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国譲りの顛末  作者:
番外編
8/10

花盗人・3

 十年ぶりに会う小姫(こひめ)は、愛らしく儚げな面影を残しながらも凛とした気配を宿し、その呼び名には似つかわしくないほどに美しく成長していた。それはもう、一度うっかり手を触れれば、そのまま抱き締めてさらってしまいたくなるに違いない程度には。

 だが唯一、その美貌にそぐわない要素が目につき、そこを凝視しながら考えを巡らせ、原因に思い当たって頭を抱えそうになった。


「……太郎(ぎみ)様?」


 どちらかと言えば手狭な局の中、中納言は手を伸ばせば触れられる距離に腰を下ろし、首を傾げる小姫に直接尋ねてみた。


「いや……一つ訊きたいんだが。その髪はどうしたんだ? まさか出家したわけでもないだろう」

「あっ……! は、はい。出家はしておりません。……ただ……」

「ただ?──もしかしなくとも、私の従妹に切られてしまった、とか」

「…………」


 居たたまれないのだろう。小姫は胸元で揺れる髪の先を右手で押さえ、左の袖で隠した顔を背けてしまった。

 だがこの場合は、答えがないことが何よりも雄弁な答えになっている。


「……やはりか」

「いえ、あの、これは──っ!?」


 何を言おうとしたものか、小姫の言葉は中納言にあっさりと遮られた。

 不意に体を抱きすくめられ、強引だがそれを一切感じさせない優しい腕と、花橘の爽やかな香りが小姫の体を包み込む。


「──すまない。本当なら、貴女のことはもっと早くここから連れ出すことができたのに。まさかこんな目にまで遭っているなんて……」

「そ……そんな。太郎、いえ中納言様がお気に病むようなことでは……!」

「いや、大姫が小姫に対してどんな態度を取っていたか、よく分かっていたはずなのに、俺の判断が甘すぎた。──本当に、すまなかった」


 一人称が「私」から「俺」になってしまっている。

 中務の宮や右大将ならば、「あまりのことに素に戻っているな」と冷静極まる判断をしていただろうが、長年の想い人に抱き締められているばかりか、酷く大事そうに髪を撫でられ、評判の美声に耳元でささやかれる体勢になってしまった小姫には、そんな余裕はどこにもなかった。


「……小姫? 怒っている?」

「お……怒ってなど、おりません。ただ、その……」

「うん?」

「……あの。は、離してくださいませんか……? このままだとわたくし、中納言様のお声で、腰が抜けてしまいそうなのです……」


 耳や首筋まで真っ赤になった可憐な美姫に、潤んだ瞳で上目遣いに懇願された中納言は、にっと実に楽しげに笑ってみせる。


「それはいいことを聞いた。──さて、小姫?」

「んっ……! で、ですからっ、耳元で話すのはおやめくださいと……!」

「生憎だが却下。説得するには好都合だからな。貴女にはこのまま、俺と一緒にこの屋敷から出ていくことを承知してもらわなければならないし」

「え──?」


 予想外も甚だしいことを言われ、ぽかんと発言の主を見る。

 中納言の方は、そんな反応こそ予想外だったらしく、不思議そうに小姫の顔を見返してきた。


「そういう顔も可愛らしいが、そこまで意外な話かな? 髪を切られるなんてことまでされたのに、まだこの屋敷で女房として暮らす気でいるのか?」

「いえ、それは流石に……中納言様が大姫様とご結婚なされば、わたくしはおそらく暇を出されるでしょうから、その時には尼寺にでも身を寄せようかと思っておりました」

「頼むから、仮に命の危機となろうが絶対に選ばない選択肢を前提に考えないでくれ。それに尼寺なんて、十六の若さで考えることじゃないだろう!……まあ、貴女を十年も放っておいた俺の立場で言えることでもないんだろうが」


 心底から自分を情けなく思っているらしく、中納言は片手で自分の額を押さえ、腹の底から深々と息を吐く。

 小姫としては、例の出来事からほどなく元服と出仕が決まり、格段に忙しくなったであろう中納言を相手に、助けを求める手段や発想そのものがなかったので、こうまで気に病まれてしまうとむしろ心苦しい。


「中納言様がご自分を責めることはありませんわ。むしろわたくしは、中納言様がわたくしのことを覚えていてくださって、こうしてまたお会いできただけでも、とても嬉しく思っておりますもの」

「……相変わらず、小姫は欲がなさすぎるな。この屋敷での今までの境遇がどれほどのものだったか、それだけで簡単に想像できるくらいだ。分かってはいると思うが、本来の立場からすれば、貴女の現状は不当に過ぎるとしか言いようがないものだからな?」

「それはまあ、大納言家の姫として考えるのならその通りなのでしょうけれど。わたくしは女房仕え自体には抵抗はございませんので、もしも中納言様のお屋敷で働かせていただけるのでしたら、この上ない光栄ですわ」


 紛れもない本音と知れる言葉に、しばしこめかみを押さえる中納言だったが。


「……分かった。そういうことであれば、この屋敷を出ることには同意してくれるんだろう?」

「はい。……ですが、わたくしはどのようにすればよろしいのでしょう? 迂闊に人目に付けば、それこそ大姫様に伝わって大変な騒ぎになるのでは……」

「そう心配するほど、この屋敷には大姫の全面的な味方は多くないよ。それに、牛車(くるま)は裏門にまわるように手配してあるし、屋敷内の人手は宴に集中しているから、見つかる恐れもほぼない。貴女ひとりを抱えて裏門から出る程度であれば、大した労力でもないしいくらでも言い訳ができる」

「か、抱えて、ですか……」


 状況としては現在進行形でそうされているも同然なのに──いや、だからこそと言うべきか、かあっと再び顔を赤らめる小姫に、中納言はそれはそれはいい笑顔でうなずいた。


「勿論。さて、身の回りの道具で持っていきたいものはあるかい? 今日のところは、一纏めにして手に持っていける程度の量に収めてもらわなければいけないが」

「ええと……改めて考えますと、(かもじ)の他には、実の母の形見である櫛や鏡と、歌集の写しくらいでしょうか。北の方様からいただいた琴は、どう頑張っても持っていける条件には入りませんから」

「ふうん、意外だな。あの大姫なら、実母の形見が小姫の手元にあれば、難癖をつけて即座に取り上げていきそうなものなのに」

「いえ、実は……大姫様は楽器演奏が苦手で、特に琴は見たくもないほどお嫌いなので。正確には琴ではなくて、上手く弾けないご自分に腹を立てているようですけれど」


 その説明と噂のあまりの噛み合わなさに、中納言はまたも首を捻ったが、悠長に問い質せる時間はないのでひとまず話を切り上げることにする。

 衣で顔と髪を隠し、荷物を抱えた小姫とともに車に乗り込む頃には、おおよその疑問は解消されていた。


 本来ならば車内の前後に離れて座るべきではあるものの、牛車に乗り慣れない小姫の危なっかしい様子を理由に、引き続き彼女を腕に囲い込み、さまざまな緊張に強ばる背を撫でて落ち着かせながら、確認のために口を開く。


「噂では大姫は、歌や琴の演奏に長けた素晴らしい美女で、取り分け見事な手蹟()はかの三蹟(さんせき)にも匹敵するほどだという話になっているんだが、実像とは随分と違うようだな」

「まあ……いくら噂と言えど、あまりにも大袈裟に誉めすぎと存じますわ」


 辺りは暗いが、供の者たちが掲げる灯りが少しだけ開いた物見窓から射しており、苦笑しつつも頬を染めて恥じらうという、器用ながらもたいそう可愛らしい小姫の反応がよく窺えた。

 そのことと、懐にある母への文の返事のおかげで理解する。


「つまり、歌や琴や手蹟に関しては全て小姫の実力で、大姫はそれらを自分のものだと騙っていただけということか。そうすると、こうして貴女が屋敷を出たことは、彼女にとっては相当な痛手になるな」

「中納言様。お顔が悪者のようになっています」

「ああ、すまない。半狂乱になる大姫を想像したら、つい楽しくて。こんな俺は嫌いかな?」

「まあ、そんなこと。むしろわたくしは、中納言様の色々なお顔を見ることができて、とても幸せで嬉しいですわ」

「おや。ならば、俺が貴女にしか見せたくない顔も気に入ってもらえると嬉しいが」

「え……?」


 すぐには意味が分からなかったらしい小姫だが、白い指先から手首にかけてそっと優しく口づけられ、否応なしに理解させられてしまった。

 吐息と体が甘く震え、重ねられてくる少し冷たい唇に、抗うことさえ思い付かない。


「小姫──」


 合間に紡がれるささやきは極上の甘露のようで、小姫の頭と体を芯から(とろ)かせてゆく。

 それでも少しだけ残った理性で何とか手を動かし、男の胸板を押して僅かでも距離を取ろうとした。


「いけません、中納言様……どうか、このようなお戯れはお止めください。……わたくしは、あくまでも女房として──」

「本当ならば、小姫の望みは何でも叶えてあげたいが、生憎とそれだけは駄目だ。──貴女には、是非とも俺の唯一の妻になってほしいから」

「え……っ」


熱を帯びた声と瞳にさらされ、頬を大きな手で包み込まれ、目をそらすことも許されない。

それでも、今の自分が彼の妻──それも唯一というならば正妻だ──になどなっても、ただの重荷にしかならないと分かっているから、必死に説得を試みる。


「で、ですが。わたくしはもう、公卿の姫でも何でもない立場ですのに……!」

「立場だとかそんなものはどうとでもなるし、後見人の手配も済んでいるから気にしないでいい。──今は、小姫自身の意思を聞かせてほしい。俺の妻になるのはそんなに嫌?」

「いいえ! でも……」

「よし。嫌ではないならそれでいい。続きは屋敷でするとしよう」


 その言葉通りに牛車が止まり、二人は中納言の屋敷に到着した。

 彼は再び小姫を抱いて北の対へ運ぶと、真新しい御帳台(みちょうだい)(寝台兼座所)に、彼女とともに横になる。

 するりと頬から首筋を撫でれば、しなやかな体が敏感に震え、肌が淡く染まっていく。


「あのっ、中納言様! お話が、まだ……!」

「ああ。でも貴女は、俺の妻になることそのものは嫌ではないんだろう?──俺は今夜、このまま貴女を妻にしたいし、貴女の夫にもなりたいんだ。それも駄目か?」

「……それ、は……」

「それは?」


 手を止めてささやくように問えば、小姫は耳の先まで赤くなっており、中納言の胸元に、その色付いた顔を甘えるような仕草で埋めてきた。


「……そのようなお言葉は、狡いです」

「言われなくとも自覚はしているよ。……逃げないなら、逃がさないぞ?」

「……はい……」


 ともすれば耳に届かないほどに小さな返事とともに、胸元の頭がほんの微かに、だが間違いなく上下した。

 中納言は、寄り添う小姫の顔をそっと上げさせて目を合わせると、そのまま覆い被さるように口づける。

 そうしてその夜が更けるまでに、小姫は中納言に求められるまま、身も心も全て彼のものとなった。




 翌朝、源大納言(げんのだいなごん)邸は嵐のごとき騒ぎとなったが、物忌(ものいみ)(外出を控え、身を慎むべき日)という名目で仕事を休み、妻とした姫の側を離れずに一日を過ごす中納言の耳には、そのことはすぐに入っては来なかった。

 当然ながら予想だけはしていたが、小姫を自らの屋敷に保護した以上、既に大納言家での騒動など対岸の火事に等しい。打ち合わせ通りに一人でそこに残してきた中務の宮も、大人しく火事に巻き込まれるような甘い人物ではないので心配する必要は何もない。

 果たしてその夕方、やけにすっきりとした様子の中務の宮が、小姫への後見人としての挨拶を理由に、中納言の屋敷を訪ねて来た。


「そのようなわけで、これからよろしく、従妹殿」

「は、はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします……」


 几帳越しに頭を下げながらも、きらきらと目映い宮の笑顔と、急すぎる話に目を白黒させる小姫だった。ちなみに、来客ということでしっかり髢を着けている。


 如何に親しい友人が相手とは言え、外堀を小姫の不安と一緒に埋めるため、帝の叔父に後見の依頼をすること自体がまず凄いが、いくら血が繋がった親戚でも、ろくに面識もない存在の後見を承諾する方もする方だと思った。

 やはり友人が妻と決めた存在だからこそ、融通を利かせてくれたのだろうかと考えていると。


「ああ、誤解をしているかもしれないけれど。もしも貴女が中納言の妻になることを選ばなかったなら、私と妻の後見のもと、貴女には責任を持って立派な婿を探す予定だったのだよ? まあ実際には、そこの男には選択の余地など与えてはもらえなかったようだがね」

「言っておきますが、意に染まないことを無理強いしたのではありませんから、誤解なきようにお願いいたしますよ、宮」


 小姫の隣で彼女を支えるように座る中納言が、やや威嚇気味にそんなことを言った。

 はらはらしながら見ている小姫の前で、中務の宮は実にわざとらしく嘆息してみせる。


「無理強いではないとしても、君の声は媚薬にも等しい代物だからね。宮中女房の間では、『一度でいいから中納言様のあの美声で、耳元でささやかれてみたい』と専らの評判で──」

「そういう余分な情報は結構です」


 ばっさりと話を断ち切る中納言だが、女房たちの望む状況を実体験した身である小姫は、指の先まで赤くなって縮こまるしかできなかった。

 とは言え中納言に言わせれば、閨での小姫の声こそ媚薬だとのことらしいので、似た者夫婦ということになるのかもしれない。小姫としては、そんなところは似なくても全く構わないのだが。


「全く、宮はこれだから……そういう風に余計なことを小姫に吹き込む恐れがあったから、宮に小姫の後見人となっていただくことを最後まで迷っていたんですよ」

「ことの始めから私を巻き込もうとしておきながら、その物言いは少々無理があるのではないかな? 私は姫とは血が繋がっているし、本気になった左大臣による圧力でもない限りはほぼ無傷で跳ね除けられると、誰よりも君が確信しているからこその結論であり依頼だったのだろう?」

「ええ、その通りです。実際に快く聞き届けてもくださったわけですしね。ただ、そういった手助けなしに小姫を守れない自分の未熟さが際立ってしまうのが、どうにも情けなく思えて仕方なくて」

「中納言様……」


 まさかそんな風に思っているとは知らなかった小姫は、そっと夫の衣を引いて、こちらを見た彼に情けなくなどはないと目で訴える。

 妻の健気な様子に、中納言は口元に微笑みを浮かべ、軽く身を傾けて少々長めに唇を重ねた。

 下手に抵抗すれば宮に気づかれそうなのと、一日足らずで夫に触れられる心地よさを覚えさせられてしまったせいもあり、素直に口づけに応じれば、離れていく時の微かな水音がやけに響いたような気がして、恥ずかしさに目を潤ませて中納言に抗議する。……何故か、今度は額に口づけられてしまったが。


 睦まじく触れ合う新婚夫婦に気づいているのかいないのか、中務の宮はごく平然とこう述べる。


「まあ、右大臣はどうしても血筋だの身分だのに拘りがちな御仁ではあるからね。とは言え、今朝の大姫の振る舞いは間違いなく彼の耳にも入るだろうから、姫君を浚った息子の選択を咎めたりはしないと思うけれど」

「……そこまで酷かったのですか。直に見てみたかったような、見なくて幸いだったような……」

「控え目に言っても、百年の恋も冷めるのではないかな。今朝だけではなく、昨夜の行動も君の予想通りだったよ」


 くすくすと上品に笑う宮に対し、中納言はそれはそれは嫌そうに顔を歪めている。

 一体どんな予想だったのかと小姫が首を傾げていると、後見人の口からその詳細が語られることになった。




再会早々に展開が早い、というか手が早いですが、まあ平安時代ならこんなものです(真顔)

むしろ言質があったとは言え、了解を取っただけ中納言は偉い。物語だと、小姫の局で問答無用に押し倒すくらいが定番の流れなのでね……(  ̄- ̄)

それに小姫の場合、さっさと口説かないと「中納言様の妻なんて過分な立場は目指さず、女房としてきちんとお仕えしなければ!」とか謎の使命感で凝り固まってしまいそうなので、それを防ぐ意味もありました。


次回は、中務の宮が大納言邸で無双します。……主役は誰だっけ?

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