撃退
今更ですが、後宮の殿舎の位置関係は、平安京内裏図を参照してくださると分かりやすいかと思います。「内裏図」で検索をかければすぐに出てきます。
「あ、あの、私……実は、はっきり見たのです! 犯人のお顔を……!」
「──何!? 本当か、一条!」
『お顔』という敬意の表れた言い回しに、敏い麗景殿の女房たちの纏う空気は、強烈な警戒心と嫌悪を醸し出すものとなる。
それに気づいているのかいないのか、帝に震える肩を抱かれた寵姫は、怯えきっているものの凛とした声で、決定的な言葉を発した。
「は、はい。……今でもはっきりと目に浮かびます。それはそれは高貴な美しいお顔に、夜叉のごとき恐ろしい笑みを浮かべ、あの御方は短刀を振りかざして私を……!」
「何ということだ……! ああ一条、よく無事でいてくれた……!」
「主上……!」
熱烈に抱き合う恋人たちだったが、先ほどとは違い、帝はその甘い空気に浸りきることなく、すぐさま几帳の向こう──姫君の座す場所を、射殺しかねないほどに鋭い目で睨み付けてきた。
「──つまり、これで犯人がはっきりしたというわけか。中納言の息女たる一条が『高貴』と評する女など、麗景殿にはただ一人しかおるまい。そうであろう、尚侍?」
「まあ、単なるお戯れとするにはあまりにも面白くありませんわよ、主上。一条の君も、父君であられる一条中納言様は、左大臣家を真っ向から敵に回すことになると既にご承知の上なのかしら?」
「戯れ言はよい! 無実を主張するのならば、潔く一条にその姿を見せ、容疑を晴らすことだ!」
「……畏まりました。相模、左近、几帳をお除けなさい」
「ですが、姫様!」
「控えなさい、小宰相。主上のご命令です。──さあ、皆も早く」
淡々と主人に促され、仕方なく女房たちは命じられた通り、来客の目を遮る几帳を脇へと片付けていく。
──やがて表れた姫君の姿は、彼女へ心底からの敵意を抱いていたはずの帝の息までもをほんの一瞬で奪い去った。
唐風の柄が織り込まれた薔薇襲の小袿と五つ衣の裾に、光を放つほどに艶やかな黒髪を一切の乱れなく美しく広げた、絵巻物でもこうは描けぬという見事な風情で、姫君は顔を隠していた檜扇を傾け、可憐かつ艶めいた唇を花開くように柔らかくほころばせる。
「ろくに化粧もしておらず、見苦しい顔をお見せいたしましたご無礼、幾重にもお詫び申し上げますわ。今少しご訪問に余裕をいただければ、最低限の支度は終えられたはずなのですけれど」
「あ、ああ……いや、無礼などとは」
「嘘……あの妹姫ってこんな顔だったの!? 確かに悪役美人姉妹って設定だったけど、妹の方ははっきり顔の出ない描写だったから、てっきり姉のクローンみたいな冷徹美人だと思ってたのに! まさかこんな女神系美少女だなんて……!」
「あら、一条の君は何を驚いているのかしら。貴女のお言葉が確かなら、問題の夜にはわたくしの顔を既に見ていたはずではなくて? まさか、主上の御前で、左大臣家の姫たるわたくしに関して偽りを申したとでも?」
くすくす、くすくすと姫君は微笑む。
衣通姫か楊貴妃か、はたまたコノハナサクヤヒメか。手を伸ばすことも躊躇うほどに凛とした、神々しいまでの空気を醸しながら、一度触れれば手放すことなど考えられなくさせるであろう甘く魅惑的な美貌に反し、その舌鋒は先ほどまでと全く変わらず、武門の達人が振るう太刀筋並みに鋭い。
魂が抜け出たかのごとくに呆然としていた帝は、その言葉にはっとして、熱愛していたはずの寵姫をようやく顧みて問い質す。
「……つ、つまりは一条。その犯人とやらは尚侍ではないということで間違いないのだな? では尚侍はやはり無罪で──」
「『やはり』とは、何をおっしゃっておられるのやら」
割り込んだ男性の声は、南廂からのもの。
姫君がそちらに目をやると、予想通りの人物である声の主と、予想外ながらも歓迎すべきもう一人の男性が、御簾をくぐって廂の間から母屋へと入ってくるところだった。
「尚侍の顔を見るまでは、彼女を黒幕か犯人と決めてかかっておられた御方が、今更あっさりと掌を返されるのですか? 『綸言汗のごとし』という言葉を、誰よりご存じであるべきなのは貴方でしょう。ねえ兄上? いや、ここはやはり主上とお呼びするべきでしょうね、叔父上」
「そちらの方が良いだろうな。……しかし、名君とはいかずとも、さして瑕疵もない程度には世を治めてくださるだろうと思っていた御方が、こうもあれこれと抜け落ちた男になり果てておしまいになるとは。傾国とはまことに恐ろしい存在だね、一条の君?」
「東宮様! 中務の宮様!」
帝と似通う容姿ながらも遥かに見目麗しく強烈な存在感を有する東宮と、亡き先帝の歳の離れた異母弟にして、甥二人がいなければ間違いなく帝位に就いていたと左大臣に言わしめるほどに全てを兼ね備えた中務の宮を認識し、一条の君は帝の寵姫らしからぬ酷く嬉しげな声を上げた。
どうやら彼女は、彼ら二人ともが自分の味方をしてくれるものと信じきっているらしいが……何がどうしてそうなるのか、姫君を始めとした麗景殿の面々は不思議で仕方なかった。
中務の宮に関しては、確かに一時期、一条の君と文を交わしていたとか逢瀬を重ねていたとかいう噂はあったが、そもそもが色好みとして有名な宮である。その程度の噂など、真偽を問わず相手を変えて口にされるのが既に日常と言える。
もっとも、如何に色好みと名高かろうと、他に真剣な付き合いの恋人がいる相手を本気で口説きにかかったり、身内の恋人や帝の寵姫といったややこしい相手と深い関係に至ったりするほど、かの宮はどこかの誰かのように見境がないわけではない。それは既に周知の事実であり、だからこそ宮と一条の君との風聞は、宮中ばかりか京の誰も本気になどしなかった。せいぜい、彼女を熱愛していた帝の機嫌に少しばかりの悪影響を及ぼしたくらいである。
……ただ、度が過ぎるほど熱烈に中務の宮を見つめる寵姫の様子を見る限り、彼女の方はその噂を真実にするのもやぶさかではないらしい。この分では本当に子を身籠っているのかも怪しい、と姫君は思った。父左大臣の危惧を考えるに、こと色恋の面においては、帝と彼女は似た者同士なのかもしれない。
一方の東宮は、三年前の立太子と同時に元服を終え、今年で十八歳になっていた。年齢や立場を考えても、既に複数の妃がいて当然の身ながら未だに独り身であり、東宮妃として姫を入内させようとする公卿もいない。そのような状態なので、愛人希望の女房や下級女官たちは後を絶たないが、戯れに歌を詠み交わす等のやりとりはあれど、東宮が彼女らに手をつけることは皆無であった。
正確なところを言えば、美女に目がなく未だに子のない若き帝がいて、彼が東宮を疎んでいるのが公然の秘密となれば、権力におもねる貴族たちが娘を嫁がせる先は自然、東宮ではなく帝となる。娘が帝の皇子を産めば、東宮はすぐさま廃太子とされ、生まれた皇子が新たな東宮となることはほぼ確定的な未来だからだ。現在寵愛を独占しているのが身分や後見の頼りない一条の君ということもあり、帝に更なる妃の入内を打診する声は後を絶たない。
兄弟の不仲をさておいても、後宮政策により天皇や皇太子を傀儡として権力を握ることを目論む貴族は、摂関家を筆頭に歴史上絶えることなく存在している。しかし、現在の東宮に対して同様の手段を取ろうとする輩は一人もおらず、つまるところ百戦錬磨の大貴族でさえ操ることを断念せざるを得ない程度には、東宮は聡明で有能すぎるということでもあった。
極論、彼を失脚させてしまえばという声もなくはないのだが、そうするにはその才覚があまりに惜しいという、出来が良すぎるが故にこの上なく扱いにくい、厄介極まりない存在がこの東宮なのである。帝に皇子が生まれるのを望まれる背景には、そういった理由もあるのだった。
さて、そんな風に万事に秀でながらも、女性関係においては対極にある叔父と甥だが、実は二人とも一途に心を捧げる相手がいるのではないかという噂が、主に女房たちの間で根強くささやかれている。
そしてそれが紛れもない真実だと、麗景殿の者たちはとうの昔に承知しており、その相手を好き勝手に推測する話や、「もしやお二人は、お互いに想い合っておいでなのでは」「いや実は、お二人と仲の良い左大臣家嫡男の右大将様を取り合っていらっしゃるとか」などといった突拍子もない妄想を耳にしては、女房たちは楽しく笑い転げる日々を送っているようである。
彼女らの主人である姫君としては、姫君当人や家族に思わぬ害が及びかねない妄想や噂は誰であれ控えてほしいと切に願っているものの、まだ真実を大っぴらにできる段階でもないため、兄や姉ともども諦め半分開き直り半分で戯れ言を聞き流すのが日常だった。時折、兄の想い人からその噂をからかう文が届き、そのたびに普段は飄々としている兄がわたわたするのを見るのは、なかなかに趣深くはあるが。
「さて、尚侍の顔の確認はもうよろしいのでしょう? 小宰相、几帳を戻すといい」
「畏まりました、東宮様」
「あ、待て!」
「おや、いかがなさったのです、主上? まさかご寵愛の女房をお隣に侍らせておきながら、尚侍の美しさまでをも鑑賞なさりたいと?」
「そんな、主上! 私というものがおりますのに、そのようなことはございませんでしょう!?」
「う、いや、その……」
第三者には失笑ものの茶番を演じる兄たちと仕掛人の叔父は放っておいて、東宮は再び姫君の姿を隠した几帳の傍らに、当然のごとく腰を下ろした。
「……え? 東宮様、何故そちらへお座りになるのですか?」
「私の座る場所が貴女にどう関係するのかな、一条の君とやら。確かに貴女は兄上の寵姫なのだろうが、その事実は私には、全く以てどうでもいいことでしかないのだけれどね」
「そ、そんな……! 東宮様は攻略対象者なのに……!」
よくわからない衝撃を受けているらしい一条の君をよそに、双方の中間地点に腰を落ち着けた中務の宮は、話を進めるべく切り出した。
「麗景殿に主上がいらっしゃるという珍事に加え、なかなか興味深い出来事が起きているとのことで、東宮のお供でこちらへ参上したのですが。聞けば先日の夜、東の簀の子で騒動があったのだとか? 具体的にはいつのことです?」
「一昨日の戌の刻です。その時間にこちらへ一人で来るよう、文で呼び出されて──」
「おやおや、一昨日とはまた意外な……一条の君、間違いないのかな? 記憶違いではなく?」
「はい、間違いありません! 確かに私は、一昨日の夜に麗景殿で──」
「それはおかしいな。その日の夜は、麗景殿の東側の格子を上げて、尚侍様が月を愛でる宴を開かれていたよ」
「──えっ!? そ、そんな──!」
「ですからわたくし、先ほど申しましたでしょう? 『西ならまだ分かりますけれど』と」
にっこり微笑む姫君の顔は見えないだろうが、几帳の隙間からそっと覗けば、一条の君の血の気が引いた顔はよく見える。
そこに東宮の援護も加わった。
「『枕草子』にならい、夏の月夜の素晴らしさを堪能しようという主旨で、梨壺の女房たちもこぞって参加していたな。あまり騒ぐと風情も何もなくなるからと、人数の割には落ち着いた催しだったから、清涼殿の方までは楽の音なども届かなかったのだろう」
「ちなみに、姉の承香殿の女御様もお忍びでいらしてくださいましたのよ。女御様の和琴と中務の宮様の琵琶の合奏は、大変素晴らしゅうございましたわ」
「おや、あの見事な和琴は承香殿様であられたとは。てっきり尚侍様の演奏かと、密かに期待を抱いていたのだが」
「まあ、お戯れを。ですが流石に宣耀殿の方には筒抜けだったようで、何故参加させてくれなかったのかと、あちらの女房たちに恨み言を言われてしまった者もいたそうですわ。ね、相模?」
「はい。ここ数日は宣耀殿の女御様が里下がり中ですので、留守番の女房たちには、声さえかけてくれればすぐに馳せ参じたのにと悔しがられてしまいました」
「ふふ。宣耀殿様はお父上の式部卿の宮様に似たお優しい御方で、わたくしのような新参者とも仲良くしてくださるのだから、お礼がてらに女房の皆様だけでもご招待すべきだったかしらね。……というわけなのだけれど、一条の君。大勢が集まり宴が開かれていたその場所で、どうすればわたくしは、一人きりでいる貴女に誰にも見られず切りかかるなどという、人智を越えた真似が出来たのかしら? 是非とも教えていただきたいわ」
容赦の欠片もなく攻撃を繰り出す姫君と、心の臓を刺し貫くがごとき鋭利なまなざしを向けてくる東宮と、穏やかに微笑みつつも目と口元に嘲笑めいたものを浮かべる中務の宮の、三者三様の重圧を受けながら、それでも活路を見出だすべく、一条の君はなおも足掻きつづける。
「……っそ、それは……そう! あまりのことで私も混乱していました。一昨日ではなくて三日前のことで──」
「……三日前の晩と言えば、そなたはずっと私の側にいたであろう。身籠ったと判明したばかりで、不安で仕方ないから離れたくないのだと、始終甘えてきていたというのに。忘れたのか?」
「あ……っ!」
この場で唯一の味方であった帝もまた、その言葉に溜め息をつき、寵姫だった相手への信頼を完全に放棄した。
「──もうよい。その様子では、何を尋ねてもその口からは偽りしか出てこぬのだろう。最早そなたの懐妊すらも怪しく思えてきた。まだ正式な診断は受けておらぬそうだな? では医師を呼んで──」
「ま、待ってください! 私は──!」
「恐れながら主上、過去には身籠ったと診断された女御が、月満ちて産み落としたのは御子ではなく水であった例もございます。なればここは医師よりも、陰陽師の『目』で視てもらうべきかと。かの晴明の再来と名高き安倍泰昭であれば、不可解な出来事の真相や懐妊の有無、果ては子の父までも見通せるとの評判を聞いておりますが」
「ふむ……」
「ですが叔父上、かの泰昭は一条の君の幼馴染みとも聞きます。そのような間柄であれば、彼女を庇って嘘の申告をすることも有り得るのでは?」
中務の宮の進言に、帝はしばし考え込み、東宮は不信感を隠さず問いかける。
が、宮はむしろ余裕の微笑みを浮かべてみせた。
「幼馴染みと一口に言っても、それが必ず友人に等しい関係だとも限るまい? 現にほら、彼女を見てみるといい」
促された一同が目をやれば、一条の君は追及に晒されていた時以上に顔色を悪くしており、既に色そのものを失くした状態で心底から震え上がっている。
「……い、嫌です、泰昭に会うなんて……! あ、あんなヤンデレ、会うどころか近づくのも怖いのに! ましてや私が他の男の子を身籠ってるかもなんて知れたら、どんな目に遭わされるか……!!」
「……『やんでれ』とやらはともかく、一条にとっての安倍泰昭は味方などではないようだな。では早速、中務の宮の提案通りにするとしよう」
「お、お願いします主上! どうかそれだけはやめてください! 本当のことを話しますから、だから泰昭を引っ張り込むのだけは、どうか……!」
「……東宮様。その陰陽師は、それほどに恐ろしい者なのでしょうか?」
すっかり怯えきっている元寵姫の尋常でない様子を目の当たりにし、姫君は首を傾げつつも近くの男性に尋ねてみた。
「見た目は全く恐ろしくなどはないな。年齢はそなたや一条の君の同い年で十七歳。愛想があまり無い分、秀でた美貌ながら人形のごときと称されている。ただ梨壺の女房たちなどは、一度女装してみてほしいものだと、彼を見るたびに楽しげに盛り上がっているが、怖いもの知らずの者たちではあるからな」
「まあ、それはさぞ美しいのでしょうね。人間、見た目通りの中身であることの方が珍しいものですから、その泰昭殿も一筋縄ではいかないのでしょうけれど、一度くらいは遠目で姿を見てみたいものですわ」
「間近で、ではないのか」
「何せわたくし、お姉様を除いて、生まれた時から性格のあまりよろしくない身内に囲まれているものですから。同様の性質の持ち主とは、あまり接触する機会を増やしたくはないと思って日々を過ごしておりますのよ」
「あれだけ一条の君を楽しげに叩きのめしておいて、そのようなことを言うのは実にそなたらしい」
「まあ、あれは正当防衛でございましょう? ほんの時たまであれば、愚か者に破滅を願われるのもまた一興ですわ」
そんな話をしているうちに、すっかり萎れてしまった一条の君は、ひとまず後涼殿で尋問等の運びとなったらしく、大人しく引っ立てられて麗景殿を去って行った。
悪役姫の本領発揮。いやあ性格悪い姫様だね!見た目だけでうっかり惚れたら痛い目を見ますよ帝。もう遅い上に、中身も含めて惚れ込んでる奇特な人もしっかりいるけど。
そしてヒロインは退場。ヤンデレくんは第四話に出てきます。
*水を産んだ=想像妊娠した女御は、一条天皇の女御である藤原元子のことです。皇后定子と中宮彰子に隠れて目立たない人ですが、定子ほどではなくとも、妃としてはなかなか不憫な境遇になってしまった御方。とは言え、最終的には幸せになれたんじゃないかな。ただそれはそれとして、彼女の再婚相手はどうにも好きになれない……(個人的意見です)