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悪役令嬢だった彼女についての覚え書き

作者: 松本雀

彼女の話をする前に、まず私自身のことを少しだけ話しておこうと思う。何しろ、私は「友人」だったのだから。悪役令嬢などと呼ばれている彼女の、だ。


いや、今さらそんな肩書きに意味があるとは思わないけれど、世間というのは案外そういう名前にすがりたがるものなのだ。


私は十八歳になった春に、社交界に正式にデビューした。父はしがない男爵家の当主で、母は昔踊り子だった。つまり、貴族の端っこと言えば聞こえはいいが、実際には家の壁にこびりついた苔のような存在だ。


そこそこ教養はあり、そこそこ器量もよく、何より目立たないことに長けていた私は、完璧な「日陰者」だった。主役ではなく、照明係のような立ち位置で、彼女の傍にいた。


彼女――リディア・ド・リュクサンは、誰よりも正しく美しかった。黒曜石のような瞳と、真珠を溶かしたような肌。言葉遣いは鋭く、姿勢は凛としていた。誰もが一歩引いて彼女を見る。尊敬と、恐れと、少しの妬みを交えて。


そんな彼女の隣にいた私は、誰からもこう呼ばれていた。

「公爵令嬢の、お付きの人」


名前はたいてい忘れられていた。でも不思議と、それが心地よかった。私は彼女の側にいることで、自分が世界の一部であることを確認できた。何も起こらなければ、それでよかった。


ただ、その春の午後。あの噂が学園中に広まった日だけは、違っていた。噂というのは、いつだって不意打ちのようにやってくる。まるで朝起きたら片方の靴が消えていた、というような不条理さで。


彼女が、王太子殿下との婚約を破棄されたらしい、と。


私はその報せを、寮の共有サロンの窓際にある肘掛け椅子で、紅茶のカップを傾けながら聞いた。濃いアールグレイに砂糖は入れなかった。舌に渋みが残ったが、それが妙に今日の空気と調和していた。


「……それで、どうするの?」


同室のクレアが聞いてきた。どうするの、とは何を、だろう。私が彼女の代わりに王太子の頬を引っぱたくとでも思ったのだろうか。それとも、涙ながらに彼女の潔白を叫ぶとでも? 残念ながら私は、そういう人間ではなかったし、彼女もそれを望んでいなかった。


「紅茶が冷める前に飲んで」


私はそう言ってカップを回し、リディアのことを考えた。彼女は今、何をしているだろう。きっと、鏡の前で髪を梳かしている。泣きもせず、怒りもせず、ただ淡々と、形を整えているのだ。そういう人だった。


彼女はその夜、私の部屋を訪ねてきた。扉を二度、静かに叩いて。


「開いてるわ」


私は椅子に座ったまま声をかけた。リディアはためらいなく扉を開け、まるで自分の部屋のようにすっと入ってきた。


深い葡萄色のドレスに身を包み、まるで何事もなかったような顔をしている。相変わらず髪は完璧に整えられ、首元には小さな黒真珠のチョーカー。口紅の色だけが、少しだけいつもより濃かった。


「アールグレイ?それともダージリンにする?」


「今夜は――水が欲しいわ」


私は立ち上がって、サイドテーブルの上のピッチャーからグラスに水を注いだ。氷は入れていない。冷たさというのは時に感情を押し流してしまうから、今日はぬるいくらいがいいと思った。


リディアはグラスを受け取り、小さく「ありがとう」と言って、一口だけ水を飲んだ。彼女が礼を言うのは、いつも本気のときだけだ。だから私は黙って座りなおし、続きを促さず、ただ彼女の表情の微細な変化を待った。


「彼女、泣いてたわ」


「……彼女?」


「例の聖女。王太子殿下が私との婚約を解消して、彼女と正式に付き合い始めたそうよ。その発表の後、控室で泣いていたのを見たの」


私は眉をひそめた。だって、泣くのが遅すぎるじゃない。


「どうして?」


「わからない。多分、王妃になることの重みを今さら理解したんじゃないかしら。あの人、きっと信じてたのよ。私が、最後にはちゃんと悪役になってくれるって」


私は少し笑ってしまった。


「それで?なったの?」


「ええ、完璧に。お望み通りワインを浴びせ、罵って泣かせてあげたもの。王太子殿下にも、一発平手をくれてあげたわ。彼の片頬だけが紅く腫れているの、すごく滑稽だった」


彼女は水を飲み干し、そして私の方を見た。


「これから、何をするつもり?」


「まずは部屋を片付けて、それから靴を選ぶ。今夜寮を出るつもりなの」


「どこへ?」


「海が見える街。昔、一緒に絵葉書を買った場所があったでしょう?」


私は頷いた。あれはたしか、十六歳の夏。学園の夏休み中、こっそり三日間だけ外泊して、小さな港町の宿に泊まった。石畳の通りに、波の音が響いていた。


「あそこなら、誰も私のことを知らないわ」


リディアはそう言って、窓の外に視線を移す。夜の空気が重く、カーテンが少しだけ揺れていた。六月の終わり、すこし湿った風。もうすぐ雨になるかもしれない。


「一緒に来る?」


彼女がそう言ったとき、私は少しだけ迷った。椅子の肘掛けに置いていた手を、グラスの縁に移しかけて、それをやめた。


「ごめん。私は、行けないの」


「そう。残念ね」


彼女はそう言ったけれど、声に寂しさはなかった。ただ、決意のようなものがあった。


彼女が扉を開けて、去っていくまで、私はそれ以上何も言わなかった。


言葉が必要な関係じゃなかった。彼女は自分の物語を終わらせに行き、私はその続きを見届ける役ではなかった。ただ、記憶のなかに、確かに「彼女がいた」ということだけが残ればいいと思った。


グラスには、彼女の唇の痕が少しだけ残っていた。私はそれを拭き取らずに、そのまま窓際に置いた。そうやって、私はまた静かな照明係へと戻っていく。


彼女が去った翌朝、私は少し早く目を覚ました。まだ空は灰色で、鳥の声も聞こえない。窓の外では、昨夜の湿った風の名残が草木をゆるやかに揺らしていた。時計の針は六時を指していたけれど、それが早いのか遅いのか、自分でもよくわからなかった。


私は髪を結い、制服のリボンを丁寧に締めた。そしてあの夜、彼女が残していったグラスを手に取った。少し冷たくて、彼女の唇の痕もすっかり曇っていた。けれど、どこか儀式のような気持ちで私はそれを流し、布で拭いて、元の棚に戻した。きっとあのグラスは、今後誰が使おうと、ずっと彼女のものだ。


朝食の席では、皆いつもより声が大きかった。誰もがリディア・ド・リュクサンの話をしたがっていた。


彼女が泣いたかどうか、王太子は裏切り者なのか、聖女は本当に善人なのか。けれど不思議なことに、誰も真実にはたどり着けなかった。人はいつだって、自分が信じたい物語だけを選び取って語る。


「あなたは彼女の親友だったのよね?」


向かいの席に座る金髪の少女が言った。好奇心と、少しの憐れみを混ぜた声。私はパンにバターを塗りながら答えた。


「いいえ。ただの照明係よ」


彼女は意味がわからないといった顔をしたが、それ以上は何も聞いてこなかった。


それから私は、普通の毎日を生きるようにした。授業に出て、花壇の手入れをして、時々紅茶を飲み、夜になれば日記を書く。彼女のことを直接口に出すことはなかったし、誰かが話題にしても、私は決まってこう言った。


「彼女はもう、ここにはいないの」


それは嘘でもなければ、本当でもなかった。ただ、私にとって彼女は、「学園の中心」ではなく、「私の世界の中心にいた恒星」のような存在だったのだ。近くにあるようで遠く、手が届きそうで届かない。でも確かに、光を放っていた。


ひと月が過ぎ、季節は夏へと変わった。噂は薄れ、誰もが別の話題を求めるようになった。新しい教師のことや、王太子と聖女の婚約記念式典の話、舞踏会の準備や、流行りの香水について。私はそうした話題にうなずき、微笑み、しかしそのたびに、遠くへ出ていった彼女のことを、少しだけ思い出した。


ある日の放課後、私はふと思い立って、学園の図書室に足を運んだ。古い絵葉書を探すためだ。彼女と昔行った、あの港町のもの。あのときの店はもうないかもしれないが、もし彼女があそこへ行ったなら、きっと何か思い出を一つ残そうとするはずだ。


図書室の奥、旅行記の棚に、小さな木箱があった。寄贈された資料や絵葉書が無造作に詰められた箱。その中に、それはあった。白と青のインクで刷られた、港町の風景。船の帆が風に揺れ、白い灯台が丘に立っている。裏には、何も書かれていなかった。ただ、角が少しだけ擦れていて、誰かが指で何度もなぞったような跡があった。


私はそれをそっとポケットに入れた。持ち出すつもりはなかった。たぶん、しばらくしたら元に戻すだろう。けれど今はまだ、そばに置いておきたかった。


その夜、私は夢を見た。


あの港町で、彼女が一人で立っている。風が髪をゆるやかになびかせて、彼女は振り返らずに海を見つめていた。私は声をかけず、ただそれを遠くから眺めていた。


目が覚めたとき、空は白み始めていた。夏の朝だった。


私は静かに立ち上がり、いつものように紅茶を淹れる。今日の紅茶は、ダージリンにした。少しだけ、甘さを加えて。


彼女がこの世界のどこかで、静かに歩きはじめているのだと思うと、不思議と安心した。誰に悪役と呼ばれようと、主役を奪われようと、彼女は彼女であり続けるのだから。


私は変わらず、誰の主役にもならず、日々の役目をこなしていた。


図書室で本を返し、紅茶の葉を買いに出かけ、誰かの恋の噂を聞き流し、たまに誰かの失恋を慰めたりもした。誰かが涙を流すとき、私はいつも手元にハンカチを用意していたし、少しばかり甘いお菓子も持ち歩いていた。それが「彼女のいないこの舞台」で私に与えられた役割のように思えたのだ。


けれど、それでも時折、思い出してしまう瞬間がある。


たとえば、午後の陽が斜めに差し込む廊下の曲がり角。ふとした拍子に、私は彼女がそこに立っている気がしてしまう。黒曜石の瞳と、静かな気配。何も語らず、何も求めず、ただ私にだけ視線を向ける彼女。そんな幻を胸に抱えながら、私はそこを通り過ぎる。


それは悲しみというより、むしろ一種の贅沢だったのかもしれない。日々の喧噪の中で、誰かの存在を「思い出す」という行為ほど、密やかで贅沢な時間はない。


ある晩、私はひとりで港町へ向かう列車に乗った。あの絵葉書の風景を、この目で確かめておきたいと思ったからだ。彼女がそこにいたかどうかを、知りたかったわけではない。ただ、彼女が目指した「静かな終点」を、自分の足で訪ねてみたかったのだ。


夜汽車は静かだった。窓の外を流れる景色は暗く、音楽も流れていない。私は読みかけの本を膝の上に置き、窓に頬を寄せて、何もない夜の線路を眺めた。時間が、少しだけ後ろ向きに進んでいるような気がした。


朝、列車は海の近くの小さな駅に止まった。潮の香りがかすかにして、空気は透明だった。あの絵葉書の風景は、本当にそこにあった。丘の上の灯台、入り江に浮かぶ小舟、古い喫茶店の軒先に吊るされた貝殻の風鈴――すべてが、あの夏の記憶のなかと同じだった。


私は小道を歩いて、灯台のそばまで行った。そこでしばらく立ち止まり、風に吹かれていた。誰もいない海。彼女の姿は、もちろん見えなかった。でも不思議と、ああ、ここに彼女は来たのだろうと、そう思えた。


そしてそれで、十分だった。


私はポケットから、例の絵葉書を取り出し、裏にそっと文字を書いた。


「あなたがここにいたこと、私はちゃんと見届けました」


書いたあと、それを海に投げるでも、瓶に詰めるでもなく、またポケットに戻した。きっと、まだ持っていたかったのだろう。私のなかで彼女は、もう伝説のような存在だった。神話の中の女王みたいに、すべてを終わらせて、静かに姿を消した。


その夜、宿のベッドに横たわりながら、私は自分の人生について考えた。


自分がこの先、何になるのか、どこへ向かうのか。どんな役を与えられ、どんな役を選ぶのか。答えはひとつも出なかったけれど、どれも急ぐ必要のない問いだった。


ただひとつ、確かなことがあった。


私はこれからも、照明を灯し続けるだろう。誰かの物語の傍らで、静かに。光があたるべき場所に、やわらかな明かりを。声高に語られることはなくとも、その舞台の片隅に、私の存在があったことだけが、そっと誰かに伝わればいい。


そして、いつか――

この舞台の照明がすべて落ちるその瞬間に、私はまた、あの夏の港町を思い出すのだろう。


黒曜石の瞳と、真珠のような肌。すべてを手放し、それでもなお、美しく立っていた彼女のことを。

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