奇襲
平安時代を舞台にした悪役令嬢ものにチャレンジした結果、ルビやら注釈やらが多くなってしまいました。読みづらかったら申し訳ありません。
──どの帝の御治世であったか、数多くお仕えしていらした女御や更衣の中に、際立って高貴というご身分ではないけれど、たいそう帝のご寵愛を受けていらっしゃる御方がいたという。
入内以来、我こそが国母、后になるのだと自負していらした女御の皆様は、かの御方を酷く気にくわないものと思い、身のほど知らずと見下し嫉妬なさった。ご実家が同じくらいの格であったり、より下位の出である更衣たちはより一層、同じ更衣のはずなのに何故彼女ばかりがと、心穏やかではいられない……
「いつの時代も、後宮というものはドロドロしているものなのね」
自らも後宮の舎殿の一つである麗景殿に住まう身でありながら、姫君──尚侍は他人事のようにしみじみと感想を述べる。実際に他人事だと言ってしまえばその通りなのだが。
案の定、物語の詞書を読んでいた、彼女に仕える女房(侍女)で乳姉妹でもある小宰相が、苦笑しながら忠告めいた物言いをする。
「姫様、仮にも後宮に局(部屋)を賜った御方が、そのようなことを仰っては……」
「それはその通りだけれど、わたくしは別に帝の寵愛を受けているわけではないし、女御や更衣のような正式な妃の肩書きを持っているわけでもないし。あくまでも尚侍という、公的な女官の立場で出仕しただけであって、直に帝のお顔を拝見したことすらないのだから、公的には帝の後宮の一員とは言えないでしょう。そもそもわたくし、生まれてこのかた帝の寵愛を得たいなんて思ったことすらないわ」
あまりにも正直すぎる主人の言葉に、小宰相はただ苦笑を深めるしかない。
本来この姫君は、左大臣の次女で、前の関白の姫君を母にもつ、身分や血筋の点では京一の后がねと言える女性である。五年前、仲の良い同腹の姉が東宮妃として入内し、その二年後に義兄の即位に伴い女御となったものの、未だに姉は子を授からずにいる。それに業を煮やした左大臣が妹姫に希望を託し、半年前に彼女を尚侍として出仕させ後宮に入れてしまったのが現状の原因だった。……と、世間的には思われている。
実のところ左大臣にはいくつか別の思惑があって、実際にはその思惑通りにことは動いているのだった。……姫君本人としては、父の目論見通りに全てが進むのもあまり気分のいいことではないが、まあそうなってしまったものは仕方がない。同じ後宮で暮らすのでも、妃となる前提の入内ではなく、女官として務めるための出仕に留めたのだから、父が逃げ場を作っておいてくれたのは間違いないのだ。その点において、どれほど意に染まなくとも、少なくとも帝の退位までは妃として侍らなければならない姉とは違う。
(出家でもしてしまえば話は別だけれど、流石にそれは最後の手段でしょうし)
内心、割と過激なことを考える姫君である。
京でも随一の美貌と名高い姉姫は、一年ほど前、ある女房に帝を独占されてしまうまでは、後宮でも一番の寵愛を受けていた。にも関わらず今となっては、夜に寝所に召されることもなく、日々を独り寂しく過ごすだけ。無論、側仕えの女房たちは数多いが、それとこれとは別である。
そんな姉を慰めるためにも、姉の女房として側に仕えたいと両親に訴えたところ、何故か女房ではなく尚侍として出仕することになってしまった姫君だった。とは言え、姉が入内する前と同様に姉妹が顔を合わせられることになったのは、間違いなく彼女の希望通りなので文句は言えない。
父の計画が功を奏したお陰で、空気の淀むこの後宮から一年ほどは離れられそうだし、上手くいけば数年のうちには、姉を後宮から出してあげることもできそうだ。
「ここだけの話、お姉様にだけではなくて、他の女御様方や更衣の皆様、果てはご寵愛の一条の君にも身ごもる兆候さえないのだから、帝には御子を作る能力がないのではないかと思うのよね」
「まあ、姫様! 如何に姫様とは申せ、不敬の過ぎるお言葉にございますよ!」
「だって、そう思わない? 十人を超えるお妃がいらして、その上に何人もの女房にお手をつけておいて、未だに御子のお一人もいらっしゃらないのよ。その点、東宮様とは大違い──」
「尚侍様! 大変にございます!」
慌てた様子で姿を現したのは、姫君付きの女房の一人、相模である。
「まあ、どうしたの相模? そんなに取り乱して、珍しいこともあるものね」
「も、申し訳ございません。ですが──み、帝が麗景殿へ、尚侍様のもとへお渡りになられると──!」
「──は? まさかお一人で?」
「い、いいえ。あの一条の君もご一緒とのことです」
「あら、それは素敵ね。わたくし、是非ともあの女狐の顔を見てみたかったのよ。いい機会だわ」
「姫様……」
主人の不敵な微笑みに小宰相は思わず天を仰ぐが、そんなことをしている余裕は既にない。
「ともかく、急いで場を整えなければ。相模さん、近江さん、畳や茵(座布団)をこちらに。姫様は几帳(布製の衝立)の後ろへ。間違ってもお姿をお見せになりませんように」
「ええ、気を付けるわ。ああ、それから誰か、もう少ししたら、お姉様──承香殿の女御様へお知らせをお願い。お姉様がわざわざいらっしゃる必要はないけれど、おかしな誤解を招いたりすると困るから」
「……あの、尚侍様。梨壺へのご連絡は如何いたしましょう?」
「ああ、そうね……あの御方のことだから既にご存知だと思うけれど──」
「尚侍! どこにいる、小賢しい小娘め!」
「……もう無理ね。それにしても、面識も何もない相手を小賢しいだの小娘だの、いくら帝とは言えどういうおつもりなのかしら。これはもう、我が左大臣家に喧嘩を売っていると思うべき?」
「恐れながら、女御様を蔑ろになさるようになった昨年の時点で、既に喧嘩の大安売りをなさっているかと存じます」
小声で不敬極まる会話をしながら、殊更にゆったりと衣擦れの音を響かせ、姫君は小宰相を従えて畳の上に座り、既に御簾の内に入り込んだ訪問者たちと几帳を挟んで対峙する。
「お待たせいたしまして申し訳ございません、主上。随分と急なお越しでいらっしゃいますけれど、主上ともあろう御方がわたくしのような者に何用でございましょうか?」
訳:いくら帝とは言え、予告もなしに押し掛けてきておいて謝罪も何もなく小娘呼ばわりは如何なものかと思いますわよ。何の用だか知りませんが、聞くだけ聞いてさしあげますから、さっさと言ってさっさと済ませてとっとと帰っていただけません?
そんな副音声を間近で聞いた小宰相が、吹き出すのをこらえて肩を震わせているが、いつものことなので華麗に無視する姫君である。
物越しながらよく通る美しい声に、明らかに怒っていた様子の帝の端整な顔つきが、微かにだが確かな変化を見せた。
「……ふん。尚侍ごときが、帝相手に物越しの対応とは、それこそが無礼の極みであろう」
「まあ、ごときと仰いますか。では何故この場に、わたくしごとき小娘よりも位の低い一条の君が同席しているのです?」
女官である尚侍は公卿と同等の従三位の位を得ているのに対し、寵姫とは言え一介の女房に過ぎない一条の君は無位無官に過ぎない立場だ。その彼女が帝と並んで畳に座るなど、本来ならばおよそ有り得ない事態である。
なお姫君に関しては、帝のお手付きになりたいわけではなく、むしろ今はそうなってはいけない立場になってしまったため、几帳越しの対応はごく当然のことではあった。出来ることなら御簾も間に置きたいくらいではあるが、一条の君だけならともかく、流石に帝を廂の間(廊下と母屋の間の空間。区切って女房の部屋としても使われる)に締め出す形で対応するのは無理があるので仕方ない。
そんなことはつゆ知らない帝の隣で、十七歳の姫君と同い年の一条の君は、酷いことを言われたとばかりに黒目勝ちの綺麗な瞳を潤ませるものの、意を決したように扇越しに几帳の向こうをきつく睨み付ける。
(実にいい度胸だこと。帝が隣にいてくださるからなのでしょうけれど)
だがその程度、百戦錬磨の両親に鍛え上げられてきた姫君には何と言うこともない。
「……た、確かに私は中納言の娘に過ぎず、左大臣家の姫君でいらっしゃる尚侍様とは比べ物にならない立場ですけれど! 悪いことは悪いとしっかり申し上げたくて、こうして参ったのです! いくら女御であるお姉様が大事だからと言って、女房を使って私に嫌がらせをなさるなんて酷すぎるのではありませんか!?」
「まあまあ、一条の君は、わたくしとわたくしの女房に言いがかりをつけにいらしたのね。そして主上もその言いがかりを信じていらっしゃると、そのような理解でよろしいのでしょうか?」
「言いがかりだと!? そのような証拠がどこにあると言うのだ!」
「お言葉をそのままお返しいたしますわ。どのような嫌がらせかは存じませんが、わたくしの女房がしたことだという確かな証拠はございますの?」
「麗景殿の簀の子(廊下)ですれ違った際、一条が女房に衣を切り裂かれたと言っている! 麗景殿での犯行ならば、犯人はそなたの女房以外にあるまい!」
「ごもっともではありますわね。それが事実ならば」
「わ、私は嘘などついていません! 確かに一昨日の晩、麗景殿の東の簀の子で──」
「まあ、西ならまだ分かりますけれど、東? 一条の君、貴女は何故そのような所にいたのかしら。そもそも貴女の局は後涼殿にあるのだから、後宮内の殿舎に立ち入る御用などないはずではなくて?」
「そ、それはっ……!」
女性の備える可愛らしさの極致とも言うべき顔立ちが蒼白になる。
実際、後涼殿は帝の住まう清涼殿のすぐ西に位置し、北から東側に広がる後宮の七殿五舎とは全く違う場所にある。今更ながらにおかしいと思ったのか、帝が寵姫を見る目に訝しげな光が宿った。
(不審に思うのが遅すぎでしてよ、主上)
声に出したくてうずうずしながらも、辛うじて内心の突っ込みに留める姫君である。
一方、痛いところを突かれた一条の君は、思い付いたらしい反論を口にする。
「そ、そうです! 私の局に、麗景殿の東の簀の子に来るようにとの投げ文がありました! だから私はそれに応じてこちらに参ったのです!」
「では、その文を見せていただける? その手蹟(筆跡)を見れば、差出人が誰かすぐに分かりますもの。わたくしの女房の誰が犯人なのか、是非とも明らかにしようではありませんか」
「あ……で、でも! その、手蹟は明らかに誤魔化してありましたから……」
「まあ、残念ですわ。でも、使われた紙だけでも手がかりになる場合もありますから、主上。女房に命じて、一条の君の局から文の現物をお持ちしていただけませんでしょうか?」
「そ、そうだな。では──」
「そんな必要はありません! 紙も、どこにでもある懐紙でしたので、手がかりにはならないかと!」
「あらまあ、それではどうにもなりませんわね。では、別の手がかりを探すといたしましょう」
必死の形相になり肩で息をする一条の君とは対照的に、姫君はどこまでも冷静な口調を崩さない。
もっとも、小宰相には扇で顔を隠しつつもほくそ笑む主人の様子がはっきり見えているが。
「一条の君の衣が切り裂かれたというのは、一昨日の何の刻だったのでしょうか?」
「ええと、確か戌の刻(午後八時前後)です」
「……随分と遅い時間ですわね。そんな時間にお一人でわざわざ後宮までいらしたの? その時刻であれば貴女なら、夜の御殿(帝の寝所)に侍っていそうなものですけれど」
「その日は体調が悪いからと、召すのを控えていたのだ。前日に明かされたところによれば、どうやら一条は我が子を身ごもっているようだからな」
ふふん、と誇らしげに告げる帝であった。これが他の殿舎ならば一大事にもなりかねない宣言ではあるが、麗景殿や承香殿に限っては最早どうでもいいことである。
「それはそれは、おめでとう存じ上げ奉ります。ですが身ごもっておいでならなおのこと、そのような時間に外出するのはいただけませんわね」
「尚侍様のお言葉はごもっともですが……投げ文には、『他の者に話したり応じずにいれば、そなたの身にどのような災いが降りかかるか知れぬ』と……!」
「一条……可哀想に。恐ろしかったであろう……」
「いいえ、私の身はどうなっても良いのです。ですが、この御子だけは母として、何があろうとも守らねばと……」
か弱げに震える寵姫の肩を帝が抱き、二人の世界が一瞬で作り上げられるのを目の当たりにして、姫君とその女房たちは非常に冷めた様子でその光景を見守った。
──パチン
しばらく見ていても全く終わる気配がないので、姫君が扇を鳴らして注意を引く。
「お邪魔をいたしますのは甚だ不本意ですけれども、話を進めさせていただきますわね。その切られた衣というのはどのような?」
「は、はい。唐撫子襲の小袿です。撫子の模様も織り込まれていて、先日仕立てたばかりの、お気に入りの衣でしたのに……」
「唐撫子ですか。確かに一条の君にはよくお似合いになりそうですわね。一昨日は十六夜で明るく、晴れ渡っていましたから、鮮やかな紅色は夜目にも明らかだったでしょう。となれば、嫌がらせの度を超えたその犯行には、目撃者がいたかもしれませんわ。麗景殿の女房ではお二人の信用を得るのは難しいでしょうから、梨壺の女房に話を伺っては如何でしょう? あちらの西廂からであれば、こちらの東の簀の子を正面から確認できますし、何より梨壺は東宮御所でございますもの。そこにお仕えする女房ほど、此度の件で信用できる目撃者はいないと存じますが」
「ふむ、道理だな。あの東宮に頼むのはいささか業腹ではあるが、致し方あるまい。あやつなら、そなたやそなたの女房に荷担して罪を隠すような真似などはせぬだろうからな。では──」
「お、恐れながら!」
二歳年下でありながらあらゆる面で自身を上回る同母弟に対し、抱いている複雑な感情を隠そうともしない帝の言葉を、震える声で寵姫が遮った。
「どうした? 一条よ」
他の者ならば不敬に過ぎるとして、すぐさま退出を命じられても不思議のない振る舞いにも、一切気にする様子さえなく帝は尋ねた。──国の頂点に立つ至高であるべき御方が、第三者のいる場にあって、そこまで色々とあからさまでいいものなのだろうか。一応この麗景殿の主は姫君であって、その実家である左大臣家は現状、帝とは近しくも何ともなく、どちらかと言うと敵対派閥と認識すべき相手であるのに。
(帝というものは、随分とお気楽な立場なのね)
そうでなければ、当代最高の実力者である左大臣家の大姫(長女)を女御として迎えておきながら、他に寵姫ができたからと言って、やすやすと蔑ろになどできるはずもないだろうが。
内心で痛烈に皮肉る姫君だったが、続いた一条の君の発言には、流石にその目を見開かざるを得なかった。
基本、悪役令嬢ものは冤罪がつきものなので、それを晴らすために令嬢は台詞が多くなりがちですが。
普通の平安時代の姫様は、こんなにぺらぺら喋らないよなあ……と書いてて我に返りました(今更)
*冒頭は、『源氏物語』桐壺巻の冒頭文を意訳したものです。「確かこんな感じだったはず」な適当極まる現代語訳ですけど、概ね間違ってはいないと思います。多分。