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TAX上納システム

作者: 空見タイガ

 寒くなるには尚早で、忘年会は遠く、新年会はさらに遠く、歓迎会はかすみもせず、夏にしては終わりかけの夜、ぼくたちは社会人の女の子と大学生の女の子に挟まれて繁華街を歩いていた。ぼくも右隣にいる合田(ごうだ)も風を切るように弾んでいた。なぜってぼくたちのからだにはお酒が入っていて、酔っ払っていて、今から三次会で、社会人の女の子が知っていてぼくたちが知らない店にゆくからだ。

 ぼくの左腕は香奈(かな)さんに取られている。合田の右腕は詩乃(しの)さんに。そしてぼくたちは肩をぶつけあって笑い合っている。なるべく小さな声で言う。

「片手に花だ」

「きれいな花だ」

 ごきげんなぼくたちはごきげんにゆるやかな傾斜をのぼっていった。すれ違うひとたちの顔はほころび、よろよろだけどよれよれではない足取りで道を下っていった。後ろのほうから「ひょー」と聞こえた。合田は首だけ動かして「ひょー」と返した。となりの香奈さんが笑いながら言った。「顔が赤いひとってお酒を飲むとからだに悪いらしいね」詩乃さんが首をつっこんでくる。「弱いと死んじゃうんだ。弱いと死んじゃうんだ」ぼくは笑いながら言う。「酒に強いやつがどこにいるもんか。みんな弱いんだ。だから酒を飲んだやつはみんな死ぬんだ」合田は歌うように言う。「しゃぼん玉はあんなにきれいなものを閉じこめておきながら最期にゃもろとも消えてなくなるんだァ……」煙が空に会いに行くようにぼくたちはなめらかに道をのぼっていった。立ち並ぶ建物たちがどんどんとぼくたちの幅を狭めてゆき、ぼくたち四人はぎゅうぎゅうのひとかたまりになった。そしてだれが押したのかわからないけれど進行方向から見て右のほうにぼくたちは流れていった。そこはさらに狭い小道だった。ひとびとが路地、あるいは路地裏、もしかしたら裏路地と呼んでいる場所に足を踏み入れて、ちょっと暗がりでしずかでひんやりしたレンガ造りの入り口を抜けて幅の狭い階段をのぼっていった。壁と壁のあいだも狭くて香奈さんとぼくと合田と詩乃さんの順でぎゅうぎゅうと詰めながら進んだ。特にぼくはおなかの脂肪でただでさえ心もとない足元すら見えずに両壁から圧迫されていて今にも詰まってしまいそうだった。なので小さな合田がぼくの背中をぐいぐいと押していた。その合田の背中を詩乃さんが押しているようで「よいしょよいしょ」と愛らしい掛け声がぼくたちのけっこう大きめな足音の合間に聞こえた。合田の低い声はほぼかき消されていたがかすかに残っていた。「まるめ……ごさ……」ちらりと天井を見やると赤いスプレーで「ニゲロ」とお洒落な落書きがされていた。扉を開く音とともに「やったあ」と前から聞こえてぼくは香奈さんの頭越しにその先を見た。頭がじわっとあつくなって血液がさらさらに流れていきそうな落ち着くあたたかな色だ。段々から平らな場所に出たぼくと合田は数歩だけ進んで辺りをぐるりと見た。バーの既存のイメージを損なわないありふれたバー。壁のシェルフに並んでいるボトルはまるで自ら光を放っているかのようにライトで照らされていた。そのシェルフとカウンターのあいだにはぼくと合田より若いかもしれないつるつるとした顔の男性が立っていて――「歩きすぎて酔いがさめちゃったって感じだね。飲も飲も」ぼくの顔をのぞきこんだ香奈さんのあでやかさとあどけなさの半ばのような表情にうなずかされていると合田の低い鼻がぬっと割りこんできた。「この店はぁヘンじゃないか」「きみの顔のほうがヘンだ」「酔っ払いにこんな高いところにのぼらせるだなんて帰り道にはぺちゃんこになってしまう」と合田は真っ先にカウンターの椅子に腰を下ろした。ぼくと香奈さんが顔を見合わせているあいだに今度は詩乃さんがぼくたちをそっとかき分けて合田の右隣に座り、彼の背中をなでた。

「やあね、合田さんったら。ただの二階よ……あるいは三階」

 ぼくたちもカウンター席に腰をかける。メニューがあるバーだ。合田が手に持っていたメニューブックを横から覗きこむ。ちょっとお高めなドリンクたち。プラスTAX。このTAXがくせものだ。チャージ料金やらサービス料やらに消費税がかかってくる。ぼくはバーにはめったに行かない。ましてや女の子といっしょになんて。バーのマスター……雇われのバーテンダーかもしれない男の視線をつむじに感じて顔を上げると彼はお茶目にウインクをした。ぼくたちより若くて顔の整った男だ。虫唾が走った。となりの合田は「ぺっ」と声に出しまでした。香奈さんと詩乃さんはぼくたちを挟んであれにしようこれにしようと次々と男に注文していた。若い女の子たちが楽しそうにしているところを見るのはたのしい。ぼくも若い気持ちになってきた。まあ若いときは若い女の子と遊ぶことはなかったけれど。

 ぼくたちはプラスTAXのカクテルを水道水のように飲んだ。もともとぼくは酒のよしあしはわからないほうだ。合田は「よい短冊」とグラスを回しているが、彼の言っていることはよくわからない。ぼくにとって酒はただその場の気分に酔うためだけのもので、もしここにだれもいなかったら高い金を払ってまで酒なんて飲まない。昼ならメロンソーダを飲み、夜なら水を飲む。

 とりとめのない話をしてみんなで笑っているがよく考えると笑うような話でもない。とにかくぼくたちは機嫌がよかった。何なら()()()()()()まで笑っていた。部外者であるこの青年がぼくの小話に笑っていることに違和感を覚えつつも陽気なので気にしない。香奈さんがぼくのおなかをひじでつつく。ぼよん。ぼくのおなかがぼよんとするときは動いているか動かされている。ひとりでいるときはいつもずっしりと重力に逆らうことなく沈んでいるから……バーの雰囲気に酔っていたしお酒で酔っていたし平たい皿に出された名称も材料もわからないおつまみのおいしさに酔っていたし若い女の子のふたりに挟まれていることに酔っていた。最高の夜だ。明日は土曜日だし。明後日も日曜日だ。明明後日の仕事のことは考えない。

 考えないという時点で考えている。

 ぼくはなんだか気持ち悪くなる一歩手前に来ている気がした。あるいはジェットコースターでもうすぐてっぺんにたどり着くぞという高揚の裏側でつまりその後は……とぞっとするような感覚。

 不安で頭が重たくなっていると香奈さんがぼくの背中をさすってくれた。

「ふふ、背中もぶあつい」

 そろそろ出ようという話になって合田が「かんぴょう」と若きバーテンダーに向かって両手の平を差し出した。青年は合田の手に勘定の書かれた紙をそっと置いて、一歩だけ後ろに下がった。合田は勘定を真正面から見た後、斜め前から眺め、下から見物し、上から見下ろして、ぼくの目の前にそっと差し出した。

 思ってもみない各金額。それにのしかかる法外のTAX。それにのしかかる法的な税。想像だにしない合計金額。

 ぼくの背中にはもう香奈さんの手はなかった。彼女は口元を手で隠して「ごちそうさまでーす」と言った。合田は詩乃さんに「世界はこんなに三角だったか」と聞いた。詩乃さんは「お会計、だいじょうぶそ?」と聞いた。ぼくは「お会計、間違いじゃないですか」と聞いた。青年は「払えないの」と聞いた。

 香奈さんはぼくと目を合わせてくれなかった。

 斜め前から扉の開く音がした。背は低いけれど横に広くて小さくはない男がカウンター内に入ってきたのが見えた。彼はバーテンダーを押しのけてぼくたちの前に立った。そして座った。ぼくと合田はたぶん同じことを考えて顔を見合わせた。空気椅子なのか、それともこちらから見えないだけで椅子があったのか。この疑問を切り裂くようにチョップがカウンターに叩き下ろされた。ぼくたちは男を見た。彼は薄く笑っていた。

「カードあるでしょ、カード」

 ぼくたちにはカードがあった。しかしお金を支払わないというカードはなかった。合田は非合理的に抵抗した。「あるものはない」ぼくは小声で制止した。詩乃さんも同調するように合田の顔を覗きこんだ。「そうだよ、合田さん。ここで支払えなかったらハッキリ言ってダサいよ。合田さん、あたしたちより年上だよね、年功序列だよね、外が暗くなっても残業できるよね、生理ないよね、妊娠しないよね、出産しないよね、美しくないよね。わかるよね? だってあらゆる条件を考えてみても三十を超えたおっさんと若い女の子のどちらがお金を持っているかは明らかなことだもの」

 これまでの彼女はぼくたちに声を出し惜しみしていたようだった。思いがけない饒舌に合田は「不正がないかぎり」とぼやいた。

 香奈さんのほうを向くと彼女はすでにこちらを見ていた。彼女の目はぼくの戸惑いを余すことなく奪うかのように大きく見開かれ、その瞳にぼくは心を奪われていた。が、彼女の次の言葉で我に返った。

「これは正当な税なの」

 税。

「あなたたちはわたしたちの若さを消費したでしょう。消費税はね、消費するすべての人間に課せられる税なの。自分の外側から美しさを外注しないと人生に喜びを得られないなら税を払わなければならない。税を払いたくなければ素晴らしさを外注しなくてもよい人間に生まれてきなさい。あるいは税を払えるような気前のよい人格に生まれてきなさい。もしくは今生の喜びを諦めればいい」

 ぼくは「ひどい」と言った。彼女は「ひどくない」と短く答えた。しばらく押し問答が続いていたかのようにあきれ気味に。詩乃さんの笑い声が割りこんでくる。

「ってか、デブとチビのおっさんが若くてかわいい女の子ふたりと会話する権利があるとでも。うんと昔のことだから忘れちゃったのかな。思い出してみて! 子どもの頃からぱっとしなかったでしょう。一軍はもちろん二軍の異性とすらお話しできなかったでしょう。なのに年をとったらどうして自分より階級が上の女の子と関われると勘違いしちゃったのかな。あんたたち、おっさんが若さをもてはやせばもてはやすほど、老いたおっさんの価値も減ってゆくってわかってないよね。なんかいつまでも若い気になってるもん。年相応の経験を積めなかっただけでしょ」

 合田は先ほどから腕を組んでだまってぼくらを見上げている男に向かって「若くなくて痩せていなくて背が高くない人間はいくらでもいる」と言った。男は肩をすくめ、香奈さんは「中身が大切なのよ。あなたたちには評価できない中身が」と微笑んだ。

「行きたい店があるのに駐車場が見つからなくて諦めるようだ」

「あっはは、車なんて持ってないでしょ」

 嘲笑されながらぼくたちはお金を払った。カードで。半分ずつ。会田のカードはタッチ決済ができなかった。端末にカードを差しこむ短くて太い指からぼくは目をそらした。若く美しく見えた女の子たちの顔は老いて醜く――はならなかった。あいかわらずきれいなままだった。よく見るとあまりにもくっきりと美しいので整形しているような気がしたけれど関係のないことだった。関係ない。ぼくたちには関係がない。関係を築く権利がない。

 支払いを済ませた途端、男が重たそうなからだで軽々しくカウンターを乗り越えた。ぼくと合田を回れ右させてぐいぐいと背中を押してゆく。

「さあ、帰った帰った。もう現実の時間だよ」

「最初から現実だった。夢を見ている時間も含めて現実だった」

「きみ、女の子とはろくに会話できないのに男相手ならまともに受け答えできるんだね」

 男に揶揄されても合田は毅然とした口調で「美男子相手じゃそうはいかない」と返した。

 ぼくはずっと黙ったまま、わずかな抵抗で自分の体重をぼくの背を押す男の左手にかけた。だが抵抗もむなしかった。ぼくたちは店から追い出され、転がり落ちるように、実際にはとぼとぼと、一段一段、長い長い階段を下りていった。

 もちろんだれも見送りには来なかった。

 どこからか酔い痴れた歌声が聞こえてくる。言い合う声も。だれかを起こそうとゆさぶる音も。乱暴に蹴られた空き缶がたぶん壁にぶつかった。視界の端でこっそりと走り去るねずみ。きっと四時に閉まる焼き鳥屋の看板を囲むネオン。終電を逃したぼくたちは、初電を待つために次の店を選ぶひとたちの群れとは逆方向に下ってゆく。繁華街のにぎやかさから一歩ずつ静かに遠ざかる。ぼくの古びた靴が漏らすギチギチという悲鳴が耳をつんざく。ひざが痛くなる。あんなにいたひとびとはもう消えている。歩行者のための広い道は細くなって横を車が走っている。ぼくたちは今やどこに向かっているのかわからないほどに直進している。慣性にしたがって。自分たちの重みに負けて下に下に下になめらかにゆるやかに転がり落ちるように下ってゆく。

 やがて車も走らなくなる。

 単純な縦の線で描かれているはずの街灯、コンビニエンスストア、自動販売機、マンション、アパート、シャッターで閉ざされた個人商店が斜めに建っているように見える。今にも倒れそうなほどに。ぼくのとなりにいる合田も斜めになっている。次の瞬間には引きちぎれてもおかしくないほどひん曲がった口から彼は言う。

「豆腐の角が取れない」

 倒れるどころか一回転をして頭を打ち付けるどころか何回転もして尻餅をつくどころか海を割って宇宙に飛び出してしまうほどの強烈な傾斜でぼくは転がり落ちてゆく。かけっこでも徒競走でもシャトルランでも負けてきたぼくの足が暗い町並みを追い越して合田を突き放してカンカンカンカンと鳴る方へ駆けてゆく。

 付き合えなかったから怒っているんじゃない。だまされたから憤っているんじゃない。ぼったくられたから悲しいんじゃない。あの夜はうそだったのか。ぼくたちは友だちで仲良しだったんじゃないのか。ぼくの話で笑っていたのは愛想笑いだったのか。どうせお金を取られるのにのんきなやつだとあざ笑っていたのか。ほかの男に気に入られるための道具のくせにと思っていたのか。

 ゴールテープを切ったことのないぼくのからだが踏切の棒を跳ね返す手前で激しい振動と轟音とともに電車が駆け抜けていった。

 その場でへたりこんだぼくのとなりに合田が後からやってきた。踏切はとうに開かれ、辺りは静まりかえっていた。空はいつの間にか少しずつ朝の色になっていった。もう今日が始まっていた。だというのにぼくたちだけがその場から一歩も動けなかった。

 生きることも死ぬこともできず、ただ税を払うしかない。

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