第3話 はじまりは「おぎゃあ」から②
「…………」
しかし、言葉にならない。不思議なのは、頭が大人の意識を保っているはずなのに、どうにも思考がまとまらないのだ。さっきまでの強烈な圧迫感で消耗したのか、それとも身体がまだ順応していないのか。
どうやら口を動かそうとしても、出てくるのは“赤ん坊の泣き声”だけらしい。
周囲がどんなやりとりをしているかはわからない。英語でも日本語でもない、しかしどこか耳にやさしいリズムの言葉が飛び交っている。
「エクラルゥ……リタメ……」
そんな感じのフレーズが耳をかすめるたび、私の心は“そうだ、ここは異世界だ”と再認識する。
次の瞬間、布で包まれた私の身体が、さらに大きな温もりに包まれる。
まだどこか湿ったままの体表を優しく拭いてくれる手。そっと抱きかかえてくれる感触。新生児に必要なケアをしているのか。
「……うぁ……ぎゃ……」
思わず泣き声があふれてしまう。これは感情がどうとかではなく、“赤ん坊としての生理反応”が優先して働いてしまうようだ。
やがて、私を抱く腕がゆっくり揺れ始める。彼らからすれば“産声”がしっかり上がったということで、健康状態を確認しているのだろう。
周囲の光はまだ目にまぶしすぎる。瞼の裏に痛いほどの刺激があるが、うっすら明暗の変化を感じる程度。鼻も、これまでとまったく違う空気を取り込んでいるのだろう。湿った匂いや金属質な匂い、そしてかすかなミルクのような匂いまで混じっている。
「……ぎゃあ……」
痛いわけでもないのに泣いてしまうのは、どうにもコントロールできない。前世のように理性的に振る舞おうと思っても、赤ちゃんの体が本能的に“泣く”という行動を最優先してしまうみたいだ。
すると、誰かが甲高い歓声を上げ、何かを喋っている。おそらく助産師的な人々か、侍女か、あるいは魔法使いかもしれない。
“おめでとう”とか“元気な子ですよ”とか、そんな意味合いのことを言っているのだろうか。それとも、この世界特有の習慣で別の儀式的なことを言っているのか。
布に包まれて、私は別の場所へ運ばれた。まだあたりは騒がしい。母親であろう人の苦しげな呼吸が落ち着いてきているらしく、安堵のため息が聞こえる。
どんな人なんだろう……。貴族の女性なのか? この国の言語はどうなっているのか? 頭の中に疑問は絶えないが、今はうまく思考をまとめられない。
次の瞬間、私の体は柔らかなクッションの上に乗せられた。薄いタオルか布でくるまれ、産着のようなものを当てられるのがわかる。
冷えた空気から守るためだろうか。ひんやりとした汗や羊水が少しだけ残っているのを、パタパタと拭いてくれている。
不意に耳元で、何か小さな鈴のような音がする。誰かが魔法を使ったのか、あるいはただのお守りなのか。
赤ん坊の体はまだ身動きもままならず、私はただ“されるがまま”になっている。
「……ん、んう……」
泣く以外の声も自然と漏れる。酸素を鼻や口から吸い込むだけで、肺が慌ただしく動いているのがわかる。前世では当たり前だった呼吸が、今は新鮮な作業だ。
早く目を開いて周りを見たいが、瞼が重すぎて動かない。耳も音を拾っているはずなのに、頭の中で意味を組み立てられない。
誰かが私のほっぺたに触れ、かすかに笑い声のような響きが聞こえた。
これが、新生児としての初日の“世界”なのか。正直言って、混乱しかない。
それでも、この感触は“生きている”という実感を与えてくれる。何もできない無力な赤ん坊。それでも私は確かに息をし、体温を持ち、声を上げているのだ。
ふと、頭の奥からツクヨの言葉がかすかに聞こえる気がする。
「今度こそ長生きしてね。二度と早死にしちゃわないように」
あの軽い口調に不思議な説得力があった。確かに、これからはもう“過労死”などしないように、大切に生きていきたいと思う。……まあ、まずは“寝返り”とか“はいはい”とか、ずっと先だろうけど。
しばらく抱かれたり拭かれたりしているうちに、また意識がぼんやりしてきた。
思考も混沌としていて、脳のメモリがオーバーヒートしそうだ。絶対に眠りたくないのに、赤ん坊の体はあっという間に休息モードに入ってしまうらしい。
それでも、周りが少し落ち着いてきたのか、“母親”のそばらしき場所で誰かが手当をしているのか、明らかに安堵の空気が漂っているのを感じる。
ひょっとしたら私の母親が「頑張ったわね……」みたいな言葉をかけられているのかもしれない。あるいは、今私を抱いてくれている人が「元気な赤ちゃんです」と報告しているのかもしれない。
どんな顔をしているんだろう。どんな髪色で、どんな服装なんだろう。中世ファンタジー風と聞いたから、レースのついたローブとか、そんなイメージだろうか。
見たい。でも、瞼が開かない。腕や足も動かそうとすると、まるで粘土細工のようにぎこちなく、ぷるぷると震えるだけ。
本能的に“おぎゃあ”と声を出すと、また周囲がざわつく。誰かが「あらあら」というような優しい声であやしてくれる。確かに悪い気はしない。
そうこうしているうちに、私の身体はより温かい何かに触れた。母親の胸元なのか、それとも助産師の腕なのか。血の通う肌がかすかに触れ合い、強烈な安心感がこみ上げる。
生まれたばかりの赤ん坊は、おそらくこうやって母の体温を感じて落ち着くのだろう。
「……ふう……」
声にならないため息が頭の中で鳴る。こうして私は、人生二度目の出産を経験したのだ。あまりにもリアルで、荒々しくて、でもどこか神聖な体験だった。
考えてみれば、前世では母の胎内から生まれる瞬間なんて覚えていなかった。当たり前だが、記憶がなかったからだ。
しかし今回は、大人の意識のまま体験してしまった。これはそうとうショッキングな出来事かもしれない……でも、もうこの身体にかかる生理現象をコントロールできない以上、慣れていくしかない。
「……ぎゃ……ぎゃあ……」
泣き止むこともできず、私の口からは弱々しい産声が出続ける。どこかで意識だけは「うるさくして申し訳ない」と思っているが、この体の本能がそれを許さない。
赤ちゃんにとって、泣くことが“コミュニケーション”なのだと言うし、仕方ない。周りもそれを承知しているからか、まったく嫌な顔をせずに優しくあやしてくれている……ように思う。
やがて、私の身体はふわりと持ち上げられ、別の場所へ移される。どうやら新生児のケアをする場所らしい。
布でやさしく拭かれたり、小さな秤のようなものに乗せられたり、何か温かいタオルで体温を保ってもらったり……。前世の日本でも“出産直後の新生児ケア”というのはこんな感じだったのだろうが、これがこの異世界ではどう変わるのか。
しかし、思ったよりも“野蛮”な感じはない。
助産師たち……あるいは侍女たち……の声からは穏やかな調子が伝わってくる。何か魔法的な処置でもしているのか、軽い鈴のような音が聞こえ、やわらかな風が私の頭をなでるような錯覚もある。
「エララゥ……リタメ……コトラ……」
そんなふうにいくつか単語を耳にするが、もちろん意味はわからない。ただ、彼女たちが心配りをしながら優しく対応してくれているのは伝わる。
「あー……うー……」
もう泣き叫ぶほど苦しくはない。けれど、何か言おうとしても、口から出るのはやはり赤ん坊の声。そのギャップに自分で驚いてしまう。
次の瞬間、助産師らしき人物が何やら“光”を灯した。私はうっすらと瞼を開けようとするが、まぶしくて、さらに目がチカチカする。
どうやら身体を簡単に検査しているのかもしれない。この世界には魔法があると聞いているが、診断するための魔法のようなものだろうか。かすかな光が私の胸や頭をなぞると、身体の奥で小さな振動が生まれる。
不思議と痛みはなく、むしろ心地よい。こうして“健康状態”をチェックしているのかもしれない。さすが魔法のある世界だ。
少しして、その光はふっと消える。代わりに、別の人が私の顔に近づいてきた。何か丸い瓶みたいなものから液体を垂らされ、タオルで拭き取られる。消毒薬だろうか。消毒魔法だろうか。
この世界の中世風文化が、どこまで衛生管理を徹底しているのか気になるけれど、どうやらそこそこ先進的なケアをしているらしい。
「あうー、あー」
声を上げると、周囲が和やかにざわめく。笑みのような空気が伝わってきて、私もわけもなく安心してしまう。
やっぱり生まれたての赤ちゃんは“かわいい”という感情を引き起こすのだろう。前世の私が見ても、そう思うに違いない。
まだ身体を動かすのは難しいが、なんとか腕の存在を確認しようと力を込める。でもぷるぷると震えるだけで、全然思うようにならない。大人なら簡単にできるはずの動作がまるでできないとは……。
だが、それが“赤ちゃん”なのだ。
やがて、一連のケアが終わったのか、私の体はふかふかの布にくるまれたまま、もう一度抱っこされる。肌が合わさるというより、なにか厚手のローブ越しに抱かれている感じだ。
温かい体温が心地よい。波のように漂っていた意識を、もう一度落ち着かせるために、私は深呼吸……したいが、肺が小さくてなかなかうまくいかない。
落ち着いて周囲を観察……と言っても、視界はまだぼんやり。少しだけまぶたが開いたような気がしても、全然ピントが合わない。まるで視力0.01の世界だ。
かろうじて人影が動いているのが見える程度。どんな顔なのか、どんな服装なのか、さっぱりわからない。
こうして、私は異世界へ“赤ん坊”として生を受けた。二度目の人生、それも魔法のある不思議な異世界でのスタート。しかし、流行のチート能力も特別なアイテムもないまま、ただの新生児。
前世で得た知識や経験はあるが、この小さな体では何もできない。まずは“この世界に適応する”ところから始めるしかないのだろう。
「うー……」
溜息とも声ともつかない音が口から漏れ、また自然と泣きそうになる。すると、抱っこしてくれている人が優しく揺らしてくれる。
耳をそばだてると、どこか遠くで声が聞こえる。母親らしき人が安静にしているようだが、きっと彼女は疲れ切っているに違いない。どんな風に接してもらえるのか。まあ、考えても仕方がない。
やがて、まぶたが重くなってきた。
新生児はほぼ一日中眠るものだ、と言う。大人の意識があるとはいえ、この小さな体では長時間起きているのは無理なのかもしれない。心も体も、早くも限界が近づいている。
朦朧としながら、私は最後にもう一度だけ周囲を感じ取る。
複数の人がここにいる。誰かが「おめでとうございます」と言っているような気がする(そういう雰囲気が伝わる)。誰かが大きなタオルや布を動かしている。母親らしき人が浅い呼吸をしている気配。
そして、抱っこしてくれている人の腕の中……。肌に近い温もりは少ないけれど、守られている感じがする。
「……あ…………」
何か言おうとしても、唇が生まれたてでうまく動かず、また小さなうめき声だけが出る。
そんな私を、彼らは優しくあやしてくれている。大丈夫だよ、落ち着いて……とでも言いたげな柔らかな声に包まれ、私は眠りの淵へと沈んでいく。
こうして、私の“異世界新生児ライフ”が始まった。長い人生になりそうだ。でも、もう少し大きくなって言語や歩行ができるようになるまでは、何もできない日々が続く。
だけど、前世のように病気で急に死ぬという事態は避けたいし、無理して働きすぎるなんてもってのほか。まずは“赤ちゃんライフ”をしっかりとやり遂げるしかない。
時折、頭の中にツクヨの声がちらつく。
「チートとかはないけど、貴族の家で美酒美食を楽しめるから大丈夫だよー」
そんな無責任な言葉を思い出して、苦笑……したいが、赤ちゃんの口では笑いすら難しい。
……こうして、目を閉じながら私は心の中で呟く。
「今度こそ、過労で死ぬような生活は勘弁……。ゆっくり、のんびり、でも前世の記憶を活かして、うまくやっていこう……」
まだ声にはならないけれど、それが私の決意の言葉だった。
赤ん坊の体は、すぐに眠りに落ちる。大人の意識を持つ私だって、今はこの小さな体の生理現象には逆らえない。
そうして、産声を上げたばかりの新生児は、異世界の空の下で初めての眠りを迎える。
これからの人生はどうなるのか。貴族として美酒美食を享受するのか、あるいは魔法を学んで冒険に出るのか。それとも再び働きすぎてしまうのか――それだけは絶対に避けたい。
私の、この世界での長い物語が、今、産声とともに幕を開けた。
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