結末
事後処理(?)のようなお話。
帝へのざまぁがあります。
そうしてようやく、平穏な空気が麗景殿に戻ってきた。──何故か未だに居座る帝がいなければ、だが。
「──此度はすまぬことをした、尚侍。如何に一条を寵愛していたとは言え、あのような甘言に惑わされ、罪もないそなたを裁こうとするなど……」
「無事に容疑は晴らせましたのでお気になさらず。わたくしはただ、明日の里下がりを前に、寛げる時間を過ごしていただけでしたので」
訳:謝罪して気が済んだなら、さっさと麗景殿から出て行って、引き続きのんびりさせてほしいのですけど。
という副音声は帝の耳には届かず、それどころかやけに焦った反応が返ってきた。
「里下がりをすると言うのか!? しかも明日などと、急すぎるであろう! 三日後には我が母后が参内なさり、弘徽殿で歌合があるのだ。そなたにも是非出席してほしかったのだが……」
「……そもそも尚侍の里下がりは、とうの昔に兄上がお認めになったことではありませんか。だからこそこうして麗景殿の皆が、粛々と準備を進めているのでしょう」
半眼で言い放つ東宮である。
基本的に女官である尚侍の里下がりについて、最終決定を下すのは帝である。姫君の体調の関係もあって、比較的余裕のある日程で準備がされており、申請も七日ほど前に受理されていた。その頃の帝は尚侍に興味も関心もなかったので、あっさりと流してしまったのだろう。
だが今の帝は、姫君の姿ばかりか顔までもを目の当たりにしてしまっている。罪を犯した一条の君へ向いていた関心が、新たに認識した類希なる美姫へとそのまま、いやそれ以上の重みを宿して向けられているのかもしれない。全く以て迷惑でしかないが。
兄弟間の空気がいささか険悪じみてきたので、場の収拾を図るべく、中務の宮がこの場の主へこう尋ねた。
「ところで尚侍、体調やご気分は如何かな? 経験のない出来事で、体にも心にも大変な影響があると思うのだが」
「お気遣いありがとうございます、中務の宮様。無論不安はありますけれど、経験豊富な乳母たちもおりますし、母も存分に頼ってよいとのことですので、不快な気分になることはあっても、気持ちとしては楽ですわ」
「では里下がりは、体調が悪いせいなのか!? それはいかぬ。急ぎ典薬寮(宮廷医療機関)より医師を──」
「落ち着いてください、兄上。尚侍は左大臣家の姫なのですから、最善は既に尽くされていますよ。そもそも医師については私の方から手配して、正式に診断を受けております」
「……何故そなたが、尚侍へ医師の手配をするのだ、東宮よ」
「彼女は私の子を身籠っているのですから当然のことでしょう。何の問題があるのです?」
さらりと告げられた事実はしかし、帝にとっては寝耳に水もいいところの話だった。
──一目で心を奪われた美しい姫が、実は既に他の男の子供を身籠っており、あろうことかその父親は弟だというのだ。
「な──そ、そなたの子だと!? まさか、そのような──」
「何がどのように『まさか』なのでしょうか。元服の夜からずっと想いを寄せていた添臥の姫が、ようやく手の届くところへ来てくれたのです。ならばきちんと口説いて想いを交わし、恋人となるのはごく自然なことでしょう。叔父上もそう思われませんか?」
几帳の下から手を伸ばして姫君の手を握る東宮に、話を振られた中務の宮は苦笑するしかない。
「確かに。左大臣も、美女好きの主上の目を無駄に引かぬよう、元服後にすぐさま姫を東宮妃として入内させることもなく、時間を置き細心の注意を払って、あえて尚侍としての出仕だったのだからな。それも一条の君へ寵愛が一身に注がれているという、一切の関心を引くことのない最適の時期の出仕だ。毎度のことながら、左大臣の視野の広さには畏れ入る他ないよ」
つまり左大臣は、稀代の美姫である次女が帝の目に止まってしまえば、彼女が東宮妃であっても──いや、そうであれば尚のこと、帝は我が物としたがると警戒していたのだった。その点は東宮も同感ではあったようだが、分かっていても不満を抱かずにいられるものではないらしく、姫君は時折閨の中で、不満解消のために彼の気の済むまで意地悪をされてしまうことがある。
嫌ではないが恥ずかしいことを思い出してしまった姫君は、火照る顔を扇ぎながらも平然たる調子で口を挟んだ。
「正式な妃でもない女官の一人ならば、東宮様があからさまな態度さえお取りにならなければ、無駄に主上の目に留まることもないとのことでしたものね。もとより主上は、お姉様以外の左大臣家の者はお嫌いだし、出仕前にごり押しの姿勢をお見せすれば尚のこと、あえてわたくしに近づこうなどとは思いもなさらないだろうと。何よりお姉様とは違い、わたくしには美しいなどという世間の評判は皆無なのも都合のよいことでしたわ」
「姉君が随一の美女ならば、妹姫も相当な美貌では……と思う者も皆無ではないのだよ? 現に三位の中将にも、隙あらばと企んでいる節は見受けられるのだが、東宮はどう思うかな」
「目の付け所はいいとだけ言っておきましょうか。三位の中将も有能な男ではありますが、尚侍が彼の手に負えるとも思えませんがね」
「違いない」
ふふっと微笑み合う二人の話題の主は、そしらぬ顔で軽く拗ねてみせる。
「結局、何から何まで父上の見解通りでしたけれど、わたくし、こうまで早く身籠る予定はありませんでしたのに。出来ればもう少し、お姉様や東宮様とゆっくり過ごす時間が欲しかったですわ。後宮の気風そのものはあまり好きではありませんので、里下がり自体は嬉しいですけれど」
拗ねたような姫君の様子に、東宮はすぐさま立ち上がって、几帳の陰、最愛の女性の傍らに身を落ち着ける。
帝と中務の宮からは、すっかりその姿は見えなくなってしまった。
「それはすまなかった。だが、もし今そなたが身籠っていなければ、兄上のことだ。一条の君に替えて、そなたを新たな寵姫にしようとするのは確実だっただろうな」
「まあ、では東宮様は、そうなった時にわたくしを守ってはくださらないおつもりでしたの?」
「まさか、そんなはずはないだろう。そなたに子を授けることさえできれば、正式な妃として迎えられる約束だというのに、みすみす他の男になど渡してなるものか。それに、私以外の男に触れられそうになろうものなら、そなたは躊躇せずに髪を下ろす程度のことはしそうだからな」
「流石によくお分かりですのね。ですがわたくし、東宮様が望んでくださるのなら、出家したとしてもすぐさま還俗いたしますわよ?」
「それは嬉しいが、そもそもこれほどに美しい髪を切り落とすなどということは、私が生きているうちは絶対にあってほしくない。約束してもらえるか?」
「かまいませんが、その代わり東宮様には、わたくしが出家などする気を起こさぬように、常にわたくしを気に掛けていただきたいものですわ」
「言われるまでもないさ。そもそも私は、どなたかと違ってそなた以外の妃を欲することはないからな」
痛烈な言葉は明らかに「どなたか」へ聞かせるためのものだった。要はこの場からさっさと立ち去って、二人きりにしろという意図だろう。
「さあ、主上。そろそろお暇いたしましょう」
「……あ、ああ」
中務の宮に促されながらも、なかなか動こうとしない自らの脚を内心叱咤して、帝はのろのろと立ち上がり、どうにか麗景殿を後にした。
清涼殿に帰り着き、無言のまま付き従ってきてくれた叔父と向き合って腰を下ろしたものの、先ほど思い至ったことについて尋ねる勇気を奮い起こすには、しばしの時間を要した。
「……中務の宮。もしも尚侍が男子を産んだとしたら、私は退位させられるのだろうか」
「……さて。そればかりは、私ごときには何も……ですが、右大臣を後見とする主上を無理に御位から退かせることなどは、如何に左大臣でも不可能かと存じます。東宮が右大臣の姫も妃として迎えることを了承すれば話は変わるでしょうが、あの様子ではそのようなことも有り得ないでしょうから、右大臣さえ健在ならば、主上が恐れるほどのことは何もないのでは?」
「そうか……」
とは言うものの、一条の君を寵愛し続けたこの一年は、女御や更衣たちを放置し続けていた一年でもあり、その中には当然右大臣の姫も含まれる。いくら母后の兄で後見人である右大臣でも、帝に愛想が尽きかけているのはほぼ間違いあるまい。右大臣にとっては、如何に扱いが難しく手に余る存在であれ、東宮も帝と同じく甥なのだから、彼の即位により政治面の不利益を被ることは、少なくとも表立っては何もないのだ。
それに──
「──一条は、本当に我が子を身籠っていると思うか?」
「いいえ。少なくとも、確定はしていないものと存じます。先ほど一条の君は、『身籠ってるかも』と口走っていましたから、本人も可能性があるという認識だけで、確信はしていないのでは、と」
「なるほど。では仮に身籠っていたとして、我が子と確信してもよいものだろうか」
「……恐れながら、そのような疑問をお持ちということそのものが答えであろうかと」
「……そう、だな。一時期は噂になっていたが、そなたも一条に言い寄られたことが?」
「はい。私のみならず、右大将や三位の中将にもしつこく付きまとってみたり、果ては東宮にまで文を寄越したことすらあったとか」
「…………」
帝、東宮、二人の叔父である親王に左右両大臣の嫡男という、京を代表する若き貴公子たちを網羅するつもりだったということか。
中納言の娘という出自を考えれば、帝と東宮以外の三人のうち誰か一人に狙いを絞り、正妻の座の確保を目指すのが現実的だと思うのだが……それでなくとも三人とも競争率は恐ろしく高いのだから、同時期に全員の関心を引こうとするなど、如何に恋多き女だとしても無謀にもほどがある。
「現実的な考えなどというものを持ち合わせているのなら、左大臣家の姫を無実の罪で陥れようなどとは思わないでしょう」
「確かに……」
苦笑するしかないもっともな言い分だった。
そのまましばし沈黙し、やがて帝はおもむろに立ち上がって、中務の宮へこんな頼みごとをした。
「妃たち全員を訪問しようと思う。すまぬが供をしてくれないか」
「畏まりました」
そうして、この一年、ほぼ顔も合わせていない妃たちのもとを訪れた帝だったが、いずれもよそよそしく慇懃な対応をされるか、愛想笑いを張り付けたわざとらしい歓迎を受けるだけだった。承香殿の女御だけは、よそよそしい中にも多忙な立場についての気遣いや労りの言葉があったが、その優しさがむしろ帝には居たたまれなかった。里下がり中の宣耀殿の女御には当然ながら会えなかったが、仮に会えたとしても承香殿と同様の反応だっただろうから、今日のところは幸いだったかもしれない。
後宮を一巡りした後、ふと思い立って東宮に会うために梨壺へと足を伸ばせば、生憎彼はまだ麗景殿にいるとのことだった。
「尚侍と別れを惜しんでいるのでしょう」
「そうだな……」
梨壺から清涼殿に戻るには麗景殿を通る必要があるが、邪魔をすべきではないとは重々承知しているので、素通りするだけにしようとした。
が。
「──これは──」
「東宮の横笛ですね。相も変わらず、いや普段以上に冴え渡る音色だ」
数々の名手による演奏を聴き慣れている二人が、知らず足を止めるほどに見事な、天人すらも誉め称えるであろう笛の音。
愛しい尚侍を想い、尚侍のためだけに奏でているのだからこそ、その音色は聴く者の心や魂を比類なく揺さぶってやまない。
──この一年余りの間、目の前を薄絹で覆われていたような感覚が消え去って、視界が晴れ渡るのを確かに帝は感じた。
「──中務の宮。内密の話がある。急ぎ清涼殿へ」
「はい」
そうして、再び清涼殿へ戻り、打ち明けられたその内容に、中務の宮は数歳しか違わない甥へ、ただ深々と頭を垂れる。
──厳粛極まるその顔にほんの一瞬、紛れもない歓喜の笑みが浮かぶ様を目撃した者は、誰一人として存在しなかった。
翌日、尚侍の里下がりに伴い、彼女が東宮の御子を懐妊したことが大々的に公表された。
宮中では大いに波紋が広がったものの、当の姫君は実家でのんびりと半年余りを過ごし、年が明けた一月の半ば、待望の皇子を産み落とした。
母子ともに健康で、産後の回復も順調に進んだ姫君が、皇子ともども麗景殿へ帰参したその日、皇子の五十日の祝いが盛大に催された。
その翌日、帝の口から年内の譲位の意思が表明され、再び宮中が大きくざわめくこととなる。
同年の秋口、東宮が新帝として即位し、姫君は麗景殿から藤壺に居を移し、藤壺の女御と呼ばれるようになった。冬には中宮として立后することが決定している。新東宮となった皇子はすくすくと元気に育ち、日に日に父親と瓜二つの姿になりつつあった。
帝たるもの、妃が一人だけでは……という声は時折聞こえるものの、唯一の妃を存分に寵愛する新帝の様子には、雑音も速やかに消し去られてしまうようである。その妃に再び懐妊の兆候ありとなれば尚更だ。
また、位を譲り上皇となった帝は、朱雀院を仙洞御所とした。数多いた妃はほぼ全員が実家へ帰ったが、唯一人、宣耀殿の女御だけは夫に付き従い共に朱雀院へと入った。その後は二人、穏やかな日々を過ごしているという。
一方、承香殿の女御である左大臣の大姫もまた、実家で静かな毎日を送っていた。目新しいことと言えば、乳母同士が姉妹という縁で昔から交流のある、伊勢より帰京したばかりの前斎宮と頻繁に文を交わすようになったのと、彼女の同母兄である中務の宮が、文遣いと称してことあるごとに訪ねてくるようになったことだった。
妹姫の立后の儀が近づき、いつの間にやら中務の宮が大姫の誠実な夫として振る舞うようになった頃、彼女たちの兄右大将にも、長年の想い人である前斎宮の降嫁が決定した。
そうして、左大臣家に慶事が引き続く中、一条土御門にある安倍家にもまた季節外れの春の空気が満ちていた。
強大すぎる力を有するが故に嫡男とされながら、その力を恐れられて一向に縁談が纏まらなかった泰昭が、幼馴染みの姫を正式に娶ったのだという。
彼の初恋の相手でもある彼女は世にないほどに愛らしいと評判だったが、心底から妻を愛する泰昭が夫婦水入らずの生活を望んで別邸に住まうこととなったため、彼の母親や姉妹たちさえ妻の姿を見ることはできなくなってしまった。女房などの口から盛れ出る噂で、妻に他の男を近づけてしまうようなことは避けたいからと、別邸には使用人は置かず、式神たちが夫婦の世話をしているのだとか。
そんな泰昭の溺愛ぶりは京でも評判となり、妻へ興味を惹かれた男たちも数多くいたものの、名高い陰陽師の式神が守る屋敷とあって、忍んで見物にいく勇気は流石に出ないようだった。
噂はやがて新帝夫妻の耳にも入り、同じく妻を愛してやまない帝はただただ苦笑するしかなく、傍らの藤壺の女御はくすくす笑いながらこう口にしたが、その意味は帝にしか分からなかった。
「同性の家族ばかりか、女房までも遠ざけるほどの溺愛、ねえ……つまり生きた人間との接触は、夫と、いずれ生まれる子供としか持てないということになるけれど。つまりはこれが『やんでれ』というものなのかしら?」
悪役姫周辺のお話は終了。ヒロインがどうなったかは次話にて。