書庫-2
「もし、お客様。入ってもよろしいでしょうか」
「はいっ!?」
「では、失礼いたします」
澄江さんの声で本の世界から現実にはじき出される。動揺のあまり蔵に入ることを許すとも取れる返事をしてしまった。そんな自分の周りに広がる本の山に言葉を失う。
記憶を探すための手段を紹介された自分は何をしていたんだ。最初こそ真面目に調べ物をしていたが、今の今まで読書に興じていた。時間は分からないが恐らく調べ物をした時間より長いことは確かだ。息抜きと称して娯楽にふけるなんて、まるで試験前のダメな学生そのものじゃないか。
「お客様?どちらに?」
返事をしたい反面、怠惰の証である本の山を見られたくない。慌てふためきながら本の山を背に隠した。同時に澄江さんが本棚の陰からひょっこりと顔を出す。その手には二つのおにぎりとお茶と漬物が乗ったお盆を手にしている。
「あら、こちらでしたか」
「はは・・・どうも」
「お昼をお持ちしました。本日はこちらでお召し上がりかと思いまして」
「すみません、わざわざ」
更に本を背中に集めて恐る恐る訪ねた。
「・・・あの、つかぬことをお尋ねしますが・・・今は何時になりますか」
「時間ですか?今は十二時半の少し前になります」
調べ始めた時刻は八時半頃。調べ物をした時間が一時間。つまり自分は三時間、ただ読書を楽しんでいたことになる。この蔵に入って半分以上の時間を無意味に使っていた。
「調べ物の方は順調ですか?」
「いや、うん・・・ぼちぼちです、はい」
言えない。紹介された手前、ほとんど何もしていなかったなんて絶対に。願わくばお昼を置いて何も気づかずに戻って欲しい。
「まあ!こちらの本棚を使ってくださったのですね」
願いが届かず血の気がさっと引く。
「えっ!?え、その・・・す、すみません・・・調べ物そっちのけで・・・」
「ここに並ぶ本は、私のお気に入りなんです。お気に召されましたようで安心しました」
「・・・はい?」
思いがけない言葉と笑顔に、鳩が豆鉄砲を喰らった顔で呆ける。怒られたりがっかりされるだろうと身構えていたが、斜め上の反応に肩の力が抜けた。澄江さんはわくわくした表情で自分に詰め寄る。
「ちなみに今はどんな本を?」
「えぇと、これは『舞姫』です」
「舞姫・・・森鴎外でしょうか」
「川端康成です。森鴎外もさっき読みましたよ。どちらも段々に暗い話になっていくのですが、それでも読んでいるうちに引き込まれていきましたね」
「私は森鴎外の舞姫の方が暗さは軽減されていると感じましたね。川端康成の波子は最初から不倫という危険な橋を渡っていながら落ちていく、終始一貫の転落劇が描かれていますもの」
「自分は森鴎外の豊太郎が救われる中盤の描写がある分、終盤の二人の救われなさが暗さを増幅されていると感じました。どちらもハラハラしっぱなしです」
「なるほど。量だけでなく度合いもまた重要ということですね。そうそう、踊り子繋がりで伊豆の踊り子もおすすめですよ」
澄江さんは本の話題に子供のようにはしゃぐ。この本棚の本を揃えるだけあって内容を読み込んでいるようだ。
「澄江さん、本がお好きなんですか」
「はい。お客様も本を愛する心をお持ちのようで」
「今日初めて気付いて、すっかり魅了されてしまいました」
「ふふ。私も長らく本の虜ですよ。同じ本を愛するお相手ができてとても嬉しいです。ですから遠慮なさらず、ここの本棚を自由に使ってもいいんですよ」
背中のことはバレていたようだ。
「あ・・・分かってたんですね」
「ひどく動転していましたもの。そもそも、この本はお客様のために用意したものです。お気になさらず読んで頂ければ本望でございます」
「そう、ですかね」
相手に許してもらうのは心が楽だが、勝手に責任感に追われて心を重くするのが自分という人間性。記憶を取り戻す手助けを受けた身で、新たな趣味を開拓するこの思考たるや。悪気はなくとも優しさを無下にしてしまった罪悪感が拭いきれない。
その心情でさえ見通しているらしい澄江さんは子供と正面から目線を合わせるように床に膝をつく。
「お客様。ここに貴方を束縛するような時間は存在しません。お客様の心の重荷が降ろされるまでに何日、何ヶ月の時が過ぎようとも、誰も迷惑なんて被りませんよ。どうか焦らないで。焦りは正確さを失ってしまいます。お客様の記憶に関わっているのなら尚更、慎重に時間をかけなければなりません」
まるで子供を慰める口調で語りかける。
「心の重荷を降ろす方法は決して一つではないのです。本が好きというご自分の新たな側面を見つけることも一つの方法。記憶を探す時よりも、読書をしていた時の方が気分は楽ではありませんでしたか?ですから、これも正解なんです」
ねっ、と澄江さんは頭をこてんと傾ける。ここの人たちと接する度に、自分で勝手に背負った鎖が一つずつ外されていく。今なら数十秒前の自分が笑いの種に使えそうだと思えてしまう。
そっか、と自分でも心を軽くする相槌を胸の奥から出そうとした時、大きな声で遮られてしまう。
「あらまあ!大変!せっかくお昼をお持ちしたのに私ったら」
澄江さんは手に持っていたお盆を片手に驚愕しておろおろする。そう言えば澄江さんは自分に昼食を持ってきてくれたのだった。恐らく絹子さんや富助さんとの昼食はまだなのだろう。慌てて自分の目の前に食事を置いて立ち上がる。
「本来なら本を読みながらの食事はお行儀悪いので禁止しているのですが、今日だけはよしとします。くれぐれも本を汚さず、できれば読書の休息で召し上がってくださいね」
元気づけてくれたお礼を言う間もなく忙しなく出て行く姿を苦笑いで見送った。
今読んでいる本はちょうど区切りがいいところだ。澄江さんが言っていた休息の時間にしよう。スピンを挟んで本の山の上に乗せる。読書に熱中していて空腹感は感じていなかったが、いざ時間に気付くと腹が鳴った。舌鼓を打ちながらおにぎりに手を伸ばす。海苔で包まれた大きめのおにぎりだ。大きく口を開けて豪快にかぶりつく。
「うん、うん」
ちょうど良い塩気に固めの白米、自分好みの塩おにぎりだ。少し炙られた暖かい海苔はパリパリと音をたてる。簡単な料理でさえ工夫を感じる美味しいおにぎりに頷きながら咀嚼した。
大根の漬物も一緒に口に入れる。どちらの塩気もお互い邪魔し合うことなく食べれる。やはり澄江さんの料理に合った漬物が作れる富助さんの腕は確かなようだ。
おにぎりをぺろりと平らげ、指についたご飯粒も残さず食べ尽くした。まだ暖かいお茶を啜って一息つく。そしてもう一つのおにぎりに手を伸ばす。しかしその手がぴたりと止まった。




