
クレリオンから発せられた声色に耳を傾け余韻に浸りつつ、思わずもれたシアの一言にケミカルが仰け反る。
「お前…頭大丈夫か?」
ケミカルの失礼な一言も耳に届かず、シアはクレリオンが去っていった方向をいつまでも見送っていた。
「ケミカルのお父さんがあんな素敵な人だったなんて想像してなかったわ。」
恋する乙女の様にほう…と溜息を付くシアにケミカルは呆れた。
「お前、親父を夫に選ぶとか言い出すなよ。」
「馬っ鹿じゃない、幾つ年が離れてると思ってるのよ。そんなのある訳ないじゃない!」
ケミカルの言葉にシアは慌ててそれを否定しつつ、自身の中でもやばいと冷や汗をかいた。
思えば…つい先日も実の父親であるクロムハウルに対して胸がときめいたりしてなかったか?あれは男の人と急接近したせいで動悸が激しくなったのだとしても、今回のはいったいどうしてなのだ?!
低く心地よい声に安心感を抱かせる大人の雰囲気。
ついのまれてぼーっとしてしまったけれど―――
(わたしやばくない?!)
何で父親や叔父さんにドキドキしてしまうのだ?!
別れはしたけれどゼロとか、近くには超絶美の騎士だっているって言うのに―――
とにかく大人の余裕と言うのか魅力と言うか…クレリオンの醸し出す雰囲気が素敵に見えてしまうのだ。
「年が近ければいいのかよ―――」
眉間に皺を寄せ突っかかって来るケミカルにシアは慌てて否定した。
「ちょっと格好良かったから見惚れてただけでそんなんじゃないわよ。理想の父親像…ってな感じ?」
「お前の父親はクロムハウル王だろ。すぐ側に本物の父親がいる癖に他の男に父親像を重ねたりするな。」
王の立場丸潰れだ―――
確かにそれは…シアと仲良くしたがっているクロムハウルが耳にしたら落ち込む発言だろうが…
「ケミカルに惚れたってわけじゃないんだから別にいいじゃない。」
「やっぱり惚れたのかよ?!」
「だから違うって!」
言葉のあやだと言ってもケミカルは納得しない様で、疑り深い視線をシアに向けている。
これ以上突っ込まれても上手く返す自身のなかったシアは話題をケミカルに変えた。
「それよりもさ。こんな所で油売ってないでミーファさんの所にでも行ったら?」
ミーファの名を口にした途端、ケミカルは僅かに身体を強張らせた。
「お前が親父に何かされてるんじゃないかと心配して来てやったってのになんだその言い種は!」
「え―――っ、クレリオンさんってそんな危険人物には見えなかったわよ?!」
「見えなくたって危ない奴なんだから少しは警戒しろ。」
確かにシアに対してクレリオンは意外な反応を見せてはいたが、ケミカルを王位に付けたがっている父の本性を知っているだけに油断はならない。
「分かったわよ、気を付けるからもう行っていいわ。」
さっさと行けと言わんばかりに手で追い払うシアに、こいつは本当に分かってないとケミカルは腰に手を当てた。
「危険なのは親父だけじゃないって分かってんのか?お前を一人に出来ないから俺が慌ててここに来たんだろ?!」
クロードが城内の警備にあったっている今シアの周囲はガラ空きだ。クレリオンの言葉ではないが、先日あんな事件が起きたばかりで大事な姫を一人にしておける訳がない。
「え―――、じゃあわたしも一緒にミーファさんの所に行けばいいの?」
それなのにシアは突拍子もない当て外れな事ばかり口にする。
「お前―――」
ケミカルはがっくりと肩を落とし額に手を当てた。
「いいんだよミーファは…」
「何で?」
疑問丸出しでケミカルを漆黒の瞳が覗き込んでいた。
緑の瞳がついと視線を反らす。
「もしかして振られた?」
ついこの前二人を見た時はいい雰囲気を醸し出していたような気がしたが…
勿論それはシアの全くの思い過ごしだったのだが、シア自身は二人の関係は良好なものだと思いこんでいた。
「振られるも何も、ミーファは初めからオルグの事が好きなんだよ。」
「うえぇぇえぇっ?!」
そんな馬鹿なとシアは眼を見開いて驚き仰け反った。
「だってっ…じゃあオルグさんとミーファさんって相思相愛で、ケミカルのは単なる横恋慕だったって訳?!」
信じられないっ―――と言うか、ケミカルとミーファが恋愛関係にあるとシアが勝手に思い込んでいただけなのだが。
「横恋慕って何だよ。」
「違うの?」
ケミカルは不機嫌に言い返しつつも、確かに事実である為口を噤む。
「―――まぁそうだけどさ。けどオルグとミーファが相思相愛ってものちょっと違うんだよな。」
「何それ?ちょっと待ってよぉ~」
落胆したシアは頭を抱え込んだ。
「ミーファさんはオルグさんが好きで、でもオルグさんは違うって訳?けどミーファさんがオルグさんを好きに変わりはないんだし、二人は婚約者同士でしょう?こうなるとオルグさんを夫に選ぶのって不味いよね?」
有力候補者であるオルグを今更完全除外するのはシアにとっても痛かった。
オルグ自身がミーファに恋愛感情を持っていないなら問題ないと思われるが、それでもミーファと言う人に少なからず接点を持ったシアとしては、ミーファの思い人であるオルグに手を出す訳にはいかない。
「期限が迫ってるって言うのに今更振り出しに戻るのってきついよ…」
残り一月ほどで未来のラウンウッド国王となる夫を見付けださなければならないとは―――考えただけでうんざりしてしまう。
こんな事なら強制的に決められていた方が楽だったかもしれない。
「それはまぁ何とかなるさ。」
多少機嫌の治って来たケミカルがさらりと言うのでシアは恨みがましく睨みつけた。
「何とかなるって、期限までに見つけなきゃあなたとオルグさんのどちらかが夫になるんだよ?!」
「その時はオルグを選ぶんだろ?」
確かにケミカルを選ばないとは約束をしていたが、婚約者であるミーファがオルグを好きな以上は易々と決められなくなってしまった。
「何よそれ、わたしがオルグさんを選べばケミカルはミーファさんと宜しくやれるって?!」
「そこまで言わないが…そう言う事になるのか?」
「最低男っ、あなたがその気ならこっちにだって考えがあるわよっ!」
「なんだよ考えって―――」
「クレリオンさんと結婚してあなたにお継母様と呼ばせてやろうじゃない!」
シアは人差し指をケミカルの目前に突き出し堂々と宣言した。