部長と卓球
朝である。
熟睡したな、と目をあけると、職場の先輩(男)の、うでまくらで寝ていたときのきもちを述べよ。
「なんで!?」
滝本岳先輩――通称がっくんに、寝たまま抱きしめられていて、おもわず周囲をみわたす。
見おぼえのあるひろい部屋に、徐々に記憶がよみがえってきた。
昨日、私のアパートが停電したから、がっくんの家に泊めてもらうことにしたんだっけ。
で、夜にシャンパンを飲みすぎた。
そのあとの記憶がない。
「……もえさん?」
いきなり掠れた声で名前を呼ばれ、ドキリとした。
ねおきの彼が、とろりとした瞳で、私をとらえる。
「おはよう、がっくん」
ちいさくあいさつをすると、彼がゆっくりとまばたきをして、わらった。
「あたまをよけてもらわないと、ずっとこのままですけど?」
うでまくらを本人に指摘され、言葉につまる。
こうなった経緯が不明だが、もし酔っぱらった私が、うでまくらを強要したならば、とてつもなくもうしわけない。
すぐに頭をどけようとするが、彼の腕の中にいるために、うまくうごけない。
そのうえ彼からは、まったく協力の意志が感じられない。
もしかして、抱きしめているという意識がないのかな。
それならば、と、ことばを選びながら、口をひらく。
「がっくんの腕が、からだの上にあるので、先にそちらをどけてください」
「……そうですか? ほんとだ」
そういいながら、彼の腕の力がゆるむことはない。
どうやら、寝ぼけているみたいだ。
もうすこしおおきな声で、要請することにした。
「岳さーん。腕はどけてもらえないのでしょーか?」
「もうすこし、ねたい……」
「月曜日ですよ」
「……会社いきたくない。いっしょに休みましょう」
「たーきーもーとーせーんーぱーい! おきてくださーい!」
彼はうるさそうに両目をつぶり、ちいさくうめいた。
「じゃあ、キスしてくれたら起きる……」
彼が、駄々っ子のように言う。
これは、私ができないと思って言っているに違いない。
彼らしからぬチキンレースのお誘いに、対抗心がわきあがる。
言質はとったとばかりに、彼の頬にかるく唇をあてた。
「は!?」
いきおいよく彼が跳ねおきる。
反動で、私の体はベッドに逆戻りだ。
ウォーターベッドの弾力ってすごい。
「な、なに、え、いま、なにして」
頬に手をあて、こぼれんばかりに目を見開き、しんじられないものを見るように、私をみつめる。
その動揺っぷりに、自分の行動がアウトだったことに、ようやく気づく。
よくかんがえてみたら、ふつうはしないな。
でも、私だけが悪いわけではないはずだ。たぶん。
「してって言ったのは、がっくんだよ」
「言われたらするんですか!?」
「てっとりばやく、起きるならいいかなって」
「起きましたけど!」
彼は、手の甲で顔をかくすようにして、私から距離をとる。
あ、ちょっと。
危険生物に認定されると、傷つくんですけど。
それから、あんまりさがると、ベッドから落ちるよ、と心配していたら、彼はギリギリのはしっこで止まった。
おおきなウォーターベッドの、端と端で、会話がつづく。
「……ちょっと聞きたいんですけど。俺のこと、好きなんですか?」
「うーん、好きか嫌いかでいったら、好きだけど」
「そこで究極の二択は、やめてください」
彼がふとんに突っ伏す。
だんだん気の毒になってきたので、素直にあやまることにした。
「嫌だった? ごめんね」
「嫌か、そうじゃないかの二択の中に、答えはありません」
スンッと彼がいきなり冷静になった。
「この家の物は、好きに使ってください。俺はシャワーを浴びてきます」
「昨日も浴びてなかった?」
「昨夜はお湯、今朝は水です」
「水!?」
「顔を洗うついでに、頭を冷やすだけなので」
「そうなの? 風邪ひかないようにね?」
彼の目が死んでいたような気がするが、きっと気のせいだろう。
そう結論づけて、私も出社の準備をすることにした。
時間を確認するためにスマホを見ると、管理会社から留守電が入っていた。
停電の件だろうと、再生する。
『21時に、無事に電力が復旧いたしました。ご迷惑とご不便をおかけしましたことを、深くお詫び申しあげます』
「よかった……」
これでアパートに帰れる。
安堵していると、ちょうどバスルームから、がっくんが出てきた。
「アパートの電力が復旧したって。泊めてくれて、ありがとう!」
「そうですか。長引かなくて、よ、よかったですねっ」
しぼりだすような声音で、返答された。
胸をおさえる彼に、すこしだけ不安になる。
「がっくん? 水を浴びたから、体調がわるくなったんじゃ」
「元気なので、おきづかいなく!」
そういった彼は、たしかに元気そうだった。
「萌さん、朝ごはんは何を食べますか? といっても、あまり食材が無いんですけど」
冷蔵庫を開けたがっくんの後ろから、のぞきこむ。
「がっくん」
「はい」
「ふだん、なにたべてるの?」
食材と呼べるものは、皆無だった。
新品のようなキレイな庫内に、パックの野菜ジュースが数本ならんでいるだけだ。
「萌さん、知らないんですか? これ1本で、1日分の野菜がとれるんですよ」
印籠のように掲げられて、ますます疑いの目を彼に向ける。
「野菜室と冷凍室を開けてもいい?」
「いい、ですけど」
野菜室には水のペットボトル。
冷凍室にいたっては、アウトドア用の保冷剤しか入ってなかった。
「滝本先輩は、いつもお昼は、どうしていましたっけ」
「コンビニです」
「早死にしますよ?」
「あ、従兄弟にもらった、プロテインも飲んでいます! 栄養バランスに優れたタイプのものです!」
がっくんが、細身で、いい筋肉をもっている謎が判明した。
「がっくん。とりあえずコンビニに、食材を買いにいこう。泊めてもらったお礼に、朝ごはんつくるよ」
「ほんとうですか。めちゃくちゃうれしいです」
真顔でお礼を言われた。
ほんとうに、ちゃんと食べようよ、と思った。
今朝のメニューは、めだまやきと野菜炒め、豆腐の味噌汁だ。
コンビニで調達できる食材だと、これくらいしかできない。
ならべると、なんとかそれなりに見える。
『いただきます』
ふたりで声をそろえて合掌する。
「萌さん。めちゃくちゃおいしいです」
「それはよかった」
「ひさしぶりに炊飯器をつかいました」
「ごはん、たべないの?」
「萌さん。世の中には、パックごはんという便利なものがあるんですよ」
「がっくん。コンビニの冷凍食品にも、肉入りカット野菜という便利なものがあるんですよ?」
野菜炒めを箸でつまみながら、彼におしえる。
「はじめて知りました」
「だろうね」
そんな会話をしながら、朝食を食べる。
テレビからは、朝の情報番組が流れてくる。
今朝は、とくに重大なニュースはなかった。
CMに入り、同局の番組宣伝がはじまる。
『春・夏に一押しの最新アウトドアギアを、日本全国のアウトドアメーカーがご紹介!』
ふたりそろって画面に見入る。
キャンプ系女性ユーチューバーが、ギアを実際にためして、リアル評価をする企画らしい。
女性目線のコメントが、「辛口!」のテロップとともに数カット流れる。
たしかに辛口かもしれないが、どれもこれも的を得ており、共感できる。
『おどろきの最新ギアが盛りだくさん! 今夜9時から!』
「がっくん。ぜったいに見なきゃね」
「ですね。忘れないうちに、録画します」
そういって、がっくんがリモコンを操作する。
「私のテレビ、録画機能がないから、うらやましい」
「見たくなったら、うちに来てください」
秒で、そういう返しをされるとは思わなかった。
「がっくんって、やっぱり私に甘くない?」
「そうですか?」
そしてやはり、ふしぎそうに首をかしげる。
それを見て、社交辞令ではなく、本心からそう言ってくれているんだと伝わってきた。
「じゃあ、見たくなったら行くね」
番組が始まるのは、夜の9時。
今は繁忙期でもなんでもないから、ふつうに仕事をしていれば、定時に上がれる。
見逃すことは無いだろうけど、彼の申し出を断ってしまうのは、もったいないような気がした。
「はい。いつでも」
そう言って、彼が笑う。
その笑顔を見れたことが、なんだか嬉しかった。
「滝本先輩、おはようございます」
「宮崎さん。おはようございます」
会社では名字で呼びあうと決めている私たちは、涼しい顔であいさつをかわす。
「萌ちゃん、おはよう」
「大久保主任、おはようございます。大久保主任のイケボで名前を呼ばれると気が散るので、会社では名字で呼んでくださいね!」
営業スマイルで、かなり強めに要請する。
歓迎会を開いてもらった日に、「名前呼びしていい?」「いいよ」の会話をした手前、あまりしつこくは言えない。
その時だけかと思ってオッケーしたが、まさか仕事中も呼ばれるとおもわなかった。
事あるごとに萌ちゃん呼びは、正直しんどい。
もう学生ではないので、いいかげん宮崎さんで統一してほしい。
「始業のベルが鳴ったら、そうするよ」
「ありがたいです! あ、ちょっと私、給湯室に行ってきます」
今日も理解してもらえなかった。
不毛な議論をつづける気はないので、始業まで、大久保主任と距離をとることに決めた。
それなのに、大久保主任は、こちらの耳をうたがうようなセリフを口にした。
「俺も給湯室に用があるんだ。萌ちゃん、いっしょに行こうよ」
せまい給湯室に大久保主任とふたりきりって、気まずいことこのうえない。
「では、おさきにどうぞ! 私、お手洗いに行きたくなってきたので、気にしないでくださーい」
さすがに女子トイレには入れまい。
ポケットにスマホが入っているのを確認して、私は脱兎のごとく女子トイレに駆けこむ。
始業1分前まで、個室でスマホゲームに勤しんでやる。
仕事も順調に進み、これなら定時にあがれるな、と一息ついていた午後3時。
杉山部長が、笑いながら経理部にもどってきた。
「いやー、唐沢部長にも、困ったもんだ」
唐沢部長というのは、営業部の部長だ。
さきほどまで部長会議があったので、そこでなにかあったのだろう。
深刻そうなかんじではないので、たいしたことではないのかもしれないが。
「部長会議、おつかれさまです」
杉山部長に声をかけると、彼は人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「おお、宮崎君。営業部の秋津さんとは、同期だったんだな」
営業部の、秋津みく。
同期の女性社員で、ショートカットが似合う美人だ。
ハーフのような顔立ちだが、純日本人だと、本人が言っていた。
「はい。同期です」
「そうかそうか」
部長はひとりで納得し、席にもどる。
「皆、ちょっと手を止めて聞いてくれ」
皆の視線が部長に集まる。
「さきほどの部長会議で、唐沢部長に勝負を挑まれてな。今夜、空いてる社員は、わしに付きあってほしい」
「またですか!?」
声を上げたのは、原課長だ。
「杉山部長、いいかげんにしてください」
佐々木係長が、あきれたように続ける。
「いちおう聞きます。今回は、何が原因なんですか?」
大久保主任が、ためいきまじりに部長を見た。
女性社員も、あきれ顔で杉山部長を見ている。
そんななか、私だけが状況をのみこめず、こっそりとがっくんに問う。
「どういうこと?」
「杉山部長は、よく唐沢部長と、勝負の約束をしてくるんです」
「勝負って?」
「内容は、その時々によって変わりますが、社員を巻きこむので、煙たがられています」
「あ~、なるほど」
皆に責められている杉山部長だが、本人は、まったく気にしているようすがない。
慣れっこだというように、大きな腹をゆすりながら笑った。
「今回は、宮崎くん!」
「はい?」
急に名前を呼ばれ、返事をする。
「宮崎くんのことを、わが部の期待の新人と自慢していたら、唐沢部長が秋津さんの自慢をし始めてな。どちらがかわいいか、勝負をすることにした」
自分の耳をうたがう。
しかし、経理部の全員があっけにとられた表情をしているのを見るかぎり、私の聞きまちがいではないのだろう、と悟る。
息を吸って、吐く。
そうして、部長に営業スマイルを向けた。
「私の負けでいいです」
「何を言うんだね!? この1週間、宮崎くんのがんばりは目を見張るものがあるぞ!」
「その評価はありがたいのですが、かわいいという不確定要素は、個人の嗜好によるところがおおきいですし、勝敗のつけようがないように思われますが」
現に、女子高生の「かわいい」は、すでに共感できない。
「宮崎くん」
「はい」
「だから、卓球で勝負をつけることにした」
おもわず、がっくんを見る。
彼が首を左右にふる。
杉山部長は、これが平常運転なのだ、と唐突に理解した。
「当事者の宮崎くんは参加決定だが、他に今夜、出られる社員はいないか?」
当事者ってなんだ。
被害者だわ。
「杉山部長。私、今夜は用事があるので、欠席します。負けでいいので」
こんなことで、9時からのキャンプギア特集を見逃すわけにはいかない。
「宮崎くん」
杉山部長の空気が変わった。
厳かに名をよばれ、生唾を飲みこみながら、返事をする。
「はい」
杉山部長は、私のそばまで歩いてくると、顔を上げた。
その表情は、歴戦の猛者のように、きびしいものだった。
「厳選されたワインが、グラス飲みできるワインバーを見つけたのだが」
「えっ……」
「君が今夜、参加してくれるなら、終わってから好きなだけ奢ってあげよう」
「杉山部長」
気がつくと、杉山部長とがっしりと握手をしていた。
「でます」
「宮崎くんっ……!」
杉山部長が、感動したように目をうるませる。
それにしっかりとうなずき返し、ワインバーに思いを馳せた。
「もぇ……宮崎さん、いいんですか!?」
腕をゆすられ、現実に戻る。
がっくんだ。
それを見た杉山部長が、不敵に笑った。
「なんだね滝本くん。本人の意思を尊重したまえ」
「杉山部長。お言葉ですが、部長の言動は買収にあたります」
「それがどうした? 終業後のプライベートまで、君にとにかく言われる筋合はないぞ」
杉山部長が、勝利の高笑いを決める。
となりから、舌打ちのような音が聞こえた。
――舌打ち?
杉山部長と同時に、がっくんを二度見する。
「滝本くん……? いま、わしに対して、舌打ちした?」
「するわけないじゃないですか。杉山部長、俺も出ますから」
「おお、そうかね! 滝本くん、君にも義侠心というものが存在しておったのか」
「そうですねー」
あ、がっくんが適当になっている。
上機嫌になっている杉山部長を後目に、こっそりと話しかける。
「滝本先輩。いいんですか?」
「宮崎さんを見捨てるわけにはいけませんから」
ほんとうに面倒見がいいな、この人。
「ありがとうございます」
「いいえ。ワインバーにも、ついていきますから」
「それはさすがに悪いので――」
断りの途中で、強めに名前を呼ばれた。
おもわず姿勢を正す。
「昨日飲みすぎて倒れたこと、もう忘れたんですか?」
そのことか。
でもあれは、宅飲み特有の、解放感があったからで……。
そう思ったが、介抱してもらった身で、言い返すようなことはできない。
「今日は、飲みすぎないようにします」
「危険な目にあってからじゃ、遅いんですよ?」
オカンだ。
オカンがいる。
希少なオカン系男子の尊さをかみしめていると、背後からいきなり声がした。
「杉山部長、俺も参加でおねがいします」
このイケボは。
もしかしなくても。
「大久保くん! いやいや、君が参加するとは、めずらしいね」
「たまには、杉山部長に勝たせて差しあげようかと」
「はっはっは、期待しているよ」
杉山部長は、スキップでもしそうないきおいだ。
部長が席に戻ったのと同時に、話しかけられる。
「がんばろうね、萌ちゃん」
「はい、大久保主任。ついでに仕事中は、名字で呼んでもらえると、たすかります!」
「名前を呼ぶのは、終業のベルが鳴ったあとにってことかな?」
「そうですねー」
つい、適当ながっくんのマネをしてしまった。
ついでに、舌打ちまでしそうになる。
もしかしてさっきの舌打ちは、無意識に私がしたのかもしれない。
気をつけなきゃいけないなー、と遠い目で時計を確認する。
終業まであと2時間。
仕事が早く終わってほしいような、終わってほしくないような、複雑な気持ちだった。