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帰宅

 風が額を撫でている。いや、この風は人肌の暖かさだ。不思議な感触に重い瞼を上げる。


「・・・あれ?」

「おはようございます。ご気分は?」


 絹子さんの輝くばかりの笑顔があった。寝ぼけ眼の僕を見下ろしながら団扇で扇いでくれている。


「あー・・・すこぶる好調です」


 普通の体調も、この美しい顔立ちを前にしたら快調にもなるだろう。しかもこの見え方に頭の下の柔らかい感覚から察するに、これは僕が膝枕されている。最早、快調を振り切って有頂天に達した。勿論、顔には出さないように留めているが。


「また、戻って来られたのですね」

「戻って来た・・・か」

「朝に富助が貴方を見つけたのです。花畑に横たわっていたと」

「いやぁ、覚えてないです」

「二度目の記憶喪失で?」

「違いますよ」


 冗談交じりの絹子さんがイタズラを成功させた子供のように無邪気に笑う。またこの笑顔が間近で見れるとは思わなかった。


「富助は念の為にお医者様を呼びに、澄江は精のつく食事を作るために買い物に、武之は夜勤の仕事を早めに切り上げてくるそうですよ」


 戻ってきて尚、騒ぎを立ててしまったようだ。


「いや、本当に何で僕はここにいるのか分からないんですけど」

「花畑を進んで、そこからどうなりました?」

「突然周りが真っ白になって、それで・・・」


 必死に記憶を辿るが、どうにも頭がはっきりしない。悶々と悩んでいると脳裏に父さんの顔が浮かんだ。


「・・・そうだ。僕、まだ生きてた・・・生きてたんですよ」


 僕の呟きに絹子さんが首をひねる。絹子さんたちがいる世界は魂が来るべき場所なのだから、肉体ありきで生きている人間がここに入れるわけがない。当然の反応だ。


「えぇと。生きてるっていっても植物人間です。体を機械に生かされている昏睡状態でした」

「では今の貴方は生霊・・・精神体が肉体から離脱して一人歩きをしている状態という事になります。死の世界も肉体が健在の貴方を受け入れることはできません。生と死の中間にいる和也様が存在できるのは、生と死の境界線上にあるこの世界と判断されて、ここに弾き出されてしまったようですね。ただしここにいる貴方、もしくは現世の貴方がお亡くなりになってしまうと、どちらかの世界の和也様が同じようになってしまうかと」


 ここで死ねば現世の肉体は滅び、向こうで死ねばこっちの僕は今度こそお迎えが来る。一度動けば行き先が決まる、危うい均衡の上に立ってしまっているのではなかろうか。今度こそ死ねると思っていたが、この均衡が崩れない限りそれは叶わない。


「肉体だけでも生かす決断をお父様が下されたのですね」

「子離れできないだけです。こっちはいつでも親離れできるって言うのに。向こうの父は生前にはない接し様でしたよ。仕事の合間に暇さえあれば病院に来て、返事も無いのに構わず話しかけて。・・・これでいいのかよ、って思いましたね」

「ようやく見つけた親子の形が、と?」

「・・・はい」

「よろしいかと思いますよ。今の和也様は大変、嬉しそうなお顔をしてらっしゃいますもの」


 これでも口角は一直線の平常を装っているつもりだ。

 今の僕たちは前の関係より遥かに親子らしい。別に世間一般の親子像を求めたわけじゃない。だけど張り詰めてばかりいた父さんの顔は穏やかだった。僕のせいで変に気に病んでいても困る。そんな心配も必要なさそうだったから安心しただけだ。


「貴女にまた会えて嬉しいだけですよ」

「まあ。お上手ですこと」


 これでも半分は本気だったのだが、絹子さんはクスクス笑う。この笑顔を前にしてしまえば、これが冗談でも本気でも構わない。


「またこの世界に来ちゃいましたけど、どうしたら良いですかね。今のところ何も目的が無いんですよ。あ、いや。結局、牛頭との約束を破っちゃいましたから、また消しに来られるのは嫌なんで逃げようとは思ってますけど。記憶を取り戻すとか、心の重荷を降ろすとか、そうゆうのは必要ないじゃないですか」

「・・・そうですねぇ」


 うーん、と考える仕草をすると団扇を止めた。


「お帰りになる場所が無いのなら」


 そして再び僕の額に手を置く。


「お帰りなさいませ。今日よりここが貴方の帰る家です」


 眩い笑顔で彼女はそう告げる。胸が暖かくなったのを感じた僕は、額に置かれた絹子さんの手に自分の右手を重ね合わせた。


「ただいま」




 風が涼しい。秋はもうすぐそこだ。



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