おっさん死なないで!
「しくじったか・・・!」
冒険者風の人間の男が、薄暗い森の中を走っているのが見える。がっしりとした体格、鍛えられた筋肉、使い込まれた防具、日焼けした腕、三つのツノがついた兜。いかにも熟練という風体をしている。
年は40過ぎ、いや50近いだろうか。顔に深く刻まれた皺からは、それなりに年齢を重ねていることは分かる。
「ちいっ!」
男が背後へ何かを投げつける。
破裂音と共に、白い煙が広がった。
「キイイイイッ!!」
森の中から、得体のしれない叫び声が響く。
男は後ろを振り返ることなく、森の中を走っていく。決して足場はよくなく、見通しも聞かない森の中だというのに、男はかなりの速度で移動していく。
「キイイイイッ!!」
白い煙の中から、緑色をした人型の生物がいくつも飛び出してくるのが見えた。
・・・ゴブリン?
わたしは思わずつぶやいた。
その見かけは、前世のゲームの中で見たことのある「ゴブリン」によく似ていた。
人間より小柄な体格、尖った鼻と耳、粗末な防具に粗末な武器、髪の毛のないつるっとした頭、緑色の肌。まさに、ゴブリンと呼びたくなる見た目をしている。
そのゴブリンたちは、逃げる男を執拗に追いかけている。
「くそ、数が多いな」
冒険者の男は、走りながら煙玉を投げつける。そのたびにゴブリンどもは怯んで足を止めるが、すぐに煙の中を抜けて来る。男の移動速度も決して遅くはない。しかし、森の中での鬼ごっこは、ゴブリンに分があるようだ。
男との距離が再び縮まっていく。
「ギャアアアア!!」
ゴブリンの一匹が、棍棒を振り上げて男へと飛び掛かる。
バスッ!!
鈍い音がして、ゴブリンがその場に転がる。その胸には、小さな矢が突き刺さっていた。男の左腕のわきの下には、小さなボウガンらしき物体の先端が突き出ているのが見える。
バシっ!
少し離れた場所から、別の鈍い音が聞こえた。男がすばやく右腕で頭をかばう。
ガツン!
卵ほどの大きさの岩が、男の右腕に付けられた金属の小手に当たった。岩はそのまま地面に転がる。
三つのツノがついた兜を被っているとはいえ、もしあれが頭部に命中していたら、男は動きを止められていただろう。そうなれば、男は一瞬でゴブリンに取り囲まれていたに違いない。
バズッ!
「ギャアアア!」
再び鈍い音がする。それと同時に、一匹のゴブリンが腕を押さえてその場に転がる。見ると、そのゴブリンの腕には小さな矢がつき立っている。
ゴブリンは起き上がろうとするが、足が思うように動かないのか、立ち上がることができない。よく見ると、腕が小刻みに震えている。
毒矢だ。
わたしは直感的にそう思った。
だが、男は転がったゴブリンには一瞥もくれず、そのまま再び走り始めた。
・・・すごいな
わたしは男の、見事な戦い方に感心した。明らかにこの男、この手の敵との戦闘に慣れている。ゴブリンの行動を読み、常に先手を打っていく。攻撃にも防御にも派手さはないが、経験に裏打ちされた確かな実力を感じた。
男はたくみにゴブリンの攻撃を避けながら、森の中を進んでいく。それも、闇雲にすすんでいるわけではなさそうだ。ときおり周囲を見回しては、方角を確認している。
「あと少しか・・・ぐっ!」
男が小さく声をあげた。
左腕に小さな矢が突き刺さっている。ゴブリンの放った矢のひとつが、ついに彼を捉えたのだ。
男はすぐさま太い幹を盾にして、続けて放たれた矢から逃れた。だが、他のゴブリンたちが幹を回り込み、男へと飛び掛かろうとする。
「キイイイイッ!!」
その瞬間、男がカッと目を開いた。
「くらえ!」
ズガーン!
「ギャアアアア!!」
地面から、複数の棒状の物体が生え、勢いよくゴブリンを突き上げた。それは複数のゴブリンに命中し、連中を大きく後ろへと吹き飛ばした。
・・・土魔法?
似たような魔法を兄様が使っているところを見たことがある。それは、地面から岩の棘を出現させて、敵にダメージを与えるものだった。たしか「ロックニードル」と言っていた気がする。
兄様の使った魔法とは違い、地面から出たのは太い棘ではなく、円筒形の棒のようなものだった。円筒の太さはせいぜい物干し竿くらいの細いものなので、おそらく直接のダメージは小さい。
しかし、当てる角度と方向を調整することで、ゴブリンを大きく弾き飛ばすことができた。男はその隙に盾にしていた木から飛び出し、再び逃走を始める。
・・・本当にすごいな、この人。
わたしは再び感心した。
魔法を攻撃に使うのではなく、逃走経路を確保するために使うなんて。しかも、複数の目標に正確にヒットさせるには、相当な修練が必要のはず。
兄様が使う「ロックニードル」では、出現させていた棘はひとつだけだった。そのひとつだけでも、動く目標に当てるには相当な練習を必要としていたというのに。
ピンチから一転、ゴブリンとの距離をとることに成功した男は、上り坂をしっかりした足取りで登っていく。
そうして、背丈ほどもある下草の生える場所へとやってきた。目の前の視界は塞がってはいるが、その向こう側にはわずかな青空が見えている。
「よし、ここを抜ければ・・・」
背の背の高い草をかき分けて男が出た先には・・・青い湖が広がっていた。
「なんてこった!」
男は飛び降りようとして、慌てて足を止める。
「水が・・・引いてる?」
眼下に広がる湖は、男の立っている崖の下にあった。
しかし、よく見ると崖下の位置には水がない。男の言葉から想像するに、湖の水がいつもより少ないのだろう。水が十分にあれば、飛び込んで逃げられそうなのだけど・・・
「キイイイイッ!!」
ゴブリンが背後に迫る。
「くそ!」
男は右手で短い剣を抜くと、飛び掛かってきたゴブリンの小剣をぎりぎりで躱す。そして、カウンターで胸元へと剣を突き刺した。
「ギャアアアア!!」
叫び声をあげるゴブリンを、男は素早く蹴り飛ばす。そのゴブリンは、すぐ後ろから迫っていた別のゴブリンにぶつかり、二匹とも後ろへ大きく吹き飛んだ。態勢を崩すゴブリンに、すばやくボウガンを撃ち込む。
ドガッ!
「ギュッ・・・!!」
眉間に矢を受けたゴブリンは、そのまま大きくのけぞって仰向きに倒れた。
しかし、すぐに別のゴブリン二匹が、同時に男へと斬りかかる。男はすばやく右へと重心をうつし、左から斬りかかってくるゴブリンの腹に剣を突き刺す。そして、剣の柄から手を離すと、すぐ右から迫るゴブリンの腕をつかんだ。そのまま体を捻り、まるで柔道の一本背負いの技をかけるかのように、ゴブリンを崖下へと投げ飛ばした。
「おりゃあっ!!」
「キイイイイッ・・・!!」
グシャ!
崖下でゴブリンが潰れた音が聞こえた。
・・・この人、本当に強いなー
わたしは目を丸くした。逃げ場を失って万事休すかと思いきや、追手のゴブリンをすべて倒してしまった。
「はぁ、はぁ」
男は肩で息をしながらも、すぐに次に行動へと移る。腰に巻きつけられたロープをすばやくほどくと、それを目の前の大きな木へとそれを括りつけた。
そして、ロープの長さと崖下までの距離を見比べる。
「・・・よし」
ロープを崖下へと垂らし、男がそのロープを掴んだ。
その時だった。
「がっ・・・!!」
男の頭に、こぶしほどの岩が当たった。
「ギャアアアア!!」
茂みの中から、数えきれないほどの数のゴブリンが現れた。
・・・まだこんなにいたなんて!
男はバランスを崩し、そのまま後ろへ大きくのけぞった。両手から力が抜け、ロープが地面へと落ちていく。
体が崖下へと落下し始めた。
・・・まずい!
この高さだ。
下まで落ちたら、確実に死ぬ。
男が落下していく様子は、わたしにはまるでスローモーションのように感じられた。ゆっくりと、確実に、水の引いた湖底へと体が引っ張られていく。
まるで、死の淵へと引きずり込まれるかのように。
ゴブリンを倒し、希望が見えたと思ったのに。わずか一瞬で、その希望は絶望へと変わってしまった。
「クソが・・・」
声にならない男の呟きが聞こえた。
それは、ゴブリンに向かって言ったようでもあり、自分に向かって言ったようでもあった。不甲斐ない自分を自嘲するように。
いや、不甲斐ない自分自身の人生を罵ったのかもしれない。
たったひとりで敵と戦い、ひとりで死んでいく。
誰にも看取られることもなく。
40年、いや50年かもしれない。
この冒険者の男の短くも長い人生は、いったい何のためにあったのだろうか?
・・・ああ
わたしは、熱い何かが込み上げる感触を覚えた。
それはまるで、前世の自分を見ているかのようだったからだ。
「死んじゃいけない」
そのとき、わたしは無意識に叫んでいた。
「おっさん、死なないでーーー!!」