花盗人・2
ヒロイン登場回。
彼女の立場と展開上、複数の呼称がありますが、ここでは基本的に「妹姫」です。
次話からは「小姫」で統一されます。
「菖蒲の君。少しよろしいでしょうか?」
源大納言邸の東の対。東廂の北側の角にしつらえられた小さな局で、大姫の文の代筆をしていた菖蒲の君こと妹姫は、簀の子(廊下)からかけられた女房の声に、文机から顔を上げてそちらを見た。
「……何のご用でしょう?」
さして広くもない空間に、大きくはないがよく通る甘い声が響く。
色好みの男たちが聞けば、それだけで虜になってしまいそうな声の持ち主に、女房は遠慮がちに、やや同情めいた響きを宿して用件を告げた。
「大姫様よりのお言葉でございます。只今から明日の朝まで、局からは決してお出にならないようにと。その、お客様がいらしていますので……」
「まあ……妙な心配をなさらずとも、この髪では人前になど出られないのに。大姫様もおかしなことをおっしゃるものね」
つい先日、大姫にばっさりと切られてしまった艶やかな髪にそっと手をやりながら、妹姫はつぶやくように言った。
女房にも聞こえてしまったようで、几帳と御簾の向こうから、戸惑いと大姫への恐怖の感情が伝わってくる。
「……困らせてしまいましたわね、申し訳ありません。大姫様には、わかりましたとお伝えしてくださいな」
「は、はい。──それから、こちらの文へお返事の代筆を、明日の朝までにと。右大臣の北の方様へのものなので、手抜きは絶対にしないようにとのことです」
「……わたくし、何につけても手抜きをしたことなど一度もありませんのに。大姫様は本当に厳しい御方だこと」
「いえ、厳しいのではなくて、難癖をつけるのがお得意と言いますか……あ」
「あら、式部の君は今、何か言いましたかしら? わたくし、最近は時々、耳が遠くなってしまうことがありますのよ」
「いいえ何も!……その、菖蒲の君に一つだけ、わたくしからお伝えいたします。お客様について……」
──そうして明かされた客の素性に、再び一人になった妹姫は、知らず溜め息を誘われてしまった。
「……右大臣家の御嫡男、藤中納言様……か」
貴族の子息としては意外なほどに無邪気な笑顔を最後に見てから、もう十年が経っている。
亡き北の方の甥である彼がこの屋敷に来なくなったのは、自分のせいでもあると妹姫は思っていた。
あれは確か、この屋敷の庭でのこと。
当時は元服前だった中納言が、側仕えたちとともに源大納言邸を訪れていたのだが、ここ数回の訪問では従妹の大姫ではなく、妾腹で血縁関係のない妹姫を可愛がって遊んでくれるようになっていたために、大好きな従兄を取られてしまったと大姫が激怒したのである。
『あんたみたいな卑しい娘が、どうしてわたくしの未来の婿君と遊んでいるのよ! 目障りだわ、そこをどきなさい!』
と、池に向かって突き飛ばされそうになったところを、かばってくれた中納言が思いきり押される形となり、そのまま大きな音を立てて池に落ちてしまった。
そのことに更に腹を立てた大姫が、八つ当たりで扇を振りかざして妹姫に殴りかかってきたが、二、三度肩や背中を叩かれたところで、急いで池から出てきた中納言が、ずぶ濡れのまま大姫の腕を掴んで止めてくれた。
だが生憎、大姫の癇癪はその程度ではおさまらず、中納言に標的が変わってしまったのだった。
『ひどい、ひどいわ! 未来の婿君様なら、そこの卑しい娘なんかに構わないで、わたくしだけと過ごしてくれるはずなのに! わたくしの婿君は、お父様もお母様もわたくしから取っていった、泥棒猫なんかと遊んでは駄目なの! なのになんで、どうしてっ!?』
『いや、私は君の婿になるなんて約束は、痛っ! こら、いい加減にしろ!』
『嫌、嫌あっ! どうしてみんな、わたくしだけを見てくれないのっ!? お父様も亡くなったお母様も、どうして、どうしてぇっ!?』
『──大姫! そなた、右大臣様の御嫡男に何をしているのだ!!』
あまりのことに血相を変えて駆けつけてきた父により、ようやく中納言と妹姫は、暴れる大姫から解放されたのだった。
──思えば、養女になったばかりの頃の妹姫は病弱で、ことあるごとに熱を出し、子煩悩な北の方に付きっきりで看病されていたと聞いている。
当時の大姫はようやく五歳になるかならないかというところで、母親に甘えたい盛りだったはずだ。そんな時にその母親が、彼女が産んだわけでもない妹に結構な頻度で独占されていては、取られてしまったと感じたのも無理はないとは思う。……だからと言って、北の方亡き後の女房待遇だけならばまだしも、やれ手紙の代筆だの歌の代作だの、父に琴の演奏を披露する時の御簾越しの替え玉だのと、あれもこれもを押し付けられていることについては、全面的に許容するのは絶対に不可能だけれど。
(当初、何故ご自分でやらないのかと聞いたら、思いきり頬を叩かれてしまったし)
思い出して左の頬をさする。
あの時はなかなか腫れが引かず大変だったが、髪を切られてしまった衝撃に比べれば大したことではなかった。
──もう十日前になるだろうか。東の対の簀の子を歩いていると、珍しくも父親が声をかけてきて、所作を手放しに誉められてから、「久しぶりに顔を見たが、我が娘ながら美しくなったな」と実に満足そうに微笑まれた。
今更すぎる親らしい振る舞いに、いっそ気色悪さすら感じつつも背中を見送り終え、局に戻ろうとした時のことだった。
──ざくり、と背後から音がして、頭が不意に軽くなったのは。
『──!?』
慌てて振り向くと、抜き身の短刀を右手に、たっぷりと量のある見事な黒髪の一房を左手で持った大姫が、恐ろしいほどに美しい笑みを浮かべてすぐそばに佇んでいた。
『……お、大姫様……!?』
『ふふ。たかが女房などをご自分の娘扱いだなんて、お父様ったら。しかも美しいなどと褒め称えるなんて、おかしなこと。──こんなにも不揃いの髪をした女房の姿が、美しいはずないのにねえ?』
くすくすくす。
無邪気な子供のように笑いながら、大姫はぱっと左手を広げて、髪の束を簀の子の床にばらまく。
そして、呆然としている妹姫を一転して冷たく見下し、こう命じた。
『貴女の髪なのだから、貴女が責任を持って綺麗に片付けることね。それまで局に戻ることは許さないわ』
『……かしこまり、ました』
大姫の気配が完全に去るまでは何とか耐えたものの、あまりのことに膝から崩れ落ちてしまう。
それでもそのままにしておくわけにはいかず、言われた通りに切られた髪を片付けてから、自分の局に戻りようやく涙を流せた。
──この十年、大姫に顔や体を叩かれたことは何度もあったが、泣いたことなど一度もなかったのに。
本音を言えば、女房としての生活は、大姫から辛く当たられることを除けばさして抵抗はない。実の母親が女房だったのだし、母が亡くならなければ、もしくは北の方の養女になっていなかったなら、自分も本当は女房として暮らしていたはずなのだから。
実際に妾腹の生まれである以上、気位の高い大姫に妹扱いされないことは仕方がないと思っている。そもそも、父親や大姫のことは、昔はともかく今となっては家族だと考えることもない。自分は源大納言家の姫君ではなく女房として、このまま死ぬまで暮らしていくのだと、そう考えていたくらいだった。
けれど。
(……まさか、髪を切られてしまうだなんて……)
そこまで大姫に憎まれているのかと思い、恐怖と衝撃と困惑で、一体どうしたらいいのか分からなくなってしまった。
それでも存分に泣いたことがよかったのか、翌日には何とか通常に近い精神状態にはなっていた。
大姫からは、髪が整うまではわざわざ表に出てくることはないと言われ──要は『目障りだから顔を見せるな』という意味だろうが、逆らう理由も気力もないので、この十日間は素直に局に閉じこもっている。切られた髪は、短くなった部分に合わせて、大姫に命じられてやってきた式部の君に切り揃えてもらったため──その時もやはり涙をこらえられず、彼女には迷惑をかけてしまった──、まるで出家した尼のような、背の半ば程度の長さになってしまったことも、局から出ない理由の一つだ。一応、揃えた時に切った髪は取っておいて、外に出る際に使う髢(つけ毛)にしているが、局にいる時には使わないので外している。
元から表で仕事をすることはあまりなく、大姫から言いつけられる用は局で十分にこなせるものが多いため、表面上は特に変化はない。ただ、このままこの屋敷で今まで通りの生活を送れるかどうかは、心情的には限りなく難しくなったと思う。
……何せ、不意にあの時の大姫の顔と短刀の輝きを思い出して、恐怖で震え上がってしまったり、時には夢にまで出てきてうなされることもあるほどなのだ。
加えて、今回の中納言の訪問である。
十年前、中納言本人は未来の婿呼ばわりを否定していたものの、源大納言は大姫の癇癪をおさめるために、何としてでも彼を婿にするために全力を尽くす、と無責任に長女に対して約束していたのを、妹姫は確かに耳にしていた。
相手は右大臣家の嫡男である以上、間違っても無理強いはできないだろうが、大姫が簡単に引き下がることもまた絶対に有り得ないと断言できてしまう。
……仮に中納言が異母姉の夫になったとして、その様子を全く目に入れずに済むかと問われれば否だ。むしろ大姫のことだから、あえて夫との仲をこちらに見せつけてくる気がしてならない。
大姫の夫が中納言以外の誰かならば、仲が良かろうと悪かろうと 妹姫の知ったことではない。こちらに八つ当たりが飛んで来さえしなければ、どちらでも構わないと胸を張って言える。
けれどもしも、異母姉の望み通りになってしまったなら──想像しただけで、胸の奥がぎゅうっと締め上げられたように痛んだ。
(……でも、逆にわたくしが最愛の夫に近づけないように、大姫様が屋敷から追い出してくれるかもしれないわね)
そうなったとしても行く当てなどはないけれど、この際、どこかの尼寺にでも身を寄せるのが一番いいと思う。幸いと言うべきか、髪もちょうどそれに相応しい長さになっていることだし。
──などと、後ろ向きな思考に陥りながらも言いつけられた代筆を終えた妹姫は、ふと寝殿の方からの楽の音に気づき、黙って耳を傾けた。
既に日は沈み、局の中には先ほどつけたばかりの灯りはあるものの、外は夜闇に包まれている。
おそらくは、身分の高い来客たちのため、管弦の宴が開かれているのだろう。
食事を運んできてくれた女童によれば、中納言は中務の宮と二人で訪ねてきたらしい。どちらも見目麗しい殿方とあって、大姫付きの若い女房たちは密かに大騒ぎしているそうだが、妹姫の局は他の女房たちとは離れた場所にあるので、その騒ぎは聞こえてきてはいなかった。
これまでは邸内で宴の類が催されていても、参加したいなどとは全く思わなかった妹姫だが、今宵だけはその場にいられないことを残念に思ってしまう。
曲が終わり、静けさがあたりを包む中、不意にどこからか時鳥の鳴く声が聞こえてきた。
妹姫の唇から、自然と古歌が口をつく。
「……ほととぎす鳴くや五月のあやめ草──とは、よく言ったものだわ」
「これはこれは……こんなにも美しい姫が局に籠り、『あやめも知らぬ恋』に身を焦がしているとは、実に残念なことだな」
誰にともなくつぶやいたはずの独り言に、あまりにも魅惑的な声による、からかうような響きの言葉が返った。
「────!?」
「久しぶりだね。貴女は小姫だろう? 見つけられて安心したよ。元気そうでよかった」
振り向くと、御簾をかかげて姿を見せた長身の公達が、几帳をどけて室内に入ってくるところだった。
美麗な中にも精悍さの漂う顔立ちには、酷く懐かしい優しく明るい笑みが浮かんでいて、妹姫は顔を隠すことすら思い付かず、震える声でかつての呼び名を口にする。
「太郎君、様……?」
「ああ。よかった、覚えていてくれたんだな」
「忘れるはずがありませんわ。わたくしは──」
──あの頃からずっと、貴方のことをお慕いしているのですから。
決して声には出せない言葉はしかし、澄んだ雄弁な瞳にはっきりと宿り、中納言へと何の過不足もなく伝わったのだった。
太郎君=貴族の長男を指す呼称。官職があれば官名(中納言とか右大将とか)で呼ばれるので、主に成人前の子供の呼び名として使われます。
基本的に貴族は、よほど親しい仲でなければ固有の名前で呼び合うことはないので、こういう呼び方になります。