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収穫

 本棚の前に置かれた椅子に乗り、背を伸ばしても届きそうもない。ぷるぷる震える陽太君のつま先が辛そうだ。見かねた僕は横から代わりに本を取った。

「あ・・・」

「はい、どうぞ。これで合ってる?」

「あ、ありがとうございます」

 礼を言いながら本を受け取ると椅子に座って読み始める。僕も自分の書物が並ぶ本棚で新しく白紙が埋まったページがないか探し始めた。


 次の日になって陽太君は幾分か親しみやすさを感じられるようになった。目に見えて分かるくらいに変わって、絹子さんたちも嬉しそうに喜んでいる。そして驚くことに、陽太君から朝食の準備を手伝いたいと申し出てきたのだ。小さな声で途切れとぎれの言葉だったが、快く了解した澄江さんは人数分の茶碗を託した。心なしか張り切っている陽太君は、今日のおかずを運ぶ僕の後ろに続く。その様子を微笑ましく見守る皆さんの目がくすぐったい。ちょうど陽太君は白のカッターシャツを着て、黒の短パンを履いている。僕と同じような服装で、まるで兄弟のように見えるだろう。


「陽太君、納豆はネギや醤油を入れる前に混ぜたほうが良いよ」

「入れる前?」

「うん。その方が粘り気が増すし、ふわっとするよ」

「何回くらい混ぜれば良いでしょうか」

「あんまり考えたことないけど、二十回から三十回ってとこかなあ」

「やってみます」


 朝食の食卓でも会話には参加するようになった。相変わらずこちらから話しかけないと喋らないが話す量は昨日よりずっと増えた。ただし彼は今のところ僕としか会話が続かない。ほかの人にはもごもごとした短い返事を返すだけ。冷たい感じはしないが、心を開けていないのが分かる。まだこの家に溶け込むのは時間がかかりそうだ。

 朝食と後片付けを終えて書庫を紹介した。心の重荷について辿る手段として重要な場所だ。


「書庫は二人の書物が並んでると思いますけど、僕たちで使っても大丈夫ですか?」

「そうですね。お二人でしたらお互いに個人的な場所まで干渉することはないでしょう。ですが、陽太さんがお困りの際はお力添えをお願い致します。陽太さんは特段にお客様に懐いてらっしゃいますので」

「あ、あはは。尽力します」

「そうそう。陽太さんはお客様がご迷惑でなければ、ご一緒のお部屋がよろしいようですよ?朝、私にそう申されておりました」

「えぇ?何だか照れるなぁ」


 案内した書庫で説明を聞いた陽太君は半信半疑だったが、本を見ていく内に驚愕の表情を浮かべていた。どうやら本物らしい。僕にとってもこれが本物だという確証が得られた。最初に教えた書庫の仕組みや個人的な領域への過剰な干渉の禁止。これらをきちんと理解して、お互い滞り無く調べを進めていた。

 書庫を調べ始めて十分。今日はカウントダウンが書かれた付箋の日数は三枚埋まっている。相変わらず付箋は日数以外の大した収穫は得られない。それでも情報が見つかるかもしれないと、毎日調べている。結局、カウントダウンの空白が埋まっただけだった。

 ふと横目で陽太君を盗み見る。陽太君はさっきから同じページをずっと見続けていた。心なしか眉間に小さな皺が寄っている。声をかけたいが、干渉はできるだけ避けるべきだ。気を取り直して日記を開く。


「お・・・」


 昨日、白紙だったページに文字が浮かんでいる。今日は収穫有りだ、と心の中で手応えを感じた。


『五月七日 ここ最近、美幸の体調が悪い。明るく振舞ってはいるが動きが鈍い。お腹も膨れてきているのに、心配だ。今日は会社帰りに僕たちの思い出の躑躅を買って帰った。白の躑躅だ。美幸は嬉しそうにお腹の中の子供に紹介していた。今日は元気になれて良かった』


「・・・?」


 最後の一文の漢字が読めない。白い、何だろう。僕と美幸にとって思い出深いものらしい。これは記憶を辿るに重要なものかもしれない。とは言え、これは辞書を引くにも頭文字の言葉が見当もつかない。どうしたものか、と頭を悩ませていると横の本棚で新しい本を取り出す陽太君が目に入った。


「あ、あのさ。ちょっとだけ、助けて、ください」

「はい?」

「えーと・・・ここの漢字とか読める?」


 年下の子供に読めない漢字を教えてもらうなんておかしな話だ。だが幼い年であんなにもしっかりした子なら博識かもしれない、なんて淡い期待をしてみたり。ダメ元で日記を差し出し、『躑躅』を指差す。日記を覗き込んだ陽太君は、あっさりと答えてくれた。


「つつじですね」

「つつじ、って花?」

「花です」

「花、か・・・」


 躑躅。僕と美幸の思い出の花。ピンと来ないが必ず重要な鍵になるはず。心の内にしっかり留めておこう。


「すごいね、陽太君。こんな難しい漢字が読めるなんて。何でも知ってるんだ」

「何でもは知りません。教わったことだけ知っています」

「教わった?」

「えぇ。僕が知っていることは全て、祖母に教わってきたものです」

「へえ。陽太君って意外とお婆ちゃんっ子?」

「いいえ。僕は祖母に育てられてきたんです」


 しまった、と慌てて口を手で覆った。聞いてはいけないことを聞いてしまったか。顔の血の気がさっと引く。過度な干渉は良くないと書庫に入る前に僕の口から教えたはずなのに。


「ご、ごめん」

「大丈夫ですよ。ボクは物心着いた時から祖母が親代わりでしたから、両親への思い入れは大してありません」


 陽太君は困ったように微笑んでみせた。陽太君の滅多に見ない笑った顔を、こんな時に見れても素直に喜べない。


「この本は全部、祖母が買い与えてくれた物です。本棚が三つも埋まるくらい有ったなんて、改めて見ると驚きました」


 本棚に並ぶ背表紙を眺めると、ほとんどが勉強の参考書だ。国語や算数など主要教科のみならず、社会や理科なども並んでいる。しかし中には背表紙には数学、生物、物理、英語など銘打たれているものが見受けられる。更にどの参考書も色褪せている。かなり使い込まれているのが分かった。その他にも料理本、歴史書、地理が書かれた本、そして花や昆虫や植物の図鑑まで並んでいる。随分と多種多様な本を買ってくれていたらしい。


「陽太君は中学生、なのかな」

「小学四年生です。祖母は在籍している私立小学校の付属中学には行かせず、更に上の私立中学に受験させようとしていたんです。だから数学や英語の参考書も持っていただけです」


 背表紙を見るだけで分かるくらいにヨレヨレの参考書。小学生が「数学」と銘打たれた参考書をあれだけ使い込んでいるというのか。勝手な先入観だが、この手の教育方法は当の子供は望んでいないパターンを想像してしまう。次の会話に繋がる言葉に困っている僕を察し、「違いますよ」とやんわり釘を刺された。


「祖母は、僕を良い子にしようとしてくれただけです」

「良い子?」

「良い子、というのは優秀な人を指す祖母の理想だったんだと思います。何でも知っていて、何でもできる。他人の手を煩わせない人を良い子と。どっちかと言うと、利口な子ですね」

「今の陽太君で十分じゃないか。礼儀正しくて博識。文句無しだ」

「ボクなんてまだまだです。納豆の美味しい食べ方も知らなかったですし。だからもっと良い学校に行って、大きな会社に勤めて・・・そこまで出来て祖母の教育は終了でした」


 何だか陽太君の意見を聞きもしていないような教育計画にもやもやする。


「誰にも頼らずに一人で生きていけるように。そのために知識はいくらあっても困らない。万のことに長けていれば、それは人生における最強の武器だと。祖母が口を酸っぱくして言ってましたよ」

「辛くなかったの?だって君の意見なんてまるでお構いなしみたいじゃないか」

「人から見れば、自由が皆無で可哀想に見えると思います。でもこの教育は祖母を亡くした後の僕のためにやってくれてることだって分かっていたから、何も辛いことはありませんでした」


 あっ、と全てを察した。心の中に沸いたもやもやが音を立てて萎れていく。今度は何も知らないくせに邪推した僕への罪悪感がこみ上げる。


「祖母はボクを引き取った時、八十を越えていました。いつ病にかかっても死んでもおかしくない歳です。祖母が亡くなってしまうと、他に親類がいなかったボクは正真正銘の天涯孤独の身になってしまう。だから祖母は死ぬ前にボクが一人でも生きていけるように、あそこまで厳しく育ててくれたのです。それに、祖母は厳しいばかりではありませんでしたよ。愛情なくしてボクの先のことまで考えてくれるはずもありませんから。ボクは何でも教えてくれる祖母を尊敬していたし、祖母の言う良い子になりたかった。そうすれば祖母を安心させられる」


 ここに来てから初めて感じる陽太君のいきいきとした雰囲気だ。相変わらず表情は硬いが、それも少し和らいでいる。彼がお婆ちゃんっ子に間違いはないようだ。


「でも・・・まさか、祖母の前にボクが死んでしまうなんて思いもしませんでした」


 子供特有の透き通った声が一段、低くなった。本棚に並ぶ参考書を大人のような手つきでそっと撫で、ぽつりぽつりと言葉を零して行く。


「誰かに教わらずとも分かります。親より先に死ぬのは良い子じゃない。祖母は死後のボクについて心配する必要は無くなります。けれど、その代わりにきっと死ぬまで悲しみ続けている。その悲しみが色褪せる時間も無く、しっかり心に留めたまま亡くなってしまうことでしょう」


 言葉が微かに震えている。まだ幼く小さな子が、泣くことを抑えられるものか。陽太君はどれだけの物を背負い続けるのだろう。このままでは一人で消え入りそうな気がして、慌てて陽太君の肩に手を置いた。


「陽太君、お婆さんのことを想っているんだね」

「そうですね。ずっと一緒にいましたから。なのに・・・」

「・・・なのに?」

「悪い子ですよ、ボクは。悪い子のまま死んでしまいました。祖母にとってボクはずっと、悪い子のままです」

「悪い子だなんて思うもんか。お婆さんは君に愛情を持って接してくれたって言ったじゃないか。そんなに気に病むことはないんだよ」

「祖母がどう思うかも勿論、重要です。でも、今回は祖母の教えに背いてあの世に逝ってしまう自分自身が許せない」


 これが、この子の心の重荷なのか。祖母に対する罪悪感、自分自身を許せない自責の念。この年にして、あまりにも多くのことを学んでしまったから?それとも祖母を大切に想いすぎてしまったから?だからこんなに重い心の重荷を背負っている。


「悪い子のまま人生を終える・・・考えたこともなかったけど、それだけは・・・絶対に避けたかったなぁ・・・」


 一体、どうすればこの子の心は晴れるのだろう。時間が何とかしてくれるようなものではない。現世にいるお婆さんとの話し合いができない限り、この問題は解決しないんじゃないか。迷っているうちに、陽太君が形だけの笑顔を貼り付けた顔で振り向く。


「すみません。過度な干渉は禁止事項なのに、こんなこと喋っても何も言えませんよね」

「・・・いや、君が話したいことは何でも聞くつもりだ。だから言いたいことは言っても良いんだよ。自分から話してくれるなら干渉の内に入らないさ」

「・・・ありがとうございます」


 渇いた微笑みを見せる陽太君に何と声をかけるべきなんだ。本人は必死に隠しているつもりなのだろうが、瞳が大きく揺れていた。今にも涙が流れ出そうだ。また自分の無力さを痛感する。陽太君の肩に置いた手に力が入りそうになった。


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