アイディアル
われ、昔の日、
いにしへの年を、おもへり。
──詩篇、第七十七。
無風の秋は、淋しい。窓辺から見える柿の木は、全く動かず、死んでしまったようであった。
風の吹く日には、色々なことを話す。風が、
「貴方は、大変苦しいはずなのに、何故笑っておられます? 気狂いにでもなったのですか?」
「散々、言ってくれるな。私は、もともと気狂いさ。そうして、道化て笑うだけだ」
「何を仰います。貴方の道化は偽物ですよ。道化に、なりきれていません。詰まらないのです、下らないのです。貴方の生き様も、小説も、──阿呆のようなその顔も、何一つ、誇れやしないでしょう?」
「ふふ。ひどいねえ」
烈風は、酷い。幾度となく、刺してくる。けれども、そよ風、というものは、全く違っていた。そよ風は笑い、
「暮れ方でございますね。今日は、どんな一日でございましたか? 私は、今日も、残念な一日を過ごしてしまいました。Dという方が私の書き物を! あ、……いえ、何でもありませぬ。失敬」
「おい、待て。──ああ、遣る瀬無い」
柿の木が揺れた。空がまるで川底のようである。
「幸せは、来る。辛くても、苦しくても、貴方は生きてゆかなければならないのです。逃げては、いけません。生きましょう。死んではなりません。貴方よりも辛い人が、苦しんでいる人が、この世には何人も居ます。生きたくても生きれない人が沢山居るのです。明日が悪い日だ、と何故言い切れるのですか? 明日は幸せに満ちた日かもしれませんよ。だから、ね。死ぬなんて馬鹿なことはやめましょうよ」
今迄に聞いたことのある言葉を、そよ風に言わせてみた。これらの言葉はどれも、微笑む人に言われた。
優しさで人を救ったつもりか?
恰好の佳い言葉を使ったつもりか?
馬鹿め。生きたければ、生きていろ。
「優しさ」は救済ではない。素晴らしいものではない。強いて言えば、炎だ。刃だ。何もかもを、壊すことができる。
苛められているAという学生に、女生徒や男生徒が言った。
「大丈夫かい?」
「可哀想に……」
可哀想? 何を言う。Aの気持ちや、思いが分かるのか? 違うだろう。見た目、境遇、それらを以て「可哀想」と言うのだろう、君らは。いい加減、止したらどうだい?
Aはきっと、分かっていると思うよ。
常日頃、惨めだと思っているから、相手の思いを知らなくても「可哀想」なんて言えるのだろう? 違うかい?
と、書かれた一通の手紙を残して、藍谷という男生徒が縊死をした。
今朝のニュースで、真面目な顔をした女性がそう話していたが、一体、あの女性は何を思って原稿を読んでいたのだろうか。
残酷だ。悲しい話だ。或いは、可哀想?
胸の痛み。遣る瀬無さ。或いは、無関心?
縊死も、胸中も、まあ、どうだって良い。
別れとは、新しい出会いだ。なんて、よくもまあ、そんなことが言えたものだ。
出会いは、読み物と同じである。読み始めた時から、すでに終わりが待ち受けている。
「愛別離苦に蝕まれ、生を甘受す」
どうしましょう? 明日は、山井さんと逢う大切な日だというのに、怪我をしてしまった。私は、狂乱して、室内を駆け巡り、次第に目眩に苛まれた。
薄暗い廊下を壁伝いに歩き、鏡を覗き込んで、わかった。
ひどく醜い。元々、佳い顔立ちではない事はわかっていたけれど、元の顔の比ではないほど、厭わしかった。
腐りかけの、褪せた色を纏った毒りんごが、ガラスの靴で踏み躙られて、饐えた臭いを発しているように思える顔。
汚い。
粧しても、駄目そう。左頬の傷を、睨みつけて、鏡に罵詈雑言を浴びせてみたり、思いっきり殴ってみたり、発狂したふりをして、
「おやすみなさい。私は、王子さまのいない──」
ステーキを頬張る山井さんに、
「私、怪我をしちゃったの。見て、この左頬」
死んでしまいそうになるほど、緊張して、笑って言った。
「どれ、見せてごらん?」山井さんは顔を歪めて「傷? 見当たらないよ。ああ、これか。言われるまで、全然分からなかったよ」
雲、霧が晴れることは、ない。然れど、又、空を仰ぐ。
「靉靆──」
彼岸花のような形の火花を放っていた線香花火を、思い出した。昨日目にした、火難が彷彿とさせたのだ。
双方とも、火が消えてしまうと、観客らの興は冷めてしまう。
「窓辺の佳景。」
人が、撲殺されているのを、眺めてゐた。
罪を負った一人の狂人が、紅い姿を纏って、
「ケセラセラ。ケセラセラ。仕方がねえんだ、神様、地獄に落としてくれ」
哄笑した。
「セ・ラヴィ」
そう言い兇徒は、去った。屍体に目を遣ると、火花が綻び、赤、青、黄などの管が剥き出しになっていた。
半髪頭を叩いてみれば、
因循姑息の音がする。
総髪頭を叩いてみれば、
王政復古の音がする。
散切り頭を叩いてみれば、
文明開花(傍点)の音がする。
叡智の頭を叩いてみれば、
爛漫の音がするだろうか。
ペシミズム。ヘドニズム。ストイシズム。
パーフェクショニズム。パシフィズム。
パトリオティズム。ヒューマニタリアニズム。
ヒロイズム。リアリズム。ロマンチシズム。
キエティスム。シニシズム。センセーショナリズム。
センチメンタリズム。オプティミズム。
アルトルイズム。エウダイモニズム。エゴイズム。
ニヒリズム、──否、此の言葉では、表せぬ。
此の、遣瀬無さ、侘しさ、懊悩を(嗤われてもよい。貶されても、構わない。私を、信ずるな)「虚構主義」と呼ぼう。所詮、すべては虚構に過ぎないのだ。──そう、信じたい。
憎め。撲れ! 厭わしい言の葉。
縁。愛慾。人間。
違うのだ。純粋無垢な美は、いつしか、穢されてしまうのだ。だからこそ、一滴の「穢れ」を初めから含ませておくべきなのである。美と泥。美と狂乱。美と道化。美と死。
耽美的なステンドグラスらのうちの一つを、さあ、蹴破れ!
「道化の、輪舞、──天手古舞い、──独楽の舞い倒れ、──二の舞。」
人の不幸は、蜜の味。触れて、刺激を与えてしまうと、刺されてしまう。
赦して呉れ!
「貴方を、恋い慕っておるのです。黒翡翠の純美さにも優る、その御目は、一体何を映すのですか?」
彼女は、私を黙殺する。道化の仮面が、割られた。私は、再び、仮面を被った。
「月が、綺麗でございますね」
黙殺。ああ、分かっていた。言葉が平凡すぎるのだ。しかも、今は曇天である。私は、再び、仮面を被った。
「その服に刺繍されているのは、セキチクでございますか? たしか、花言葉は、……純愛」
鳴り響く、舌打ち。黙殺。石竹の花言葉は、「純愛」ではない。「あなたが嫌いです」である。彼女もよく考えるものだ。私は、罠にかかってしまった。顔を歪めつつ、私は、再び、仮面を被った。
このようなことを、幾度となく繰り返すのである。
私は、死んだ。
「私目は、貴女のことを、──」
この先の「道化?」を彼女は、知らない。彼女は、私のことを黙殺して、歩き去ってしまったのである。そこには、慈悲も、痛苦も、存在していなかった。
それが、理想である。しかしながら、憂き世は、そう甘くはない。