前編
梅雨の晴れ間、初夏の匂いに気だるさを感じる昼下がり。
ランチにはやや遅い時間と云うのに、店内は混み合い、満席だった。
大学からすぐ近くにある小さなカフェレストランは、有機野菜をふんだんに使ったヘルシーな料理が売りで、この界隈の「安い」「多い」「食えないこともない」の三拍子が揃う飲食店とはずいぶんと趣向が異なっている。
ランチは、基本的に三種類。
僕が注文したメニューは五穀カレー。その名の通り、五穀米が使われている。カレールーにも工夫があって、牛肉や豚肉は使われておらず、代わりに豆類がごろごろと入っているのが特徴だ。
「お待たせしました」
残念ながら、先に運ばれてきたのはクレープの方だ。
クレープと聞くと、どうにも生クリームの入った甘いものを想像してしまうけれど、この店では人気のランチメニューである。店内に掲げられた黒板には、本日のメニューとしてその種類が書かれている。
鶏肉とキノコのクレープとカレー風味のジャガイモクレープ。
ワンプレートの上に、ふたつのクレープとサラダが盛り付けられている。正直、この界隈の食事に毒されている僕としては、量として物足りなく感じることも事実だ。とはいえ、ドリンクも付いたランチで七百円という値段は、世間一般の相場と比較すれば妥当だろうし、量の問題にしても十分に平均値は超えている。
やはり問題は、その他多くの飲食店の方にある。
とある大学の周辺、および最寄り駅へ続く道々には、学生の胃を満足させるための無数の定食屋、レストラン、カフェに居酒屋、ラーメン屋が立ち並ぶ。前述した「安い」「多い」「食えないこともない」を各店が共通してスローガンにしているのではないかと疑うほどに、これらの飲食店は《暴力的》である。
年配の教授が、「若いことは素晴らしい。僕がこの近辺でうっかり学生と同じ食事を摂ろうものならば、数日は胃もたれを起こすよ」などと、やや悲しそうな目で講義中に語っていた。
さて、そんな中で異彩を放つこのカフェレストランは、だからこそ、女性客の利用が圧倒的に多い。そもそも男性客がいること自体が稀であり、いたとしても、女性の同伴であることがほとんどだ。
僕も実際、一人で食事する時や男友達と食事する時に、この店を使ったことはない。
今日ここでランチを取ることに決めたのは、彼女が希望したからに他ならない。
「お先にどうぞ」
クレープのランチを目の前にした彼女へ、僕が一応の礼儀として声かければ――。
「君の分が来るまで待つよ」
――などと、当然の答え。
やがて僕の分のカレーが運ばれて来て、二人仲良く、「いただきます」と手を合わせる。流暢な日本語に、違和感のない振る舞い。彼女がこの国――というか、この世界にやって来て二年が経つけれど、その順応した様子にとても安心する。
「うん、おいしい」
何度も食べたことのあるカレーなので、今さらその味に文句のあるはずもなかった。カレーだけど辛くない。野菜と豆の甘みが口の中に広がり、さながら隠し味のように奥ゆかしく、スパイスが香る。白米よりもやや癖のある五穀舞が絶妙の風味となり、カレールーの優しい口あたりにマッチしていた。
彼女は、ナイフとフォークでクレープを切っていた。そちらは鳥肉とキノコのクレープのようだ。チーズの入ったホワイトクリームが流れ出し、香りと湯気が立ちのぼる。
「そういえば、二時限目にポチを待っている間に……」
互いに少し食事を進めたところで、彼女は口を開いた。
注釈。
ポチというのは、僕のあだ名である。本名は誰も呼んでくれない。ポチというあだ名の浸透ぶりを証明するエピソードとしては、とある異世界を訪れてもらえばいい。そこでは勇者ポチの伝説が讃えられているだろうから。
「この本を読んでいたけれど、なかなか面白かった。いや、なかなかという言葉は失礼かな。ごく普通に……いや、違う。当然のように……あたり前のように、作者の力量と知識が簡潔に発露しており、推理小説というジャンルにおける歴史的バックボーンも含めて、面白かった」
「言葉を尽くしすぎて、逆に意味不明だね」
僕の茶々を気にした様子もなく、彼女はバッグから一冊の文庫本を取り出した。
北村薫の『空飛ぶ馬』だった。
「ずいぶん、古い作品だ」
その言葉は、そもそもの発行年月日の事でもあり、擦り切れて日焼けした本そのものに対してのダブルミーニングである。おぼろげな記憶を掘り返せば、『空飛ぶ馬』は二十年ぐらい前の作品だったはず。
「ああ、先輩からの借り物だから。ラウンジで米澤穂信を読んでいたら、『君はそもそも日常の謎というジャンルを知っておるのかね。なに、知らない。それはいかん、この本を貸してやるから、まず読みたまえ』と云われたわけ」
ラウンジとは、僕と彼女が所属するサークルの活動場所のこと。
今いるカフェレストランから歩いて数分の場所にある。大学の西門を入ってすぐの十五号館の地階ラウンジ。授業合間の学生がちょっと休憩するための椅子とテーブルが並んだ一角を、僕らのサークルは勝手に占有している(時々、大学側から怒られる)。
マニアックなオタクの集まり――ミステリ研究会。
「北村薫と云えば、そうだね。確かに先輩の云うとおり、《日常の謎》の立役者だよね。米澤穂信あたりを読むなら、前提知識として知っておいてもいいかも。まあ、『インシテミル』とかになると関係ないけど」
「『インシテミル』には、新本格の匂いを感じたわ……。でも、その後で古典部シリーズや季節限定シリーズを読んだら、作家としての本質はこちら側にあるのかと予想を裏切られた」
「ああ、それは誤解だもの。僕なんか、米澤穂信は《日常の謎》と青春小説のイメージが強い。というか、『インシテミル』に新本格を感じるなんて、それ、ただ単に館ものを重ねているだけじゃないの。綾辻行人からの影響なんて、今さら論じる必要もない議題だと思うよ。若手の推理作家で、綾辻を読んでない人なんていないでしょう」
「それは暴論だと思うわ。小説家だから、源氏物語を全員が読んでいるわけではないのと同じ理由で、推理作家だからと云って皆が同じ地点を通過していると考えるのは誤りよ」
「……なんで、源氏物語?」
彼女が何か間違った知識を得ているような気もしたが、本題から外れそうだったため、深くは追求しない。
「そもそも《日常の謎》なんて云うミステリ用語、よく知っていたね」
「いいえ。今日の朝は、《日常の謎》なんて云うジャンルがあることも知らなかったわ。ポチが講義を受けている間に、私も勉強していたの。とりあえず、『空飛ぶ馬』を読んで、ジャンルとしての雰囲気を肌で感じて、先輩から大枠を教えてもらったわ。あとは、ネットで色々と調べた」
云いながら、彼女は片手でスマートフォンを振る。
僕がまだ普通の折りたたみ携帯を使っているのに、どうして異世界人の彼女の方が、最新の機器を自在に使いこなしているのか、疑問を覚えないわけではない。
もちろん、それは彼女の勤勉さや努力の証拠でもあるのだけど。
「推理小説……ミステリと一言で云っても、その実はたくさんのジャンルがあるわ。本格と変格、警察小説にハードボイルド、密室殺人や叙述トリック――ジャンルと云いつつも、定義なんて曖昧だろうけれど、分類することで推理小説の発展の歴史がわかりやすくなる事も事実ね」
たった二年足らずの読書暦――もともと本好きであることは知っていたが、最近は加速度的に活字中毒が進行している。そもそもミステリどころか、娯楽のための大衆小説が存在しない世界だったらしいから、その反動なのかもしれない。
「たとえるならば……」
彼女は、講釈を続ける。
「ラーメンにも味噌、醤油、トンコツとあって、地域毎にずいぶんと人気の味が異なるようなものね。どの地方、どの地域で食べられていた味なのか、それがどのような経路で他の地域に流布したのか、そしてどのように食文化が融合していったのか。それらを前提として知ることで、たった一杯のラーメンを食する時に、よりいっそうの感動を味わうことができる。小説も――文学であれ、大衆小説であれ、時代背景やジャンル成立の過程を知ることで、より深く楽しむことができるわ」
「気をつけてね。本の話が、このままだとラーメンの物語になりそうだ」
「ええ、そうね。今日の晩は、久しぶりに博多ラーメンにしましょう」
「危惧したとおりに、話がずれた」
「冗談よ」
「冗談なの?」
「そういえば、明治通りの交差店にあるラーメン屋さんで初めて塩ラーメンを食べたのだけど、おいしかったわ。寡聞にして塩ラーメンの発祥に関する知識を持っていなかったから、ルーツを調べたいと思っていたのだけど、ポチ、知っている?」
「知らないし、やっぱり話がずれている」
「まあ、そうしたわけで……」
どんなわけだろうか。
「北村薫という作家が、そのデビュー作『空飛ぶ馬』で確立させてしまったのが《日常の謎》というジャンル。それまでの日本の推理小説と云えば、殺人事件をはじめとした凶悪事件――なにはともあれ、《事件》を扱うものだったけれど、その構造に一石を投じたのが北村薫の作品というわけね。《日常の謎》という言葉通り、殺人事件とも凶悪事件とも違った、平々凡々な日常のちょっと不思議な出来事を扱うミステリ――定義するなら、そんな感じかしら?」
午前中に初めて作品を読んで、その後のわずかな時間で調べたと云うならば立派なものだろう。もちろん、彼女はこれまでに米澤穂信はもちろん、倉知淳や坂木司あたりは読んでいるため、理解して消化するための下地は整っていたのかもしれない。
堅苦しい説明をすれば、先の彼女のような物云いになるけれど、僕は《日常の謎》を優しいミステリと考えている。この場合の優しいは、簡単という意味ではなく、雰囲気のこと。
殺人事件や凶悪事件をあつかわず、日常のちょっとした謎――『アパートの隣人が必ず夜の一時に出かけるのはなぜだろう』とか、『普段は優しい先輩が、火曜日だけは無視してくる』とか、気にしなければそれで済むような不思議を扱う《日常の謎》は、血みどろの殺人をネタにするミステリでは描けない《日常の心》を描き出す。
だから、《日常の謎》は青春小説や恋愛小説と親和性が高い。
謎の解明に際して、登場人物の心の機微や成長が絡められることが多く、その内面描写の豊富さが、僕に優しいというイメージをもたらすのだと思っている。
「ちなみに、『空飛ぶ馬』の発行年は一九八九年ね」
彼女が追加した情報に、僕は少しだけ首をかしげる。
「じゃあ、新本格のブームの時期と重なるんだ?」
「ええ、まさに」
新本格。
面倒な単語の登場に、僕は頭をかく。
そもそもミステリには大昔、本格と変格という区別の仕方があって――などと話を始めればキリがないので割愛。それを語ろうと思えば、江戸川乱歩から語り始めないといけないだろう。
では、ざっくりと――新本格とは何ぞや?
綾辻行人である。
有栖川有栖であり、我孫子武丸であり、法月綸太郎である。
我ながら酷い説明と思うけれど、作家群の雰囲気というもので理解してもらった方が話は早い気もする。
ちょっとだけ歴史的な話をすれば、新本格というミステリにおけるブームが訪れる前、流行していたジャンルに《社会派》と呼ばれるものがある。松本清張を代表格とする、クライム・サスペンスと呼べばいいだろうか。現在の作家で云えば、宮部みゆきや高村薫がこれに類するだろう。
この《社会派》、謎解きはもちろん存在するのだけど、作品の主題は謎が暴かれたことによって露呈する社会的問題の方にあったりする。だから、パズル的な謎解きや超人的な名探偵の活躍は重視されない。
そもそも推理小説と聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか。
犯人はお前だ――トリックを暴き立て、指を突きつける名探偵。嵐の孤島で起こる連続殺人事件。密室に不可能犯罪。奇妙な風習の残った山奥の村、アリバイ工作――《社会派》の流行で、そうした古い推理小説が淘汰された時代があったのだ。
もう一度、懐かしい古き良き本格推理小説をやろう――そうして登場するのが、八十年代後半からの《新本格》というムーブメントだ。結果から云ってしまえば、このムーブメントは十分な成果をあげて、多数の著名な作家を生み出すことになる。
考え方によれば、京極夏彦や森博嗣だって新本格の延長線上にあると云ってもいいのだから、ミステリファンを公言するならば、とりあえず知っておくべき単語なのである。
「……だから、《日常の謎》というジャンルは、ムーブメントのただ中で《新本格》に喧嘩を売ったようなものじゃない。新本格と云えば講談社ノベルスだから、これはまさに、東京創元社による宣戦布告よ」
「待って待って。そもそも新本格が、それまでの社会派ミステリのブームで下火になっていた超人的な名探偵やクローズド・サークル、不可能犯罪といった古典的ミステリへの回帰とすれば、『空飛ぶ馬』の探偵役、円紫さんなんてまさに名探偵――安楽椅子探偵そのものだよ。実際、北村薫という作家は本格志向の書き手だし、決して、新本格と対立するような立場じゃなかったはず」
「ええ……そうね、それはそうかもしれない」
しばらく議論を戦わせた後で、彼女はあっさりうなずいた。
「でも、作家の想いと出版社の意向が、いつも合致しているわけではないでしょう。まあ、当時を直接知っているわけじゃないから、あくまで想像――妄想の域だけど、老舗ミステリ出版社の東京創元は、新本格のブームに対して、なんだこの野郎とばかりに《日常の謎》をぶつけたと思いたいわ。その方が面白いし、盛り上がるもの」
「妄想と前置きするならば、もう何も云わないけどね……」
僕はため息をついた後、老婆心ながら《日常の謎》というジャンルについて補足する。
「書き手として有名なのは、加納朋子や北森鴻あたりだろうね。ちなみに、コージー・ミステリというジャンルがあって、アガサ・クリスティのマープルシリーズなんかがこれに含まれるんだけど、本質的には《日常の謎》に近しいんじゃないかな。まあ、《日常の謎》と違って、普通に殺人事件が起こったりするけれど」
したり顔で云ってみるものの、実際、僕もそこまで詳しいわけではない。
本なんて、両親の本棚や図書館で目に付いたものを適当に読むばかりで、体系的に読み込んだわけでもない。大学に入学してまだ二ヶ月――彼女の希望もあって、推理小説研究会なんて日陰のサークルに籍を置くことになり、先輩諸氏の酒宴の席での薀蓄を念仏のように聞いて身につけた、付け焼刃の知識だ。
「サークルに誘ったのは私の方なのに、ポチの方が詳しいのが気に食わない」
彼女は、ちょっと不満げな顔で云う。
小柄で童顔な僕に対してならば、先輩方も堂々と《先輩らしさ》を発揮できるのだろう。食事や酒の席に連れ出されることも多々あり、自然と推理小説のあれこれを教授される機会が増える。それが僕と彼女の知識量の差となってあらわれる。
頭がよく、分別もわきまえており、礼儀正しい彼女だけど――その容姿は、芸術的で威圧的だ。金髪碧眼で女性にしては高身長、スレンダーなモデル体系の彼女は、十人中十人が振り返るような美人である。
さすがに僕は慣れたけれど、気安く接することをためらう気持ちはよくわかる。何億という価値のある宝石を手渡されて、平然としていられる人の方が少ないだろう。黙っていても、自然と気品が漂う。学内のベンチでただ読書をしているだけと云うのに、さながら不可侵の聖域のように、誰も近づけなくなるのだから。
先輩諸氏もなかなか、彼女に対して熱弁を奮う勇気を持てないようなのだ。
さすがと云うべきだろうか。
異世界グラシアの覇権国家、フォーレン王国の王女にして筆頭魔術師、【魔姫】【空間使い】【ルラ異本の解読者】【召還士】【ノイズゲーター】――数々の異名を持ち、英雄とも世界の火種とも云われた彼女は、その出自も経歴も一切関係がない場所においても、その身ひとつで衆目を集める。
彼女自身は、こちらの世界ではただの一般人にすぎないから――なんて謙遜するけれど。
エル、君のどこが普通で平凡な一般人なのだろう――なんて云ってやりたいけれど。
「さて、それでは《日常の謎》の実践といきましょうか」
エーレルリア・ラカ・アノマジア=フォーレン。
愛称、エル。
僕の恋人が、物語を開始する。
◆
今さらだけど、これは僕の物語ではない。
世界を救うなんていう壮大な物語はエピローグまで消化しており、もはや残りカスも存在しない。魔物と派手な戦闘を繰り広げることもなければ、伝説の武具を身に着け、大高位魔法を唱えることもない。勇者と王女の恋物語なんて大団円のハッピーエンドを迎えて久しく、すれ違いも焼きもちも、恋敵が登場してのラブコメも起こらない。
異世界グラシアを舞台にして、世界を救うために戦った僕の物語は終了している。
しかし、僕の人生は続いている。
文庫本にすれば十巻以上になるだろう勇者の物語は、舞台となった異世界でたくさんの人が語り継ぐだろう。だから、それを物語る意味なんてないはずだ。異世界で過ごした一年は、僕みたいな平凡な人間からすれば花火の爆ぜたような奇跡の時間だった。いい思い出だ。だけど、思い出にすぎない。
僕は、理解している。
僕は、過去を語るべきではない。
僕は、現在を語らなくてはいけない。
世界を救うための一年は、まるでシロップのように、どろりと濃かった。それに比較して、わた菓子のように、ふわりと溶けていく今の時間。それを嘆いてはいけない。むしろ、誇らなくてはいけない。
もちろん、一年間のブランクを埋めるために受験勉強に努めたり、家族にエルを受け入れてもらえるように気を使ったり、実家を離れて東京での新しい生活を始めたり――そんな平凡な日常を、誰かに語る意味はないだろう。
ならばどうして僕は語り部を務めているのだろうか。
ワトソンの真似事なんてしているのだろうか。
――答えは、簡単。
さて、主役の交代といこう。
高校のある日、下校途中に異世界に召喚されてしまい、大国の姫君から「魔王を倒して、世界を救いなさい」と云われた。伝説の剣を求めて人外魔境を探検し、北の霊峰に隠遁する大賢者に教えを請うために三顧の礼を尽くし、一騎当千の仲間を集めて固い絆を結んだ。
いつしか最強になった。
魔王を倒して、もとの世界へ帰れることになった。
星の巡りがそろわなければ発動しない特別な魔法は、機会を逃せば、次は十数年後にしか使えないと云われた。家族同然に大切な仲間達に別れを告げた。もはや体の一部のようだった伝説の剣を置いた。戦いの中で亡くなった師の墓に頭をさげた。
最後の瞬間、僕を送り出す魔法を唱える姫君――誰よりも愛した彼女へ、最後だけは格好よく笑顔を向けようとしたけれど、まるで召喚されたばかりの弱くて情けない頃のように涙があふれてしまって、泣いているのか、笑っているのか――ぐしゃぐしゃの顔で向き合った。
彼女は子犬を見るように笑った。
魔法を唱え終わる、まさに最後の一言と共に、僕の手を取った。
魔法が効果を発揮して、光の渦に包まれる僕らに向けて、唖然とした無数の視線が向けられていた。卒倒しそうな顔になったのは、彼女の父である国王だ。魔王を倒した勇者の相棒として、勇者と同じぐらいに英雄と褒めたたえられる姫君は、当然、今後の国を背負う立場にあったのだから。
「どうして……?」
絶句する僕に向けて、彼女は何も云わなかった。
何も云わずに、ただ無言のままに僕を抱きしめた。
そうして、僕が主人公を務める物語は、完璧にエピローグまで終了した。
――いい加減、主人公気分に終わりを告げよう。
ここから始まる日常の物語で、主人公を務める彼女を紹介しよう。語り部たる僕は、裏方に回ろうじゃないか。ワトソンと呼んでくれるといい。ホームズならば、そこにいるのだから。
エーレルリア・ラカ・アノマジア=フォーレン。
主人公――名探偵。