夏休み延長相談窓口
「ご用件は何でしょうか?」
窓口の女性は昨日と同じ笑顔でおれに話しかけてきた。この窓口に来ている時点で要件なんてわかっているだろうに。おれは昨日と同じように愛想笑いをしながら言った。
「夏休みの延長をお願いします」
暑い……
汗で体にまとわりついたシャツが気持ち悪くて目が覚めた。この世で知る限り一番嫌な目覚め方だ。因みに二番目は冬の夜中に寒くて目が覚めることだ。あれも嫌いだ。
エアコンの設定温度を下げる。28度じゃ真夏日は辛い。電気代が頭に過ったが我慢できなかった。設定温度を25度にしたエアコンから涼しい風が流れてくる。少し生き返った心地になる。
時計を見ると午前11時。家にあった漫画を 1巻から読み始めた結果夜更かししてしまった。中華統一を目指す歴史漫画だ。この戦いが終わるところまで……そう思いながら読んでいたら気がつけば先月買った最新刊まで読んでしまった。
心地よい達成感と疲労感に浸りながら布団の上で大の字になる。少しずつ汗もひいてきた。
カレンダーを見る。今日は 8月20日。世間のお盆休みと少しずれて夏休みがもらえるうちの会社。賛否はあるがおれはどこに行くにしても混雑が避けられるから助かっている。まあそんなことが言えるのはおれが独身だからかもしれない。
夏休みの最終日、明日から仕事かと思うと少し憂鬱な気持ちになった。そういえば会社で住民票を持ってこいって言われたな。人事部の笹原が何か言っていたけど忘れてしまった。まあいいや、夕方にでも取りに行くとしよう。おれはもう一度瞼を閉じた。
16時に再び目が覚めた。窓の外を見ると青い絵の具をこぼしたような空が広がっている。大きな入道雲が浮いていて夏だなあと改めて思った。もこもことした雲は綿飴のようで触ったらふわふわしていそうだ。
タンクトップに短パン、ビーチサンダルという今のおれができる最も涼しい服装で家を出た。四十路を越したおっさんがこんなだらしない服装をするなんて……なんて少し悩んだが暑さの前ではそんなこと言っていられなかった。
ジリジリと熱を放つアスファルトの上をママチャリで駆け抜ける。市役所までの 7分の道のりには影が一つもなく、市役所に着く頃には水を頭からかぶったように汗が流れていた。建物に入った途端エアコンの冷気が心地よさを通り越して鳥肌が立つほど冷たかった。少し気分が悪くなりそうになった。
市役所の中はそこそこ混雑していた。受付番号をもらって順番を待ち、住民票を受け取って帰ろうとしたそんな時だ。
『夏休み延長相談窓口』
部屋の端っこに謎の張り紙を掲げた窓口を見つけた。文字は全て太くて大きなゴシック体でプリントされている。他の窓口と違って誰も並んでいない。
なんだろう、そう思った時にはおれの体はその窓口に吸い寄せられていった。窓口の向こうには赤いフレームの眼鏡をかけた髪の長い女性職員が座っていた。おれが窓口の側に立った瞬間目があった。
「延長の申請ですか?」
営業スマイルで彼女が聞いてきた。
「あの、すみません、ここはなんの窓口なんですか?」
頭の悪い質問をしている自覚はあったが聞かずにはいられなかった。
「ここでは夏休みの延長について相談することが可能です」
「夏休みの延長ですか?」
「はい、延長です。見たところ瀬戸口さまは今日が夏休みの最終日ですね? この窓口では夏休みを延長することができます。初めての方はお試し価格で 1日延長することができますがどうされますか?」
「本当にできるんですか?」
「はい、100円で可能です」
「じゃあお願いします」
おれは深く考えることなく延長をお願いしていた。そのあといろいろ説明をされたが全く頭に入らなかった。本当に夏休みが延長できるのか? それが気になって仕方がなかった。100円で本当に延長できたなら儲けもんだ。延長できなかったら……その時は酒の席でネタにでもするとしよう。
「……説明は以上になります。ご質問はありませんか?」
「え? あ、大丈夫です。ありがとうございました」
気がつけば説明が終わっていた。一切聞いてなかったなあ……まあいいか明日になれば何かわかるだろ。そんなことより早く帰ってビールが飲みたい。おれは危険な暑さが待つ帰り道に向かって足を進めた。
変な窓口で払った100円。どうせ何も起こることなくおれの夏休みは今日で終わるんだろう。流石におれだってこんなに安い金で休みを延長できるなんて思っていない。おれの100円は寄付にでも回されるんだろう。市役所も面白いことを考えるなあ、なんて考えながらおれは自転車をこいだ。
暑い……
汗で体にまとわりついたシャツが気持ち悪くて目が覚めた。昨日と同じだ。昨日と違うことがあるとしたら今日が夏休みでないことだ。時計を見ると電波時計の液晶画面は11時になっていた。始業時間をとっくに過ぎていた。おれは頭の中が真っ白になった。アラームを設定するのを忘れて寝ていたんだ。
とりあえず会社に連絡を入れることにした。いい歳してこんなミスをするなんて、自分が情けなくなった。電話をかけようと慌てながら手にしたスマホの画面を見ておれは思わずスマホを落としそうになった。スマホの画面に書かれた日付が 8月20日+ 1と書かれていたのだ。
スマホが壊れたのかもしれない。そう思ってテレビをつける。適当にチャンネルを回すとつまらなさそうなバラエティ番組が始まるところだった。
「 8月20日+ 1。今日も暑いですね! 皆さまいかがお過ごしですか?」
油っぽいテカリ顔の俳優がむさ苦しい笑顔で言った。スマホの故障ではないようだ。故障ではなさそうだがなんだ+ 1って。念のためスマホで日付を検索する。やはり20日+ 1と画面が表示された。仕組みは不明だがおれは100円で夏休みの延長ができたようだった。……いや、できたのかこれ? 念のために会社にも電話してみる。
会社は休みだった。電話をかけてみると夏季休暇中の自動音声アナウンスが流れた。営業再開は21日からという案内を聞いて夏休みが延長できたことを確信した。
こんなに簡単に夏休みが延長できるなんて思わなかった。そうとわかればこうしちゃいられない。おれは市役所に向かった。
「夏休みの延長をお願いします」
部屋の端っこの窓口には昨日と同じ眼鏡の女性が座っていた。相変わらずおれ以外にこの窓口に来ている人はいない。
「かしこまりました。昨日100円で 1日延長されましたがどうでしたか? もう少し長く延長されますか?」
「何日まで延長できますか?」
「そうですね、この市役所では最長15,000円で30日の延長が可能です」
「じゃあそれでお願いします」
「かしこまりました」
おれは迷わずお金を払った。財布に多めにお金を入れていてよかった。これでおれの楽しい夏休み延長戦が始まるんだ。
「昨日も申し上げましたが延長のし過ぎにはお気をつけください」
「はい?」
「元の生活に戻ると反動が大きいので」
「あー、わかりました」
おれは生返事を残して市役所を出た。それからおれは30日間の自由をどう過ごすか頭を巡らせた。そうだなとりあえず旅行に行こう。それから久しぶりに実家に帰って地元で飲み会を開こう。あとはそうだな……
蝉の声を聞きながらおれは家までの道のりを上機嫌で自転車を走らせた。
「ねえ聞いた? 瀬戸口さんまだ意識が戻らないんだって……」
「聞いた聞いた。もう一か月になるでしょう。原因はわからないって聞いたけど、一体どうしちゃったんだろうね」
「笹原部長、やっぱり同期だからすごい心配みたいよ。昨日も仕事が終わってからお見舞いに行ったみたい」
ある中小企業の人事部のフロアでパートの女性二人がひそひそと話している。人事部長の笹原は二人を注意しようかと思ったがやめておいた。注意したところでなんの意味もないことを知っているからだ。笹原は小さなため息をついた。
先月、夏休みが明けても営業部長で同期の瀬戸口が会社に来ず、連絡も取れないと会社で問題になった。誰かが様子を見に行くことになり、同期で人事部長だという理由でおれに白羽の矢が立った。人事部長であることは関係ないだろうと思ったが反論は許されなかった。小さな同族企業では社長の言うことは絶対だった。
仕方がないのでおれは仕事を早く終わらせて様子を見に行くことにした。瀬戸口の住むマンションは会社から歩いて20分ほどのところにある。飲み会の後、酔っ払ったあいつを送り届けるために何度か行ったことがあるので場所は知っていた。
瀬戸口の部屋に着きインターホンを鳴らしてみる。しかし反応はなかった。ダメ元でドアノブを回してみるとあっさりドアが開いた。そっとドアを開けて中を見ると電気はついていてエアコンの涼しい風が流れてきた。瀬戸口の名前を呼びながら家の中を進むとあいつはベッドの上で気持ちよさそうに寝ていた。おれは呆れて思わず座り込みそうになった。
しかし、それからが大変だった。瀬戸口が何をしても起きないのだ。体を揺すっても、大声で呼びかけても、水を顔にかけても起きる気配がない。心配になったおれは救急車を呼んだ。そしてその結果、瀬戸口はそのまま入院することになった。
医者も原因はわからないそうだ。特に異常があるわけではないという。でも、瀬戸口は寝続けていて全く起きない。
入院してから一ヶ月経った今も腹立たしいことに瀬戸口はとっても気持ちよさそうな顔で寝ている。昨日見舞いに行った時もおれはイラッとして何度か頭をしばいてみたがやはり起きる気配はなかった。
一つだけ気になることがあった。先月瀬戸口の部屋に行った時に見かけたレシートだ。机の上に瀬戸口の住民票と一緒に置いてあった三枚のレシート。一枚は住民票を発行した時のもののようだった。ただ、あとの二枚のレシートは少し変だった。
一枚は100円のもの、もう一枚は15,000円のもので内容は『夏休み延長料』と書いてあった。おれはあれが何なのかすごく気になって仕方がない。