第一章9話『変色』
「――もう、いいんですか?」
「……うん。溢れ出たのは全て出し切ったよ。……ねぇ、白。この水は何だったの?」
「涙、と言います。悲しい時、辛い時、心が疲れてしまった時に自然と出るものです」
「そっか……じゃあ、あの時のも涙だったんだね」
思えば白と初めて会った時も、レティシアは涙が出ていた。ただあの時の感情は先程のとは違った。涙にも種類があるのだろう。いずれにせよ『訓戒』に禁ずる記述が無いから、悪い物ではないのだろう。
「……少しは楽になりましたか?」
柔らかな表情で白が問いかける。確かに、涙を出したことであの感覚は薄まった。これが発散、という事なのかもしれない。
「うん。ありがとう、白――私とサンドラは、親友だったんだね」
「えぇ、恐らくそうです。――本当に、ここまで自分の感情に鈍感だとは思いもしませんでしたが」
こめかみに手をやり、なにやら困っている様子の白であったが、その白のおかけでサンドラに対するモヤモヤや、分からないあれこれが連鎖的に明るくなっていっているのを、レティシアは感じている。
それに、レティシアが涙を流している間、温かい感覚が包帯の下をじんわりと浸透していた。治癒、してくれたのだろう。
脳内が鮮明になり、灰色の世界も色を取り戻した。だが、サンドラはもういない。レティシアが行き場の無い苦しみの発散方法を知っても、大切な事に今更ながら気付くことができても、この数え切れない思いの数々は、彼女に届かない。手遅れなのは、純然たる事実だ。
「遅いなんてことありませんよ。あなたのその気持ちは、きっと彼女に届いているはずですから」
こちらの思考を読んだかのように白が答える。
死した人間は何も語らない。何も感じない。だから、白の言葉に素直に頷くことはできない。しかし、何故かレティシアの心は、彼女の言葉の温かさで満たされていた。
□ ■ □
「――ところで、話は逸れますが……帝国は当然として、王国側も警備が厚かったことでしょう。一体、どうやって帝国に?」
「走った」
「……もう一度お聞きしても?」
「走った」
寸分違わず繰り返された単語に、イリスの脳は再び大打撃を受けた。
――王都から帝都までは、常人なら万全の準備をした上で一日はかかる距離である。聞いた話から推測するに、彼女が王都を発ったのは昨日のお昼頃、そして帝都に着いたのは今朝。
つまり彼女は、事前の準備無しで十八時間かそこらで帝都まで駆け抜けたことになる。それも、精神に異常をきたした状態で、だ。
この少女の精神状態が平時であれば、より効率的な道選びと洗練された疾走により、間違いなく到着時間が更に短縮されていた。
馬なら分かる。しかし彼女は人間だ。帝都・王都間を、人間の肉体で、それも十八時間程度で、がむしゃらに踏破した。それだけでも常軌を逸していてイリスの理解の範疇外にあったが、疑問点は他にもあった。
「あの絶壁を? 肉食動物がわんさかいるあの山道を?」
帝国領内の国境付近には、高山が真っ二つに割られたような断崖絶壁がずらっとそびえ立っている。裏を返すとそこさえ駆け上がれてしまえば以降は下るだけで楽と言えば楽なのだが、そこは血に飢えた野生動物の縄張りだ。
それらに襲われない手段もあるにはある。しかしこれまた事前の準備を要する代物だ。
総じて、手ぶらで乗り越えるのは無謀に等しく、死の危険と隣り合わせの場所だった。
「そうだよ。何か問題ある?」
それを、なんのことはないといった様子でキョトンとしているのだから、イリスは甚大な文化的衝撃を感じずにはいられなかった。
「い、いえ、問題はないのですが……あまりに私の常識とかけ離れていたので、困惑してます」
「私も、白が困惑していることに困惑しているよ」
そう言い、少女が肩を竦め、苦笑する。
この様子だと、王都と帝都間の距離も、生物を拒絶する天然の防壁も、虎視眈々と命を付け狙う肉食動物の眼光も、彼女の障害になり得なかったのだろう。イリスの常識と照らし合わせて真剣に咀嚼しようとすると疲れるので、彼女のことはひとまずそういう存在として理解しておくことにした。
「――イリス」
「――――」
「イリス・ミリネス。以後、イリスと、そう呼んでください」
中々伝える機を掴めなかったが、先程から白という呼称が気になっていた。
白――恐らくこの髪色由来だろうが、幼い頃に定着し、現在も独り歩きしている『純白の聖女』とかいう称号もそこから来ているので、ここは少女の着眼点を褒めるべきか、帝国民の感性を疑うべきか、判断に迷う。
と、あれこれ考えている間も反応が返って来ないのを不安に感じ、改めて少女を見据える。
口元に手をやっている様子からして、飲み込みに時間がかかっているようだ。イリスはただ名乗っただけなので、彼女のその反応には意表を突かれた。
「……それは、名前?」
「はい、私の名前です。だから、これからは白などという可愛げのない呼び方はやめてください」
「そっか――じゃあ、イリスは人なんだね」
「な、何を当たり前の事を言うんですか! それじゃまるで私が人じゃ」
ないと思っていたみたいじゃないですか、と言いかけてイリスは気付く。
帝国と王国は戦時中であり、教育内容に国が干渉していてもおかしくない。もし、罪の意識を減らす為に帝国民は非人間であるなどと刷り込まれていたら。帝国の人間は王国の領土・人民を付け狙う略奪者であると教育されていたら。
そう考えると、今の彼女の言葉に反発するのは躊躇われた。
そして同時に思い至る。彼女の非人道的な蹂躙の背景に、王国の洗脳教育が色濃く根付いているという可能性に。
その場合、同胞の尊厳を踏み躙り絶望で上書きしたのは、光を見失った目の前の少女ではなく、ソランデュー王国に洗脳された『侵色』という名の悲しき殺戮兵器ということになる。
「……」
――この視点は、これまでのイリスの戦争観になかったものだ。戦争が人々にもたらすものは、本来不要な「生存に必要な殺人」だけだと思っていた。
しかし、それ以外にも「人格の死」も生み出していたとは。考えてみれば当然の事なのに、これまでイリスは思い至れなかった。そのことを強く恥じ入るばかりだが、ともあれ、以上の仮説に則り彼女もまた戦争の被害者なのだとすると――。
「――――」
その決断は、イリスにとって耐え難い激痛を伴うものだった。そしてそれは『純白の聖女』には似つかわしくない、ともすれば帝国に仇なす反逆者と告発されても文句の言えない蛮行だった。
だが、僅かな逡巡の後にイリスはその道を選んだ。自分の意志で、そう選択した。未来永劫感情の矛盾に苦しみ続ける覚悟を決めた。
故に、かつてイリスを救った言葉を、今度はイリスが伝える。
「い、いえ。今のは気にしないでください。それより――あなたの名前も教えてくれませんか?」
きっと、この場に親友――マリーがいたら同じ事をしたはずだ。
誰かに歩み寄るのなら、まずは相手の名前を尋ねることから始める。それは自分の記憶に、人生に、あなたという存在を登場させてよいか許可を求める行為であり、これから知っていくであろう相手のあれこれを蓄える土台となるからだ。
そしてそれは名前を伝える相手からしてみても同じ事。名前を伝える事で確認に了承し、心と心を繋ぐ架け橋を作る。その架け橋が実際に使われるかどうか、いつまで持つかどうかは相性や環境その他諸々次第だが、それでもお互いを知る土壌は形成される。
――夕日が綺麗だったあの日、唯一無二の親友はイリスの、どうして悪意を向けてくる人の名前も聞こうとするのかという質問に、そのように答えた。
だからこれは、イリスにとって非常に重い問いかけだった。――生前のマリーは、敵対する相手に対してすらも、同じ言葉を投げかけた。きっと、死の間際でも、彼女は相手を知ろうとすることを止めなかったに違いない。
故にイリスは、同胞の仇に対してもそう問いかける義務を自分に課す。――憎しみの炎に身を委ねるよりも、可能な限りの対話を。その道を選んだ人間の覚悟を、イリスは尊敬している。
マリーの結末は悲劇であったが、その在り方までは汚されていない。あの臆病で優しすぎる十一歳の少女が貫けたのだ。イリスにも、できるはずだ。
「……」
今は、色々な感情がごっちゃごちゃで少女の罪業に結論を下すことはできそうにない。作業感覚で殺されたシスター達を想うと、心の片隅で揺らめく炎に薪を焼べてしまい、冷静な思考が焼き尽くされていく。この炎の勢いを和らげるには、時間が必要だった。
だからこそ、今は見て見ぬふりをする。『侵色』としての彼女ではなく、一人の少女としての彼女を知っていく。彼女の人となりを知り、好物を知り、哲学を知り、思考傾向を知り、歩み寄る。そうすることで、イリスもやっと「彼女」にどう対応するかが見えてくる。そんな気がしている。
「……」
眼前、光の存在しない二つの闇を一心に見詰める。かつてイリスも味わった闇だ。それまでの自分がどうであろうと、この闇は問答無用で全ての光を呑み込んでしまう。
それを知っているから、イリスはその重々しい闇に微細な揺らぎが見えるのを待つ。そして束の間の沈黙の末、少女の口がゆっくりと開かれた。
「――レティシア・パレット。それが、私の名前」
「レティシア、ですか。いい名前ですね」
「――でしょ」
少女――レティシアの見せた初めての表情に、イリスは一瞬硬直する。僅かに光が戻った目を細め、向けられた微笑に、イリスは目を奪われた。




