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初日

行方不明になってしまった身寄りのない人でも、友人や仲間など待っていてくれる誰かがいるというニュースをきっかけに書いた小説です。社会人になって帰ったら誰かが待っていてくれる家があることのありがたみを改めて実感したので、加筆修正を施して投稿しようと思い立ちました。やっぱり突っ張った心が安らげる家って本当にありがたいです。大半はこんなとこでこんな人たちとゆっくりしたいね、って願望が大半。

初めて書いたものを某新人賞に送って箸にも引っかからなかったので供養も含めて。

 ゆらゆらと揺れていた。揺り篭の中にいるのだろうか。自分を何かが包み込んでいる。これは液体だ。決して不快には思えない。呼吸を邪魔するでもない。体温を奪うでもない。優しく抱え、眠りへと誘い、安らぎを与えてくれる。

 母の優しさを彷彿とさせる水。何と言ったか。子を身篭った母親の胎内に満たされている水があった。胎児が浸かっている液体・・・そうだ、これは羊水だ。

 羊水?


 意識の底から引き戻されて目を開けた。

 視界がひどく歪んでいる。無数の赤い光がグニャグニャになりながら輝く。呑気に呆けていると、小さなシャボン玉が光に吸い込まれていった。


(・・・水の中)


 自分は水に全身を沈めているんだ。横たわっていることもあって、全身に満遍なく。水は冷たくも温かくもない。ただ安心できる。この水に全てを委ねても全く苦しくない。むしろ心安らぐ。

 しかしずっと寝ているわけにはいかない。ゆっくりと上半身を起こす。自分の動きに合わせて、控えめな水音が響いた。顔に滴る水を掌で乱雑に拭う。水を吸い込んだ髪をかき上げ、周りを見回す。

 石畳の中心に堀があり、桐が組み込まれている。風呂のように水が張られている中で自分は呆然としていた。

 顔を上げると藤の花が屋根を作っていた。水の中から歪んだ赤い光と思われる、五つの赤い提灯がぶら下がっている。細く撓った木が頂点の中心から無数に伸び、作りは傘の骨である鉄の棒に似ていた。骨と骨の間を藤の花で肉付けされ、骨が途切れている箇所から藤の花が隙間なく垂れている。ここは藤の花の傘で覆われているのだろう。


「綺麗」


 水から立ち上がり、藤の花に近付く。服が水を吸い込んで少し重い。特にスーツズボンは子犬がぶらさがっているみたいだ。藤の花を暖簾のように、そっと両手で藤の花を左右に開く。

 石畳の道がずっと遠くに続いていた。到着点が見えない。両脇には紫の光を放つ灯篭が道に沿ってずらりと並んでいる。かなりの数だ。何故か灯篭の向こうは真っ黒で何も見えないのが不気味に感じる。たくさんの幻想的な明かりがあるというのに辺りは暗がりだ。暗い場所だからといって妙にはっきりとした道しか見えないのも可笑しい。

 不可解な状況にようやく戸惑いが生まれ、手に力が入る。自分の手のひらを握ったつもりが、違う感触がした。

 その手には使い古された提灯が握られていた。


「・・・・・?」


 年季が入った火袋の向こうから光が儚げに揺れている。妙な灯りだ。火袋の中を五つの光が自由に行き来している。中を覗き込むと五匹の蛍がいた。狭い火袋の中をゆらゆらと舞う。何故か蛍は空気穴から逃げ出そうとしない。それどころか提灯の中で灯火の役割を担っている。まるで早く進みましょう、と急かされているみたいだ。


「進む・・・」


 振り向くと、そこには石畳の道が反対方向に続いている。藤の花も水も跡形もなく消えていた。体は水を吸い込んだままで、まだ水が滴っている。

 唖然としていると蛍が空気穴のすぐそこまで来ていた。他の蛍は道を照らしてくれているのか、前方に集まっている。


「道なりに?」


 肯定のつもりなのか、蛍の影が交差して飛行している。人らしい人がいないこの空間ではとても心強い存在だ。淡い光に勇気をもらって歩き出す。

 最初こそしっかりとした足取りだったが、それも長くは続かない。幾分か察しはついていた。この道は相当長い。先が見えない道なんて、とんでもない距離と簡単に予想がつく。その不安を片隅に追いやっていたのだ。一体、何時間と何歩の道のりを歩き続けているのか。

 じわじわと石畳の硬さから来る痺れが足に現れ始める。石畳の先は相変わらず漆黒の闇一色だけ。巨大な怪物が底なしの口をぽっかりと開けて、自分という獲物を待ち侘びている。いや、自分は既に口に入って喉を伝って腹の中にいるんじゃないか。


「・・・どこまで続いている?」


 こんなにも延々と続く道なら、進む必要はどこにある。どこまでも続くなら、たどり着ける場所なんてない。なら、このよく分からない空間のどこにいようが状況は同じじゃないか。

 長く一人でいた心細さに耐え切れず、このどうしようもない弱音を無性に吐き出したくなった。吐き出す相手なんて見当たらないのに、と心の中で苦笑する。

 すると道を照らしていた蛍が提灯の空気穴に集まりだした。蛍たちの優しさだと勝手に解釈すると、熱いものが胸に込み上げてくる。きつく結んだ口が緩み、弱音がぽろぽろとこぼれ落ちた。


「此処はどこなんだ」


 誰の答えも聞こえない。


「何故、進んでいるの」


 優しい蛍も答えない。


「どこに向かえば・・・」


 そんなの決まっている。外から戻る場所なんて自分の家しか無い。と、自分の心が答えてくれた。


「家・・・」


 俯く顔をゆるゆると上げたが、やはり目に入るのは暗闇が隠してしまう道の先。


「・・・帰りたい」


 家に帰りたい。願ったって日常の中で当たり前に叶ってしまう願いが、こんなにも果てしないと思う日が来るとは、いつ想像できただろう。混乱する頭が無性に家に帰りたい衝動に益々駆り立て、安心を求めている。


「家に、帰りたい」


 帰ったら、出迎えてくれた誰かに言いたい。

 ただいま、と。


「帰れないのかもしれないな・・・」


 ああ、ダメだダメだ。気をしっかりしなければ。気を沈めて更に自分を追い込んではいけない。

 自分に喝を入れたと同時に、石階段が唐突に目に入る。


「あ、れ」


 慌てて周りを見回す。単調な視界が一瞬で家々が密集する景色に変わってしまった。

 そこは閑静かつ、ゆかしい古さが全体に広がっている住宅街だ。建物の多くは木造建築の平屋が並び、道は舗装されていない。石畳による足の痺れを緩和してくれる。

 知らないはずの風景にも関わらず、懐かしさを感じた。それと共に寂しさがしんみりと心に染みる。昭和の古き良き町並みとやらを初めてこの目で見た。

 辺りは夕刻を過ぎようとしている。家に帰ることを急かす夕暮れ時だ。茜色の色調は少し残っているものの、夕日は完全に落ちる数歩手前。手に握られた提灯にいる蛍は少なからず役目を果たしていた。


「何が、何だか・・・」


 さっきから突然、居場所が変わってばかりだ。まずは延々と続く薄暗い石畳の上。その前は藤の花に囲まれた水の中。

 その前は・・・その前は、自分はどこにいたのだろう。


「そうだ、人がいるはず」


 とにかく今は人に会う必要がある。この不可思議な状況について少しでも確実な情報が欲しい。しかし夕方が終わりそうな時間だからか、人っ子一人といない。外に人がいないなら手頃な家を直接訪ねることにしよう。そうなると気になるのは最初に目に入った石階段の上の家だ。

 石階段が構えられていることもあり、他の家より高い位置に建っていた。石階段の先は頑丈な大木で作られた門に繋がり、家は木造の塀に囲まれている。辺り一帯はほとんど平屋だが、ここは立派な二階建て。家の広さが分かる大きな瓦の屋根が見えた。

 この家の住人に話を聞くべきか。でも入ったとして何と聞く?ここはどこか、と聞くだなんて怪しいことこの上ない。下手したら不審者と扱われ、警察を呼ばれてしまう。悶々と悩ます頭に、凛と透き通った声が静かに響く。


「こんばんは」


 へ、と間抜けな声を出して辺りを見回す。慌てふためく姿が滑稽だったのか、後ろでクスクスと控え目な笑い声が聞こえる。自分の背後には目の覚めるような美しい女性がいた。


「ごめんなさい。驚かせちゃいましたか」


 女性は見目麗しく、目鼻立ちが大変整っている。透き通るような乳色の肌、潤った上品な口元、ぱっちりとした金茶色の瞳は輝く星を埋め込まれている錯覚を覚える。黒髪は一纏めに束ねられ、艶やかであろう項を隠してしまっているのが残念だ。

 服装は透明感のあるブラウスに、膝上のプリーツスカートを爽やかに着こなしていた。すらりと伸びた足には少し不釣合いなサンダルを履いている。

 こんなにも麗しい異性を目の前にして鼓動が高鳴るのも無理はない。現に今、彼女の眩さに言葉を失っているのだから。


「お腹がすいたでしょう?すぐにお夕飯にしますから」


 よいしょ、と両手を上げて食材でいっぱいの買い物袋を得意げに見せてくれた。そして足早に石階段を登って門をくぐって行ってしまう。


「え、あ、ちょっと待って」


 太陽のように微笑む彼女に見とれていて肝心な話を聞くことを忘れていた。慌てて彼女の後を追う。石階段を駆け上がり、門をくぐると大きな日本家屋を目の当たりにして足を止めた。

 黒くずっしりとした瓦が白い土壁によく映えて、間近にすると圧巻だ。磨硝子戸の玄関に続く石畳と庭を柵で仕切られている。庭には数本の木と、向日葵、鉢に植えられた朝顔、薄い紫を帯びた白い小さな花が生えていた。特に意図無く植物が散りばめているように見えるが、するりと心にそよ風を送ってくる。不思議な庭に面した縁側には蚊取り線香が置かれ、南部鉄の風鈴がコロコロと可愛い音色を奏でていた。純朴な庭を見ていると後ろから声をかけられる。


「おっと。こんなとこで呆けてちゃあいけやせんぜ」


 野太い声の迫力に驚いて振り向くと大柄で屈強な男が立っている。がっちりとした逞しい体格と厳つい顔つきにたじろぐ。風貌こそ威圧感の集合体だが、親しみやすそうな雰囲気が違和感なく彼に一致している。使い古されたつなぎを着こなし、両袖を豪快に捲くり上げている。仕事帰りなのか、黒ずんだ汚れが目立ち、汗が滲んだ額に白い手ぬぐいを巻きつけている。肉体労働者かもしれない。

 誰だか分からないが、この敷地内に入ってきている。きっとこの家の関係者だ。ようやく話を聞ける人に出会えた。


「か、勝手に入ってしまいすみません。少しお聞きしたいことが」

「お戻りでしたか」


 今度は庭から声がかかった。柵の向こうに人の良さそうな老人が立っている。皺が深い顔は微笑んでいるせいで更に皺だらけだ。手は骨ばっており、腕には紫の血管が浮き出ている。

 彼の腕には水滴を纏って輝く夏野菜が入った籠を抱えていた。麦わら帽子を被り、首には手ぬぐいを巻いている。きっと水を含んだ冷たい手ぬぐいだ。泥がついたポロシャツにチノパンとサンダル。いかにも畑仕事帰りといった格好をしている。


「お二人共、今お帰り。今日はどうでしたか」

「もうてんてこ舞いでさぁ。せっかくご客人がいらす日だってぇのに落ち着けねぇ。この町の職人不足ってのぁ困りもんでさぁ」

「それはそれは。今日は夕涼みでもいかがですか。つまみ用の漬物が良い塩梅で出来上がりましたよ」

「ありがてぇ。なら、こちらもとっておきの大吟醸を開けましょうかねぇ」

「酒の席は人が多い方が盛り上がりますからな」


 言いながら老人は自分の方に顔を向ける。男はシシシと笑いながらお猪口で酒を飲む動きをして見せた。これは自分もその酒の席に同席する流れなのか。酒だけじゃない。今思えばあの女性も夕飯を振舞ってくれるような口ぶりだった。

 自分は此処がどこかも、この人たちが誰かも知らないのに何を言っているのだろう。状況が飲み込めず困惑していると男に背中をぽんと押される。


「奥様がお待ちですぜ。どうぞお入りくだせぇ」

「さあさあ、お早く」


 二人に促されるまま玄関の前に立つ。どうにも此処の人と話が噛み合わない。その奥様がせめて話を聞いてくれる人であるようにと願いを込めて戸を開ける。そこは中まで古き良き日本家屋の造りだった。右手に靴箱、左手には切り絵が描かれたカレンダー、下は不規則なタイル張り、上には裸電球が明かりを灯す時を待っていた。ここでも木の匂いがする。外でもない家の中なのに。

すると奥の廊下からパタパタと足音が聞こえる。


「お待ちしておりました」


 奥様と言っていたことから大人の女性が現れるとばかり思っていた自分に、思いもよらない衝撃を受ける。

 目の覚めるような絶世の美少女だ。

 輝くばかりの清らかな美貌。儚く柔らかい雰囲気。息をするのも忘れてしまう美しいものの存在を考えたことなどなければ、存在するとも思わなかった。

 幼さが残っていながら美しい端正な顔立ちだ。雪の白さが眩しい肌、儚げな琥珀色の伏せ目、優雅な薄紅色の唇。夜を閉じ込めたような黒い髪は後頭部で一つに丸めてまとめている。淡い緑色の着物をきちんと着こなした立ち姿が幼さを感じさせない。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とはこのことか。

 呆然と立ち尽くす自分を前に、少女は滑らかな動作で浅い礼をする。そして鈴のなるような声で言った。


「お帰りなさいませ」


 まるで、ずっと自分を待っていたかのように。

 少女の美しさに全ての意識を持って行かれていると、視界が白に覆われる。


「わっ」

「びしょ濡れで長く外にいては、いくら夏でもお体が冷えますよ」


 頭に白いタオルをかけられた。濡れた髪を優しい手つきで拭いてくれる。水は滴っていないが、髪に含んだ水をきちんと拭いてくれた。そう言えば、あの藤の花の水で濡れたままだ。乾き始めているものの、少し肌寒い。


「風邪をひいては大変。夏風邪は長く続きますから」

「はあ・・・」

「お湯を沸かしてあります。どうぞ温まってください」


 清純な微笑みにまた意識を持って行かれそうになった。どうにも生返事になってしまう。そんな自分を訝しむことなく、少女は家に上がるように促す。


「旦那、そいつはあっしがお預かりしましょう」


 男は後ろから自分が持っている提灯を指さしながら声をかけてきた。あぁはい、と言われるがまま提灯を手渡す。そう言えば中には蛍がいる。伝えようとしたが男は門のところで火袋を下げて当然のように蛍を外に逃がしていた。


「ご苦労さん。また次も頼む」


 手慣れた手つきだ。蛍の提灯はこの地域の伝統なのだろうか。首を傾げつつも家に上がった。

 あれよあれよという間に風呂に通される。道中で戸が開け放たれた台所や居間らしき部屋を通りすがりに見た。木の匂いに混じって畳の匂いも漂う。懐かしいような、新鮮なような。こっそり空気を吸い込んでいると、既に風呂に到着していた。少女はごゆっくり、と頭を下げて来た道を戻り、台所に入っていく。

 脱衣所に入った時に、少女にここはどこか聞くのを忘れていたと思い出す。今からでも聞きに行こうか。しかし水浸しで人様の家をうろつくわけにもいかない。ここは素直に風呂を貸してもらおう、と自分を納得させて服を脱衣籠に入れる。

 風呂場の磨硝子の横扉を開けると湯気が立ち込めていた。中から湯気がもうもうと立ち込めている。風呂はタイル張りの円柱型だ。丸くくり抜かれた中にはなみなみと湯が張られていた。

 この形の浴槽を見るのは初めてだ。もしかしたら銭湯に置いてあるのかもしれないな、と思いつつ体を洗おうと檜の風呂椅子に腰を下ろす。片方だけに取っ手が付いた木製の風呂桶とプラスチックの風呂桶、その中には手ぬぐい、それと乾燥した蓮根のような物が用意されている。

 これはもしかして昔の人のスポンジ替わりで知られるヘチマではないのか。緑ではなく白いせいで気付きにくいが。なるほど、たしかに収穫してそのまま使ってもスポンジになることはないだろう。乾燥させて初めて道具へと進化するんだ。試しに体を湯で流してからヘチマを使ってみた。面白いくらいにボロボロ垢が出てくる。スポンジの劣化版だと勝手に思っていただけに驚きだ。一体誰がヘチマで体の汚れを取るなんて用途を見つけたんだろう。

 しかしこれは力を入れて洗うと中々に痛い。ある程度の力を加えないと垢は取れないので痛みは必ず伴う。素直に感動はしたが、次から使う時は気分次第になりそうだ。

 体を洗い終えた自分は、ゆっくりと足を湯船につけた。そして徐々に全身を入れていく。自分の体積分だけ湯が溢れてしまう。勿体無いと思う分、見ていてちょっと爽快だ。


「あー・・・疲れた」


 歩きと混乱による疲れで湯の癒しが一層身に染みた。しかし、このままでいるわけにはいかない。あの人たちには聞きたいことがたくさんある。ここがどこか、貴方たちは誰なのか。

 いきなり人に物事を聞くのは失礼か?まずは自分のことから話したほうがいい。人に名を聞くときも、まずは自分から名乗るのが礼儀と言う。そうだ、ここに来る前のことを話そう。まずは目を覚まして変な場所に居た。藤の花の屋根が綺麗で、その中の水でこんなびしょ濡れに。そこを出ると延々と続く石畳を歩く羽目になり、果ては足が棒になった。そして自分でも気付かないうちにこの家の前に立っていた、と。


「言えないよなぁ・・・」


 起承転結も何もあったものではない。幻想的な話にも聞こえるが、体験談として語られては相手が反応に困ってしまうだろう。本当にどうしよう。ここまで良くしてもらって警察に対応を変えられるのは勘弁だ。一息つけたというのに説明のしようがない経緯に頭を抱える。


「お湯加減はいかがですか?」


 悶々としていると脱衣所から声がかかる。先ほどの少女の声だ。


「ちょうどいいです。おかげで温まりました」

「それはようございました」

「すみません、先にお湯を頂いてしまって」

「とんでもございません。貴方はこの家の大切なご客人。どうぞ、ごゆるりとお過ごし下さい」


 客?面識もないのにこんなに良くされていいものか?濡れているからといって風呂を貸してくれて、しかも客として迎え入れてくれている。この人たちの目的はなんだろう。決して悪意が隠れているようには見えないが。


「浴衣を置いておきますね。大きさが合わなければお申し付けください」

「ありがとうございます」

「では失礼致します」


 脱衣所の扉を閉める音が聞こえた。

 長湯は迷惑だし体にも毒だ。汗も流すことができたので、覚束ない足取りで風呂場を出る。やはり逆上せかけてしまったらしい。

 脱衣カゴには自分が着ていた服が無くなっていた。代わりに白いタオルと、藍染の浴衣、桔梗色の帯、そして男用の下着が丁寧に畳んである。浴衣の着方は詳しくは知らないが、とりあえず浴衣に袖を通して帯を締めた。姿見鏡を見ると普通の浴衣姿だ。特におかしい姿ではないので脱衣所を出る。


「あら」


 ちょうど廊下で少女と出くわす。手には白い布で蓋をされた大きな御櫃を抱え、着物の上に割烹着を着ていた。こうして見ると料理屋の女将のようにさえ見る。立ちくらみをしたのは風呂上りのせいだと思いたい。


「お、お先にお湯を頂かせて、頂きまして、あの」

「ふふ、はい」


 年下なのにこんなに綺麗な人を前にしては言葉も詰まるのは道理だ。自己擁護をしても、うまく話せない自分が情けない。挙動不審の自分を彼女は菩薩の微笑みで受け応えてくれる。これではどちらが年上なのか分からない。


「ちょうどお夕飯ができあがりましたので、こちらへどうぞ」


 御櫃を運ぶ少女の後ろについて行くと畳の居間に通される。部屋の中央にある座卓には出来たての食事が並べられていた。そこでは先ほどのプリーツスカートの女性が準備をしている最中だ。そこに少女が加わり、御櫃から茶碗にご飯をよそい始める。麦が入った白米だ。座卓には油揚げと豆腐の味噌汁、ミョウガと煮魚、茄子の煮物、冷えた麦茶。それぞれ五人前が用意されている。

 開けられた障子の向こうは門の前で見た縁側だ。蚊取り線香の懐かしい香りが風を一層感じさせる。外は茜色の夕方に染まっているがまだ明るい。日が昇っている内に風呂を済ませるなんて、変な気分だ。


「あら、お戻りでしたか」

「お先にお湯を頂きました」

「はいはい。あ、浴衣の大きさは大丈夫そうですね」

「すみません、お借りしています」

「いいえ、誰も着てなかったものなのでお気になさらないでください」


 とてもよくお似合いですよ、と褒められてしまった。口から出た否定で満更でもない気持ちは隠れているだろうか。


「腹が減ったぞー!腹と背がくっつきそうだ!」


 庭から手ぬぐいを肩から掛けた先ほどの男が甚平姿で出てきた。草履を乱暴に脱ぎ捨て、どかっと席に着く。


「もうお風呂に入ったの?」

「庭で水浴びて着替えただけだ。汗が我慢できなくてな」

「ちゃんと後で入るのよ」

「へいへい。分かってらぁ」


 言いながら煮物に伸ばした男の手を彼女が叩き落とす。


「はしたない!つまみ食いなんかしないで!」

「んだよ、心が狭い女だな」

「まあまあ、今日は朝から大忙しだったそうじゃないですか。漬物でもつまませてやってください」


 いつの間にか後ろに老人が立っている。手には五人分の漬物が乗ったお盆を持っていた。


「ご客人、食事にしましょう。席へどうぞ」


 席に座るよう促され、おずおずと下座に座ろうとした。しかし老人の強い勧めで上座に通されてしまう。自分の右隣に食卓の準備を終えた少女、その隣に老人が座る。左隣にはプリーツスカートの女性、その隣に甚平の男。恐らくこの家にいる人間が全員、この食卓に集まった。


「皆さん揃いましたね。では、本日はようこそおいでくださいました」


 少女はこちらに頭を下げ、自分も慌てて同じ動作をする。


「家の者一同、貴方を心から歓迎致します。今宵は貴方をお迎えする晩餐として、腕によりをかけさせて頂きました。と言いましても、格式張ったものではございません。どうぞ、お楽しみくださいませ」

「は、はい」

「それでは皆さん、お手を合わせて」


 真っ先に手を合わせた甚平の男を筆頭に、他の二人も続いて両手を合わせた。その次に自分が手を合わせたのを確認すると、最後に少女が手を合わせる。


「いただきます」


 少女の後に三人が続く。そして自分も同じように。


「い、いただきます」


 待ってましたと言わんばかりに甚平の男が煮物に箸をつける。それを呆れた目で見ながらプリーツの女性は味噌汁をすする。勿論、音など立てず上品に。


「いつ見ても豪快な食べっぷりですな。若い頃の私を思い出しますよ」

がっつく甚平の男を穏やかな目で見守りながら、老人は煮魚をほぐす。

「もう、甘やかさないでください。お行儀が悪いったらありません」

「おーおー、手厳しいこって」


 嗜められても彼の食欲は勢いが衰えることはない。


「大体、あっしの仕事は肉体労働が分野ですぜ?そりゃあ腹が減るわ疲れるわ、時には怪我するわでへとへとなんでさぁ。せめて食事においては一番優遇されてもいいんじゃないですかい?それがダメなら多少の行儀の悪さに目を瞑るとか」

「寝言は寝てから言いなさい。お客様を差し置いて貴方を優先するはずがないでしょう。自分の身の丈を忘れたのかしら」

「よくもそこまで小言の言葉が尽きないもんかねぇ」

「原因が貴方である以上、彼女の無尽蔵でしょうなあ」

「安息もできねぇなんて、そりゃぁねぇぜ」


 会話を繰り広げる三人は楽しそうだ。しかし自分の箸は行き場に困っている。どうにも食事が進まない。


「やはり使用人と一緒の食事は珍しいですよね」

「え?」


 隣の少女が愛くるしい笑顔をこちらに向けながら言った。


「ですが、この家で彼らは大切な家族です。共に食卓を囲むことをご理解頂きたく存じます」

「い、いえ!全然!むしろ自分の方が皆さんの食卓にお邪魔している身です!そんな失礼なことは思ってはいませんので!」

「ご客人、落ち着きなさいな」

「はいどうぞ、麦茶ですよ」

「あ、ありがとうございます・・・」

「はっはっはっ!この時代では非常識だ何だと言われそうなもんですがね、旦那のような客人は寛大で助かりますわ!」


 客人の自分だってこの時代の人間ではないのか。違和感のある言葉を流しながら麦茶を飲み干す。

周りの空気に押されて、もそもそと自分も食事を始めた。考え事に意識がそれてしまうせいで咀嚼が億劫だ。味わっている余裕も無い。きっと丹精込めて作ってくれた食事だと分かってはいる。けれど味覚ではなく、思考に意識がどうしても吸い込まれてしまう。周りからの声に中身のない返事を返し、味気のない食事を終える。

 後片付けくらいは手伝おうとしたが、プリーツスカートの女性がテキパキと食器を片付けてしまった。手持ち無沙汰になっていると、少女に隣の部屋に案内される。この部屋の向こうに襖を隔てて、もう一つ部屋があった。傘をかぶった小さな電球が照らすそこに通されて、少女と向かい合って正座をする。

夜に染まった縁側を背にした少女と、その向かいに座る自分。襖の前に使用人の三人が並んでいる。左から甚平の男、プリーツスカートの女性、老人の順番だ。まずは少女から話を切り出された。


「遅ればせながら、いささか無粋ではございますが自己紹介をさせて頂きたいと思います」


 そう言えばこの家や道中について考えすぎて、この人たちのことをほとんど知らずにいた。


「では他所様に名を聞くときはまずは自分から、と言いますのでこちらから」


 少女が使用人の三人に目配せすると、では、と老人が手を挙げる。


「身共は庭師の富助です。木々や草花のいろはしか頭にない、しがない職人でございます。その分野でよければ何なりとお申し付けください。どうぞ、お見知りおきを」


 隣の甚平の男が嬉々とした表情で話に割って入る。


「富助さんの知識は本物ですぜ。こと野菜の話は聞いてて飽きないもんで、この家に出てくる野菜は富助さんが丹精込めて作った自慢の逸品でさぁ」

「はぁ、ご自分で野菜を作っているんですか」

「つまらん趣味です。皆さんの広いお心で身共の趣味に付き合って頂いているだけですよ」


 甚平の男の賞賛に照れつつも嬉しそうだ。そんな甚平の男が、それじゃあ、と手を挙げる。


「あっしはこの家の用心棒を担っております。武之と申す者でさぁ。腕っ節ばかり立つ門番といったところで、力が入用の時には遠慮なく言ってくだせぇ」


 にかっと笑って腕を叩いてみせた。そんな武之さんを隣からプリーツスカートの女性が冷ややかな目で制する。


「居候、のお役目も言い忘れているわよ」

「その居候に守られた家に住んでいる身で心痛なお言葉どーも」

「まあ、口の減らないこと。その女に身の回りを世話してもらっていることをお忘れなく」


 口論が長引きそうな二人を富助さんが宥める。まるで聞かん坊な弟と、それを叱るしっかり者の姉のようだ。そして富助さんは二人の保護者的存在といったところか。噛み付いてくる武之さんを適当にあしらい、彼女はしずしずと畳に手を付いた。


「お見苦しいところを申し訳ありません。私は女中の澄江でございます。皆様の身の回りのお世話を任されておりますので、御用の際はお声をおかけくださいませ」


 見とれてしまうおしとやかな動作に武之さんは、騙されるなと言わんばかりの呆れた目をして手をひらひらさせている。そんな武之さんに気付いた澄江さんが食ってかかり、再び富助さんが仲裁に入った。

苦笑いをしていると、少女もつられて笑っていた。楽しそうに風に揺られ、一輪でも十分な輝きを見せる花が彼女の後ろに見える。


「賑やかな使用人たちではございますが、自分の仕事に熱意を持っております。誠心誠意、骨身を惜しまずお客様の衣食住の支えとなりますでしょう。是非とも彼らを頼ってくださいませ」

「はは・・・」

「では、最後は私が」


 少女の言葉を聞くと使用人三人はぴしっと背筋を正す。やはりこの家の主人は彼女のようだ。まだ幼く見えるが、どこか風格がある。自分も思わず背筋を伸ばした。


「この家の家主となります。名を、絹子と。以後、よしなに」


 可憐だ。少女が持つ可憐だけでなく、大人の色香が清楚さと違和感なく合わさっている。自分より若いはずなのに、彼女を絹子さんと呼んで何の疑問も浮かばない。むしろそう呼ばねば彼女に失礼な気がしてならない。彼女はきっと敬うに値する少女。三人が彼女の一声で背筋を伸ばすのも頷ける。

これで家主と使用人たちの紹介が終わった。どれも印象強いが、調子を崩されてはいけない。


「皆さん、ご丁寧にどうも。自分は」

「えぇ、承知しております」

「はい?」

「貴方が仰りたいことは存じております。何も、ご存知ないのですね」


 それは自分が一番、言いたくて聞いて欲しかったこと。思いがけず先を越されてしまった。勢いを削がれて小さく俯いて頷く。他の三人からは「え?」と驚かれたり、「そうだったのですか・・・」と反省されたり、「ああ、やはり」と納得したり。声を潜めているものの様々な反応だった。


「貴方からの問には全てお答えいたします。ですがその前に一つ、確認のためにお尋ねいたします。恐らくこの問で全て滞りなくお話できるかと」


 絹子さんの真剣な眼差しに身を引き締めてどうぞ、と質問を促す。すると絹子さんではなく富助さんが声をかけてきた。


「では身共より質問させてもらいましょう。ずばり、貴方は何かご自身のことについて覚えていることはございますか」


 突拍子も無い質問が来た。それでいて答えに迷う。もう少し的を絞った質問が来ると思っていたが随分と大雑把だ。


「覚えていること、ですか」

「具体的には、ここに来る前は何をしていたかをお聞かせ願いたい」

「自分でもよく分かりませんが・・・目覚めたんです。藤の花で作られた屋根に覆われた水の中で。そこから」

「そこから蛍が入った提灯の灯りを頼りに石畳の上を延々と歩く。そしていつの間にか、この家の前に立っていた」


 自分の声ではない他人の声で答えを言われてしまった。誰も予想できない、幻想の世界でならあるかもしれない話だと自負しただけに驚きだ。


「そう、その通りです。とても不思議な光景でした」

「それだけですか?」

「はい、それだけです」


 富助さんはなるほど、と呟き何度も頷く。どうして見ていたかのように言い当てたのだろう。あそこにいたのは自分一人だけのはず。しばらくすると合点がついたような、それでいて真剣な顔で顔を上げる。老人特有の凄みがあった。


「ご客人、察するに貴方はご自分に関する記憶をお持ちではないとお見受け致します」


 ぶわっと胸の奥が熱くなった。

そうだ。頭のど真ん中に静かに佇む真実を些細なロジックが呼び起こしてくれた。

自分には目覚める前の記憶が無い。だから自分のことが何も分からない。名前も、素性も、一人称さえ何だったのか忘れている。頭のどこかで気付いていた。自分の不安定な心を保つために記憶喪失という事実から目を逸らしていたんだ。


「どうして、そう言い切れるのですか?自分のことが分からないとは一言も・・・」

「分かりますとも。記憶をお持ちになっているからこそ、この場にいらっしゃる意味がご理解頂ける。貴方様はこの場所の意味がお分かりでいない。それはもう記憶をお持ちでないとしか考えられません」


 随分ぶっ飛んだ推論じゃないか。この場所の意味を知らないだけで記憶を失っているという豪快な判断は理解に苦しむ。意味のある場所とは役割を果たす場所、即ち何かを営んでいるということか?しかし店を構えているようにはとても見えない。


「ここは何かの施設なんでしょうか」


 うーんと頭をかきながら武之さんが答える。


「お固く言えば特殊な療養所ですかねぇ」

「え・・・じゃあここに来る人は患者さんですか」


 それって自分がどこかに疾患を抱えていることになるのではないか。記憶を失っている身であることが説得力を感じさせる。


「患者でもねぇかなぁ。少し心の荷物が多い普通のご客人でさぁ」

「はぁ、心の・・・」


 精神病病棟、精神異常、精神病疾患。心に良くない単語が頭の中を飛び交う。


「説明不足よ。お客様の不安を無闇に煽らないで」


 横から澄江さんが武之さんを肘でつつく。


「彼の言うとおり、私たちがお招きしますお客様は心に重荷を抱えておいでです。重荷をこの家でゆっくりと時間をかけて降ろして頂き、晴れた心でこの家を出る。その点は療養所と言えるのかもしれませんね」


 心の重荷。定義はよく分からないが、やっぱり精神治療を目的にした場所に来てしまったのだろうか。しかし招くとは何だ?自分は招かれた?当然そんな記憶は無い。記憶がないのは自分が心の重荷を抱えているから?なら招かれたとして何故あの水の中にいたのだろう。それも忘れてしまったのかもしれない。それともこの人たちの仕業?あの延々と続く石畳も?じゃあ突然、外に出て来れたのはどうやった?

 答えを聞く度に新たな疑問がどんどん連鎖して生み出されていく。唸り声が出そうになるがそこを耐えて口をへの字に結ぶ。頭から湯気を出していると、澄江さんが慌てて座卓の上の麦茶をコップに注いで渡してくれた。


「あ、旦那。吟醸割りとかどうですかい?頭がスカッとすること間違いなしですぜ」

「お馬鹿は引っ込んでいなさい!」


 自分のコップに大吟醸を注ごうとする武之さんの頭をスパンと澄江さんが叩く。ある意味この二人のやり取りも混乱の一因になっているのだが気付いてはいないのだろう。武之さんが麦茶に変なことをやらかさない内に麦茶を飲み干す。


「あの・・・心の重荷って、トラウマとかストレスとかそうゆう・・・」

「いんやぁ。そこまで深刻なものではございません。それはどちらかと言えば心の傷ですな」


 負の底なし沼に進みつつある自分の言葉を、富助さんが顎を摩りながら止めてくれた。


「心の重荷とは簡単に言えば、心残りのことですよ。こうしておけば良かった、こんなことをしてみたかった位なもんで。願い事の忘れ物が心中に引っかかっている状態ですね」


 とりあえず精神的な病とまでは関係していないようだ。だったら尚更分からない。己の片隅でどうすることもできずに燻っている後悔やら願い事を解消するために絹子さんたちがここにいる。失礼だがそれだけでは絹子さんたちに得がある話とは思えない。


「ご客人、たかだか後悔と侮ることなかれ。後悔がいつまでも心に引っかかったままである限り、それは日毎に重みが増していくもの。放置しておけば、やがて心の病に匹敵する傷となりますでしょう」

「些細なきっかけで犯した罪を謝りたい。やるべき、またはやりたかった望みを半ばで叶うことがなかった。長らく会えずにいた誰かの今を知れずにいた。どうでしょう。決して軽んじることなどできない後悔や願いと思えませんか?」


 具体的な例を挙げられてしまうと、苦しみの想像が容易だ。そもそも人が感じる苦しみや価値観、物事の感じ方は千差万別。抱える当人にとって、ここの人たちは心強い存在なのかもしれない。

つまり絹子さんたちは心の隙間に潜む混じり物を取り出す手伝いをしてくれるということだ。だが混じり物の存在すら思い出せない自分が共感するには、やはり難しい。


「藤の花は?こちらの家のものですよね」

「特にこの家のものではありませんぜ。あれは単なる門。皆で共有できる扉でさぁ」

「あの水が玄関だと言うんですか」

「えぇ。招かれた方は、まず藤の花に囲まれた清水で目覚めます。そこからは仰られた通り、石畳を歩いてこの家にたどり着く。そうなるようになっています」


 藤の花から出て、この家に繋がる道しか残っていない状況ならばそうなるだろう。


「招くっていうのはどうゆう意味ですか?応募か何かをして抽選で選ばれるとか」

「公募なんてしちゃあいませんよ。条件を満たせば勝手にお招きしている次第でさぁ」


 自己申告もしないでその人を招くことができる。一体何の権限を以てそんなことができるのだろう。言い方から察して、その人の意思など関係の無い様に聞こえる。


「招かれた人は自分で水の中に入るのですか?」

「いやいや。招かれると決まった時からその水で眠っておられるのですよ、ご客人」

「どうやって」

「うーん。答えは、目覚める前のその方そのものとしか身共には言えませんなぁ」


 やはり自分が失った記憶が重要らしい。この人たちは自分の消えた記憶が何なのかを、そして恐らく記憶を失う前の自分を知っている。知っているのなら是非もない。


「絹子さん、目が覚める前の人たちに共通点があるんですね」

「ええ。皆さん等しく」

「なら目覚める前の自分が何をしたか知っているのですか」


 ほとんど黙っていた絹子さんは目を閉じてからもう一度、真剣な眼差しで目線を合わせて口を開く。


「目覚める前の記憶、私共が申しておりますそれは」


 その方の生前の記憶でございます。


「・・・・・は?」


 生前?『生きていた時』?『死ぬ前』?

 上手く声にならない吐息が出る。自己防衛に走った頭が無理に笑顔を作ろうとする。


「・・・冗談はよしてください。記憶が無いからって何でも受け入れるわけじゃないんですよ。そんな嘘はあんまりじゃないですか」

「お目にかかって間もないお客様に嘘や冗談を言えるほど、身共らは話し上手ではありません」


 心を保つぎこちない笑顔を真面目な面持ちで一蹴された。心臓の鼓動がうるさい。振動でぐらつく心が崩れてしまう。それでもこの人達が言う事実とやらを伝えようとする言葉が容赦なく続く。


「起きる前の記憶は、ご自分の死に際です。ご客人はご自分がお亡くなりになっていることをご存知なのです。お亡くなりになって見知らぬ場所にいらっしゃるので、まあ死後の世界に行く手順とでも思われるのでしょう」

「目が覚めた時に浸かっている水は、失った生命力を与えるための清水でさぁ。致命傷の傷を癒したり、老衰した体に通常の生活ができるまでの力を取り戻させる。こっちの世界に適応させるためのものってところですかねぇ」

「長い石畳は生の世界から死の世界への境界であるこの世界への道。道をたどり、この家にお越しになれるよう空間を直接繋いでいます」


 あまりにも次元の違う話が続く。耳では話を聞いていても言葉の意味が霧のように晴れてしまう。


「死を経験したご客人は理解が早い。適応が早いと言うか、すんなりとこの家を受け入れてしまう。つまりは、どなたもこの家で時が来るまで過ごせばいいと分かっている」


 富助さんの言葉の先を武之さんが言いづらそうに繋げる。


「その時というのが、お迎えというやつで」

「おむかえ・・・」

「あー・・・ここから、死後の世界へ、と」


 作り話なら凝った設定だな、と素人目線から感心してしまうかもしれない。けれどこの人たちはそれを現実だという。そして自分の記憶を失う前の存在を否定も付け加えて。

揃いも揃って好き勝手に生と死の境界世界とやらの説明をする。馬鹿にされたような、置いてけぼりを食らったような気がして怒りがふつふつと腹の底から込み上げて来た。


「そんなこと・・・!信じられるわけがないでしょう!」


 拳を畳に力いっぱい叩き付ける。どうして記憶がない自分に見知らぬ人々に死を突きつけられなければならない。記憶喪失の自分をからかう悪質な悪ふざけだ。こっちは本気で参っているのに、いくら親切な人が相手でも怒りの一つや二つ湧き出る。

 だって、そんなの、と次の言葉に詰まっていると困った富助さんに諭された。


「ですが、この地には普通の方が外から入ることはできないのです。何故ならここは生と死の境界上にある世なのですから。それに、いきなり目が覚めて溺れない水の中にいて、藤の花の向こうは考えられない程に果てしなく続く石畳、石畳以外の道は見当たらず、気付いたらこの家の前に立っている。これが現実世界で起こるとは、考えるまでもなく不可能では?」


 富助さんの穏やかな表情は変わらないが、今はそれが残酷に見える。

 あれが現実ではありえないのは確かだった。溺れないのも、いつの間にか持っていた蛍の提灯も、あそこまで長い道も、いきなり知らない場所に立っているのも。


「なら生と死の境界であるこの世界では可能だと・・・!」

「可能ですよ。ここは現世の常識が全て通用する場所ではありません。それは貴方の目に、しかと焼き付いているはずです」

「そんな・・・」


 何を言っても自分の納得する言葉が返って来ない。自分を助けてくれる現実が何一つ見当たらない。


「ただ、どうして貴方が記憶を失ったかは皆目検討も付きません。申し訳ないがこのようなご客人は初めてでしてねぇ」

「記憶喪失と分かっていりゃあ、ここまで話が拗れることもなかったろうに、いってぇ!」

「口を慎みなさい!お客様の心中を察することもできないのですか貴方は!」

「何も叩くことねぇだろ!」

「二人共、今は喧嘩をしている場合じゃあ・・・」


 さっきまではこんなやり取りに苦笑いできた。でも今は無理だ。笑えない。笑えない話だ。

反論するはずだった声が自分の知りたくない事実を口に出させようとする。


「じゃあ・・・じゃあ自分は・・・!」


自分は、僕は、私は、俺は、僕は、ボクは。


「・・・・・死んでいるのですか」


 誰も答えない。暫く沈黙が流れると、静かに絹子さんが頷く。その顔に花の笑顔はない。


「あなたたちの答えは・・・自分が『死んでいるから』ですか・・・!」


 縋りつきたい。自分のこの震える心を宥めてくれる救いの答えに。目の前の絹子さんに、声ではなく、奥に留まる涙の重みで歪む目で訴える。しかし彼女はその視線を振りほどくように目を閉じた。


「全ての答えは、そこにたどり着きます」


 体中の血が沸騰し、カッと頭に血が上る。


「・・・嫌だ・・・やめろォッッ!」


 腹の底の熱いものの勢いに乗じて立ち上がり、乱暴に部屋を飛び出す。後ろで制止や驚きの声が聞こえたが、なりふり構っていられなかった。廊下に出て真っ先に目に入った階段を駆け上がる。

 どこへ行くかの考えなんてない。おかしな事実ばかり突きつけてくるあの人たちから、あの人たちがいる部屋から逃げ出したかった。ただ、あそこから離れた場所を目指して。

 階段を上がり、二階の一室に辿り着く。襖を開けると、左手に押入れと正面に窓と右手に丸窓障子だけの簡素な部屋。襖を閉めると、ふらふらとした足取りで開けられた窓の前に体を投げ出した。窓際には蚊取り線香が置かれている。夏特有の懐かしい香りで混乱が幾分か緩和される。


「何で・・・こんな」


 突然目覚めた自分は記憶喪失で死人だった。更にここは生と死の境界。そして死ぬ時が来たらあの世に行け?そんなこと、すぐに受け入れられるわけがない。

 たった一人で恐ろしかった空間からようやく抜け出せた自分に、親切で丁寧に接してくれる人と出会えた。だけどすぐにその喜びも打ち壊される。味方なんかじゃない。自分の存在を否定するあの人たちは違う。

 部屋の暗さが石畳の空間を思い出させる。只々、怖くて体を縮こまらせた。

その時、ゆっくりと襖が開けられる音がした。


「お加減はいかがでしょうか」


 絹子さんの声だ。逃げ出してしまった手前、合わせる顔がなくて返事もできない。


「・・・突然あのようなことを申し上げては驚かれて当然でしょう。混乱を差し上げて申し訳ございません」


 絹子さんの声は申し訳なさそうだ。違う、自分は彼女に怒っているんじゃない。ただ、恐ろしい。自分の帰る場所を無くすような言葉を突きつける彼女たちが。でも否定の言葉が出てこない。もどかしさから震える声を吐き出す。


「・・・勝手ですよ」

「と、申されますのは?」

「自分のことが何も分からなくて、唯一分かったことは死んでたことってくらい・・・それで時が来ればさっさと天国なり地獄なり逝けって・・・勝手じゃないですか・・・!」

「私達が、でしょうか」

「分かりませんよ・・・!誰かなんて分からないですけど、勝手です・・・!」


 今の自分が置かれた理不尽な状況に、怒りが体を焼く。絹子さんに怒りの矛先を向けたくない。怒りを自分の中に押し込めようと更に体を丸める。これ以上喋ってはダメだ。衝動に身を任せた言葉が止まらなくなる。口をきゅっと結んで目を固く瞑り、その拍子に目から涙が溢れた。

 何も覚えていない自分には一体何が残されているのだろう。あまりにもたくさんの自分を追い詰める負の感情が喉の奥で詰まっている。破裂しそうだ。むしろ破裂して自分も何もかも消えてしまえばいいのに。こんなもの要らない、苦しい。何もいらない、辛い。つらい。


「いつか消えるくらいなら、いっそ今消えてしまいたい」


 思わず出た言葉につられて瞼を薄く開けた。涙で視界が揺らいでいる。暗闇の暗さも手伝って何も見えない。このままでいい。何も見えず、何も聞けず、何も分からず、無くなれば。

無くなればいいのに。

 その時、自分の後ろで膝をつく音が聞こえた。そして自分の頭にそっと手を置かれる。手を置かれた箇所がぽかぽかと暖かくなっていく。不思議な感覚が喉のつっかえを溶かす。


「先ほど申しましたが、この家にいらっしゃる方々は心の重荷を抱えたままお亡くなりになっておられます。ここではその重荷を降ろして頂かねばなりません。重荷を抱えたまま死後の世界に行くことは可能ですが、後に大きな負担となり兼ねます」

「死後の世界に負担なんて・・・」

「ありますとも。死後の世界で重荷を抱え続ければ、心は疲れ果て、自我を失い、暴走する魂魄となり、当てもなく現世を彷徨いますでしょう。抱えた重荷を現世で晴らすために」


 死後の世界で二度目の死を迎える。それもはた迷惑な方法でだ。


「記憶が無いのに、分からないですよ・・・自分の心の重荷なんて。分からないのなら心の重荷も感じない。どこに問題があるというんですか」

「貴方が覚えてらっしゃらなくても、重荷は今も心が抱え続けています。重荷として残り続けているのなら、ご本人の意思に関係なく心の負担はいずれ暴走します。死後の世界で心の負担となることに変わりはございません。それに分からないままでいては、どうしようもない重みに尚の事苦しまれるとは思いませんか?」


 出る杭は早めに打つに越したことはないと。結局、やらなければならないことは一つしかない。心の重荷を抱えた記憶を思い出す。でないと死後の世界で苦労することになる。

 何より、自分の死を受け入れなければならない。落ち着き始めた心が再びざわめき出す。


「・・・自分はどうしたらいいのですか。重荷を降ろすことがこの家の目的なら、自分は何もできない」

「本来は違った意味で用意されたものですが、記憶を取り戻す手段はございます。それでも・・・」


 絹子さんの言葉が止まった。分かっている。きっと絹子さんは言うだろう。


「ご自分の死についてどう向き合うかは貴方次第です」


 全ては自分次第だ、と。

 献身的な彼女の雰囲気とは違った、芯の通った揺るぎない声だ。彼女に心臓が高鳴ったことは何度かあったが今回は違った意味で心臓が脈打つ。


「死を受け入れるのも、受け入れないのも。そもそも私たちの言葉を信じるかどうかも。それは貴方のご判断に委ねるしかないのです。そればかりは私達はお力添えになれません」


 それはそうか。自分の判断は自分でするしかない。自分の分岐点を決める他人の判断なんて、結局は何の意味も無いだろう。


「でも、この家から出て行かれるとなると困ってしまいますね。この町には宿泊施設もありませんし・・・お客様に野宿をさせるのは心苦しいことこの上ありません」


 頭に置かれた絹子さんの手が優しい手つきで自分の頭を撫で始めた。これは落ち着かせようとしているのか、子供扱いしているのか。少しくすぐったい。


「記憶を失ってしまわれた貴方は確かに何もお持ちでないのかもしれません。記憶を失っただけで全てを失うことは、壮絶な虚無感に胸を押し潰されるものでしょう。ですが同時に貴方は帰る家と、迎える者たちをお持ちになりました」


 春の温もりを持つ手が、頭に上った血を元の場所に戻してくれる。ゆっくりと、あやすように、時折髪に指を絡ませて。その滑らかな動きが、余白を失った自分の心を少しずつ解放してくれる。


「貴方を待ち侘びていた者達がここにいます」


 自分にこびり付いていた孤独や不安や恐怖が、心安らぐ安心へと変わっていく。


「おかえりなさいませ。貴方がいらっしゃる時を心よりお待ちしておりました。本日より、ここが貴方の帰る家となります」 


 この家の人たちは味方ではない、という枷が崩れて消え去っていた。


 身軽になった自分の意識は眠りの底につく。


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