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 私のことを同僚だと紹介すると、マーケティング中だと理解されて、また明日ねとあの人に手を振られてはひとりで帰るしかなくて。

 何もわからない。霞がかかったみたいにもやっとしたまま、ふわふわとおぼつかない足取りで、気付いたら自分の住むアパートに辿り着いていた。

 出向で関東に行っていた同期で、今しがたこちらに帰ったばかりだというその女性は、当たり前のように手荷物をあの人に差し出していた。

 夕食は何処にしようかと話しかけて、いい店ができたんだよと応じるあの人は何も後ろめたい様子もなく自然で。

 私は、失礼しますと会釈するので精一杯だった。


 日付が変わる前、あの人からメールが届いた。

 明日、説明する。

 前置きも装飾もない簡素な文を何度も読んで、考えようとして、結局諦めた。

 携帯端末を握りしめた左手を胸に押し当てて、ぎゅうっと目を瞑る。

 もともと、期待なんてしてなかったんだから。明日なにを告げられても、私は大丈夫。

 希望なんて一筋も見えなくても、その夜は泣かなかった。


 記憶の中のあの人は、いつも微笑んでいる。

 小さな丸いカフェテーブルの向こうから、そうっと差し出された手が、包み込むように顎から頬を撫でて戻っていく。

 榛色の少し眦の垂れた目は、細められている。こういうのを愛おしそうな、って言うのかしら。なんだかちょっと眩しい感じに幅を狭めて、私を見ている。

 どうしたらいいのか判らないから、取り敢えずカップを持ち直して紅茶を飲んだ。

 真っ白でシミや汚れどころか模様すらない陶磁の茶器は、優美なラインがしっくりと私の掌に馴染んでいる。だけどそれをむやみやたらとソーサーに置いてはまた持ち直して小さくひとくち。

「楽しいですか」

 自分でもぶっきらぼうな声が出てしまった。

「この上なく楽しいよ」

 ちょっとニヤケた感じで、あの人は返した。嫌みのように取られていなさそうで、ほっと吐息する。

 足を使う仕事。とはいえ、殆どは屋根のあるところにいるだろうに、この人は年中日焼けしている。わざとじゃなくて自然に焼けた小麦色だから、どんな色の服でも似合っていた。オフホワイトのニットを着て、時折思い出したかのようにコーヒーを口に運んでいる姿は、カフェの男性スタッフすらチラ見するくらいかっこいい。

 それにくらべて……私は。

 顔からテーブルへと落ちていく視線を追うかのように、あの人の手が伸びてきた。その人差し指が、とんとんと私の手の甲を叩く。

「俺ね、本当にきみのことって特別だと思ってるんだ」

 脈絡のない台詞に、きょとんを通り越していぶかしげに首を傾げると、まいったなあなんて首の後ろに手を当てて、少しだけ赤くなっている。

「二ヶ月前、交際をオーケーしてくれてから、誰とも寝てない」

「はい?」

「あ、その顔は嘘だと思ってるだろ。確かに俺誰にでも気安く声掛けるしさ、イケるって思ったらそのままってことも多いけど

 いや、多かったけど。っていうか、今はきみひとりしかいなくて」

「そう、ですか」

 話半分に割り引いて聞いておいた方がいいんだろう。きみひとりなんて、きっと全員に言っているんだ。

 ただ、たまたま私とブッキングしていないだけで。

 そう、思うのに。

 指先が震えて、カップを落とさないようにと戻すときに、カチャカチャと音が鳴った。

 私なんて、出会った瞬間から好きだった。

 素敵な出会いがあるかもなんて期待して入った勤め先は、雑貨店を営む企業で。店舗の名前は、店ごとに全部違う。だからこれもチェーンと呼ぶのかもしれないけど、ぱっと見には全然別の店だろう。品揃えだって違うし。

 私が居る店舗は、ショッピングモール内にある。市内には、郊外に姉妹店もあって、立地が違えば客層も違う。そういう店舗ごとのカラーに合わせて商品を仕入れてくるのが、この人の仕事だ。

「ゆっくり仲良くなりたい」

 そう言って、テーブルの上で所在なげにしていた私の手に、あの人は自分の手を重ねた。

 とうに二十歳を過ぎている私をなんだと思っているんだろう。勿論、こんな触れ合いは嫌いじゃない。学生たちのようにあからさまにではなく、さりげなく少しだけ触れてくる。隣を歩くときには、腰に手を回し合うことだってある。

「どうして誰にも言ってないの」

 少し前に、あの人は不思議そうに私に尋ねた。

「嫌がらせで殺されたくないですから」

 眉を顰めて答える私を、更に不思議そうに見つめたっけ。

 私、どこかおかしいのかな。きっとあの人が今まで付き合ってきた人は、こんなにかっこいい人が恋人ですってアピールして回ったんだろう。でもね、それは遊び仲間とかちょっとくらい恨まれても女の勲章よってくらいに割り切れている人じゃないと無理だと思う。

 私なんか、ただの売り子で、顔の造りは平凡で。髪型なんか、面倒だからいつもひっつめで。視力が低い上に乱視だから眼鏡が手放せない。

 もうじき三十に届くあの人の方が、ずっと若く見えるくらい。

 そんな私があの人と付き合っているなんて、どの面下げて誰に言うと思うのか。信じてもらえなくて嘘つき呼ばわりされた挙げ句、思い上がりも甚だしいと職場で総スカン食らうに決まっている。

 だから、あの人がいつまでこんな純愛ゲームを続けるんだろうって思っていた。

 重なった手と手が、互いの体温で更に温度を上げていく。紅潮する頬は、暑さのためだけじゃなかった。


 休日なしのサービス業は、シフト制になっている。開店前作業込みの早出と、午後から閉店作業までの遅出だ。店自体は二十一時に閉まっても、日報や在庫管理などで職場を出るのは一時間後くらいになってしまう。

 あの人の方は、基本的に売り子はしない。ただ、いれば客寄せパンダ扱いをされて店長により店先をうろつかされる。

 客の興味や会話を拾うのが楽しいからと買って出ているけれど、それを見せつけられるのは辛かった。

 そんなときだけは「あの人は私のものよ」と叫びたくなる。本人にすら言っていないのに、なんてみっともないんだろう。

 そう、私はまだあの人に自分の気持ちを伝えていない。

 怖いのだ。口にしてしまえば、きっともっとのめり込んでしまう。それに、きっとあの人だって本気じゃないから、他の女性と毛色の違う何かの愛玩動物みたいな感じで私を眺めたり反応を楽しんだりしているだけなんだろう。

 それなら、好きって言った途端に興味がなくなるかもしれない。

 駆け引きとかそんな高尚なものじゃない。

 上司で顔を合わせる機会が多いからこそ、この関係が変わるのが怖い。失ったときのことを常に考えてしまう。

 今なら、このままなら、私が嫉妬するだけでそれを面に表さなければ。もしも今日すぐにでもあの人から「別れよう」とか「もう飽きちゃった」とか言われたとしても、私一人の胸の内で終わる。

 そう、頑なに信じていた。


 そして、あの日突然の嵐がやって来た。


 翌日、早番で私が上がるタイミングをみて、あの人はバックヤードで頭を下げた。

「意味が分からない」

「ごめん」

「だからって」

「ごめん。全面的に俺が悪い。あいつが忙しくて疎遠になって、自然消滅したんだって認識してたんだ。まさか、まだ付き合ってるって思ってるとは……。だからその、」

「もういい。どうしたって彼女の方に行くんでしょ。あの人の方がずっと美人で大人っぽくて魅力的なのは解ってる。まさか二股かけられてるなんて思いもしなかった。それでも私のこと選んでくれるって信じたかったのに」

「それは、」「もういい」

 それじゃあ失礼します。バックヤードの廊下の片隅で、なんでこんな話をされなきゃいけないの。勢いよくお辞儀して、私は女性用ロッカールームに駆け込んだ。

 結局は美人を取るんだ、当たり前だ。

 バン、と荒々しく扉を叩いて、ポケットから取り出した小さな鍵を差し込む。

 キイ、と扉が音を立てて開く。しまった、こわれちゃったかな。備品は大事にしないと。ひんやりした鋼板を撫でて、ごめんねと心の中で謝った。

 私のこと、一番大事だって大切にしたいから今までみたいにすぐにベッドインなんてしないって。あれはなんだったの。結局は体を繋いだあの人の方がいいんじゃない。

 エプロンを畳んで、合成皮革の手提げ鞄を出してから、入れ替わりにロッカーの中に収める。今の私は相当不細工だろう。


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