壱 『異端の定義、無能の少年』
それは一粒の雫だった。
世界の外側から溢れ出た濁り。
どこからか滴り落ちてきた、ほんの僅かな異物。
未知なる存在――その得体の知れないナニカは、たちどころに広がり、世界を満たしていく。
ソレが何だったのか、知るモノもいた。
だが世界の侵食を止めることは、誰にもできない。
脆弱な世界は抗えず、神々の意志に反して変質し、暴走していく。
環境が変われば、人もまた変化を余儀なくされる。
まるでウイルスのように感染していく、その"異常"という名の病に抗うかのように――
人は世界に対する抗体をその身に作り上げた。
――【異能】
科学とは異なる不可思議な力。
古き時代では魔女や超能力者といった【異端】の象徴だった存在。
その異能が当たり前になった瞬間、【正統】と【異端】の定義が逆転した。
異能こそ正統。無能こそ異端。
人がまだ科学に頼りきり、超常を知らずに社会を築いていたのは遠い過去。
かつて異端と蔑まれていた異能者達は、世に蔓延り、人類は異能を元に進化した。
異能がもたらしたのは"楽園"か、はたまた"地獄"なのか。
人々は当たり前のように享受し、変貌した世界で暮らしていく。
――その先に待ち受ける終焉を知ることもなく……
かくして世は新たな時代の到来を告げた。
◆◇◆◇◆◇
ズシィィイイイイイイイン
連続した地鳴りで大地が鳴動する。
グラァアアアアアアッ
天をも揺るがす力強さで、獰猛な咆哮が飛び交う。
辺り一面は凶暴な獣で溢れかえっていた。
特殊古代遺跡――通称『聖域』。
新時代を迎えて以降、世界の至る所で発見されるようになった、遺跡群である。
強大な幻想生物がひしめく死の領域でもあった。
入ったら最後、生存率一%以下。
上位の聖域には、特にそういう噂がある。
ランカーと呼ばれる戦いを専門とする者達の中でも、更に一握りしか生き残れないということだ。
此処はその聖域の中でもトップランクに位置する最上級禁止区域。
――EX級聖域『獣王の巣』。
人類未踏と言われる、まさに神の領域。今では進入禁止となっている場所である。
その聖域の中層部、巨大な迷路を思わせる広く長い回廊の片隅で、二人の男が向き合っていた。
「やっと見つけたぞ<撃天>」
静寂に終止符を打つかのように、抑揚のない声が反響した。
全身黒ずくめの少年だ。
「クソッ! 早すぎるんだよ!」
冷ややかに躍り出た少年を見て、もう一人の男が苛ついて舌鼓を打った。
こちらは鋼のようなガタイが印象の三十代くらいの男性だ。途方もない覇気を纏っているにも関わらず、その顔には絶望の色が濃い。
男は焦っていた。
漸くここまで来れたのに、後一歩という所で追いつかれてしまった。それもよりによって最悪の刺客がやって来た。
黒一色の男と言えば、裏の世界で知らない者はいない。
「賭けに負けたか。厄介なのが来やがって……」
こんな筈ではなかった。
目的のモノがあれば逃げる必要も無くなるかもしれないのだ。
もう少し時間があれば、と男は現実の理不尽さに嘆き悲しんでいた。
「どうすりゃいい……」
男は必死に頭を働かせて、無駄とは分かりつつも、周囲にいた化獣を盾にして動き回っていた。
化獣とは、動物版の異能者といえば理解できるだろうか。
異能者として進化した動物を【化獣】、蟲類を【化蟲】、総称して【化種】などと呼んでいた。
異能が当たり前となった今の時代、人だけでなく、ありとあらゆるものが変異したのだ。植物、動物、昆虫、魚介類などなど、世界の生きとし生けるもの全てが異能者となったのである。
人々にとっては毎日が命懸け、生活に関わる全てが死との隣り合わせであった。
グルルルゥ
刺客の少年の前に、大きな影が立ち塞がる。
体長二十メートルもある巨体、人五人は余裕で飲み込める顎――ドラゴンだ。
その他にも、辺りにはドラゴンやフェンリル、フェニックスといった幻想級の化獣が徘徊していた。
しかし、少年はそれらを物ともせずに、只歩く。
聖域内部は完全実力主義。
特にこの『獣王の巣』は、高位の異能者が集団になったとしても、生き残ることが難しい『王の揺り篭』の一つ。並の異能者では入り口から数メートル程度ですら、足を踏み入れることもできない場所なのだ。
例外的な危険領域―<エクストラ>―と呼ばれる所以であった。
血が噴き荒れ、赤い雨が視界を濡らす。
少年は灼熱の炎を浴びても平然とし、逆に一太刀でドラゴンの首を斬り断つ。撃退しても次々に沸き立つ化獣が、それでも少年の歩幅に合わせて消し飛んでいく。
まるで羽虫を蹂躙する絶対の王者の進む道――覇道を行く皇帝が如き強者が、そこに存在していた。
「化物め」
追い詰められた男がその光景を見て、苦虫を噛み締めるかのように呟いた。
男の周囲にも、決して少なくない化獣達の肉片が散らばっている。ドラゴンだろうと殺られはしないが、容易くもいかない。
それを少年は、蟻を踏み潰す象のような歩みで近づいてくるのだ。
まるで悪夢。足止めすらできない。
自分よりも遥かに年下の少年に対してこの屈辱。
所詮この世は実力社会、獣と同じく弱い者は淘汰されるのが運命なのか。
やって来る少年に勝てる気がしない。
男は覚悟を迫られていた。
夏夜の蚊を鬱陶しく払うような、少年の静かな足取り。
彼の威圧感を諸に受けて、猛々しい唸り声を轟かせていた化獣の群れもビクついている。
怯えながらも果敢に突進していくのはプライド故か……。
「よもやEXランカーのお前がここまで堕ちるとはな」
「うるせぇ! あともう少しだったのによう。何で、テメェが来やがるんだ!」
向かい合うのは二人の超越者。彼らは過酷な世界において、さらに異常な戦闘のスペシャリスト達だ。
"トップランカー"と謳われる、聖域踏破のプロフェッショナル達が、対立していたのだ。
片や余裕なく怒鳴り散らす、白に近い薄灰色の髪の男。その身が発する風格の割には、落ち着きがない。
もう一人は凪のように落ち着いた黒髪の少年。年の割には達観しているように見える。
白と黒。
このご時勢、髪色は異能者の才能を測る一つの目安であった。
異常による染色体の変化。最高峰の白、そして最底辺の黒。
特に黒は世界でも異端中の異端、異能という超常の力を持たない――無能の証でもあった。
「最深部に行って何をするつもりかは知らないが無駄だ。投降しろ」
少年が男を威圧する。
その声に宿るのは絶対なる自信。
ヤケクソ気味で暴走寸前のEXランカーを前に、少年はひたすら説得を試みていた。
何とか穏便に済ませたいがための行動だが、その声が男に届いた様子はない。
「追跡者がよりにもよって異能零の死神<常闇>とはな。とうとう運まで堕ちたか。ハハ、泣けてくるぜ」
男が場を誤魔化すように戯ける。
言葉とは裏腹に、彼は逃げる手立てを講じていた。少年の努力も虚しく、投降の意思は無かったのだ。
絶対に捕まってたまるか!
激しくもあざとい信念が渦巻くなか、男は何とか打開策を見出そうとしていた。
しかし既に打つ手はなく、考える程、自らの不運を嘆くばかり。追い込まれていく。
「――ったく、しつけぇんだ、よっ!」
話の途中でドラゴンの尻尾が襲ってきた。
男の敵は少年だけではない。化獣は彼の味方ではないのだ。
迫り来るドラゴンの巨体を男が蹴飛ばし、見えない速度のフェンリルを少年が薙ぎ倒す。
世間の誰もが恐れおののく伝説級の獣達が、まるで紙くず同然に崩れ落ちていった。
この地獄絵図の中にあって、二人は襲い来る化獣を楽々と倒しながら会話していたのだ。
「大体テメェはずりぃんだよう。何だ、その力は!」
「何が"ずるい"だ。お前も知っているだろう? これは只の烙印。そしてこの力は異能ではなく技術――」
少年の口から溜息が漏れる。
このやり取りも何回したことだろうか。自分と戦った者は必ずその疑問を口にする。
この黒髪は只の異端の烙印だというのに……。
少年の心に過ぎるのは、一抹の寂しさだった。
日の当たらない裏の世界ならまだ良い。だが眩しい表の世界では決して生きていけない。
裏世界だけが少年の唯一の居場所だった。無法者の集まりだが、皆気の良い奴らだ。
それは目の前の男も例に漏れない。
少年にとって捕らえるべき男は傷つけたくない人種なのだ。だからこそ、争うのは極力やめにしたい。穏便に投降して欲しいのだ。
逆ギレして暴論を述べる男を見据えて、少年が諭すように語り始めた。
その間にも、無限に再生し永久凍土すら焼き尽くす鳥――フェニックスが十数匹程飛来したが、その全てが少年の一動作で凍りついている。
化獣を撃退し、男と向き合いながら、少年は昔師匠に言われた皮肉を想い出していた。
「俺は世界最弱。だからこそ世界に囚われず、故に最強になれる可能性があるそうだ」
「……はぁ? 何だそれ?」
自分の事なのに、客観的な自己分析。
地に足がついていない、とでも言うべきだろうか。
己は異端故に正常な見解ができない。信頼できる人の言葉こそが絶対。
それが少年の持論だった。
「俺が望んだ事ではないんだがな」
少年の顔に浮かんだのは寂しげな"孤独"。
幾ら友人が出来たところで、一線を引いて踏み込むことはない。
己の事情に巻き込んでしまうのが理由か。それとも裏切られる可能性を否定できない自分の心の弱さ故か。
裏の世界で名を馳せたところで、詰まるところは未熟な思春期の少年。成長しきれていない只の人間だ。
鋼の心は持ち合わせていない。
自らに刻まれた世界に反目する性質――深淵の闇。
黒髪が魅せる幻想と同じ、常闇の道であろうか。
自虐めいた発言の裏に潜むのは、自分に対する嫌悪、あるいは世界に対する恨み辛みかも知れない。
「あえて言うなら、この"異能零"の特異体質こそが俺の生まれ持った唯一の武器――」
世界に否定されたかのような存在――無能者という烙印が、少年を最悩ませていた。
他者に蔑まれ、己を隠す。
それが少年に課せられた逃れられない"枷"。
普通に暮らせず、裏の世界でしか生きれない、悲しい運命だった。
「世界に疎まれた異端の無能者――嫌でも一生消えない、俺の宿命だ。こんなものが羨ましいか?」
それでも闇の中にあって折れない心。
少年は運命に抗う事に決めたのだ。
それを表明するかのように、強く、胸に刻み込みながら言い切った。
「お前……」
その少年に何を見たのか。
男が驚愕と共に何かを垣間見る。
そして――
「お前らが羨ましいよ」
嫉妬と羨望。少年が常に抱いてきた負の心だ。
それは暴走することなく、苗を成長させる水のように、ゆっくりと少年を育んでいた。
――己が世界の異物である事を自覚しながら。
世界は少年を突き放し、それでいて巻き込むように、歪な形で動いていた。