傷心
嵐のように飛び出して行ったシアを呆気に取られながら見送ったミーファだったが、やがて小さく溜息を落としてケミカルに向き直った。
「可愛らしい方ですね―――」
ケミカルを見上げる悲しいミーファの瞳に、どうしたらいいのか分からなくなったと言って胸に縋って来た柔かな感覚が蘇る。
「あれが可愛いか?」
確かに顔はいいし胸も大きくて腰は細く括れている。見てくれは良かったがケミカルからすればミーファの方がその何十倍も可愛く思えた。
「ええ、とても可愛らしい方。オルグ様が夢中になられるのも頷けますわ。」
やはりそう来たか―――
ケミカルはミーファに気取られぬようそっと溜息を落とした。
ミーファが悲しい顔で縋って来る時は必ずと言ってもいい程オルグが絡んでいる。
家同士の取り決めで成された婚約とは言え、ミーファは子供の頃からオルグの事を慕っていた。
オルグもミーファに対して優しく紳士的に振る舞っていたが、婚約関係にあるという以上の感情をいつまで経っても持ち合わせる事ができない様子だった。婚約者として、将来的には妻になる人だからと敬いはしても決してケミカルが抱くような感情をオルグはミーファに向ける事がない。ミーファもそれを敏感に感じて切ない思いをしているのだろう。こうやって時々ケミカルのもとへと恋愛相談に訪れる。
「オルグに何か言われたんだな?」
相談に乗る度にミーファを励まし、その後でケミカルは自己嫌悪に陥るのだ。
オルグからミーファを奪い取ってしまおうと言う気持ちになれない不甲斐無さにムカつき、思いを伝えようにも今の関係を壊してしまうのが恐ろしい。ミーファがオルグに思いを寄せている限り、愛しい人を前にしてもケミカルは何も言えなくなってしまうのだ。
ミーファを慰め応援し勇気付けてそんな事はないと擁護する―――いつまで経ってもそれの繰り返し。
両手を組んで胸を押さえていたミーファは沈痛な面持ちのまま俯いて口を開いた。
「オルグ様から婚約を解消したいと言われてしまいました。」
婚約解消?
ケミカルは眉間に皺を寄せる。
ラウンウッドに王位継承問題が持ち上がり、オルグとケミカルがシアの夫候補筆頭として持ち上げられた時、オルグとミーファの婚約は保留となった。
だがそれもシアが夫となる者を選び婚約を発表するまでの一時的なもので、それも残す所あと一月少しの事。それさえ過ぎてオルグが夫に選ばれなければミーファとオルグの婚約は続行される筈である。
「何かの間違いだろう?!」
オルグが夫に選ばれたと言うのならともかく、何の決定もされていない状態で勝手に婚約を解消されてはミーファの名にも傷が付く。そもそも上流階級においての家同士の決め事はそんなに容易く反故にできる程甘くはない。
「だけどオルグ様は、どっちつかずの状態でいるにはわたくしの為にも良くないと―――全ての非は自分にあるのだから、決してエルフェウロの名を汚す様な事はしないからとまで仰られるのです。」
婚約を完全に解消してシアに誠意を見せようとしているのだとミーファは感じていた。
「オルグ様が王位継承問題に関わる事になってしまったのは仕方のない事ですけれど、シア様がオルグ様をお選びにならなければ何の問題もないのだと構えておりました。自分勝手な言い方ですけど、シア様の夫にはケミカル様が選ばれるとばかり思っておりましたから―――わたくしのあさましい考えがこんな結果を招いてしまったのでしょうね―――」
血の濃さから言えばオルグよりもケミカルの方が王位には近いし、重臣たちもそちらを推している。ミーファがシアの相手としてケミカルが選ばれると思っていても当然おかしなことではなかったのだが…
ケミカルの気持ちに気付いていないとはいえ―――さすがにこれには痛い。
深い溜息を付き、額に手を当てケミカルは壁に身体を預ける。
「まぁ真意はともかく―――それがオルグのミーファに対する誠意の表れじゃないのか?」
結局出て来るのはミーファを慰める為の言葉。
「あいつは真面目だからシアとの問題を抱えてミーファに申し訳なく思ったのかもな。婚約解消の話はイシュトル家とエルフェウロ家との問題があるから今直ぐどうこうなる事はないだろうし、流石にモーリス殿もお許しにはならないだろう。」
どんなに言い繕っても、女性側が婚約解消を言い渡されるのはかなりの汚点となる。オルグがいくらいったとてモーリスが二人の婚約解消を易々と許す訳がない。
だがオルグとて分かっていて言いだした事に違いはないだろうが、それにしても早急すぎる。シアとの事があるにしてもそれが終わってからでも十分だし―――いや、まさか―――
ふと脳裏を掠めた考えに、ケミカルは顎に指を置いた。
オルグがシアに選ばれる選ばれないは別にして、二人が婚約を解消できる機会は今しかないとも言える。オルグがシアの夫に選ばれなければミーファはオルグの妻になる事が決定するのだ。
オルグとミーファの婚約解消で喜ぶ人物と言えば―――自分ではないか?!
婚約解消に意気消沈するミーファを慰め、そこから愛をはぐくんで行く。ケミカルは王弟であるスロート公爵家の嫡男、血筋においてはオルグに勝っており、ミーファが婚約を解消されてもケミカルが後を引き受ける事によってエルフェウロ家にとても悪いようにはならない。
オルグはここまで考え、ミーファとの婚約解消を言い出したのでは?!
「そんな事ある訳ないよな―――?」
オルグが自分に気を使う?
そんな気持ちの悪い事―――絶対に起きる筈がない。
「あの…ケミカル様?」
ないない、絶対にないと一心不乱に頭を振るケミカルにミーファが遠慮がちに話しかける。
「あ、いや…そのう…まぁそんなに考え込むような事じゃない。確かにオルグの言葉はショックだったかもしれないが、それも全てミーファを思っての事だから何とか汲んでやってくれ。」
ミーファを安心させる為に紡がれる言葉。
いつもそうだ。
不安に駆られたミーファをケミカルが慰める。
だが今回もたらされたミーファの不安はケミカルにも伝染していた。
オルグがこんな事を言い出した真意がつかめないからだ。ケミカルの為とはとても思えない。結果的にそうなったとしても、オルグは本気でシアに惚れてしまっていると言うのだろうか?
ミーファを傷つけ、両家間に確執を残してしまうような事になってもオルグはシアを求めていると言うのか―――?
僅かに元気を取り戻したミーファを送りだした後でケミカルは再び溜息を落とす。
ケミカルはミーファを、ミーファはオルグを。そしてオルグはシアに思いを寄せ当のシアはゼロリオと言う厄介な恋人を持っている。
そしてシアの護衛騎士クロードはどうなのだ?オルグは否定していたがクロードのシアを見る目は陶酔しているようでいてケミカルには図り兼ねる。溺れているようでいて護衛という仕事に抜かりはなく、シアはその裏をかいて周囲を掻き乱す。
いっその事シアとクロードがくっついてくれたらケミカルの周りだけでは波風は立たない。唯一文句を言いそうなのは父のクレリオンだったが、シアが王位継承権を持っている限り表立っては何も出来ないだろう。
「俺の恋なんてどの道実りはしないさ―――」
多少自虐的に呟いてみればさらに落ち込んだ。
王位継承問題が確定するまでは城に留まる様に父であるクレリオンに言われていたが、オルグと違ってここで何かをする訳ではないケミカルは暇を持て余している。屋敷に戻った方が心は楽になる様な気がして部屋を出た所で、ゼロリオのもとに駆け出して行ったシアの存在を思い出した。
クロードがいるとは言え相手はアセンデートの王子である。昨日クロードはゼロリオとシアの間に割って入ったと言うが、アセンデートの王子相手に威勢が有り過ぎるのも問題だ。
「ったく…何で俺が―――」
最初は無視していたのに関わってしまった事で無視できなくなってしまった。
悪態を吐きながらも面倒見の良さでケミカルはシアの様子を見に伺う。
何か事が起こっているようならクロードでは持て余してしまうだろう。国王の甥でありシアの夫候補筆頭としてもゼロリオからシアを守ってやらねばなるまい―――
「薔薇園とか言ってたよな。」
ミーファが言った言葉の記憶を辿りながらケミカルはシアを捜しに向かった。
ケミカルが向かった先で目にしたのは、互いに抱きあい唇を重ねるシアとゼロリオの姿だった。
こんな場面―――誰かに見られたりしたらどうするつもりだ!
アセンデートの王子とシアが恋仲だと世間に知られるのはラウンウッドとしては好ましい事ではない。
慌てたケミカルが急ぎ足で二人に近付こうとした時、突然腕を強く引かれ物陰に引き込まれた。
腕を引く輩に振りかえると見上げる長身の男の姿。
「クロードお前っ―――!」
何やってるんだと非難の目を向ける。
「シア様が二人きりで話がしたしと。」
「だからってあんな事までやらかされていいのかよ?!」
「―――腸が煮えくり返りますね。」
口角だけ上げて作られた微笑みは冷徹で、機嫌がすこぶる悪いことを物語っていた。
掴まれた腕に力が込められ、ケミカルは痛みに唸り声を上げる。
「痛ててっ、離せよっ!」
ゼロリオに対する恨みをケミカルの腕に八つ当たりさせていたようで、クロードは離せと言われても直ぐには何の事だか分からなかったようである。
「腕っ、腕が折れるっ!」
「―――ああ、これは失礼を。」
剣を振るうだけあって想像以上の馬鹿力にケミカルは腕をさすった。
「お前はなんでそんな悠長に構えてられるんだよ。このままシアがあいつを夫に選んだりしたらラウンウッドはアセンデートに染められんだぞ?!」
そうなれば国の体制は変えられ、ラウンウッドの重臣はアセンデートの血脈を持つ者達に総入れ替えされるだろう。クロードの属する騎士団とて例外ではない。騎士団は一度解散され、騎士団長以下中枢にある者らは反逆を防ぐためにバラバラの任につかされるだろうし、そうなればクロードはこれまで通りシアを側で守る事は叶わなくなるだろう。
「分かってはいますが今回はシア様自身が望まれたのです。先日のようにあの男から近寄って来たのであれば私は剣を抜く事すら厭いはしません。」
「いや、アセンデートの王子相手に剣を抜くのは止めてくれ。」
クロードが剣を抜くと言う事は相手の命の保証が出来なくなるだけではなく、国際問題にも発展して後々面倒だ。
「どうやら話し終わったようですね。」
クロードの言葉にケミカルが物陰からのぞくと、ゼロリオとシアの二人が別れ難そうに手を離す様が伺え、最後にゼロリオはシアの頬を撫でてその場を後にして行った。
シアは去っていくゼロリオの後を眺めていたがやがてその場にしゃがみ込み、薔薇の立ち木で姿が見えなくなってしまう。
そのままいつまで経っても立ち上がる様子がなく、ケミカル達からは姿が見えないまま時間だけが過ぎて行きケミカルは不安に陥る。
「這って逃げたりしてないよな?」
「シア様の気配はあります。」
シアのいる場所からここまではかなりの距離があるが、クロードにはその気配が掴めるらしい。
「倒れてるとかってのはないよなぁ~」
と言う事は、泣いてるって事か?
だったら抱きしめて慰めてやっても構わないが、シアが泣いているのだとしたらゼロリオから泣くような事を言われるか自身で思惑を掴んだからなのだろう。
要するに自分が騙されていたと知ったと言う事だ。
だったら一人にさせておいた方がいいのだろう。男と女は違うが、ケミカルだってミーファに確実に振られたら一人になりたくなるに決まっている。
「後は任せる。」
ケミカルはクロードの肩を叩いてその場を後にした。
シアはゼロリオから手渡され、取り落とした白い薔薇を拾おうと腰を屈めた。
棘の抜かれた薔薇。
それなのに手を触れるとチクリと痛んだ。
(泣くもんか、失恋の一つや二つで泣いたりするもんか!)
心とは裏腹に漆黒の瞳からは涙が零れ落ち、地面が擦れて見えなくなる。
シアは顔を覆い隠し、そのまま地面に蹲った。
いっその事ゼロに騙されていたなら彼を恨む事も出来たのに―――出会いはどうあれ、ゼロリオはシアを愛してくれていたのだ。だからこそあのまま放っておかず、きちんと真実を告げてからシアの前から去って行った。
好きになった事に後悔はない、別れの決断も押しつけではなく自分の意思で決めた。
それなのに涙が溢れるなんて―――これ程胸が痛むなんて不条理ではないかとシアは嗚咽を漏らす。
母親との別れはシアを孤独に導いた。ゼロリオとの別れは切なくて胸が詰まる。
(お姫様ってのも大変なんだね。)
セフィーロがラウンウッドからアセンデートに嫁いだ時に感じた気持ちがこれなのだろう。この点に置いてだけはセフィーロの思い通りになった。
シアは自分がクロムハウル王の娘なのだと自覚し、望んではいけない相手を見極めたのだ。
シアは流した涙を拭い、ドレスに付いた土を払いながら立ち上がった。
手には白い一輪の薔薇。
何の為に摘んでいたのかは分からない、先程までゼロリオが自身の手で棘を抜いていた薔薇を両手で大事に優しく持つ。
現実を見なくては―――
泣いていても埒が明かない。ゼロの事はきっぱりすっぱりと諦める。それでいいのだと自分で決めたのだ。
辛い気持は沢山あるが前に進むしかない。
シアが今成さなければならないのはラウンウッドの国王となるべき夫を見付ける事。シアがここにいる存在理由、ここで生かされているのはその役目がある為だ。
夫を迎え子を成し王家の血を繋いで行く。
なんて馬鹿げた事かと思っていたが、いまはその目的が与えられたお陰で失恋の悲しみに飲み込まれる事から免れている。
「夫ってどうすればいいのよ…」
シアは鼻水をすすりながら呟いた。
血筋で言うならケミカルだが、彼を選ばないという約束がある。
オルグはどうなのだろう。婚約者であるミーファがいるが、先程会った感じではミーファとケミカルはとてもいい感じにも見えた。オルグに支障がないのなら彼を選ぶのが無難なのかもしれない。
「まずはちゃんと確かめなきゃ―――」
オルグに思い人がいないか、婚約者であるミーファの気持ちはどうなのか。ケミカルを選ばなかった事で今後の障害となるかもしれない王弟のスロート公爵とはいったいどんな人物なのか。
「よかった、やる事がいっぱいある。」
これでしばらくは傷心から気を紛らわせる事ができそうだ。
シアがクロードを捜して辺りをきょろきょろ見渡すと、それを見計らったかにクロードが何処からともなく姿を現した。
背が高いうえ目立つ容姿の割に姿を隠すのが上手い。
シアは泣き腫らした顔を気にしながらもクロードに歩み寄り、一緒に部屋まで戻って行った。