真相
その後のヒロインと、ようやく出て来てくれた陰陽師くん。……出てこなかった方が平和だった気もするけど。
「……泰昭」
別邸の庭先で、不要になった書き付け等を火にくべていた安倍泰昭は、名を呼ばれてすぐさま振り返った。
東の対屋の簀の子から、高欄(手すり)にもたれてこちらを見ている人影に、泰昭は慌ててそちらへ近づき、心配そうに彼女を見上げた。本当なら傍に寄り添ってやりたいが、作業がまだ途中だし、何よりまだ実質的な夫婦ではないので、そう出来ないのがもどかしい。
「綾子、大丈夫なのかい? 今日は秋としては暖かい日だけど、起き上がれるようになったからと言って、あまり無理をしては駄目だよ」
「ありがとう。でも、平気よ。今日はとても調子がいいの。……こんなに気分が晴れ晴れとしているのは、もう二年ぶりくらいになるかしら。こんな風に、日の光や風の感触を心地よく思うなんて、物の怪に憑かれる前以来のことだわ。これも、泰昭が私から物の怪を祓ってくれたお陰ね。……本当に、泰昭には何度お礼を言っても足りないわ」
ふわりと微笑む綾子の顔は、まだ儚げではあるものの、以前のような生気の煌めきが確かに戻ってきていて、泰昭の目を細めさせる。
「何度も言っているけど、僕が本来の綾子を取り戻したくてしたことだよ。本当ならもっと早く祓ってしまいたかったのにできなくて、一年以上も綾子を物の怪に乗っ取られたままにしてしまったんだから、むしろ責めてくれても構わないのに」
「でもそれは、仕方なかったことでしょう?──その一年余りのうちほとんどの間、私は物の怪に操られて、帝の寵姫なんてものになっていたのだもの。泰昭が簡単に近づける立場ではなかったのだし……」
この話題になると、毎回のように綾子の瞳は陰りを見せる。
それも無理はないだろう。彼女に取り憑いた彼女ではない存在が、彼女として帝に近づき、彼女の顔と体を使って帝を誑かしたのだから。無論、彼女の意思など一切関係なく。
──綾子が物の怪に取り憑かれて成り代わられたことと、物の怪の企みにも薄々気がついていながら、綾子の心や体を守れなかったことが何よりも泰昭には悔やまれる。最早、一生の不覚と言ってもいい。
前もって禁じ手とも言える手段を使っていたため、本当に最低限のところで綾子を守ることだけはできたが、それだけでは到底誇れるものではなかった。
「……綾子。僕は」
「謝らないで。本当はいけないことかもしれないけれど、私は泰昭に、心の底から感謝しているのだもの。本来なら、謝るべきなのは私の方よ。……貴方は私のために、帝の身に呪いをかけるなんていう、天をも恐れぬことをしてくれたのだから」
「感謝されたくてしたことじゃないよ。君が僕以外の男の子供を身籠るなんて、僕には何があろうとも許せないことだったってだけだからね。本当なら子種を無くすのじゃなく、行為そのものが出来ないようにしたかった」
「でも、そんなことをしたらどうなるか、泰昭も予想したからこそ実行しなかったのでしょう? あの物の怪はきっと、東宮様──今の主上に標的を変えていたと思うわ。その場合、あの御方は藤壺の女御様一筋でいらっしゃるから、私の貞操は無事に済んだにしても、命そのものが危険に陥る可能性が高くなる。何より、お父様やお母様だってご無事でいられたかどうか……」
現状よりも更に酷い事態が容易に想像できて、綾子は体を震わせる。
綾子の両親である中納言夫妻は、愛する娘の犯した罪を償うべく、例の一件の直後に出家して京を離れていた。
彼らにくれぐれもと綾子を託された泰昭が、彼女に取り憑いたまましつこく粘っていた物の怪を、何とか無事に引き剥がすことができたのがその数日後。綾子が本来の彼女として目覚めた時には、両親からの手紙が手元に残されていただけだった。
それでなくとも長いこと物の怪に乗っ取られていて、魂や精神そのものが疲弊していた綾子には、両親と離ればなれになってしまった衝撃は尋常ではなかった。とは言え、彼女の看病と仕事の合間を縫って、泰昭が元中納言夫妻の暮らす庵へ行き、近況報告がてら手紙を預かってきたりもしているため、最近になってようやく日常生活を送れる程度に回復した綾子は、定期的に両親との文通を続けられるようになっている。これまでは泰昭や式神の女房に代筆してもらっていたので、直筆で両親とまた交流できるようになったのが嬉しい。昨日来たばかりの手紙によれば、近日中に二人揃って会いに来てくれるそうだ。
「ようやくお二人に会えるんだもの。心配をかけてしまうような様子は見せられないわね」
「そうだよ。だから今は、しっかり体調を整えないとね。僕も、残りを焼いて処分を終えたら、すぐにそっちに行くから、綾子は母屋に戻っていて。もうすぐ夕餉の時間だし、一緒に食べよう」
──ぽん、と懐を叩いて言うと、どこからか酷く微かな悲鳴がしたが、それは泰昭の耳にしか聞こえない。
「ありがとう。そうするわ。──それとね……」
「……? どうかしたのかい?」
言いよどむ様子の綾子を首を傾げて見つめていると、先代の帝を骨抜きにした可憐な美貌が、みるみるうちに赤みを帯びていった。
「な、何でもないの。夕餉の後に言うわ。日も落ちて冷えてくるから、泰昭も早く戻ってきてね」
「はいはい。──さて、と」
妻を見送るこの上なく愛しげな視線が、くるりと炎に向き直るや否や、酷く冷ややかな、一片の情すら感じさせないものに変貌した。
感覚遮断の結界を周囲に張ってから、泰昭は懐に手を入れ、元はそれなりの形をしていたのだろうが、手足のあちこちをいびつな形に切り裂かれた紙人形をいささか乱暴に引っ張り出す。
結構な衝撃を受けたらしく、そのいびつな紙人形から、声なき声が苦痛と懇願を訴えてきた。
《い、たぁい……っ、お、お願い。もう、やめ、て……謝るから、助けてぇ……》
「謝る、ね……本心から悔い改めた言葉には聞こえないな。一つ言っておくと、流石にこの人形はもう寿命のようだけど、代わりの憑坐はまだ五十くらいはあるんだよ?」
《ひぃっ……!!》
にこりと、目だけは笑っていない綺麗すぎる笑顔でそう告げれば、伝わってくる声がさらなる恐怖に染まる。
憑坐とは、善悪問わず霊のような実態を持たぬ存在を、一時的に宿す器のことである。人に取り憑いた悪霊を祓ったり、託宣を得る時に必要とされる存在で、適性のある童子や女性が務めることが多いが、その代わりに雛人形や、人の形を模した紙を使うこともある。
泰昭が手にしているのは彼が作った特製の紙人形で、悪霊を宿らせた状態の人形を損なうと、実際に肉体を損傷したのと同じ苦痛をその悪霊に与えるという、有り体に言えば拷問用の憑坐であった。
綾子から引き剥がされてよりの一年と数ヶ月、定期的に新しい憑坐に強制的に移し変えられながら、物の怪の女は泰昭の手でじわじわと、肉体があればショック死しかねないほどの痛みを日々与えられ続けてきたのである。
「とは言え、綾子もようやく、君が取り憑く前の状態に戻りつつあるからね。せっかく時間があるなら、君を痛め付けるよりも綾子と一緒に過ごすことに使いたいし、そろそろ勘弁してあげるよ」
《……ほ、本当!? よかった……私、やっと解放されるのね……!》
「そうだね。──でも、君みたいな厄介な代物を無闇に解放すると、また綾子みたいな被害者が出る気がしてならないんだ」
《!! だ、大丈夫ですっ! 私、解放されたらすぐに成仏して──》
「は? 嫌だなあ、何を言ってるの。現世への執着が酷い上に煩悩まみれの魂が、あっさり成仏なんかできるはずないでしょう、悪霊さん? だから──」
と、泰昭は赤々と燃える炎の上に紙人形をかざし、熱であぶるようにひらひらと動かす。
《あっつ──熱い! ひぃっ、痛い、熱いぃぃぃっ! おねがっ、焦げちゃう、やめ──!!》
「このまま火に放り込んで中身ごと灰にしてしまう方が、後腐れがなくて平和だよね」
《嫌ぁぁぁっ! せっかく、大好きなゲームのヒロインになれたのに! 事故で死んじゃった私へのご褒美だと思ったのに! ヒロインとして幸せになれるはずだったのに、こんな、こんなの、おかしいよぉっ……!》
「──おかしい? 僕に言わせれば、君の方がよっぽどおかしいよ。君って、本当に自覚や想像力がないんだね。悪霊になったせいか、元からなのかは知らないけど」
呆れ返った泰昭は、最期に言いたいことをぶつけてやろうと、会話に集中できるように、憑坐のまわりに結界を張り熱を遮断してやった。
思惑通り、女の意識がこちらへ向く気配がする。
《ど……どういう意味よ……!?》
「どうもこうも。いいかい? 君が綾子の立場だったとしたら、君にされたことを許したり不問にできるの?──どこの誰とも知れない人ならぬ存在が、自分の体を乗っ取ったばかりか、好きでもない男に自分の純潔を勝手に捧げたんだよ?」
《────っ!?》
「加えてその後も、その男の子供を身籠る目的で、好き勝手に自分の体を使われる、とか。──しかもその間、自分の意識はしっかり残ったままだ。体は一切動かせないのに、ね」
《あ……あ……わ、私──!》
「分かる? 僕が君にした拷問なんかよりもずっと酷いことを、君は綾子に対してしていたんだよ。それも、一年以上もの長い間。──同じ女性なのに、よくもまあそんなことができたよね。君、綾子に恨みでもあったの?」
《そ、そんなことっ──!!》
知らなかったのだ。自分が憑依している間も綾子本人の意識があって、自分が彼女として行っていたことをしっかり認識していたなんて。
もし知っていたら──
「知っていたら、やめていた?──まさか、そんなはずないよね。だって、君が幸せになりたいから、君がしたいことを、綾子の体を使って実行していたんでしょう?」
泰昭の言葉はあまりにも核心を突いており、否定することなど許してくれない。
一切の反論を封じられてしまった女に、人形めいた美貌の陰陽師は、この上なく残酷な微笑で宣告した。
「うん、もう最低どころじゃないね、君。人間じゃないよ。
──あ、もう物の怪だったね?」
そう言って、当代最高の陰陽師たる少年は、憑坐を包む結界を解除する。
「……他にも、言いたいことはまだあるけど。きっと君にはもう通じないし、意味もないだろうから──さようなら。名もなき悪霊さん」
ぱっ、と摘まんでいた指を広げれば、紙人形はあっけなく炎に包まれ、灰となるのにさほどの時間もかからなかった。
《────!!》
涙まじりの断末魔が耳を聾するが、泰昭は静かに両目を閉じてやり過ごす。
──残響が消えてのち、ゆっくりと瞼を上げると、夕日がその姿を山へと隠すところだった。
泰昭は無言で火と結界を消し去ると、踵を返して綾子の待つ東の対へと歩みを進める。
──実のところ、先ほど燃え尽きた女の「幸せ」とやらへの執着と同じか、それ以上の想いを、彼は綾子に対して抱いている自覚はあった。
彼女の傍近く仕える者を全員式神としたのも、いわゆる霊障の治療のためもあるが、世間で噂されている理由の方が割合が大きいのだ。綾子が望むから叶えはするものの、本当は元中納言夫妻にさえ会わせたくないという、狭量に過ぎる想いすらあるのだから。
ともすれば彼自身も死後、悪霊と化してしまうのかもしれない。なまじ強すぎる力を持つ故に、泰昭が悪霊になった時の周囲への被害は、かの物の怪のそれとは比較にならない代物となるだろう。
そんな予想ができるからこそ、心からこう思うのだ。
「悪霊なんかにならないためにも僕は、一生を悔いなく過ごすべきだよね」
物の怪の女が聞けば、何を虫の良すぎることをと激怒したかもしれないが、紛れもない本心である。
それを実現する第一歩として、泰昭は最愛の少女と楽しい夕餉の時間を過ごすべく、東の対への階(階段)を上って行った。
そしてその三日後。
別邸を訪れた元中納言夫妻は、ほぼ昔の通りに笑えるようになった可愛い娘とその婿が、めでたく実態を伴う夫婦となったことを知らされたのだった。
……書いてて痛かった……!色んな意味で!
中の人については、乙女ゲームものの憑依系ヒロインで、「もし本来のヒロインにちゃんと意識があったら」という場合を考えた上での結末です。中世ヨーロッパ風の世界でも厳しいですが、「恋愛≒肉体関係」である平安時代を舞台にした結果、本来のヒロインへかかる負担や被害が段違いになってしまいました……書いていて、綾子さんには土下座したくなりましたよ、ええ。
その鬱憤を対悪霊の専門家である陰陽師に晴らしてもらったわけですが、そちらに比率が偏ったせいであんまりヤンデレ感が出せなかったです。むしろ鬼畜風味?
あ、別に憑依系ヒロインそのものを否定する気はありません。念のため。
現在療養中のヒロイン綾子さんは、主に中の人のせいで、色んなトラウマの他に対人恐怖症気味にもなっており、気心の知れた泰昭との二人の生活はむしろ願ったりな状態です。解放されて一年以上経ち、泰昭(と式神)の献身的な看護で元に戻ってはきていますが、完全に元通りになるにはまだ時間が必要ですね。このまま軟禁状態でも泰昭はむしろ大歓迎ですし、周囲にも怪しまれたりはしませんけど。……そもそも貴族女性の外出自体が少ないから、平安時代って、ヤンデレ男には物凄く優しい時代なんだなあ……(  ̄- ̄)
まあ、綾子さんは昔からずっと泰昭を好きだったので、何だかんだと落ち着くところに落ち着いた感じです。
なら何で宮仕えするようになったんだと言われそうですが、多分右大臣家から直々に父親へ要請があったんじゃないかなと。見目の良い女房はある種のステータスなのがこの時代なので。ゲーム補正と帝の女好きのせいで、右大臣の思惑は裏目に出ましたけど。
何はともあれ、丸く収まったわけですが。……ハッピーエンド、と言うには何となく抵抗があるなあ、やっぱり。
出来上がったカップルたちの幸せな後日談でも書けばそれっぽくなるかしら。今のところさっぱりネタが思い付かないけど←