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三途の川

 きっかけもなく、目が覚めた。


「!」


 勢いよく体を起こし、辺りを見回す。

 目の前に広がる景色は、自然の潤いが枯渇した荒地だ。澱んだ空気が漂い、異質な空間を感じさせた。転がっていた体の下には枯れ草の高原が広がっている。空は中途半端に暗がりで、更に灰色の雲が薄暗さを助長させた。


「何だよ、ここは・・・」


 生暖かい風が頬と髪を不気味に撫でる。嫌な空気だ。居心地の悪さに身震いして寝起きの体を無理矢理立たせた。


「・・・武之さん。富助さん。陽太君」


 名前を呼んでも返事は無い。さっきまで一緒にいた人達どころか、僕以外に動く影は見当たらない。ぽつんと一人でいる僕を意地悪く押し飛ばす風が吹き、嘲笑うように草が騒ぐ。


「澄江さん。絹子さん」


 僕はどうしてここにいる?ここにいる前は、そうだ。牛頭が自分の体に刺さった刀で僕を貫いた。そこから意識が途切れたんだ。なら、それって。


「僕は・・・死んだ?」


 刀に貫かれるなんて鬼に耐えられても、ただの人間の僕は場所が悪ければ呆気なく死んで当然。


「もう死んでるはずなのに、また死んだなんて変な話だ」


 どうも実感がわかないが、これが本物の死。死ぬ前の記憶も、死因も分かって、自分自身も死んだことを自覚できていた。人は死ぬ前は恐怖のあまり騒ぎ立てている。しかし意外にも死んだ後はなんてことはない。どうしてこんなに落ち着いていられるのだろう。失う物が何も無いから、ここまで穏やかでいられるのかもしれない。死後の世界の大物に問いただされると言われる、後ろめたいことも自覚がなければ記憶すらない。記憶が無いってある意味便利だ。


「・・・やっぱり混乱してるのかな」


 記憶を失って初日にあれだけ混乱したことも忘れてしまったらしい。とにかくここがどこなのかを知らなければ。つい最近も同じことをやったな。目が覚めたら知らない場所で、ここがどこなのか知ろうと右往左往した。正確には真っ直ぐ進んだだけだが。

 まさかこの草原まで延々と続くんじゃないだろうな。遥か彼方に続く草原なんてありませんように、と願いを込めながら前に進む。すると、草原は意外にもすぐ手前で途切れていた。草原は崖で途切れている。拍子抜けた僕の眼下には大きな湖が広がっている。周りは木々で囲まれ、枯葉だけが揺れている。

 手前の方には小舟と船着場が見えた。湖の周りを辿るなり船を使うなりして向こう岸に行けば新たな道が見つかるはず。あの湖を目指そう。まずは崖を無事に降りなければならないが、どうしたものか。ふと左端を見ると、崖から下に繋がる長い階段がある。中々に直角の階段だが、あって安心した。足を滑らせないように階段を下り終え、湖を目指して歩き出す。崖の下は薄い霧が漂っていた。迷わず霧の中を突き進み、砂利を踏みしめる。

 さらさら。

 穏やかな水の音がする。どうしてだか心を静かにさせてくれた。水音が耳に張り付いて離れない。この音に耳を澄ますと歩く力が失せていく。しがみついている物事を諦められるような。必死になって掴んでいる手を優しく包んで、ゆっくり離してくれるような。決心を優しく崩す、諦めの音だ。


「うるさい」


 耳障りだ、と一蹴すると水音が遠くに離れていく。水音を振り払い、更に歩を進める。

 霧が邪魔していたが、すぐにくっきりと目に映るところまで行くことができた。湖の前に影が見える。目を凝らして立ち止まった。


(誰かいる)


 船着場の前の椅子に腰掛けている。運がいい、意外にも早く人が見つかった。前とは違った救いがある状況に胸を高鳴らせて小走りで近寄る。段々と人影が鮮明になっていく。人影がはっきりと形を作った付近まで来ると足を止めて声をかけた。


「あの」

「おや、可笑しな雰囲気」


 その人の頭がこてん、と右に傾いた。


「随分と重苦しいのに、空っぽの空洞みたいだ。重みは心の重荷だろうけど、空っぽなのは・・・」


 僕を分析している口ぶりでこちらに顔を向ける。人の良さそうな男だ。歳は中年に差し掛かったくらいだろうか。くたびれた灰色の袴と、上には赤いジャージを着ている。変な組み合わせだ。肩には杖のようなものを担いでいる。

 その人は僕の顔を見ると目を見開き、椅子から立ち上がった。


「・・・驚いた。まさか、君が?死んだ?」


 信じられない、と首を捻る。僕のどこがおかしい?自分の体や手を見るが、特に変わったところはない。顔を触ってみても変形してはなさそうだ。この人は僕の何を驚いたのだろう。


「君は本当に死んでしまったのかな」

「そう、みたいです」

「でも心の重荷は降ろしきれていないみたいだよ」

「ちょっと強引に死なされてしまって」


 ぴくりと男の片眉が上がった。


「まさか、境界の世界で獄卒が出張ってきたんじゃ」

「えぇ、まあ。牛頭と名乗る人、じゃなくて鬼に」

「はー・・・使者の忠誠心には困ったものだね」


 男はため息をついて椅子に座り直し、湖を指す。


「ここは山水瀬。三途の川の中で、比較的に軽い罪を犯した死人が来る場所だよ。このまま川を越えて地獄に行って、地獄の重鎮達に君の罪が調べられる」


 これは湖じゃなくて川だったのか。彼の世と此の世を隔てると名高い三途の川。三途の川は善人、凡人、悪人と罪の度合いで渡る川が三つあるそうだ。三つの川を総じて三途の川。僕は軽い罪を犯した人が渡る山水瀬に連れてこられたらしい。


「立ち入った事を聞くけど、生前に罪でも犯したのかい」

「・・・分かりません」

「無自覚で罪を犯したって感じ?」

「いや。僕、記憶が無いんですよ」

「記憶、か」


 男の声のトーンが一段階下がった。僕を空っぽと言ったのは、記憶が抜け落ちていたせいだと気付いたのかもしれない。


「自分の名前も分からないし、生前に何があったのかも、死因も思い出せない。それを思い出すために、生と死の境界の世界に身を寄せていました。結局、分からずじまいで死んでしまったようです」


 男の隣まで近づき、川を見渡す。水の底が見えない位に黒ずんでいた。川の向こうも暗がりで見えない。


「生前に罪を犯したから僕は地獄にいるわけですよね」

「君の場合は鬼に魂を刈り取られたから問答無用でここに来ただけだよ。罪を犯していなかったら初江王さんもすぐに気付く。あ、初江王さんは三途の川の先にいる人ね。一番初めに亡者の罪を取り調べる重鎮。でも君は引き返した方が良い」

「引き返す?」

「だって心の重荷はそのままだし、強引にここまで来させられたんでしょ?心の重荷についての意見は死後の世界でも分かれてるけど、俺は降ろしてくれた方が良い派でね。ちゃんとした手順も踏まないで無理にここまで来たのも腑に落ちない。長居しなければ帰れるはずさ」


 来た道を反対に進めばいずれ戻れるよ、と頭上の枯れ草の高原を杖の先で示した。だけど僕は案内を遮る。


「この川を渡ったら、記憶を取り戻せますか」

「確かに初江王さんに教えてもらえるけど、それで心の重荷が降りるわけじゃないよ。記憶が分かっても心の重荷の存在は揺るがない。結局、厄介な魂魄が現世に迷惑かけるのは必然」

「・・・ですよね」


 眉を寄せる男に、愛想笑いで誤魔化す。しかしハリボテの笑顔はすぐに剥がれ落ち、それを隠すように川に視線を落とす。


「むしろ、記憶を取り戻さない方が良い・・・かな」

「世知辛い世で生きてきたみたいな台詞だね。今時の現世はそんなに冷たいのかい」

「ただの私情です」

「へぇ。どんな?」


 男は膝に両肘をついて、掌で頬を包む。視線は同じく川の向こう側だ。


「ここに来る前、境界の世界で生前の日記を見つけたんです。そこには妊娠した妻について書かれていました。思いやりが空回りしてばかりの僕に寄り添ってくれた、優しい人です」

「・・・うん」

「でも、彼女は体が弱くて倒れてしまった。お腹に子供がいるのに、体は弱っていくばかり。それでも妻は明るく振舞い、子供が生まれてくる日を一日千秋の思いで待ち続けた。だけど出産間近になって、医者は妻か子供、どちらか一つの命しか救えないと言いました。僕は、妻を助けて欲しいと望んだ。・・・だけど、妻は子供を助けて欲しいって・・・」

「・・・あぁ。そっか。うん、うん」


 喉が熱くなって、言葉がぐらぐら揺れる。次の言葉に詰まる口が震える。両手で顔を覆った。足の力が抜けてしゃがみ込む。男の簡素な相槌が僕の吐き出す心の内を邪魔することはなかった。助かるような、残念なような。吐き出したいような、言いたくないような。


「もう・・・日記を読みたくない。愛していた妻と離れてしまうのも、あんなに喜んだ息子を諦めてしまうのも。どっちの選択を選んだって酷じゃないか・・・」


 薄く開いた口から細い空気が漏れる。唇を噛んで、それを止めていると隣で椅子が軋む音がした。椅子から立ち上がったのだろう。


「日記には父親としての苦しみが書かれていたんだね。でも、既に選択は終えているはずだよ。君は日記のその先に書かれた答えを読む勇気が無いだけさ」

「選択されていても失う人が必ずいることは明白です・・・!僕がどちらを犠牲にしたかを知る勇気なんて、そんな物・・・いらない」


 指が顔にくい込む。もう、この目に何も写したくない。自分の判断で誰かを失う事実なんて見たくない。どうして僕はこんなにも過酷な人生を歩んでいたんだ。生前の自分を恨みそうだ。人並みに幸せや不幸が平等に入った人生なら、こんなに頭を痛ませることもなかっただろうに。


「君は読んできたのだろう?どんなに奥さんを愛したのか。どんなに子供を産むために苦難を乗り越えたか。どんなに悩んできたのか」

「は、い・・・」

「そうゆうの全部を経験して決めた答えなんだよ。自分を知りたくて読み始めた日記じゃない。こんな一世一代の大事な場面を知らないでどうするんだ」


 男の叱咤が混じった言葉に顔を覆う手をゆっくり離した。


「でも・・・僕」

「と言うか、知らなきゃ前に進めない状況だろう。駄々こねても絶対、誰かに迷惑かけることになるよ」

「それは、嫌です・・・」

「でしょ?日記の書き手が一人で決めた答えだ。最終的に全ての選択を決める役割を担ったんだろうね。きっと恐ろしく重い選択を迫られたと思う。だから彼が下した選択を知って、その重圧を分かち合ってあげたら?」


 どこかで聞いた言葉だ。苦しみを分かち合おう。会って間もない陽太君を励まそうと出た台詞。何だ、自分が言い出した台詞じゃないか。まさか言いだしっぺの自分に返ってくるとは。


「知ってあげた方が良い。何より、君はその命のやりとりに大きく関わっているんだから」


 この人は何でも分かっているような口振りなのが気にかかる。日記の内容を細かく言ったわけではないのに、言っている情報は大体正しいものだ。そもそもこの人は何者だ?三途の川の前で何をしている?僕が来る前から三途の川の前にいたことから、普通の人ではないことは間違いない。


「あの、あなたは・・・」


 男の子の声が聞こえた。


「!」


 立ち上がって後ろを振り向くと、その声が段々はっきりと聞こえる。


『お兄さん』


 陽太君がどこからか呼んでいる。しかし近くには僕と、この人以外にいない。周りを見渡すと、男は僕の後ろを指差す。


「ほら、誰かが君を呼び戻している。早く行って、安心させてあげるんだよ」


 強い力で背を押された。


「うわっ」


 前につんのめる上半身に下半身が追いつかない。目の前に地面が迫り来る。


「あ、自己紹介がまだだったか。俺は三途の川の番人。三途の川を管理し、船を渡している。これでも死後に閻魔大王様の慈悲で仕事を貰った元人間だよ」


 今更過ぎる自己紹介を耳にしつつ体は倒れていく。思わず目を固く閉じた。


「それじゃあ、頑張ってね。――――くん」





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