おしまいへの逃げ道
知らない町を暫く彷徨い、時刻は夕方だ。走り疲れてフラフラと当てもなく歩いていると、駅に辿り着いた。随分とおんぼろ加減が目立つ。壁は白の塗装が剥がれ落ち、木目が剥き出しだ。駅名は書かれていない。
駅周辺には人が誰もいない。人の声の代わりにカラスの声が響くばかりだ。中に入ってみるが、利用者も駅員も見当たらなかった。中には地図や注意喚起のポスター、広告、お知らせ、そして路線表等の紙が所狭しと貼られている。受付を覗こうとしたが、窓口はカーテンで締め切られている。ここは使われていないのだろうか。だったらちょうどいい。きっと人も寄り付かない。
手ぶらで改札らしき通りを抜けてホームに出た。切符を買うところも無さそうだから問題ないはず。ホームは丸ごと夕焼けに赤く色づけられていた。足元には影法師が伸びていて、夕方の物寂しさを助長させる。
ホームの壁には時刻表と伝言板が取り付けてあった。時刻表は文字がかすれてほとんど読めない。電車を待っているわけでもないので、横目にして通り過ぎる。入口から少し離れた所のベンチにゆっくり腰掛けた。どっと疲れが体中を巡り、体外に蒸発していく。そこまで歩いたつもりはなかったが、心の疲れも手伝ったのだろう。
「・・・静か」
書庫も静かではあったが、ここは室内と違って息が詰まらない。二日ぶりに味わう外の空気の気持ち良さに目を閉じた。
(僕はこれからどうしたら良いんだ)
八方塞がりだった。心の重荷は長居する迷惑をかけたくないから下ろしたい。だけど心の重荷は思い出したくない記憶に関連していて向き合うことができない。
「参ったなぁ・・・」
心の重荷と向き合うことがこんなに苦しいものだったなんて思わなかった。記憶を取り戻すことに躍起になっていて、重荷と向き合う覚悟を決めていなかったのだろう。それ以前に元来の自分自身の性格のせいでもあるが。人に迷惑をかけないことばかり考え、怖いと感じたものにはとことん臆病、それでいて煮え切らず一人で抱え込む。三重苦のおかげで前に進むことができない。
「すごかったんだ、陽太君は」
まだまだ幼い年齢で見事に晴れやかな心を先に手にした。いい年した僕はいつまでぐずっているのやら。子供の精神で心の重荷を背負うのは並大抵のことではない。それでも一歩一歩、前進して、最後は花畑の向こうへと消えていった。
「本当・・・すごいよ、君は」
僕はこの重荷をこれ以上抱えられそうもないや。そう頭の中で呟いた時、自分の声で誰かが囁く。
(逃げてしまおうか)
既に用意された確実な逃げ道があるじゃないか。
「・・・・・・・うん」
列車の重苦しい音が遠くから聞こえる。その音に目を開けて、腰を上げた。吸い寄せられるようにホームの淵に立つ。爪先のすぐ下には砂利が敷かれた線路がある。
「自ら審判の地へ向かう気は有ったようだな。良い心がけだ」
後ろから声をかけられた。聞いた回数は少ないが、色濃く覚えがある。牛頭だ。獄卒衆頭領の鬼。一度死んで、また僕を死の世界へ連れて行こうとするのか。やはりすごい執念だ。
「本当に再生できるんですね」
「驚いているようだが、貴様が俺より先に再生している方が驚くべきことだぞ。大方、陰陽の術で蘇ったのだろうが」
そう言えば、この体は富助さんに救われた物。せっかく助けてくれた命なのに、自ら断つのは罪悪感を感じる。でも、もうどうしようもないんだ。
「逃げたいです。この心の重荷から。心の重荷が現世で迷惑をかけても・・・もう、向き合いたくない」
「くだらん杞憂は捨ててしまえ。貴様の心の重荷とやらは死の世界でどうとでもなる」
「・・・死の世界に行けば、解決するってことですか」
「そうだとも。罪に値する重荷であれば、相応の罰が地獄にある。罰を受ければ罪は浄化されるだろう。それ以外の重荷など、瑣末に過ぎん。この狭い世界でどうにかなる重荷が、浩々たる死の世界で解決できないわけがない。全てを十三仏の審判に委ねよ」
牛頭の言葉で楽になった。死の世界に行けば、誰かがこの重荷を下ろしてくれる。下ろしてしまえば現世に迷惑をかけることもない。安心して死ねそうだ。
列車の音が大きくなって来た。もう、すぐそこにいる。背中に手のひらが当てられた。あぁ。これで心が楽になれるんだ。
「意外です。斬られると思っていました」
「貴様が選んだ死に様だ。せめてものの慈悲として、この方法で介錯を務めてやろう」
「あはは。鬼って存外、頑固なだけじゃないんだ」
死が間近に迫っている。しかし心はいつもよりずっと軽い。
「汝に救済の判決が下ることを祈る」
力強く背中を押された。足が地面から離れ、体が完全にホームから出る。この体はあの鉄の塊に撥ねられて、おしまいを迎える。
そう悟ると、頭の中で今までの記憶が怒涛の勢いで思い起こされる。これが走馬灯というものか。本当にあるとは、迷信は信じてみるものだなぁ。
(すごい。懐かしいな・・・)
入園式、卒園式、入学式、卒業式、成人式、入社式。どれも隣に家政婦さんや友達や恩師がいた。こうゆうおめでたい式典にはいないのに、父さんとは日常生活の中で喧嘩した風景しかない。
勿論、藤次郎叔父さんとの思い出も。親族との酒の席に酔い潰れた叔父さんの横で、自分も酒を飲んでいるようにジュースをちびちび飲む小学生の自分。その叔父さんがぽつりと呟いた言葉を思い出した。
「僕はね、君のお母さんを本気で愛していた悪い大人なんだよ」
今思えば、叔父さんが犯した罪というのはこのことなのかもしれない。結婚した僕の母さんを愛してしまったこと。自分自身で許せないことだから、あの世で三途の川の番人をして罪を償っている。
そして最後は父さんと繰り広げた人生で一番激しかった喧嘩の場面だ。ここだけ、いやに鮮明でゆっくりと思い出す。
「僕にこれ以上構わないでくれ!お互い嫌悪し合う同士なら必要以上の馴れ合いなんていらないじゃないか!」
「父さんがお前を憎んでいるだと?何を根拠にそんなことを言っている!」
「分かるよ!あんた母さんを殺したのは僕だと思っているんだろ!?」
父さんが目を見開く。
「・・・・・!」
「そうだよね、経緯はどうあれ父さんから大切な人を奪ったんだから!嫌いにもなるさ、血が繋がっていても!」
「和也・・・」
「悪かったよ!でも僕だって母さんを殺したくなかった!誰かを犠牲にしてまで生まれたくなかったよ!」
「止めなさい和也・・・!」
「僕を降ろしてくれれば良かったのに!生きていてこんな思いばかりするくらいなら、生まれて来なきゃ良かったッ!!」
「和也ッッ!!」
ぱぁんッ
一瞬の衝撃が僕の右の頬を張り飛ばす。鋭い痛みが右の頬を包み込む。ゆっくりと顔を元の位置に向けると、父さんは青ざめたり赤くなったりと忙しない顔色をしていた。驚きを隠せないと言わんばかりに表情を強ばらせている。自分でやっておいて、何て情けない顔をしているのだろう。こっちはあんたなんかに手を上げられたのが屈辱で頭に血が上っているのに。
僕は居心地の悪い空気を振り払うように家を飛び出した。後ろで僕を呼ぶ声が聞こえたけど、そんなもの足の動力源にしかならない。
日付もとっくに変わった真夜中をひたすら駆け抜けた。どこに行くかなんて勿論、考えていない。あいつから離れられる遠い所ならどこだって良かった。全力疾走で浪費している呼吸よりも、夜の闇を見据える目よりも、もっと早く手足を動かす動力よりも。あいつから離れた場所だけを求めた。
そのせいで横から来た車に気付く注意力を失っていたのだろう。車の存在に気付いたのは体に深く激突した時だった自分の体は吹っ飛ばされて宙を舞った。束の間の浮遊感を体感した後、体は地面に叩きつけられた。
頭が痛い。背中が痛い。肩が痛い。体の所々に生じた、あまりの激痛に意識が霞む。一度受けた痛みが、今もひたすら殴られているようだ。皮膚の下の脳が揺れ、頭全体が熱い熱を帯びていた。
『生きていてこんな思いばかりするくらいなら、生まれて来なきゃ良かったッ!!』
この時は頭に血が上って気付かなかったけど、父さんは凄く悲しそうな顔をしていた。
「あれ・・・?」
今まで眉間の皺にばかり目がいっていたせいか、初めて見る表情だ。眉間の皺は相変わらずなのに、眉は八の字に曲がり、見開いた目には薄い水が張っている。
仏頂面じゃない父さんの顔は初めて見た。予想していなかった一面に張り詰めた心臓が音を立てて萎んで行く。
「言い過ぎたかな」
言った傍から何を言い過ぎたのか思い出せず、視界が真っ暗になった。
「・・・何だ。反省しているじゃないか」
そうだ。思い出した。
死ぬ前の僕は事故で頭に上った血が冷えていた。冷静になった僕の頭に芽生えたのは、父さんへの罪悪感。心無い言葉を突き刺してしまった、と。あんなに悲しそうな父さんを見たくて言ったのではない。父さんを傷つけたかったんじゃない。この言葉に怒り狂って、もっと離れて欲しかったのに。
だけど父さんは今まで僕が何を言っても離れなかった。家に帰れる時間があれば、何度だって話しかけてきた。父さんが元より離れる気が無かったなら、今までの罵詈雑言が父さんを傷つけただけだとしたら。僕がやったことは、何の意味も無かったんじゃないか。
悪いのは父さんなのに、これじゃ僕が悪者みたいだ。ずっと平行線なら一言、たった一言だけ伝えて争いを終わらせてしまえば良かった。最後の言葉を父さんに伝えれば良かった。
きっとこの心の重荷は死の世界では、どうにもならない。何故かそう確信できた。
「時期尚早、だったかな」
そして、体を衝撃が襲う。




