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第二の重荷

 陽太君がこの家を出てから二日、僕はずっと書庫に篭っていた。

 食事は書庫の前に置かれているが、一度も手をつけていない。風呂にも入らず、眠ることもなかった。元より食欲も睡眠欲も全く感じられないのだ。人が来る度に安否確認の声をかけられても必要最低限の返事しかしていない。

 この二日間、僕は外との繋がりをほとんど絶っていた。この書庫は僕が許可しない限り、家の人たちは入って来れない。簡単に篭ることができる。


「和也様」


 本棚にもたれかかってボーッとしていると、扉の向こうから澄江さんの声がした。名前で呼ばれるのにまだ慣れていなくて、聞き逃してしまうことが多々ある。


「はい」

「今日も朝食を召し上がらなかったのですね。食事を取らないと頭も回らない上に、体に毒ですよ」


 もう昼か。窓から覗く朝焼けを見たのが、ついさっきのように錯覚してしまう。


「すみません」

「昼食はここに置いておきますので。どうか一口でもいいのでお腹に入れてください」

「はい」

「・・・・・失礼します」


 彼女が心配してくれているのは分かっているし、引き篭るのは悪いと思っている。でも、こうしないと混乱した頭が落ち着かないんだ。心の中で謝りながら澄江さんの足音を聞き届け、改めて本棚を見上げた。

 一昨日はガラ空きだったが、今では全ての本棚に書物がぎっしり入っている。記憶が戻ったことで、今まで触れた書物が戻ってきた。しかし、ほとんどが本やノートだ。本は元より今の自分には役に立たない。僕が書いた日記もあったが、どれも三日坊主やくだらない内容だった。

 せっかく生前に手にした書物が手に入ったと言うのに、結局はあの日記が手がかりか。手元に転がる日記を手に取る。


「まさか、あんたの日記を読んで自分の記憶と勘違いするとは」


 最悪だよ。これが大嫌いな父親の日記だったなんて。

 いつか言った。家に帰りたいと、何も知らない僕が。でも違った。僕はずっと、家に帰りたくなかった。

ただいま、なんて知らなかったんだ。


 僕は家族を知らずに生きてきた。

 気が付いた時から家に家族はいない。親も兄弟も祖父母も、血の繋がった人どころか親戚とさえ同じ屋根の下で暮らしたことはなかった。周りの同世代の子達は当然のように家族と一緒にいるのに。どうして自分には家族がいないのか不思議でならなかった。

 次第に家族といる友達が羨ましくて、見る度に寂しさが込み上げた。だから僕は何度も家で父さんを待ち続けた。だけど、いくら待っても父さんは帰って来ない。家政婦さんからは僕が寝ている間に帰ってきたり出かけていると聞かされた。まだ幼かった僕ならすぐに寝てしまうから、今なら納得できる。だけどその時の僕は納得が行かなかった。まるで僕を避けているみたいに感じたのだ。それが何年も続いて、僕は一つの結論に辿り着く。


「父さんは僕が嫌いなんだ」


 考えてみれば母さんが死んだのは僕のせいだ。僕を産まなければ母さんは生きていた。だから父さんは僕と会いたくなくてずっと避けている。愛する人を奪った僕から。そうだ、きっとそうに違いない。

 暫くは酷く悩んだ。我ながら早々に器用な性格になっていたと思う。しかし自己嫌悪に陥ったのは初めだけで、次第に怒りを感じるようになった。


「好きで母さんを死なせたわけじゃないのに。僕だって母さんを死なせたくなかった。どうしようもないじゃないか。僕にどうしろと言うんだ。そうか。そっちが僕を嫌うなら、こっちだって同じ気持ちだ。どうにもならないことで僕を嫌う、最低の父親。いや、もうあんな奴を父親だなんて思わない。嫌いだ。嫌いだ。大嫌いだ」


 吹っ切れた僕は父さんを求めることはなくなった。その代わり父さんを憎んだ。あんなに会いたかった父さんと会えるようになっても全く嬉しくない。むしろ気に障る存在でしかなくて常に喧嘩腰で接した。父さんの元来の短気な性格もあって、顔を合わせる度に口論ばかり。何年も続いた喧嘩が僕たちの溝を深めた。

頑固で分らず屋、家庭を顧みない、父親失格の最低な男。ずっと自分にそう言い聞かせてきた。催眠術のように何度も何度も。時間をかけて何年も何年も。おかげで名前を聞くのも全力で拒否したい程に父親嫌いになっていた。


「目元がお父さんにそっくりね」


 誰かが言ったこの一言で、自分の目元を周りに見せるのがたまらなく嫌だった。僕はその日のうちに、お小遣いを握り締めて伊達眼鏡を買ったものだ。それは成人を過ぎても続き、いつしか本物の眼鏡並に当たり前になった。とにかく父さんと親子だと思われること自体が嫌だった。

 なのに、あの日僕はあの人の新しい一面を知る。死ぬ数日前、父さんの部屋に探している本があると知った会社の同僚から貸して欲しいと頼まれた。でも僕は大嫌いな父親と同じ住居なのが耐えられず、大学生の時から一人暮らしを始めている。もう何年も帰っていない実家に戻るのは心底嫌だ。でも特別に仲の良い友人の頼みを無下に断れない。悩んだ末、腹を決めてこっそり実家に帰って父さんの部屋に忍び込んだ。鉢合わせだけは避けなければならない。さっさと本を拝借して置き手紙で事後報告して帰ろう、と本棚を漁る。 そこでこの日記を見つけてしまった。単なる好奇心で読み始めた自分の軽率さを恨んだ。僕を生む過程でたくさん悩んで、あんなに楽しみにして、大騒ぎもしていたなんて。僕の知らない父さんは知りたくなかったのに。僕は本のことを忘れて部屋を飛び出した。だけど運悪く父さんと鉢合わせしてしまったんだ。


「あれを読んだのか?」


 そう問いただされたのが猛烈に腹ただしく、いつも以上に父さんを怒鳴りつけた。日記を読んだ記憶を抹消したい衝動に身を任せ、壮絶な喧嘩を繰り広げて家を飛び出した。

そして事故に遭い、今に至る。


「・・・・・知らないよ、あんたのことなんか」


 大嫌いな父さんの印象が変わってしまうなんて受け入れられない。僕はあの人を嫌いなままじゃなきゃいけないのに。今更、嫌悪感しかない印象を変えたくないんだ。

 でも結局は母さんを助けて欲しいと懇願していた。やっぱり母さんが大切だったんじゃないか。どうして僕を生む選択をしたのかは分からないが、僕を切り捨てて母さんを助けることを望んでいた。


「どうせ僕を憎んでいる癖に」


 それで良い。ずっとお互いに憎み合っている関係で良いんだ。でないと父さんへの憎しみで塗り固められた僕の心が崩れ落ちそうだ。

 しかし、このままでは僕の心の重荷を下ろせない。心の重荷が父さんとの確執であることは確実だ。だけど父さんを受け入れられない気持ちが、どうしても邪魔をする。どうにかした一方で、揺るがない父さんへの嫌悪が立ちはだかるのだ。こんな時こそ絹子さん達に相談するべきだけど、自分の知られたくない弱みでしかなくて話したくない。ただでさえ二日前に大まかな過去の話をしてしまった。これ以上、吐き出すのは耐えられない。だから書庫に閉じこもった。

 このままではいけないと分かっている。だけどここから動きたくない。そんなジレンマで立ち行かなくなり、逃げるように膝に顔を埋めた。


「和也さん」


 玉を転がすような声に弾かれるように顔を上げた。絹子さんだ。相変わらず彼女に関して過敏に反応する自分に苦笑いが溢れた。


「お茶が冷めてしまう頃かと思いまして。新しいものをご用意致しました」


 新しいものを用意してくれても、僕の腹は相変わらず空腹を感じていない。手を付けることはないだろう。丸一日以上、飲まず食わずでいられるのには自分でも驚いている。


「ありがとうございます」

「ふふっ」

「え?」

「何だか新鮮ですね、お客様のお名前を呼ぶのは。二日になっても耳新しいです」


 絹子さんの意外な言葉に拍子抜けた。こちらを心配する言葉ばかりかけられていただけに驚きだ。僕だって絹子さんに名前で呼ばれるのは新鮮だ。もっと親密になれた気がして、と言いかけた心の声を振り払った。


「三途の川で記憶を取り戻されたとお聞きしましたが、どういった経緯でしょうか」


 会話はあまりしたくないはずなのに、どうしてか会話を返してしまう。


「川の番人に会いまして。その人が僕の名前を教えてくれました」

「番人に?申し訳ありませんが、こちらも耳新しいお話でございます。番人が死者の素性を知っていると言うのは」

「自分でも驚きましたけど、亡くなった僕の叔父、藤次郎さんだったんですよ」

「まあ!」


 藤次郎叔父さんは父さんの弟。父さんがいなくて寂しがっている僕とたまに遊んでくれた優しい人だ。父さんなんかよりも、叔父さんと遊んだ回数の方がずっと多い。だけど僕が八歳になる前には亡くなっていた。幼い僕は死因を聞かされずに葬式や墓参りに行っていた気がする。泣いてばかりいたから知らされなかったのかもしれないな。妙にこちらの事情を知っている口振りだったのも納得だ。


「親族が死の世界で役職に就いているなんて、ちょっと考えられませんよね。叔父さん曰く、閻魔大王の慈悲で仕事を貰っているって」

「お亡くなりになった方が、死の世界で役職を頂くことは希にあるそうですよ。罪を犯した身ながらお咎め無しの判決を受けた方が、自主的に贖罪の為に貢献活動を行うと」

「罪を犯して無罪なんかあるんですか。結構、寛大ですね」

「事情が事情と言う事もありますから。あまりにも理不尽な身の上が故に犯した自衛のための罪、ご自分の意にそぐわずに犯した過失による罪など、考慮の余地がある罪人には輪廻転生への道が示されます。本来は善人には極楽、一般の方には輪廻の道、悪人には地獄。つまり一般の方と同じ待遇ですね。ですが輪廻の輪には加わらず、ご自分の罪を償うために死の世界に留まることを選ぶ方もいらっしゃいます」

「じゃあ叔父さんは罪を償うために?」

「その可能性もあるかと。とは言いましても、今のは不確かな仮説に過ぎませんので、確かなことかは・・・」

「そう、ですか」


 会話はそこで途切れたが、こちらから話すことはない。このまま絹子さんが戻るのを待てばいい。


「和也さん。貴方の心の重荷は陽太さんと同じでございます。生前のご自分と向き合わない限り、永遠に下ろすことはできません」


 日記の形が変わるほど手に力が入った。


「陽太さんはお婆様と向き合う意欲がありました。ですが和也様にはお父様と向き合う恐怖を抱いておいでとお見受け致します」

「・・・・・」

「どうか家の者にご相談ください。お一人で抱え込むことはあってはなりません。お客様の心の重荷を下ろすお手伝いをすることが私共の役目ですから。心の内を人に話したくない、というご要望をお受けすることは私共にとっては難題でございます。お一人でどうにかなる心の重荷なら、最初からこの家に招かれることはないのです。最早、貴方の心の重荷はお一人でどうにかなるものではないかと」

「・・・・・」

「出過ぎたことを申し上げているとは重々承知しております。差し出がましい所業、申し訳ありませんでした。それでは、失礼致します」


 何食わぬ声音でそう告げると、絹子さんの足音が遠くへ消えいった。


「ッ・・・!!」


 僕はわなわなと口を震わせ、手にしていた日記を思い切りぶん投げる。日記は本棚にぶつかると、開いた状態で床に落ちる。


「うるさい。うるさいな」


 今の僕なら日記を全て読める。だから、あの後の出来事も知ることが出来るだろう。だけど結果は明白だ。僕がこの場にいると言う事は、父さんは僕を選んだ。どうゆう経緯で僕を選んだのか、それを知る勇気が絹子さんたちでどうにかなるわけがない!言ったところで貴方達に何ができるって?日記も、絹子さんも、どいつもこいつも、好き勝手に頭の中を引っ掻き回す!

 僕のことを何も知らないくせに勝手なことを言うなッ!


「・・・あ・・・・・」


 初めて感じた絹子さんへの怒りに、はっと我に返る。

 あの人は僕を心配して言ってくれたのに、僕は何を怒り狂っているのだ。絹子さんの言葉には間違いはないのに。その通りだ、僕には心の重荷と生前の自分と向き合うことを恐れている。絹子さんの言う通り。何を、この日記一つにここまで心を掻き乱されているのだろう。


「・・・・・!」


 かき乱される自分が自分ではない気がして、途端に恐ろしくなった。

 僕は弾き出されたような瞬発力で駆け出す。扉を乱暴に開け放ち、門をくぐり抜ける。そして自分の足が思うままに走った。

 とにかく、あの日記から遠ざからなければならない使命感が僕を急かす。離れられるならどこへでも構わない。できるだけ遠くに行きたかった。

 そして日記のことを忘れようと走り続けた。



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