猫と少女-2
気づけば路地裏の行き止まりまで来ていた。行き止まりとなる塀の前に一匹の黒猫が座っている。
「良かった。君があの子の友達だね。あの子も心配している。一緒に戻ろう」
「・・・・・」
暗闇が黒猫の輪郭、認識を鈍らせる。その代わり猫の金色の瞳と首輪の鈴を際立たせていた。
しかし妙だ。暗い場所に居るにも関わらず、猫の瞳孔は開いていない。猫は場所の明暗によって瞳孔で調節をするのが大きな特徴と聞く。どこか意地の悪い、か細い瞳孔を自分から視線を外さない。無言を貫く不気味な猫だ。それでもこの猫は、あの少女の友達かもしれない。連れて帰ろうと一歩近づく。
するとビールケースの影からサビ柄の猫が現れる。こちらも同じく細い瞳孔でこちらを睨む。
「・・・君の友達?」
返事の代わりにまたもう一匹、新聞紙の束の影から茶トラの猫が出てきた。
サビ猫を皮切りに物陰という物陰から、わらわらと多種の猫が出てくる。古い箪笥や冷蔵庫、リアカーなどはあるが、こんなにも隠れられるものかと言うほど猫は湧き出てきた。ついに辺り一帯を猫が埋め尽くしてしまう。黒猫の周りも、粗大ゴミの上にも、塀の上にも猫がいる。
全ての猫は一様に自分を睨む。鳴き声も発さず、ただじっと、睨むだけ。警戒?畏怖?無関心?自分はこの猫たちの目に、獲物を狩る『野生』を感じた。
狙われている。喰われる。
向けられる視線に危機感を覚え、後退りをする。離れた距離を縮めるように、猫たちが一斉にじりっと近づく。猫たちの視線と統率の取れた動きに背筋が凍った。
咄嗟に感じた殺気に心の警報がけたたましく鳴り喚く。ばくばくとうるさい心の警報に従い、さっと猫たちに背を向けて歩き出す。最早、少女からの頼まれごとなど二の次だ。
「にゃあ」
「っ・・・!」
初めて猫の鳴き声を聞いた。老婆のようなしゃがれた鳴き声だ。そこに可愛さなど微塵も感じられない。鳴き声はすぐ後ろから聞こえた。猫たちは自分の後をついて来ている。恐らく、一斉に。固唾を飲んで歩く速度を早める。
「にゃあ」
「・・・・・」
「にゃあ」
「・・・っ」
「にゃあ」
猫の鳴き声が増えていく。無数の乾いた声音は脳に直接訴えかけるように木霊する。脳が直接揺らぐような錯覚に目眩を感じた。頭が揺れる度に、額に汗が滲み出す。
「ニャあ」 「ニャア」
「にゃあ」 「ニャあ」
「にャあ」 「にゃア」 「にゃあ」
「にャア」
『にゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ』
「ひっ・・・!」
一斉に叫び出す鳴き声に、心臓が一瞬の停止をする。力が抜けそうな腰を奮い立たせ、猛然と走り出した。同時に後ろから地面を蹴り上げる複数の音が続く。
「はっ・・・!・・・!はっ・・・!っ・・・!」
うるさい心臓が、走る負荷で更に活性化する。鼓動が耳元で聞こえるようだ。だが今はそれが望ましい。真後ろからひっきりなしに叫ぶ鳴き声をまともに聞いていたら、絶対に精神が狂ってしまう。
(喰われる、喰われる、喰われる。喰われてしまう!)
胸が苦しくても、躓きながらも足を止められない。路地裏を出たらあの少女も連れて逃げなければ。一刻も早く少女にこの危機的な状況を知らせよう。あの子に被害をもたらすまいと更に速度を上げる。
ようやく路地裏に差し込む光が見えてきた。そして光を背にした少女が佇んでいる。その腕には眠っている三毛猫が抱かれていた。良かった、きっと彼女が探していた友達だろう。見つかっていたなら都合がいい。このまま全員でこの場から離れられる。
「逃げるんだッ!ここは危ない!早く!」
「いないの」
ぽつりと無機質な声で少女が一言だけ言葉を発した。
「え・・・?」
「何もいないの」
涙を拭っていた紅葉の手が、抱いている猫の頭を撫でた。
「この子のお腹の中にはなにもいない」
子供らしからぬ、無表情、それでいて愛おしそうに。少女の腕に頭を預けていた猫はゆっくり起き上がる。そして単調な鳴き声しか出せない口がありえない動きをした。
『お腹においしい誰かが欲しい』
猫の口から人語が発せられたと理解したその時、猫の頭が一瞬で巨大化した。
「――――――――――、あ」
顔中に青紫色の血管が浮き出る鬼の形相。逆立つ毛並み。ぎょろりと剥かれた赤い目は自分の頭と同じ大きさだ。顔面の両端まで裂けた口には一本一本、鋭く尖った牙が覗いていた。その口は笑っているのか酷く歪んでいる。唾液が滴る口をあんぐりと開き、生暖かい空気が顔に吹きかけられた。
その口は自分の頭を噛み砕こうと近づく。
頭だけを喰いちぎり、胴体と離れ離れにされる。頭を失った自分の光景が目に映った。
ズッ
自分の最期であろう映像が映った目に、今度は白い手が広がる。
「お怪我はございませんか」
喰われていない。首は胴体と繋がっていた。生きている。いや、今の自分は生死が不確定の状態だが。しかし確かに今は意識もあるし安心もした。
「お客様がこのような恐ろしい目に遭われましたのは、一瞬でも目を離した私に非があります。お怒りはご最もと存じますが、この場はひとまず私にお任せ頂けないでしょうか」
白い手は湿った音を出して引っ込む。無理矢理に立たせていた腰が限界だ。へなへなと崩れ落ちた。改めて猫、いや化け猫の姿を拝む。
『ぎ、ぎ、ぐぉ、ぎぎぎぎおぐぐおぉ、ぐぐぎぐおぐぐ、ぎ』
苦しげに呻いている。首から上が急激にバカでかい。その顔はぴくぴくと震え、細い瞳孔は左右非対称に明後日の方向へ向いていた。あらん限りに開かれた口という穴の中に、もう一つ穴が空いている。
猫の頭がゆっくりとこちらに倒れ込んできた。慌てて後ろにずり下がる。
「これ以上の危害からは、この澄江が身命を賭してお守り致します」
化け猫の背後の人影が姿を現す。
「どうかご安心を」
彼女の声だ。聞く度に母が傍にいる安らぎを感じさせてくれる声。
「澄江さん・・・!」
そこには不敵に笑いながら倒れた化け猫を見下ろす澄江さんがいた。自分に気付いて顔を向けると瞬時に聖母の微笑を浮かべる。
今、彼女は何をした?化け猫を手で貫いた?しかもいとも容易く、涼しげにといったところだ。
地面に倒れて尚も、もがく化け猫の重みから解放された少女が崩れ落ちる。その時を見計らっていたらしい澄江さんが受け止めた。少女は気を失っているのか、動くことも喋ることもない。澄江さんは閉じられた少女の目の上に、そっと手をかざす。
「相変わらず人様の負の感情に噛り付いて寄生しているようね。本当に、どうしようもない輩だわ」
明らかに怒気を含んだ声で吐き捨てると、少女の背中に置いた手で背中を思い切り叩いた。
『ぐぐぐぐぐぐが、ぎぃいいいいぃいいい』
同時に化け猫は一層苦しげに叫び声を上げた。痙攣し始める体からは赤い煙が湧き上がっていく。
「失せなさい、下郎。こんなにかよわい子供を寄り代にするなんて。その浅ましさを二度と見せないことね」
少しずつ煙へと姿を変えた化け猫は塵一つ残さず消えた。後ろにいた猫の大群もいつの間にかいなくなっている。自分と澄江さんと、彼女の腕の中で眠る少女だけが路地裏から吹き込む風に撫でられていた。




