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後編

 食事も済んだところで、タイミングよくアイスコーヒーが運ばれてきた。


 大学周辺の飲食店では、「安い」「多い」「食べられないこともない」というスローガンを満たすためか、ランチタイムでもドリンクなど付いていない店が多い。その点でも、このカフェレストランは他と違っている。


 ミルクを入れて、ゆっくりストローを回しているエルを眺めながら、僕は若干焦れていた。


 そんな僕の心境なんてお見通しだろうエルは、どこか意地悪な笑顔で口を開く。


 解決編の開始。


「彼女は、法学部の一年生か二年生。一人暮らしではなく、実家からの通学。父子家庭か母子家庭か――どちらかわからないけれど、あまり裕福な家庭ではないわ。弟がいる。彼氏はいない。好きな人はいる。サークルには入っていないでしょうね。大学にも友達はちゃんといるけれど、どちらかと云えば内気で奥手。ベジタリアンでもなければ、野菜嫌いの偏食家というわけでもない。なお、このカフェレストランで誰かと待ち合わせをしているわけではないわ。しかし、さて……」


 唐突に始まった。


 観察するだけで《事実》を言い当て、羅列して面食らわせるやり方はホームズだろうか。その反面、『レストランで一時間以上も食事に手をつけていない』という謎の真相には迫らず、一見すると無関係のヒントばかり告げる、そのとぼけた様子はポワロだろうか。そもそも全てを理路整然とあっさり見抜いてしまうあたり、ヴァン・ドゥーゼンだろうか。


 古今東西の名探偵が住まう彼女の頭は、さながら深淵の宇宙である。


「そういえば、うちのかみさんが……」


「コロンボは小説じゃないでしょう」


 脈絡もない冗談に、僕は律儀にツッコミを入れた。


 名探偵は、基本的に回答をもったいぶるものだ。


 エルもやっぱり、ヒントをくれるばかりで、肝心の回答はなかなか云わない。


 ワトソン役の語り部は、小馬鹿にされる運命にある。「君はどう考える?」なんて質問に対して、僕のような小市民が天才的なひらめきで答えを洞察できるはずがない。頭を捻ったあげく、まぬけな予想を口にして、盛大に笑われるのがオチだ。そうして、名探偵の引き立て役になるのである。


「観察するだけで、それだけの事実を見抜けるだけでも凄いね。いつものことながら、感心させられる。これでもホームズは全部読んでいるから、ある程度の逆算はできるけれど――たとえば、法学部という推理。これはバッグの中をあらためて見ればわかる。最初は英語の辞書か何かと僕は思ったけれど、あれは六法全書だ。あんなもの、法学部の学生以外で持ち歩く物好きはいないもの」


 そもそも、法学部の学生でも持ち歩くような人間は少ないだろう。高校生の頃に、英和辞書を毎日持ち歩いたかと問われれば、答えは「ノー」だ。実際、法学部の友人が、「あんな重たいもの、試験の時ぐらいしか持って来ない」と愚痴をこぼしていたことがある。


 そんな記憶を基に、僕は推理してみる。


「六法全書なんて重たい本、普段は持ち歩かない。それをバッグに入れているということは、それを今日、使う必要があったということだ。僕らはぬるま湯のような文学部生だから縁遠いけれど、理系や法学部のような学生には、頻繁に小試験が課せられるらしい。ちょうど六月も半ば、大学の講義が始まって二ヶ月ほどだから、小試験が行われても不思議じゃない。彼女は今日、試験を受ける予定だ。だから、このカフェレストランで食事を前にため息をついている理由は、試験前の緊張感が原因というわけだね」


「お見事、ポチ」


 エルがにっこり笑って、拍手する。


 僕はちょっと自信に満ちた顔になって、胸を張る。


「全然、違うわ」


 がっくり、肩を落とした。


 まさにワトソン役の面目躍如と云ったところか。


「えっと、どこが違った?」


「推理の入り口は良かったと思うわ。しかし、最初の方向性を間違えれば、進むほどに誤差は大きくなる。私が六法全書に気づいて考えたことは、ポチの推理とまるで違う内容よ」


 もう一度、よく見て――エルはそう云って、机の下でこっそり指をさした。


 僕はバッグの中にある六法全書に目を凝らした。若干の距離がある上に、バッグの中はごちゃごちゃとしていて見づらい。とはいえ、勇者をやっていた僕の身体能力は桁違いである。身体測定などでは全力で手を抜いてやらなければ、オリンピック選手レベルの成績を叩き出すどころか、人類の規格をあっさり外れてしまうぐらいだ。


 集中して、見た。


 ここ第三世界では未知の力――魔力を視界に集中させれば、目的は簡単に達せられた。


「図書館の本?」


「ええ、正解」


 六法全書の背表紙に、図書館の蔵書整理用のシールが貼られていた。


「法学部の学生なのに、六法全書を買っていないの?」


「ポチだって、金欠を理由にしていくつかの講義の教科書を買っていないでしょう。高校と違って、うまく立ち回ってやれば、それでも問題なく講義も試験もやり過ごせることを自分自身で実証しているのに……。高価な六法全書を購入せず、図書館から借りることで済ましているのは、裕福ではない経済状況を示すヒントのひとつね」


 一息置いて、さらにエルは解説する。


「大学図書館からの本の借用期間は二ヶ月よ。これを延滞すると、ペナルティとして一定期間の図書貸し出しができなくなる。だから、図書館の本を延々と手元に置いておくことは難しいのだけど、借用延長の手続きがあるでしょう?」


「借用期間が切れそうだけど、まだ研究や勉強で必要だったら、連続して借りられるシステムだよね」


「ええ。講義が始まって、ちょうど二ヶ月よ。学期の始めに図書館から六法全書を借りたとして、今はちょうどその手続きが必要になる計算ね。彼女は手続きのために六法全書を持って来たと考えるべきで、決して試験のためではないわ」


「うーん、だけど……」


 どうにも納得できない部分があり――あら探しも語り部の役割と心得て、僕は云ってみる。


「理屈は通るけれど、証拠はない。エルの推理は十分に理にかなっているけれど、理にかなっているだけならば、さっきの僕の推理だってそうだ。あれが図書館の本だからと云って、今日この日、貸し出し延長の手続きをしたかなんて、どうしてわかる?」


「あら、私、もう手続きをしたなんて云ってないわよ」


「うん?」


「まだ手続きをしていない、これからする――ええ、これは限りなく《事実》に近いと思うけれど、本筋には関係ないわ。そもそも私達が取り組んでいる《謎》を推理していった時に、偶然わかってしまうような副産物にすぎない」


 エルは試すような視線で、僕を見てくる。


 整理しよう。


 僕は六法全書があることで、彼女がこれから試験を受けると推理した。だけど、エルは六法全書は図書館からの借り物で、今日は貸し出しの延長手続きのために持ってきたにすぎない――つまり、試験などないと云っている。


 さらに、延長手続きは午後のこれから行うことまでわかるらしいけれど――それは本題には関係ないらしい。いや、ちょっと待て。エルがわざわざ『関係ない』と云ったということは、それ以外の《事実》は関係あるということだろうか。


 しばらく考えてみたけれど、お手上げだった。言葉で伝える代わりに、潔く、降参のポーズをとる。「待て」と云われて餌の前で放置される子犬を見るように、エルは笑っていた。


「では、今度はテーブルの上に一冊だけ置かれている本に注目しましょう」


「あの本は、あらためて見るまでもないよ。『近代日本文学概論』の教科書だからね。僕も受けている講義だし、それこそ僕の鞄の中にも入っている」


「あら、ちゃんとわかっているじゃない。どうしてそこで思考放棄するの?」


 そう云われて、僕はあたり前のことに気づく。


 『近代日本文学概論』の講義は、文学部で開講されている。だから、僕やエルが受講していたとして、なんら不思議ではない。疑問点は、法学部の彼女がその教科書を所有していることだ。


「ところで、ポチは『近代日本文学概論』の講義中に、彼女を見たことはない?」


「どうだろう……大教室だから、受講生は百人以上いるし、覚えてないよ」


「彼女はおそらく、教室の一番前の席か――それでなくとも、かなり前の方に座っていると思うわ。どうかしら?」


「ごめん。やっぱり、覚えてない」


「そんな申し訳なさそうな顔をしなくていいわよ。かわいい……ではなくて、情けなく見えるもの。堂々としている方が、男らしくて格好いいと思う。それに、彼女が『近代日本文学概論』の授業に出席していることは間違いないから、ポチが覚えていなくても支障ないわ」


「じゃあ、彼女はオープン科目として、文学部の授業を取っているわけだ」


 僕の言葉に、エルはうなずく。


 それと同時に、『一年生か二年生』という先の推理に納得した。


 僕やエルが通うこの大学は、とても大きな総合大学である。文学部や法学部はもちろん、経済学部や政治学部、教育学部という文系学部に加えて、キャンパスは違うけれど、理工系の学部も揃っている。さらには、体育学部や国際学部まであって、キャンパス内にひしめく学生は多種多様だ。


 それだけの学部がほぼひとつのキャンパスに密集しているため、他学部聴講――オープン科目という制度が作られている。これは自分の所属する学部以外の講義も、一定の制限をクリアすれば自由に聴講できるというものだ。


 この《一定の制限》の中に、学年の制限も含まれる。


 文学部は緩いのだけど、法学部などの国家試験を目指すような学部では、本来の勉強を疎かにしてはいけないという理由で、オープン科目の受講は一年生および二年生の時分に限られる。


 すなわち、彼女がオープン科目として文学部の講義を受講しているならば、必然的に、一年生か二年生ということになる。


 こうして順序立ててみれば、エルがどのように推理しているのか、少しは見えてくる部分もある。ホームズよろしく並べ立てた他の要素についても聞いてみたいけれど、それらはそれらで、細かな推理の積み重ねなのだろう。全てを聞いていれば煩雑になる。そもそもの『女子学生が注文したランチを一時間以上も食べていない』という謎の回答を優先して、僕は横道にそれることなく、エルへ説明を続けるようにうながした。


「では、彼女が誰を待っているのか、ということについて……」


 話し始めたエルに対して、僕はいきなり「待った」と云う羽目になった。


「エル、君はさっき、彼女は『誰かと待ち合わせをしているわけではない』と云ったはずだよ」


「ええ、云ったわ。その通り、彼女は誰かと待ち合わせしているわけではない。だけど、待ち人はいるのよ」


 断言した。


「彼女が誰かを待っているという《事実》は、あっさりわかるわ。というか、ポチも気づいていると思ったんだけど……」


「馬鹿でごめんね」


 うなだれる僕を、エルはなぜだか、熱っぽい目で見ていた。僕がショックを受けたり、気落ちしたりすると、背筋がぞくりとするような――肉食獣が舌なめずりをするような不穏な空気を感じることがあるのだけど、はたして気のせいだろうか。


「かわいいは正義ね」


「エル?」


「ごめんなさい、話がそれたわ」


 話というか、エルの脳内における思考が飛んでいたような気がする。


 そこにツッコミを入れるほど、僕も命知らずではないけれど。


「まず、注目すべきはバッグね。彼女はどうして空いている椅子に置かずに、床に置いているのかしら。見たところ、几帳面に丁寧に扱っているのか、綺麗なバッグよ。普通ならば、汚れないように椅子に置くのではないかしら。置かないとしたならば、どうして?」


「……誰かが座る予定があるから?」


「正解。それでは、二人がけのテーブル席で、奥の方ではなく手前に腰かけている理由はなぜかしら。これは個人の性格の問題もあるから一概には云えないけれど、彼女は時折、窓の外へ視線を向けている。どうやら店の外の通りに気を配る必要があるみたいね」


 エルはさらに付け足して、携帯電話をバッグの中に入れたままにしてあることにも言及した。待ち合わせならば、相手から連絡があるかも知れないから、もう少し携帯電話に気を配るだろう。


「彼女は待ち合わせをしているわけでもない相手を待ちながら、二時間近くもあの席に座っていることになるわ」


「二時間?」


 僕は驚いて尋ねる。


「どうして、二時間とわかるの?」


「だって、彼女は二時限目が終わった後、すぐにこの店に来たはずよ。それは間違いない。彼女の目的――《動機》からすれば、それは絶対に外せないポイントだもの」


 僕とエルがこの店にやって来たのは、昼休みも終わり頃――午後一時を過ぎてからだ。人気のカフェレストランであるため、昼休み時間は特に混み合い、講義直後に急いで来なければ席が取れない。僕らはそれを見越して、あえて最も混み合う時間を避けた。それでもまだ店内は満席が続いているけれど。


 そんな満席の店内で、彼女は二時間も席を占領しているのか。


 謎がより深まった気がした。


「さて、そろそろ全容が見えてきたかしら?」


 僕の内心と裏腹に、エルはそんなことを云う。


 さっぱり――という気持ちを、僕はジェスチャーで示した。


「彼女は法学部の学生だけど、文学部の『近代日本文学概論』を受講している。六法全書は図書館の貸し出しで済ませている一方で、他学部聴講にすぎない、専門外の『近代日本文学概論』については、わざわざ教科書を購入している」


「え?」


「あら、そこも気づいていなかった?」


 視線を向けてみれば、テーブルの上に置かれている教科書には、図書館のシールが貼られていない。


「家庭的にも金欠なのに、法学部生には必須の六法全書は買わずに、文学部の教科書は購入している。これもまた、《日常の謎》かしら」


 云いながら、エルは笑う。


「えー、つまり、法学部の学生だけど、近代日本文学にすごい情熱を傾けている?」


 整理された内容から思いつくまま云ってみるも、エルは首を横に振った。


「彼女を観察することで見えてくる《事実》――ここまで、その一部に至るまでの過程を説明したわけだけど、さてさて、他の《事実》に至る過程も説明していると時間が足りなくなりそうね。いいかしら。もう一度だけ、端的に《事実》を羅列するわよ」


 ――時間が足りなくなる?


 どういうことか、首を傾げる僕に対して、エルは最初と同じように言葉を繰り返した。


「彼女は、法学部の一年生か二年生。一人暮らしではなく、実家からの通学。父子家庭か母子家庭か――どちらかわからないけれど、あまり裕福な家庭ではないわ。弟がいる。彼氏はいない。好きな人はいる。サークルには入っていないでしょうね。でも、友達はちゃんと持っている。几帳面に見られることが多いけれど、実はずぼらな面もある。ベジタリアンでもなければ、野菜嫌いの偏食家というわけでもないわ。なお、このカフェレストランで誰かと待ち合わせをしているわけではない。しかし、さて……」


 いつしか空っぽになっていたアイスコーヒーのグラスの中、わずかに溶けた氷が、カランと音を立てた。どうやらそれがタイムオーバーの合図になったらしく、エルは笑いながら、「時間切れ」とつぶやいた。


 エルは流し目で、カフェレストランの入り口に視線を向ける。


 カラン、と。


 入り口の扉が開いて、年配の男性――『近代日本文学概論』の講師が入ってきた。僕も受講しているとは云え、大教室で百人以上の規模となれば、一人一人の学生の顔まで覚えていないだろうから――当然、僕の方に気づいた様子はない。


 エルはなんと云っていただろうか。


 問題の彼女は、いつも最前列か、前の方に座っていると云っていなかったか。


「先生、偶然ですね」


 講師は、洒落た女性の雰囲気漂う店内に戸惑っているようだが、彼女に声かけられて安心したような顔になる。講義中に見せる落ち着いた物腰で、何事か彼女と会話した後、「では、お言葉に甘えて……」という言葉と共に、彼女の対面の席に腰を下ろしていた。


 それを見守っていた僕の耳元に、エルの楽しそうな笑い声が聞こえた。


「それでは、私達は会計を済ませて店を出ましょうか。ポチ、私は北村薫の『空飛ぶ馬』に続くシリーズを図書館に借りに行きたいのだけど、暇ならば付き合って。ほら、もうここの店を満席にしておく必要性もなくなったから、早く出ましょう。長居すれば、迷惑になるわ」





 大学の図書館まで足を伸ばして、エルが書架の中から北村薫の『夜の蝉』と『秋の花』を探すのを手伝った。彼女がその貸し出し手続きを済ませている間に、僕は蔵書検索用のパソコンに手を伸ばす。


 六法全書で検索すれば、蔵書の中から一冊だけ貸し出されていることがわかった。返却予定日は、まさに今日となっている。それが問題の彼女が借りているものなのか――そして、これから閉館時間までの間に延長手続きをするのかどうか、そこまでのデータは得られなかったけれど。


 時計を見れば、十四時半を過ぎている。


 エルはまもなく始まる四時限目の講義に行かなければいけない。


「ねえ、エル……?」


「初々しい恋ね。懐かしいと思わない、ポチ?」


 図書館から出たことで、ようやく会話できる状況になる。


 目当ての本を見つけたことか、それとも先程の推理が原因なのか――エルは上機嫌だ。さながら、犯人を賞賛する隅の老人のようでもある。《日常の謎》では、特定の犯人なんてものが存在しないことも多々あるけれど。


僕はとりあえずの疑問点をぶつける。


「エルはさっき、問題の彼女が『誰かと待ち合わせをしているわけではない』と云っていたけれど、結局、講師の先生と待ち合わせをしていたという結論じゃないの?」


 エルが間違ったのではないかと、僕は戦々恐々としていた。


「いいえ」


 彼女は借りてきたばかりの『夜の蝉』を早速開いていた。大学内はちょうど休み時間だから、人通りも多い。字面に視線を落として、ふらふらと歩く彼女にため息をつきながら、僕はその腕を取った。


「先程も云った通り、彼女は待ち合わせをしていたわけではない。彼女はただ待っていただけよ。待っていた相手はポチもわかっている通り、近代日本文学概論の先生ね」


 理路整然と説明するつもりはないようで、やっぱり上の空である。


 そのまま講義に行ってしまった。


「え、なに、この生殺し?」


 ミステリにおいて解答編が始まったならば、常識的に考えて、物語のラストまで一直線ではないだろうか。現実の非情さを実感する。僕はあきらめて、サークルの活動場所であるラウンジに赴いて、同じく暇を持て余している先輩諸氏と雑談に興じた。


 時間潰しである。


「そもそも名探偵が解答を提示して大団円というミステリの形式が、もはや古いのだ。名探偵には様式美としての存在価値があるけれども、だからと云って、既存構造に疑問を覚えないことは進歩を弊害するものである。竹本健治を読みたまえ」


「なにおう。そう云って実験的に生み出されるアンチミステリは、しかし、マニアなミステリファンだけで消費されるものであって、一般大衆には無価値ではないか。ミステリはミステリという枠組みを疎かにするべきではなく、それこそ様式美の中で、その美を極めることを目的とすべきなのだ」


 それこそ一般大衆には無価値な議論が繰り広げられていた。


 先輩諸氏はヒートアップして、京極夏彦の本(鈍器)で殴り合うという醜態を披露する。


「お疲れ様です」


 待つこと、一時間と三十分。


 四時限目の講義を終えたエルが、ラウンジへやって来る。男子の先輩諸氏が、上を下への騒ぎで歓待するけれど、当然、女子の先輩達は鼻白む。幸いなことに、険悪な気配はエルではなくて、大騒ぎする男子の先輩方へ向けられているようだ。


 僕は待ちきれず、昼間の《日常の謎》の解答を求めた。


「あら、全て説明したつもりだったけれど?」


「名探偵ならば、ちゃんとわかりやすく責任を果たしてよ」


 そんな会話を繰り広げる僕達に向けて、ミステリ研究会の先輩達は「何事か?」という疑問の目を向けてきた。そのため、僕は昼間の一件を説明する羽目になった。語り部たる僕の役割と心得て、できるだけ魅力的に物語る。


 聴講客が増えてしまったことに、エルはやや辟易した様子だったけれど――今後、孤島での連続殺人事件などで、関係者全員を集めて《解決編》などをやる可能性もあることだし――今の内に、できるだけ慣れておいてほしいと僕は思う。


 名探偵にも作法があるのだから。


「だから……」


 エルは何から説明していいのか、迷った様子。


 結局、全てを一から順番に話すことに決めたようだ。


「そもそも私の推理の仕方は、一般的な推理方法とは本質が異なるわ。考え方、見方によっては、推理ではないと云い切ってもいいかもしれない。アンチミステリの領域に足を踏み込んでいると云っても過言ではないわ」


「推理ではない?」


 オウム返しに、僕は訊いた。


「あらゆる名探偵が登場する作品にふれて、それを実践できるように消化していく中で、ある日、自分の中にある《名探偵としての能力》が極地に行き着いたことを悟った。私が《謎》を意識した瞬間、それは《謎》でなくなる。悩む――というプロセスを経ることなく、私は瞬間的に《謎》を殺し、《真実》を悟ってしまう」


「……なに、そのメタ探偵?」


 銘探偵と呼ぶべきか(麻耶雄嵩である)。


「つまり、考えるまでもなく、解答がわかってしまうということ?」


「ええ。例えるならば、数学の問題を目の前にしながら、答えとなる数字は既に教えられているような状態ね。私がするべきことは、さながら後始末のように、途中式を考えること。問題と答えを理屈で結びつけてやれば、とりあえず普通の名探偵らしく振舞える」


 僕はしばらく沈黙した。


 彼女の性質を知っている僕は良いとして、エルをただの美少女留学生ぐらいに思っている先輩諸氏は「邪気眼が出た」とか思っていそうだけれど、そのフォローはまた後日することにしよう。


 エルの云い分が本当だとすれば、僕は怪物を生み出してしまったことになる。


 今後の物語について思い悩む一方で、エルは解決編を粛々と進める。


「そうした理由で、私は『彼女が食事を全然進めない』という謎に遭遇した瞬間、彼女が日本近代文学概論の講師にほのかな想いを寄せていて、彼と食事を共にしたいと思っていることを悟ってしまった。カフェレストランで偶然を装って、さながらネズミ捕りの罠のように、意中の相手を待ち構えていることまで」


 謎と真実を結びつける筋道は、既にある程度、エルの口から明かされている。


 彼女がオープン科目として講義を受講していること、待ち合わせもしていない相手を待っていること――それらに至る筋道は、既に解説されている。


「では、マープルのように心の内側を解明しましょう」


 エルは続ける。


「解明すると云っても、前述のとおり、彼女が誰かを待っていることは明らかだったわ。窓の外の通りを気にする様子は、そこを誰かが通りかかることを期待するようだった。さて、そもそも彼女は、どうしてテーブルの上にわざわざ一冊だけ、教科書を置いていたのかしら。長時間ただ料理を目の前に座っているだけならば、その教科書でも眺めていれば良かったのに……」


 そもそも、本を読むつもりがなかったということか。


 いや、むしろ――。


「テーブルの上に本を置いておくこと――それは彼女にとって、手段のひとつだった。外を歩く意中の相手に、私はあなたの授業を取っている生徒であるとアピールするささやかな手段のひとつ。もちろん、いつも前の方の席に座るなどして、彼女は涙ぐましいアピールをしていたはずだから、相手に顔や名前ぐらい憶えてもらっていただろうけれど――でも、それはそれとして、彼女は細かな駆け引きをした。さながら死の確率をあげることで、殺人を犯すように……」


「でも、好きな相手である先生が、偶然に道の前を通る可能性なんて低いでしょう。その上で店の中にまで入ってくるなんて、ありえない話だよ。恋愛の駆け引きにもならない。その確率は、宝くじを買うようなものだよ」


「勝算はあったはず。ポチ、あなた自身が云っていたことよ」


「え?」


「授業中にあった小話として、この前云っていたじゃない。年配の講師が、この界隈の飲食店では胃もたれを起こす――なんて、授業中に笑い話として話していたって」


 ああ、そうだ。


 語り部として見事なまでの愚鈍さ。僕も『近代日本文学概論』は受けていると云った。いつかの講義で、講師は確かに云っていた。「若いことは素晴らしい。僕がこの近辺でうっかり学生と同じ食事を摂ろうものならば、数日は胃もたれを起こすよ」。そして、それだけではなかったはずだ。


 ――彼は、他に何を云っていた?


「君達、僕みたいなおじさんの胃にも優しいお店があったら、ぜひ教えてくれないか」


 エルは歌うように云った。


「想像はつくわ。内気で奥手な少女が、普段は講義の質問ぐらいでしか話しかけられない好きな人に、勇気を出して何でもない話を――『そういえば、おいしいお店を知っているんです』なんて、話しかける微笑ましい様子」


 エルが語る情景を、僕も脳裏に思い描いてみる。


 ごく自然なそのイメージを胸に置きながら、さらに想像してみる。


「では、彼女は先生を食事に誘ったということ? それなのに、先生が遅刻をして来たから、あんなにも長い時間、食事を目の前にして待っていたということなのかな。いや、でも待って。そもそも先生がさっきの冗談を云ったのは、たしか先々週のことだよ。今日ではないのに……」


「簡単よ。そんな風に気軽に食事に誘える子ならば、もっと早くに行動しているわ。それに、そんな恋愛に手慣れた子ならば、人目につく大学界隈よりもちょっと離れたお店をチョイスするでしょうね。彼女は話しかけるだけで満足だった。先生にご自慢のお店を教えるだけで、《最初》は満足だった」


「最初は?」


「先生が小話をしたのは、先々週のことと云ったわね。その時から、彼女は悶々と考えていたはずよ。もしかしたら、先生があのお店にランチを食べに来るかもしれない。その時に自分もいれば、いっしょに食事ができるかもしれない。近代日本文学概論が終わった後、うまく偶然を装っていれば――でも、ひとつだけ問題があった。あのお店はとても混雑する。下手な時間に行けば、とても席が取れないもの。でも、それはプラスの要素でもあった。自分が一人で座っていて、そこに先生がやって来れば、先生は自分の席に座ってくれるかもしれない」


「ああ、なるほど」


 僕にもようやく、全体の流れが見えた。


「わかった。だから、彼女は長時間、あのお店で待っていた。来るかもわからない先生が、やって来ることを――もしかすれば、女性向けの店だから入口で躊躇するかもしれない先生を、逃げてしまわないように必死に探しながら。そして、偶然を装う必要があった。自分が、先生を一心に待ち受けていたと思われては恥ずかしい。だから、料理は先に注文して、相手が来た時には『今、食べ始めたところです』と弁解できる状況にしておかなければいけなかったというわけだ」


「あら、ポチにしては珍しい。正解よ」


 エルは笑いながら、小さく拍手してくれた。


「可愛らしい物語でしょう?」


 名探偵は最後に犯人を名指しする。


「《日常の謎》の正体は、乙女の恋心でした」





 小さな《日常の謎》を解き明かした、その夜。


 エルの名探偵らしさを褒めたたえた先輩諸氏とそのまま飲み会になってしまって、日付が変わる頃に帰宅した。大学から歩いて十五分ぐらいの場所にあるボロアパートは、築二十年以上は経過しており、地震がくればあっさり倒壊してしまいそうな様相だ。しかし、だからこそ安くて、間取りもいい。


 僕らが二人で暮らす分にも、十分な広さ。


 ちなみに、二階の角部屋である。


「前から気になっていたけれど……」


 風呂上り、濡れた髪をタオルで拭きながら、エルが云う。


「下の部屋から、尋常でないオーラを――うねうねとした波動を感じない?」


「そんなことより、僕はアンチミステリの研究で忙しい」


 そうなのだ。


 僕は早速、先輩諸氏から大量の本を借りてきていた。


 名探偵としてはアナーキーな推理力を持ってしまったエルを、今後の物語でも《主人公》にするため、僕は学ばなければいけない。まだまだ十分、名探偵の超人ぶりとしては許容範囲だろうけれど、先手を打っておくに越したことはない。


「ポチ」


「どうしたの、エル」


「あなたが何を考えているのか、私はお見通しだけれど……」


 僕は目の前に広げていた三大奇書―『ドグラ・マグラ』、『虚無への供物』、『黒死館殺人事件』から顔を上げて、普段より少しだけ真剣な顔をしているエルに向き合った。僕の物語が終了して以降、エルがそうしたシリアスな表情になることは珍しい。


「物語のような特別な生き方をする必要が、あるのかしら。ずっと前から聞いておきたいと思っていたけれど、いい機会だから、確認しておきたい。ポチと私は――勇者と王女はグラシアを救った。それはたった一年だけの冒険だったけれど、私は一生に一度だけ経験できるものとして、十分だったと思っている。満足しているわ」


「エル、僕は欲張りなんだ」


 僕はそれだけ云った。


 そして、次のことは云わなかった。


 世界を救った物語は、僕の物語だ――とてもすばらしく、楽しい物語を読み終えた時、途方もない空虚感に襲われることがある。それは宝物になって心に残り続けるけれど、僕は欲張りで、平凡なのだ。


 次の物語を求めてしまう。


 世界の中心に、主人公として誰かがいてほしい。


「わかった」


 エルは子供を見るような目で笑った後、「謎はすべて解けた」と云った。


「エル?」


「名探偵として、犯人を教えてあげる」


 エルは主人公らしく様になったポーズで、僕へ指を突きつけた。


 正確には、僕の心臓へ。


「犯人は、あなたの心です」


 エルは笑って、僕も笑った。


「つまり、あなたの愛です」


「それぐらい、ワトソンでも知っているよ。ホームズ」

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