別れの花畑
外に出ると四人が書庫の前で待っていてくれた。子供の旅立ちを見守るような眼差しがどうにもこそばゆい。ここで気の利いた一言でも言うべきか、と言葉に困っていると絹子さんが扉へ向かうように手で促す。
「和也さん。どうぞ、ご自分の手で扉を」
庭の突き当たりの塀には扉があった。促されるままに扉の前に立つ。塀を通り越して来る花の香りが頭から降り注ぎ、祝福を受けているように感じて胸が躍る。高鳴る鼓動を抑えて扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
花びらを纏ったそよ風が体を包む。髪をかき上げられて額を撫でる風の感覚は、いつかの絹子さんの手付きに似ていた。そして眼前には二日前に見た花畑が広がっている。
漸く僕も逝ける時が来たんだ。
「どうですか?和也さんのために現れた花畑は」
「ちょっと・・・感慨深くて。いざ前にすると実感わかないですね」
しかし、ここでこそ気の利いた別れの挨拶を言うべき場だ。えぇと、と言葉を濁してからとつとつと拙い語彙力で言ってみる。
「何か、こんなに長居してすみませんでした。ただでさえお世話になってご迷惑かけてるのに記憶喪失だなんて・・・今思えば手のかかる客でしたね。でも皆さんにたくさん迷惑をかけて世話になったからこそ、無事に心を晴らすことができました。本当に、ありがとうございました」
照れくさくて、はにかみ笑いをしながら頭をかいた。そして一人ずつに改めてお礼を言っていく。
「和也様。私は最後に貴方のお腹をいっぱいにできましたでしょうか」
「そりゃあもう。あんなに大きなおにぎりだったら満腹にもなりますよ」
「でしたら幸いです。私は料理でしかお客さまへのご奉仕ができないものでして。唯一の得意分野でお客様を送り出せるとあれば、これ以上の幸いなことはありません」
「おめぇの得意分野は粗暴な力技だけ、いでぇッ!つま先踏むんじゃねぇ!」
澄江さんも大概だけど、武之さんの横槍も懲りないなぁ。
「この先へ向かうことは、和也様の本当の『終わり』となります。その終わりに、お腹を空かせることだけはあってはなりません。だって、終わりの先には『新たらしい』和也様が始まりますもの。腹が減っては戦もできず、ですからね。これからの和也様に暖かく幸せな食事が傍にあり続けることをお祈りしております」
「ありがとうございます。貴方が作る料理は、本当に暖かくて美味しかった。これから澄江さんの料理の味で肥えた舌で、これから食事を出来るか心配です。僕も次こそは暖かい食事を取れる日々を送ろうと思います。澄江さん、本当にお世話になりました」
澄江さんとお辞儀をし合っていると、隣の武之さんが突然、噎び泣き始めた。
「めでてぇ・・・!旦那は無事で帰ってくる、悩みは全て吹っ切れてる、心も晴れている。今日は何てめでてぇんだ!」
「武之さんがこんなにも喜んでくれて体中がバキボキ・・・いいえ、嬉しいです」
「餞別に痛み止めは?」
「大丈夫です、富助さん。これはこれで良い思い出にでもしておきます」
聞いたことしか無かった本物の冥土の土産を拒否する日が来ようとは、昔の自分は考えもしなかっただろうな。
「小川の旦那。旦那にはあっしの酒にちょいとばかし付き合って頂きましたがね、そうゆうのが何度もできる奴ってのぁこの先も重要な存在になると常々思っているんでさぁ。家族でも友人でも構いやしねぇ。そんな奴らと馬鹿騒ぎするなり、傷を舐め合うなりしてくだせぇ。酒は人生の華。その華を共にできる誰かを、どっかしらで作ってくだせぇ」
「あそこまで誰かと腹を割って酒を飲んだのは初めてでした。生前の飲み会って誰かの自慢とか愚痴とかばかりで、誰かと飲むお酒は楽しくないし気を使っていたんです。貴方と飲むお酒も自慢と愚痴ばかりだったけど、僕は笑いっぱなしだった。いつか武之さんのように、どんな話題でも笑ってお酒を飲める人と出会うのが今から楽しみです」
武之さんと力強い握手を交わすと、横で富助さんがさぞ愉快そうに高笑いする。
「いやあ、身共も渾身の漬物を堪能して頂いて感無量です」
「相変わらず病みつきになる美味しい漬物でした」
「できることなら和也殿の好物の漬物が望ましかったんですがね。まあ、どうせ和也殿は身共の漬物ならば見境なく好物でしょうから問題無いかと」
「中々に適当ですね」
僕の苦笑いを豪快な笑い声で吹き飛ばされた。
「和也殿。野菜の成長というのは我々も見習うべき生命力があります。雨を糧に、風に負けず、熱さを堪える。受け入れ、抗い、耐え忍ぶ姿勢には身共も毎度脱帽してしまいます。ですが、そこには人間の手もまた必須。野菜も単身で実を成すのは難しいというわけですな。和也殿もこれから先、手助けをしてくれる方と出会ってくだされ。きっとその方とは長い付き合いをすることができるはず」
「人と物事を成すことの大切さを教えてくれたのは富助さん、貴方です。野菜なんて作ったこともなかったから大変だった。その代わり実った野菜を収穫した時の達成感は感じたことないものでした。生前では軽く見ていたけれど、次こそは誰かと協力して成功を実らせる喜びを噛み締めたいですね」
最後に絹子さんが前に出る。自然と身も締まってしまう。
「こんなに長くお客様をもてなしたのは初めてでした。同時に、ここまでお客様と過ごしてお客様を深く知ることができたのも初めてです。人に迷惑をかけたくなくて、優柔不断で、一人で抱え込みがちで、どこか頑固で、困った人を放っておけない、物怖じせず誰かと接することができる小川和也さんというお方を」
迷惑な部分もあるが、それなりの魅力もあったとは自覚がなかった。
「貴方は誰かを進んで知ることができる方です。この先も変わらず、人を知ってあげてください。生きていながら心の重荷を抱えた方がいたのなら、その人を知り、お側にいて差し上げてください。きっと、その方の助けになることでしょう。貴方は心の重荷を降ろす一端を担うことができるのですから。どうかこの先も、変わらぬ和也様であり続けてください」
「・・・ここで教えられたことは、例え忘れられても心に深く刻みます。皆さんのおかげで軽くなった、この心に。皆さんに恩返しはできそうもないけど、この先で出会う人たちに皆さんから教わったことを胸に、出会って行きたい」
「きっと。できますとも。お客様の心には何も悪いものが付いていませんから」
挨拶は終えた。あとは、自分の意志で足を進めるだけだ。
「皆さん、お世話になりました。さようなら。どうかお元気で」
別れを告げ、背を向けて歩き出した。
心が軽い。この先に死があると分かっていても、足に迷いは無い。怖気つくこともあるのではと危惧していたが無用の心配だったか。
後ろから複数人の大声が聞こえる。振り向くと四人が手を振って見送ってくれていた。僕も手を振り返しながら花畑を進む。
視界が突如、白く染まった。




