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破・黒いカードの秘密

歩きながら尻のポケットから定期券を取り出し、自動改札機の読み取りにかざした。

改札を抜けると目の前に階段がある。Sはいつも通り4番線ホームへと向かった。


ホームへ向かう階段は乗車用と降車用に分かれている。

そして、どういう訳か降車用が優先された作りになっていたりする。

乗車用は右端に、それこそ人ひとりが通れるくらいのスペースしか設けられていない。

金属パイプの手摺で区切られ、1対9くらいの割合で降車用が優先されているのだ。


朝の通勤ラッシュと夕方の帰宅ラッシュ、時間帯に応じて乗車用と降車用を入れ替えても良さそうなものだが、ルールというものは大抵が杓子定規だ。


Sは右端の乗車用をのぼった。いつもそうしているからなのだが、確たる理由があってそうしている訳でもない。刷り込まれた自然は行為に溶ける。


階段の踊り場で金属パイプの手摺も途切れる。Sがそこに差し掛かったとき、突然、降車用のスペースから男が割り込んで来た。下から駆け上がって来たのだろうが、咄嗟に身をかわし衝突を免れた。危ねえな、この野郎… Sの眉間には皺が刻まれたが、彼は詫びるどころか、振り向きもせずそのまま行ってしまった。


『感じ悪いなぁ…』


いつもだったら呼び止めて説教のひとつでも垂れているところだろうが、今日のSはいつもと違っていた。


『あの野郎、俺が百万抱いてんの知ってやがるのか…?』


そう。彼の懐には謎の老紳士Mから貰った百万円があったのだ。




ホームに着くと、いつもの看板広告を目掛けて歩いた。『ご利用は計画的に』のキャッチコピーが沁みる。その文言を心の中で復唱しながら、自然と口許が緩んでいるのに気付いた。


『やぁ、返す必要なかったんだったな。悪いね、ご利用できなくて』


Sは込み上げてくる笑いを堪えようと口許を手で覆った。それでも肩が小刻みに揺れている。傍目には十分過ぎるくらい挙動不審に映ったことだろう。


やがて、電車がするするとホームに到着し、扉が開くと降車客を一斉に吐き出した。Sの腕に女性のハンドバッグが当たったが、Sはにっこりと笑顔で応えた。女性は小声で済みません、と云うと、降車客に流されるままにその場から消えた。


Sは電車に乗り込んだ。いつもなら空席を探すのに必死だったが、今日は随分と勝手が違う。空席を見つけるまではいつも通りだったが、年配の女性に目配せすると、どうぞ、と云って席を譲った。


「ご親切にどうも」

「いえいえ、当然です」


普段のSらしからぬ行動に一番驚いていたのは当人かも知れない。

彼は誇らしげで生気にみなぎった表情を見せていた。


「人が大勢のところは苦手でねぇ」


席を譲った年配の女性が話しかけて来た。


「まぁ、得意な人はいませんよね」


と応えた。


「人波に揉まれると目がくるくる回っちゃってねぇ」

「そうなんですか?」

「そうなのよ。あたし、三半規管が弱くてね。本当は手術しないといけないのよ」

「そんなに悪いんですか?」


Sは気の毒そうな顔をした。


「でも、手術代も高くてね。入院費用も馬鹿にならないし…」

「はぁ、でも、お子さんか誰かに相談すれば何とかなるでしょう」

「いやぁ、それがね。息子の嫁がおっかなくてねぇ」


Sが片眉を上げた。


「同居っていうのもいろいろ肩身が狭いものなのよ」

「それは大変ですね…」


年配の女性は、ほうと大きな溜息を洩らした。その様子を見るに見かねて、Sは「ちなみに幾らくらい掛かるんですか?」と訊いた。


「え? 何のことです?」

「やぁ、入院費やら手術代やら…」

「ああ、そのことね」

「ええ」


年配の女性は躊躇しながらも片手を上げた。Sが目を瞠る。


「50万!」


周りの乗客がにわかにざわついた。Sは卑屈そうな笑みを浮かべてぺこぺこと頭を下げた。

年配の女性が上目遣いでSを覗き込んでいる。それに気付くと、「済みません。急に大きな声出して…」と詫びた。


「いえいえ、そうよねぇ。びっくりするわよねぇ」

「ええ、驚きました…」


Sはばつの悪そうな表情を見せたが、不意に懐の現金のことを思い出した。


「おばあさん! いい方法がありますよ!」


再び、周りの乗客がざわついた。Sは頭を掻きながら誤摩化した。今度は年配の女性のほうが驚いたようだ。


「どうしたんですか? 急に…」

「や、済みません。いい方法を思いついたもので、つい…」


と誤摩化し笑いを浮かべながら、はたと老紳士Mのことを思い出した。


『自分のためだけにお金を遣いなさい』


「ああ、そうだったんだ…」


Sは、そう洩らすと顔をしかめた。


「どうかしたんですか?」

「いや、ダメなんですよ…」

「何が?」

「自分のためじゃないとダメなんです…」

「はぁ、何のことだか…」

「済みません。力になれなくて…」

「ええ、まぁ。それはそれは…」


年配の女性は皆目見当もつかない様子で目を瞬かせていた。依然、Sは顔をしかめている。


やぁ、なかなかどうして。難しい条件だぞ…

何、俺だって偽善者じゃねえから、幾ら困ってる人が目の前に居るからって…

大体、初対面だしな? 席は譲ったが、ゼニまで出す義理はねえ。そうだろ?


や、だからって、さんざ話聞いといて、黙って引っ込めてていいものか?

そりゃ、あんまりだろう… 息子夫婦もいい気なもんだ…


俺には浮いたゼニがあるんだし、全部出したって半分残るんだ。それになくなったら電話すればいい。しかも返済不要。このばあさんより全然条件いいじゃねえか…


でも、他人のために遣っちゃいけねえんだよ…

やぁ、参った… そこが難しい…


Sは普段使わない脳細胞をフル回転させた。

しばらくして電車が停車した。


「お兄さん。あたしはここで降りますよ」

「え? ああ、はい」

「お兄さんも大変なのね」

「は?」


年配の女性は会釈してから電車を降りると、お気を付けて、と云った。Sが片眉を上げる。


『なんか顔に書いてたのかなぁ…』


扉が閉まり、電車が走り出した。Sは車窓から年配の女性をぼんやりと目で追った。




乗換駅で電車を降りた。雑踏に揉まれながら、いつもの駅構内を歩いた。途中、花屋や喫茶店、ショーウィンドー越しの洋服などが目に入ったが、いつも通り、素通りした。


いつもの電車に乗り、いつもの風景を車窓からぼんやりと眺めていると、線路沿いの赤提灯が目に留った。


あそこで一杯引っ掛けてくか? 焼き鳥でもつまんでよぉ。鶏軟骨なんか最高だろう?

やぁ、そんなことは自分のゼニでもできるなぁ…


百万だぞ、百万。そんなしみったれた遣い方じゃなくてよ、こうパーッとさぁ。

普段、できねえようなことをやらかさねえとなぁ、つまんねえだろ?


まぁ、そんな訳であそこは却下だな、悪いな。

つか、俺、誰に云ってんだ? まいっか。


今日のSは脳内会議に余念がない。否、彼は普段からそうなのだが、今回のような議題がのぼることはまずない。皆無だ。


自宅最寄り駅に着くまでに、何軒かの飲食店が目に飛び込んで来たが、先の脳内会議同様、すべて却下された。


なければない分だけ悩み、あればあった分だけ悩む。それがお金だ。

日常に埋没している所為か、とんとインスピレーションが湧かない。耳元で囁く精霊も舞い降りて来ない。そうこうしているうちに、とうとう、彼は自宅最寄り駅に到着してしまった。


『こんなもんかねぇ…』


普段、持ち慣れない大金を持つと、案外、誰もがこうなのかも知れない。


Sは通い慣れたいつもの商店街をぶらぶらと歩いた。自宅マンションに着くと、オートロックの鍵をひねり、自動ドアを開けた。エレベーターのボタンを押し、降りて来るのを待った。


エレベーター脇の掲示板に目を遣る。ゴミの出し方や警報機の検査などのお知らせが貼ってあった。しばらくしてエレベーターが1階に到着し、ドアが開いた。俯いたまま乗る。5階のボタンを押すと、ドアが閉まり静かに上昇した。


5階に着くと一番奥の部屋へ向かった。503号室。鍵を開け玄関の照明を点けた。靴を脱ぎリビングへ向かうと、照明を点けソファにどかっと腰を降ろした。そして、懐からゆっくりと札束を取り出し、テーブルの真ん中に置いた。


リビングの照明が札束を浮かび上がらせている。Sは腕組みをして唸った。


「さ〜て、どうしたもんかねぇ〜」


スポットライトに照らし出された札束を睨みながら、男が腕組みをして唸っている。

何とも可笑しな画だ。こんなシーンはなかなか拝めるものではない。


「自分のためだけに遣うんだろう? 自分のためだけって… 一体、何だよ?」


自問が声に出てしまっている。相当、追い詰められているようだ。


ひとりのときに喋るのが独り言だが、その独り言を聞く者は本来、誰も居ない。

だのに、何故、独り言として認識されるのだろうか?


それは、自己の存在があるからだ。

自身が自身に語りかけていることを、自身が自覚しているからだ。


残念ながら今のSにはその自覚がない。

その証拠に自問が発声されてしまっている。本来は脳内でおさめるべきだろう。


自覚がない人間というのは、自身を客観視することができないのだ。

故に、このような珍妙な光景が傍目どのように映っているか、そんなことは露ほども考えない。


Sよ。何を悩むことがある? 自由に遣って良い札束を目の前にして──。


「ったく。まどろっこしいなぁ〜 こんちくしょー!」


Sは両手を挙げてソファに反り返った。堪らず、老紳士Mから貰った黒いカードを取り出し、携帯電話に手を伸ばす。素早く番号をプッシュし受話器を耳に押し当てた。コール音を3回聞いた後、「はい、Mです」と音声が流れた。


「ああ、Mさんか? 俺だよ、俺!」

「俺様? はて、とんと存じ上げないお名前ですなぁ」


受話器を外してしかめっ面をした。


「…何とぼけてやがんだ、俺だよ、Sだよ! 今日、駅前で…」

「ああ、あなたでしたか。いやぁ、お名前頂戴しとけば良かったですね。失礼」

「そんなことはどうでもいい。ちょっと困ってるんだ…」

「どうしましたか? もうなくなってしまったのですか?」

「なくなるも何も… ビタ一文遣ってねえよ」

「それはそれは。何故、遣わないのですか?」

「何故って、そりゃ条件が…」


Sが口籠った。


「条件が何です?」

「条件が厳しいんだよ!」

「厳しい? はて、自分のために遣えば良いのですよ?」

「それは分かってるんだが… 兎に角、来てくれよ!」

「はぁ、別に構いませんが…」

「頼むからちょっと相談させてくれよ」


なかば懇願に近い声色だった。受話器の向こうで老紳士Mが眉を八の字にした。


「あなたが遣っていないことは知っていました」

「…何だって!?」

「まだ、あなたにお話ししていないことがあります」

「何だよ、そりゃ!?」

「今からご説明差し上げに伺います」

「何だか知らねえが… 兎に角、分かった。何処に行けばいい?」

「あなたの自宅で構いません」

「自宅? 何だ、俺んち知ってるのか?」

「大体、分かります」

「何故!?」

「あなたに差し上げた黒いカード」

「ああ、黒いカードが何だ!?」

「発信器が埋め込まれているのです」


Sが大きく目を瞠った。


「ですから、あなたの自宅は大体、分かります。今からお伺いしますね」


では、どうか冷静に、と云うと老紳士Mは電話を切った。

Sは受話器を握りしめたまま呆然としていた。

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