第一章8話『渾沌極まる漣を』
「――白」
「静かに。付いてきてください」
「……うん」
またしても反射で『侵色』の手をとり、イリスは駆け出す。見張りを振り切るのもそうだが、人目のつく場所ではいけない。できるだけ、帝国兵に見付からない空間に連れていかなくては。
聞き出したいこと、知りたいこと、問い詰めたいことが山ほどある。それを解決しない事には、イリスは他の物事に全力を注げそうに無かった。
「はぁ……はぁ……だ、大丈夫ですか?」
「うん。私は平気。白の方こそ大丈夫……? 呼吸、酷いことになってるけど」
「わ、私のことは、良いんです……! と、とにかく、ここなら安全です、お、落ち着いたら、話をしましょう」
「分かったよ。それまで待ってる」
イリスとしては『侵色』に対して言ったつもりだったのだが、かえって気を使わせてしまっているようだ。
とはいえ確かにイリスの方も休憩が必要といえなくもない状態だったので、自分の運動神経のなさを認めることは非常に不本意だったが、素直に体を休めることにした。
□ ■ □
「も、もう大丈夫です。お待たせしてすみません」
「問題ないよ。待つのには慣れてるから」
「そうですか……」
『侵色』の生育環境が垣間見える返答に複雑な気持ちを抱きつつ、イリスは寄りかかっていた壁から離れ、立ち上がる。念には念をと周囲を見渡し、辺りに人の気配が感じられないことを確認する。
「はぁ……」
一難が去り、ほっと一息。これでようやく落ち着いて目の前の問題に当たれる。
つい連れて来てしまったが、彼女の処遇を考えるにはまだ時期尚早だ。尋ねなければならないことが、知らなければならないことが、あまりにも多すぎる。
そうして質問の優先順位をざっくり定めた後、イリスは『侵色』の黒瞳をしっかり見据え、切り込む。
「では、単刀直入にお聞きします――今回の入国の目的は何ですか?」
「白。白に会うこと」
『侵色』の指はイリスに向けられていた。
「……もう一度、お願いできますか? 主に、発音の方を」
「白。白に会うこと」
「……」
『侵色』の指はイリスに向けられていた。発音も、事前に伝え聞いていたものとまるっきり異なる。すなわち――、
「わ、私ですか!?」
意を決して切り出した本題だったが、間髪入れずに返ってきた予想の斜め上を行く反応に、思わず後ずさってしまう。
いや、だって、こんな真実誰が想像できただろうか。まさか、彼女が敵国に乗り込んだ理由があの時見逃しただけに過ぎない一非戦闘員にあったなんて。
「ま、まさかあの時仕留め損ねた私を亡き者にするためにわざわざ……!」
「何を言ってるの? それじゃ意味が無い」
「え? と言うと、ただ純粋に、私に会いに来たってことですか?」
「ん。白じゃなきゃダメ」
あの時殺さなかった敵を殺すためではなく、その敵に接触することが目的だったと話す『侵色』。イリスはまた、脳が情報を処理しきれない感覚を味わった。
――と同時に、目の前の『侵色』にふつふつと腸が煮えくり返り始めたのを自覚する。
憎悪、も含まれているのだろう。あれだけ無慈悲に人の命を奪っておいて、どの面下げてその生き残りに何かを求めているのか。『それじゃ意味が無い』? そんなの、これまでの殺人だって同じだ。あの戦場で機械的に処理された同胞の死に、必然性はなかった。
ただ生きているのは、いい。全ての生物は究極生存こそが本懐であり、その為には時に他の生物を殺すことも必要だろう。特に戦時下においては生きる為の殺人が義務として押し付けられる。そこは、断腸の思いで理解はできる。
生物間の殺生のない世界だなんて妄想は子供の頃に捨てた。納得なんて到底できないが、そこがイリスにできる譲歩の最大限だ。
だが、手にかけた命を無かったものと見なし、あるいは忘却し、図々しくも自らの欲する何かを求めるその姿勢は容認できない。
それは、駄目だ。生物として許されない。それではまるで、彼らの命に意味がなかったようではないか。彼らの死が何にも繋がっていないではないか。
自分の生命が、直接関わった他者の無念の死の蓄積によって続いている自覚がないのは、生物として誤っている。それを当たり前と感じてしまうのは、人としての何かが致命的に欠けている。
『侵色』も命ある以上、生物として生まれ持った性質は備わっているはずだ。だからこそ、彼女のこの態度が、イリスには不気味で衝撃で理解不能でならなかった。
「――あ、なた、は……自分がしたことの重みを理解しているのですか?」
「重み……?」
「あなたは、度重なる戦争の中で推定二千を優に超える帝国人の命を奪いました。その、命の重みをあなたは感じていますか?」
「ごめん白、何を言っているのか分からない。私はただ、肉を黒に染めただけ。それに命に重さはないよ。死んだ肉は風で吹き飛んだりしないでしょ?」
「――そう、ですか」
さも当然のことを、というふうに『侵色』は表情一つ変えず、首を傾げる。
――常識が、価値観が、絶望的に違っている。生物としての性質も、欠損している。今はっきり分かった。ヒトの理屈は『侵色』には通用しない。イリスはこの生物とは分かり合えない。
思い違いだった。浅はかだった。あの時流れた涙に、ほんのひと握りの可能性を見出してしまった自分が愚かだった。
今にして思えば、あんなものは殺戮者の封印された良心を覗き見る手立てにはなり得ない。なり得るはずがない。それを、期待してしまった。彼女も好きで引導を渡しているわけでは無いのだと。度重なる非日常の中で、殺人が日常となり心が枯れてしまっただけなのだと。そうした中でふと表面に表れた、助けを求めるサインがあの透き通った涙だったのだと。
――そうだとして、失われた命が、皆が戻ってくるわけでも救われるわけでも無いのに。その独り善がりな懇願が、イリスの眼を曇らせた。感情に蓋をしているのでは無い。そもそも『侵色』には、感情という機能が備わっていないのだ。
「……」
現実を見よう。目の前の生物はイリスの敵だ。イリスが好ましく思い、イリスに好意的に接してくれていた大切な人達の仇だ。人類の道理から外れた、血の通わない怪物だ。同じ人間として見てはならない。当然、憤怒と恐怖以外の感情を抱く要素は無い。
この生物は、命がある限り生存に不必要な殺傷を繰り返す。生かしておいては、更なる犠牲者と第二第三のイリスが山のように生まれていく。
――ここで、息の根を止めなければならない。『純白の聖女』として、帝国の善性の象徴として、善き人を虚無に誘うこの魔女を、ここで食い止めなければならない。
「お答えいただき、ありがとうございました。と、ところで、こんな路地裏で立ち話、というのもあれですし、どこかで食事でも摂りませんか?」
力では到底勝てない。人類がどれだけ束になった所で、人智を超えた怪物には敵わない。コレはそういう生き物だ。
だが、生き物である以上、無敵では無い。生き物なら生き物としての弱点が必ず存在する。即ち、毒だ。
この世全ての物質の毒性に耐性を持つ生物は存在しない。何らかの抗体を保持していたとしても、別の毒を与えれば容易く蝕まれる。生物共通の脆弱性に漬け込めば、常勝無敗の怪物だって――殺せる。
「白が望むなら」
幸い、コレはイリスの企みに気付いていないようだった。
これまで生きてきた十六年、イリスは一度も生き物の命を害そうと考えたことは無かった。それゆえ、敵対生物とはいえ誘導する際に声を震わせてしまう失態を犯してしまったが、この生命体はどうやら自分に向けられる殺意に疎いらしく、難を逃れた。もしかしたらその逆で、殺意というものに慣れているだけなのかもしれない。
ともあれ、まずこちらの戦場に誘導することには成功した。あとは入店して座らせた後、密かに調理人へ事情を説明するだけ。
――だから、コレの剣を恐れる必要は無い。そう、震え上がる身体を落ち着かせようとした時だった。
「――それ、は、何ですか?」
街路へ向かおうとする怪物の背後、ポケットからちらりと顔を覗かせる人形と目が合った。粘土で作られているのか赤色で、目は半月、口は一直線、手足は三角形。よくよく見ればなかなか味わい深い表情をしている。
聖女の仕事の一環で、イリスも何度か子供達の粘土遊びに付き合ったことがある。その知見から言えば、帝国内で主に流通している粘土は黒土を用いているため、これは王国内で捏ねられたものと推定できる。
過去に教養として読んだ本曰く、王国には大きな火山があり、その関係で鉱物資源にも恵まれ、赤土を利用した植物栽培なども行われているらしい。この人形の原材料も、そこから来ていると見ていい。
「人形。私らしい」
「えっと……あなたを模した人形、という事ですか?」
「そう。家族から貰った」
致命的に言葉足らずだったが、言おうとしていることは伝わった。
「その……なんというか…………と、特徴は捉えられていますよね」
「無理しなくていいよ。私も、似てないと思ってるから」
そうして手元の人形に目を落とす『侵色』は、無表情ながらも作り手に思いを馳せているようだった。その姿は、先程までの理解不能な怪物とは違っていて――、
「……」
途端、イリスの中でまた無垢な感情が湧き上がる。ついさっき、浅はかで愚かしいと一蹴したそれは、目の前の生物にも人間性が残っていると強く主張している。
――人智の及ばない怪物と、そう決め付けるのはまだ早いのかもしれない。そう思った。
「――素敵な家族ですね」
「そうだね。私も、そう思ってる。――サンドラが、死んだんだ」
ぽつぽつと、『侵色』が話し始める。ずっと一緒だったサンドラという少女について。その少女が、テロの被害を食い止める為に殉死したこと。その日以来、世界が文字通り一変したこと。途端に何をすればいいのか、何に従えばいいのか分からなくなり、ふらふらと歩いていたらいつの間にかここに辿り着いていたこと。そして――、
「白なら、教えてくれると思ったんだ。この感覚はどうやったら消せるのか。サンドラは私にとって何だったのか。私の生存に関わりのない人が死んじゃっただけで、何で私は『訓戒』に従えなくなっちゃったのか」
だから、会いに来た。そう語る『侵色』は、大切な存在を亡くして深い暗闇に突き落とされて何も見えなくなっている、女の子以外の何者でもなかった。
「――私に、サンドラさんの事は分かりません。勿論、あなたの事も。私には、あなたに満足のいく答えを提供することはできません。……だって、私はお二人の関係性すら知らない部外者ですから」
「でも」とそこで言葉を区切り、イリスは自分の胸に手を当てる。
「でも、あなたの話を聞いて、これだけは分かりました。――いや、そもそも、本当に気付いていなかったのですか?」
もしそうだとしたら、本当に呆れる。お互いのことを自分以上に思い合い、助け合い、満たし合い、補い合い、相手がいなくなったら胸にぽっかり穴が空いたような悲しみが襲い来る。相手に何を求めているわけでもなく、ただ隣にいるそれだけで、自然と笑顔になれる。一方向でなく、双方向。
――そんな関係性、一つに決まり切っているではないか。
「あなたは、サンドラさんを自分のことのように大切に思っている。部外者の私が勝手に推測しますが――あなたにとって、サンドラさんは親友だったんじゃないですか……?」
「………………しん、ゆう?」
漆黒を宿した両目を見開き、少女が瞠目する。その反応から本当に自覚が無かったことが窺えて、つい笑ってしまいそうになる。何故、こんな簡単なことに気付いていなかったのか。
「はい、親友です。親しい友、大切な友達、何だって構いません。私には、今のあなたはそうした存在を突然喪い悲しみ方も分からなくなっている、ただの女の子のようにしか見えませんが」
「――――――ぁ ぁ、れ、何、これ」
つー、と少女の目から綺麗な水滴が流れ落ちる。目元に指を当て、その正体を認識した少女は大きく目を見開いた。次第に結んだ口がわなわなと震えだし、両肩が小刻みに振動し、涙の勢いが強くなっていく。
「分からない……分からない、よぉ……」
衝撃と困惑に揺れ動く黒瞳からひとたび流れ出した感情は止まらない。拭っても拭っても、後から後から溢れ出し、指が追いつかない。そうして涙の対処をしているうちに、今度は唇の防波堤も決壊し、声にならない声が外に出る。ぎこちない嗚咽は次第に大きくなり、それにつれて微振動する瞼から流れ出る感情も増大していく。
「もっと、話したかった……っ! 何で……何、で…………何で、死んじゃったの…………サンドラ…………っ」
掻き消えそうな声を絞り出し、少女が絶叫する。蓋が開いた心の奥底から声に乗って溢れ出る激情の奔流が、イリスの心をギリギリと圧迫する。
初めて喪失を知った子供のように感情に翻弄されている少女の脳裏では今、サンドラとの思い出の数々が鮮やかに浮かんでは流れ消えていることだろう。
そんな、かけがえのない親友の死を悼み、悲しみ、慟哭する普通の女の子を、イリス・ミリネスは優しく抱き締めた。




