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守護天使  作者: 千川
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後編

 「エー、まず犯行時刻と殺害方法については、警察の方の捜査の通りとします。


 被害者の壇場琉花(だんばるか)は、昨夜午後二十二時から二十三時の間に後頭部を鈍器で殴られた後、ネクタイのようなもので首を絞められ殺害された。


 これを前提とします。


 そのうえで犯行現場を検討していきたいと思いますが、これにつきましても昨夜の目撃証言が正確なものだったと仮定いたします。


 つまりこういう話になるかと思います。


 犯行現場は死体発見現場なのか、それともアパートの別の室内なのか。


 これは言い換えると、死体の移動が行われたのか否かという問題となります。


 ここで死体の状況をもう一度確認します。


 死体は全裸で、暴行された痕跡はなく、死後硬直後に動かされた痕が残されていた。


 間違いありませんね?」


 尾藤はああと短く頷いた。


 「サテ、死体は全裸の状態だったということですが、犯行時、被害者は服を着ていたのでしょうか、それとも既に全裸の状態だったのでしょうか?


 この問いには簡単に答えが出ます。


 犯行時、被害者は服を着ていました。


 服の状態を思い出してください。


 ズボンには被害者の尿便が付着していました。


 尿便は殺害時に漏れ出たものと考えるのが自然でしょう。


 また服には伸びや破れが散見されたそうですね。


 これは死後硬直により固まった死体から無理やり衣服を脱がせたためと思われます。


 では、なぜ犯人は被害者の服を脱がさなければならなかったのか」


 そこで尾戸浦(おどうら)は意地の悪そうな笑みを浮かべて尾藤を見やった。


 「それは、被害者が服を着たままの状態では、犯人にとって不都合だったんだろう」


 「と申しますと?」


 「いや、具体的なことはわからんが、犯人にとって必要なことだったのは確かだ」


 尾藤が言い淀むと、尾戸浦は満足そうに頷いた。


 「エエ、エエ、そうでしょう。


 でなければ、わざわざ手間をかけて服を脱がせた甲斐がありません。


 しかし、なぜ? 


 どうして? 


 不思議ですねェ。


 足踏みしていても答えは出ません。


 謎を解くために話を戻しましょう。


 そう、死体の移動が行われたかどうかというところまで。


 仮にです。


 仮にここで死体の移動が行われたという結論を出したとしましょう。


 とすると、犯人が死体を移動させた意図とは何でしょうか。


 答えは単純明快。


 自分以外の人間に罪を着せるためです。


 死体発見現場の住人、自希流灰斗(じきるはいど)にね。


 同時にこの時点で自希流は容疑者から外れることになります」


 「その企みが成功したとは言えないがな」


 「オヤ、なぜでしょう?」


 「なぜって、死体や発見現場には不審な点がある。


 俺を含めて大半の捜査員は、自希流以外の人物が犯人であることも視野に入れて捜査しているはずだ」


 「しかし、死体を移動させた証拠が上がらなければ、必然的に容疑は自希流に傾く。違いますか?」


 尾藤は二の句が継げず、押し黙った。


 「そうです。


 犯人にとって重要なのは、死体が移動されたという確信を警察に与えないことでした。


 すなわち死体から衣服を剥ぎ取ったのは、そのために必要なことだったというワケです」


 死体の移動が行われた事実を隠蔽するために服を脱がした……。


 「そうか、わかったぞ! 


 犯人は死体を引きずって移動させたんだ。


 服を着せたまま引きずれば、服に汚れがついて死体を移動させた痕跡が残ってしまう。


 つまり犯人は、死体を引きずって移動させなければならなかった力の弱い人物……。


 大家の頭良子(あたまりょうこ)? もしくは銀来里衣菜(ぎんらいりいな)なのか?」


 尾藤が犯人を指摘した瞬間、尾戸浦はゲラゲラと笑いだした。


 「イヤ、すみません。


 見事に引っかかってくれたもので嬉しくなってしまいました」


 「……ふざけているのか?」


 「滅相もございません。可能性を潰すのも推理においては重要なことですから」


 「犯人は、死体を引きずったわけではないと?」


 「刑事サン、あなた、マンションの外廊下は汚れていたとおっしゃいましたよね?


 オカシイと思いませんか。


 死体を引きずったならば、廊下には引きずった跡が残るはずです。


 その跡を消したとしたら、廊下はむしろ綺麗になっていなければならないのですよ」


 犯人がその後わざと外廊下を汚したとしたら……と言いかけて辞めた。


 流石に犯人にもそれだけの時間はなかっただろうし、そんな急場しのぎの偽装をしたとしても鑑識がとうに見抜いているだろう。


 「そもそも大家が犯人ならば死体を収入源である自分のアパートに残しておくとは思えません。


 大家には車もありますし、別の場所に死体を隠すこともできたでしょう。


 銀来里衣菜についても小柄な女性ということで確かに非力な印象を受けますが、音楽をやっているようですから、機材の搬入等で重たいものを持つのは慣れているかもしれません」


 「じゃあ、どういうことなんだ?」


 「そうですねェ。少し目の付け所を変えてみましょう。


 そう、被害者の遺留品なんてどうでしょう」


 「被害者の衣服やバッグの中身か?」


 尾戸浦の芝居がかった言い方に苛立ちを覚えながらも、尾藤は聞き役に徹した。


 「エエ。念の為に訊いておきますが、報告に漏れはありませんね?」


 何やら推理の根幹をなす大事なポイントのようなので、尾藤は先ほどの刑事に電話を入れて確認を取った。


 「間違いないそうだ」


 「ホウ、ではお伺いします。


 その遺留品の中に欠けているものがあるのですが、おわかりになりますか?」


「欠けているものだと?」


「おそらく今あなたも身に着けているものですよ」


 身につけているもの? 


 何だ? 


 腕時計か? 


 いや、最近の若者は携帯を時計代わりに使っていたりするようだ。


 となると……


 「あっ! 靴下か!」


 「ご名答。流石ですね、刑事サン」


 「いや、しかし、最初から靴下を履いてなかったということも考えられるんじゃ……」


 「被害者は若い女性ですし、他人の部屋を訪れるのに、素足にブーツというのは流石に考えにくいでしょう。


 おまけに昨夜は雨です。靴下は履いていたものと考えるのが自然でしょう」


 尾戸浦の言う通りだった。


 しかし、どうして今までこんな単純なことに気づかなかったのだろうか。


 もしかすると……


 「まさか、犯人はカモフラージュのために死体を全裸にした?」


 「エエ。靴下だけ脱がしてあれば、自ずとそこへ目が向きますから。


 服を現場に敢えて残したのも、そうすることで自希流が犯人であると印象づけたかったというのもあるでしょうが、服自体から警察の注意を逸らすという目的もあったと思われます」


 「ということは、靴下には何か犯人特定につながる証拠が残されていたというわけだな?」


 そうです、と尾戸浦が頷く。


 「その証拠が何であるかの前に、犯人はどうして替えの靴下を用意しなかったんだ? 


 それくらいの時間はあったはずだ」


 「これは憶測になりますが、犯人が靴下に何らかの証拠が残っていることに気づいたのは、死体を移動させた後だったのでしょう。


 この段になって一旦現場を離れ、靴下を買いに行き、再び戻ってくるというのは時間的なロスもありますし、目撃されるリスクも高くなる。


 そういった危険を冒すよりは死体から衣服を剥ぐという偽装工作に留めた方が安全だと考えたのかもしれません」


 「なるほど。


 で、その証拠というのは何なんだ?


 犯人の血か何かか?」


 「死体には犯人と争ったような痕跡は見られません。


 仮に何か別の理由で犯人が出血したとしましょう。


 靴下にかかるということは足元に滴るほどの量なワケですから、


 犯人はもっと慎重になっていたはずです。


 つまり被害者の衣服は現場に残さなかったでしょう。


 血以外にも、犯人が何かを零したり撒き散らした場合も同様です」


 「しかし、それ以外に犯人を特定できる証拠なんてあるのか?」


 「あります。ここまで来ればあともう一息なんですがねェ」


 尾戸浦の嘲笑に触発されて尾藤は思考を巡らせる。


 靴下、いや足元に残った証拠。足元……。


 容疑者たちの部屋を想起する。


 真っ先に思い浮かんだのは皮賀の部屋だ。

 

 「遺体が見つかった部屋の隣、二○三室のの床にはワックスが塗られているようだった。


 被害者が部屋を訪れたとき、そのワックスが乾ききっていなかったとしたら、遺体の靴下に残っていたんじゃないか?」


「刑事サン、あなたが二○三室に入ろうとしたとき、住人はスリッパを用意したとおっしゃってましたね。


 ワックスが乾いたか定かではない状況であれば、その住人は尚更スリッパを履くように勧めたのではないでしょうか?


 それに足の裏についたワックスだけでは証拠として弱いですなア。


 別の場所で付着したと言い逃れできてしまいます。


 私の主張する証拠は、もっと強固なものです」


 再び容疑者たちの部屋を思い出してみるが、他に床や足元に手がかりのようなものは残っていなかった。


 であれば、それは既に容疑者が片付けたということになる。


 片付け、掃除……と来たところでぱっと銀来の部屋で見た灰皿が思い浮かんだ。


 「二○四室の銀来は喫煙者で室内には灰皿が置いてあった。


 遺体に争った形跡はなかったが、その灰皿が何かの拍子に落ちて中の灰や吸い殻が床に散らばったとしたら、どうだ? 


 靴下に付着したタバコの灰から銘柄が特定され、ひいては自分にたどり着く。


 犯人がそう考えたとしたら辻褄が合う」


 「残念ながら、それは考えてみるまでもないことです。


 被害者は銀来と同じ銘柄のタバコを吸っていたのですから。


 仮に被害者の靴下に銀来の吸っていたタバコの灰が付着していてもそれは手がかりになり得ません。


 よって靴下を処分する必要はないということになります」


 「同じ銘柄のタバコを吸っていたというのは銀来自身の証言だ。


 嘘をついている可能性だってある」


 「その程度の裏を取るくらい容易なことは刑事サンじゃなくてもわかることです。


 なぜすぐに見破られる嘘をつく必要があるのでしょうか?」


 尾戸浦が正しかった。


 その人が普段吸っているタバコの銘柄は、家族や友人など親しい人間だけでなく、同じ喫煙所を利用している喫煙者たちやタバコの購入先の店員などから簡単に特定できる。


 銀来の証言が嘘だとして、警察が靴下に焦点を合わせないかぎり効果は薄いし、嘘だとバレた時のことを考えるとリスクが高すぎる。


 タバコ以外に思いつくのは銀来のピンクの髪だが、これこそ考えるまでもない。


 髪の毛なら払い落とせばいいだけだ。


 「残るは大家と二等金(にとうきん)か……」


 「オヤオヤ、駄目ですよ。


 警察の方が消去法なんかに頼っては」


 「お前のやり方に付き合ってやってるだけだ」


 「なるほど。では、茶番は終わりにしましょう。証拠とはフンです」


 「フン?」


 「文鳥の糞です。


 ケージから出して遊ばせているときに文鳥がした糞を掃除し忘れたのでしょう。


 それを被害者が部屋に上がった際に踏んでしまった。


 外は雨で靴下も多少は湿っていたでしょうから気づかなかったのだと思います」


 「犯人は、二等金だと言うのか?」


 「そうなりますかな」

 

 靴下に鳥の糞がついていれば、それは室内で踏んだことを意味する。


 そして、二等金以外の住人はペットを飼育していない。


 この状況下では、その靴下は逃れられぬ証拠となる。


 加えて二等金の体格なら死体を担いで移動させることも容易だろう。


 「犯人は、夜中に被害者を自室に招いた。


 その後、被害者を殺害。


 状況から考えて犯行は突発的なものでしょう。


 証拠の隠滅と死体の処理について一考していたところ被害者のバッグから自希流の部屋のものと思われる鍵を見つけた――あるいは犯人は被害者が自希流の部屋の合鍵を持っていることを知っていたのかもしれません。


 そこで彼の部屋に死体を移動させる偽装工作を思いついたのでしょう」


 「待ってくれ。


 さっきから死体は移動されたという前提で話が進んでいるが、これは確かなのか?」


 「つまり全て自希流の自作自演ではないのか、そうおっしゃりたいのですね?」


 「その可能性もなくはないだろう?」


 「しかし、それは妙だと思いませんか? 


 仮に自希流が犯人だとした場合、この程度では焼け石に水どころか偽装工作にすらなっていません」


 「苦肉の策だったとか? 


 警察の捜査の撹乱が目的だったのかもしれん」


「そうは思えませんねエ。


 実際、自希流には、誰にも気づかれずに死体を運び出すことが可能だったのですから」


 「どういうことだ?」


 「刑事サン、ご覧になったでしょう? 


 彼の部屋の押入れの中。


 人ひとり入れるくらいのキャリーバッグがあったとおっしゃいましたね? 


 ソレに入れれば死体を外へ持ち出せたはずです。


 そして、死体を遺棄するのと苦し紛れの攪乱戦法とではどちらを取るか比べるまでもありません」


 尾藤は言葉に詰まり、話を逸した。


 「しかし、二等金が犯人とは……。一体、動機は何なんだ?」


 「動機ですか?」


 尾戸浦が初めて驚いたような声をあげた。


 「ああ、殺人にはそれ相応の動機が必要だろう」


 

 次の瞬間、尾戸浦は、ギャハハハと一際大きな下卑た笑い声をあげた。


 腹を押さえ、目尻にはうっすらと涙が溜まっている。


 「何がそんなにおかしいんだ」


 尾藤が顔をしかめると

 「イヤねェ、刑事サン。


 動機なんてものに何の意味もないってことは、あなた方が一番よくわかっていらっしゃると思っていましたのでね。


 ちょっとしたいざこざで、挙句の果てには何の理由もなく、人が無差別に、そして大量に殺される時代で動機! 動機ですか!


 大方、男女間の問題ではないでしょうか? 


 被害者が犯人の弱みを握っていたという可能性も考えられます。


 エエ、どうぞお好きなものをお選びください。


 動機なんてものは所詮後付にすぎないのですから」


 近頃の犯罪が不可解化しているのは事実である。


 尾藤も取り調べをしていて、そんなことで人を殺したのかと驚かされることもしばしばだ。


 そんな時代で犯人に動機を問うことはたしかに意味のないことなのかもしれない。


 しかし、そういった社会的な背景とは無関係に、この男は動機というものを全く考慮しないだろうと、尾藤は思った。


 それどころか尾戸浦の蛇のような笑みを見ていると、こいつには他人の気持ちを斟酌する気があるのか、そもそも人の心というものがあるのか不安に襲われる。


 尾戸浦にはそう思わせるだけの邪悪な影があった。


 ただ、その一方で尾戸浦の推理には確かに説得力があった。


 少なくとも、尾藤は具体的な反論を紡ぐことが出来ない。


 尾戸浦の人格は信用できないが、やはりその能力については信用できるのではないか……。


 「改めて申し上げますが、私の推理を信じるも信じないも刑事さんにお任せします。


 無責任かとお思いでしょうが、今回は探偵としてのビジネスではなく、あくまで一市民としての捜査協力というカタチですので、どうかご勘弁ください」


 尾藤の逡巡を見透かしているかのように尾戸浦が微笑む。


 「私の話は以上です。


 すみませんが、駅はどちらの方向でしょう?」



 「ああ、いや、送って行こう」


 五分ほど運転すると、車は駅のロータリーへたどり着いた。


 「では、これで失礼させていただきます」


 と、あっさりすぎるくらいあっさり尾戸浦は車から降りた。


 本当に警察との関係を修復することが目的だったのだろうか。


 だとしたら、自分は必要以上に尾戸浦を敵愾視しているのではないか。


 だが、長年の刑事としての勘か、あるいは人としての本能が告げている。


 ヤツには何か裏がある、と。


 尾藤の中で尾戸浦に対する評価が揺れに揺れる。


 どこまで信用すべきなのか、その境界が曖昧になる。


 頭の中では尾戸浦の笑みがひどく歪んでいた。


 あの男の申し出を受け入れたのがそもそもの失敗だったのかもしれない。


 いつの間にか老探偵は、尾藤の視界から姿を消していた。





 蓋を開けると、もわっと白い蒸気と共にパチパチという音が広がっていく。


 ここからが勝負だ。


 手早く油を鍋に回し入れ、箸で周りを軽く突付く。


 皿を鍋の上に被せて、油を切りながら鍋ごとひっくり返す。よっ、と。


 鍋を上げると、皿の上にはこんがり狐色の焦げ目がついた大輪の花が咲いていた。


 この店の人気メニュー、羽根つき餃子の完成だ。


 慣れないうちは、真っ黒に焦がしてしまったり、餃子が鍋にくっついてしまったりしたものだったが、人間続けてやっているうちに形になるものだ。


 中華料理屋のアルバイトは、はっきり言ってあまり割は良くない。


 ただ、まかないが出るというのはやはり大きい。単純に食費が一食分浮くし、普段ロクなものを食べておらず、栄養失調気味の身としては、スタミナがつく中華料理はありがたい。


 他にも二つアルバイトを掛け持ちしていて、これらは何よりも給料を重視して選んだ。


 さらに割の良い短期バイトが見つかったときは、一時的にそちらを優先したりもしている。


 忙しくて遊ぶ暇もないけれど、元々遊び相手もいない。


 それに今は、こうして働いてる方が気が紛れて良い。


 そう、今の僕はとにかく働いてお金を稼ぐしかなかった。





 あの事件の数日後、僕のもとに一通の封書が届いた。


 差出し名は、尾戸浦探偵事務所。


 中身は、請求書だった。


 身に覚えがない請求書を不審に思ったけれど、何より驚いたのは、その額だった。


 何度桁を数え直したかわからない。


 一学生の僕には――仮に僕が社会人だったとしても、到底払える金額ではなかった。


 真っ先に思い浮かんだのが詐欺だった。


 一方的に法外な支払い額を吹っかけて、払わないなら訴える、みたいな。


 ただ、よくよく考えてみると、心当たりがないわけでもなかった。


 もしかしたら、僕が意識を失っている間にもうひとりの僕がこの探偵に何か依頼したのではないか。


 封筒に事務所の電話番号が印字されていたので、僕はひとます電話を掛けてみることにした。


 二回目のコールで電話は繋がった。


 機械音声のような冷たい女性の声。


 用件を伝えると、わずかな間保留のメロディが流れ、今度は受話器から少ししゃがれた男の声がした。


 『ああ、自希流さん。そろそろお電話いただける頃だと思っていましたよ』


 何がおかしいのか、男は笑いを押し殺しているようだった。


 「あの、そちらから請求書が届いたんですけども、これは一体どういうことなんですか? 身に覚えがないんですけど……」


 『どういうことも何も、私が提供したサービスへの対価を請求しているだけですよ。イタズラや新手の詐欺ではありませんので、ご安心を』


 受話器越しにクックックッと気味の悪い笑い声が聞こえて、背筋がぞっとした。


 「サービスって……」


 『ホウ……。どうやら本当に覚えておられないですなア。


 では、簡単にお話しますが、先日あなたの交際相手――元でしたか、が殺された事件があったでしょう。


 あの事件を解決したのは私なんですよ。


 そう、あなたの依頼でね』


 事件のことを思い出し、受話器を持つ手がじっとりと汗ばんだ。


 しかし、事件の解決を依頼? 僕にいつそんな暇が? そう言えば死体を発見してからしばらくの間、記憶が途切れていた。


 その間にもうひとりの僕がこの男に電話したのだろうか?


 『あのままでは、あなたは間違いなく事件の犯人として警察に逮捕されていたでしょう。


 エエ、それであなたは自らの容疑を晴らすために私のもとへ電話を寄越した。


 私は現場へ向かい、警察に推理を披瀝し、事件は見事に解決。


 あなたは留置所行きを免れたというわけなのです』


 「それが事実だとしても、こんな大金はとてもじゃないですけど払えません」


 『払わないというのであれば、私はすぐにでも推理を撤回すると警察に伝えます。


 おそらく犯人についての決定的な証拠はまだ上がっていないでしょうから、事件は再捜査というカタチになり、再度あなたに嫌疑がかかると思われます。


 それでも構わないのであれば、エエ、エエ、どうぞご随意に。


 ちなみに今お話したことは誓約書に記載済みで、あなたからサインもいただいてます』


 「払わないというか、現実的に払えないんですよ」


 『ハハハ。こちらも一括で払えなんて馬鹿なことは言いませんよ。


 まだ学生さんですから毎月払える分だけ払っていただければ結構。


 まあ、その場合、多少の利子はいただきますがね。


 なアに、難しく考える必要はございません。


 お金さえ支払っていただければ、あなたは今後も普段どおりの生活が送れるという、ただそれだけの話なのですから』


 子供に言って聞かせるような調子だったが、内容は脅迫じみていた。


 いや、どのような経緯があったにしても僕がこの男に依頼したことは事実のようだから、これは正当な要請と言えるのかもしれないが……。


 男の話がどこまで真実かは定かではない。


 しかし、探偵であるならば、警察と繋がりがあってもおかしくはないし、捜査方針を決定づけることは無理にしても、何らかの形で捜査に関与することは難しくないのではないか。


 僕に不利な証言をすることも可能だろう。


 結局、僕は男に金を支払うことにした。その決断の根底にあったのは、何よりもあの事件から目を背けたいという現実逃避だった。


 そして、琉花のことも……。


 男は、さも満足そうに返事をした後、


「賢明なるあなたの守護天使によろしくお伝えください」


 そう言い残して電話は切れた。





 そう言えば、あの事件以来、記憶が途切れることは滅多になくなり、近頃は全くなくなったと言っていいくらいになった。


 誰かが僕を見下ろしているという感覚もいつの間にか消えていた。


 安定剤の効果かもしれないし、忙しすぎてもうひとりの僕もそれどころではないのかもしれない。


 僕の繊細な部分は、日々の忙しなさに少しずつ削られて摩耗して行っている。


 いずれは麻痺して、僕は、ありきたりで愚鈍な大人になるのだろう。


 そして、あの事件のことも、琉花のこともいずれ僕は消化してしまうのだろうか?


 琉花の死は、再び彼女が僕のもとに舞い戻ってくるのではないかという期待や願望を完全に消失させたが、逆に言えば僕の彼女に対する執着を弱めた。


 もし琉花が生きていたとしたら、僕は希望を捨てきれず、また彼女に拒絶された自分を認められず、未だに情緒不安定なままだっただろう。


 ある意味で琉花の死が僕を救ったのだ。


 酷い事件だった。


 逮捕された二等金先輩はもちろん許せない。


 だが、その一方で僕にとっては必要な儀式だったのかもしれない。


 この先の僕の人生のために琉花は犠牲になる必要があったのかもしれない。


 そう思うことで、少しは彼女の死も報われるだろうか?


 事件が起きてから数日の間、琉花の死体を発見したときのことを繰り返し夢で見た。


 部屋の鍵を開ける。


 いつもと違う雰囲気。


 生ぬるい空気。


 廊下の先の女性の死体。


 黒く長い髪。


 紺のセーター、白のズボン姿。


 琉花の死体。

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