第1話 赤ちゃん主人公の異世界スローライフ(物理)
気づけば、もう何日か経っていると思う。
いや、正確な日数はわからない。数える手段がないのだ。外の光や部屋の様子で昼夜をざっくり把握しているだけ。でも、少なくとも数日――体感では一週間以上かもしれない――はこの部屋にいて、朝起きてはミルクを飲み、寝返りしたいのにできなくて泣き、また寝て……を繰り返している。
そう、私は今、生まれたばかりの赤ん坊なのだ。
――信じられるだろうか? ついこのあいだまで大人の男だったはずなのに。
それが、なぜか中世ファンタジー風の世界らしき場所で目を覚まして、しかも赤ちゃん。しかも「貴族の息子」と思しき立派なベビーベッドで侍女に囲まれている。
今さら自分の両手両足を見るまでもなく、どう考えてもこれは現実だ。初日は錯覚かと思った。とりあえず夢かとも思ったけれど、何度寝ても朝起きても、この世界、この体から逃れられない。
目線を下ろすと、布団に包まれた小さな手足が見える。まだ首も座っていないらしく、仰向けのまま身動きすらままならない。首を動かそうにも、ぷるぷると震えるだけで、すぐにズルッと元に戻ってしまう。
ああ、情けない。確かに意識は大人のままなのに、ここでは何をするにも命がけだ。
そもそも赤ん坊にとって、寝返りひとつが大イベントだ。誰かに支えてもらわないと上半身がひっくり返せないし、バランスを崩したらすぐに苦しくなる。これが「赤ちゃん」の現実。
それでも、最近はちょっとずつコツを覚えてきた。
夜、部屋が静かになったときを狙って、こっそり寝返りの練習をするのだ。
体を左右に揺らし、腕を抜いて、勢いをつける。大人なら一瞬でできるが、この体だと腰も腕も力が入らない。
「あぐ、うぐ……」
力んでいると、つい変な声が出てしまう。気持ちは「よし、行くぞ!」なのに、実際に口から出るのは赤ちゃんのうめき声。
どれだけもがいても、あと一歩のところで腕が下敷きになり、ゆるゆると元の体勢に戻ってしまう。
「……くそっ」
心の中で呟いても、声にすれば「ふえぇ……」みたいになる。
このもどかしさが重なってくると、自然と涙が出てきて、情けないことに泣き声が漏れてしまう。すると、隣の部屋か廊下のあたりから侍女がすぐに飛んでくる。
「リティメ サアラ? ナナシェ ユルフィ?」
「クリャル グティ、ラアネ!」
――何を言っているのかさっぱりわからないが、雰囲気的には「どうしたの? お腹すいた?」とか「哺乳瓶持ってきて!」みたいなやり取りだろう。
とにかく、こちらの世界の言葉(異世界語)はまだ理解できない。けれど彼女たちは優しい表情で私をあやし、背中をさすり、哺乳瓶を用意してくれる。
泣くと食事が出てくる――赤ちゃんの最強スキルなのか。
だが、心は三十代の大人なので恥ずかしい。なるべく泣きたくない、と思っていても、体が不安を感じると勝手に涙が出てしまう。どうしようもない。
哺乳瓶で甘いミルクを飲めば、空腹感はあっという間に解消されるし、なんだか安心して眠くなる。侍女の胸に抱かれていると、そのままコトンと意識が落ちることもしばしばだ。
――しかし、このまま満たされているだけではいけない。心のどこかに焦りがある。
事前に聞いたところによると、この世界は中世ファンタジー風の舞台で、魔法が普及しており、たとえ庶民でもそこそこ清潔で快適な暮らしを享受できるらしい。
そう、私が生前、転生神ツクヨと名乗る青年から説明を受けたのだ。
「剣と魔法の世界ってやつだよ。意外と文明は進んでいて、上下水道みたいな魔法装置もあるから割と清潔なんだ。食べ物もいろいろあって、まぁ安定しているほうかな? あ、運が良ければ街の至るところにある“魔法式公衆浴場”とかも使えるかもよ?」
――確か、そんな適当な口調で言われた気がする。
それを聞いたときは「夢みたいだな」と思った。けれど実際に来てみると、確かに部屋の中は清潔だし、侍女たちもこざっぱりした制服を着ている。暗黒時代とかいわれた中世ヨーロッパとは違う“整った”雰囲気を感じる。
しかも赤ちゃんの身でこうして過ごすだけでも、空気が澄んでいるのがわかるし、ホコリっぽさは皆無。うん、ここまでくると逆に落ち着かないほどだ。
私はベビーベッドから天井を見上げる。ふわりと揺れるレースの天蓋。そこに施された金糸の刺繍は細かくて、まるで芸術作品のようだ。
その向こうには、やや薄暗い石造りの天井が広がっているが、一部には妖精文字のようなルーンがあしらわれている。これが魔法かもしれない。
この環境を見ただけでも、転生神ツクヨの言葉に嘘はなかったのだろうとわかる。なにせ、“赤ん坊”の私ですら肌荒れしないほど、部屋の換気や清潔面に気を使っているように見えるのだから。
正直、快適だ。私が“貴族の息子”だからこそ、この上流の空気を味わえているのかもしれないが、少なくとも汚い感じはまるでない。
――とはいえ、まだ首も据わっていない“赤ちゃんライフ”は試練の連続だ。
起きては寝返りに挑戦し、泣いてはミルクを飲み、おむつを替えられ、また眠る……。
実は、おむつ替えのときが一番屈辱的で、侍女に下半身をさらけ出すのは慣れない。心が大人だから、やたら意識してしまうのだ。
でも赤ん坊の身体は容赦なく排泄する。おむつが濡れたまま放置されると気持ち悪くて仕方ないし、すぐ泣いて呼ぶしかない。呼べば侍女は飛んできて優しく手際よく替えてくれる。
「あー……うー……」
声を出そうとしても、やはり幼児語しか出てこない。でも、大人の意識があるせいか、こういった初歩的な動作一つが新鮮でもあり、同時に恐ろしく不便だ。
それに、抱っこされているとき、侍女たちが私をあやそうとして「グルバ、グルバ~♪」と鼻歌交じりに揺らしてくれることがある。まるで人形のように扱われている感じがして、私の中のプライドが微妙に傷つく。だが、心地よさに負けてしまう自分もいるのだ。
この前なんて、侍女の一人が私をあやしながら「ゴロゴロ~、ゴロゴロ~」と独特のリズムで私を転がそうとしてきて、危うくベビーベッドから落ちかけた。もちろん、すぐキャッチしてくれたから大事には至らなかったが……。勘弁してくれ。
ある日のこと。いつものように侍女が哺乳瓶を持ってやってきた。私を抱き上げながら、軽やかな異世界語で喋っている。
「サアラ? トリーア ツェラム、フィナイ!」
声の調子や表情からすると、「さあ、お食事よ」「これを飲んで元気になってね」くらいの意味だろう。
私はそれをちゅーちゅーと吸い込みつつ、ふと思う。
――こんなに丁寧にミルクの温度や配合を調節してくれるなんて、やはり魔法の恩恵があるのだろうか。もしかしたら消毒や調理にも便利な魔法が使われていて、衛生管理もしっかりしているのかもしれない。
侍女の態度を見る限り、私の立場は相当に高いのだろう。将来的に“貴族の息子”として、なに不自由なく暮らせる可能性が高い。そうしたら、美酒美食に、美女にお世話されまくりの生活……、そのために、今の赤ちゃん生活を耐える価値はありそうだ。
だが、一方で落ち着かない気持ちもある。大切に保護されているということは、同時に“何か大きな役割”を背負わされる展開もありうる……。お約束というか。
――いや、考えたって仕方ない。まずは寝返りをマスターし、ハイハイくらいできるようにならないと話にならない。
哺乳瓶を飲み干すと、侍女は「ヨルフィ、ヨルフィ~」と優しい声をかけながら私の背中を軽く叩く。
げふっと自然にゲップが出るのもすっかり慣れた。口の端からミルクが垂れて、侍女がすかさず柔らかい布で拭き取ってくれる。
「アババ……」
大人の意識で状況を理解しているせいか、やるせない。私だって喋りたいのに、こんな「あばば」しか出せないなんて……。いやむしろ、こんな声が自然に出てしまうところが赤ちゃんの恐ろしさだ。
口のまわりには泡立ったよだれがついているし、手足も勝手にばたばた動く。まるで自分の体じゃないみたいだが、これこそが今の私の現実なのだ。
これでステータス画面でも開けば、せめて“寝返りスキル:Lv1”くらいは表示されるんじゃないかと淡い期待をしてしまう。もちろん、そんな便利なシステムは存在しない。ちょっと悔しい。
安堵の気分と満腹感で、まぶたが重くなっていく。赤ちゃんの身体は、起きているだけで結構疲れるらしい。
それにしても、まばたきのたびに視界がぼんやりする。この世界に来る前は、こんなに眠気と戦った記憶はない。
普通(!)の異世界転生なら、モンスターと戦うのだろうが、今の私にとっての一番の敵は、この眠気だ。
――果たしてこの先、私はどうなるのだろう?
そんな問いが浮かんでは、すぐまどろみの中へ溶け込んでいく。
ちなみに、実際に“まどろみの中”に入ったとき、しばしば“私が前世で過ごしたあの記憶”がうっすら蘇ることがある。転生神ツクヨに会うより前……つまり、日本のような現代社会で書類仕事に追われていた頃の映像だ。頭痛と徹夜の繰り返し、インスタント食品まみれの生活。思い出すだけでも胃が痛くなる。
あの頃は「ああ、もう少し自由な時間が欲しい……」なんてぼやいていたくせに、いざ自由すぎる赤ちゃんライフを与えられると、これはこれで落ち着かないという矛盾。私って面倒な性格かもしれない。自由というか、身動きできないんだけどね。
夜が深まると、廊下からかすかな足音が聞こえる。交代で侍女が見回りに来るらしく、部屋の扉がそっと開くこともある。
「グティ……フィナネ……」と何か囁いては、ランプを調整してくれる。私はベビーベッドの中から顔を向けるが、赤ちゃんの視力ではぼんやりとした人影にしか見えない。
見回りが終わると、再び足音は遠ざかり、部屋は静寂に包まれる。
――こんなふうに、私は穏やかに赤ちゃんライフを過ごしている。過ごすしかない。
しかし一方で、いつかは言葉を覚え、体を動かし、外の世界を見て回ることになるだろう。
生前、ツクヨが言っていたように、ここは「魔法のある中世風ファンタジー世界」だ。人々は魔法を使って生活しているらしいし、貴族には貴族なりの責務や慣習があるはず。
でも今の私には、首を自力で持ち上げることすらままならない。こんな状況では、魔物が出ようがドラゴンが飛んでこようが、成す術もない。侍女がいなければ生きていけない赤子だ。
この世界に来る前は「もう過労はごめんだ」「気ままにスローライフを送りたい」なんて思っていたけど、まさか文字通り“物理的に”動けないスローライフが始まるとは……。ツクヨさんも最近の流行だっていってたな。
泣けばミルク、泣けばおむつ替え。散歩に出たいなんて言う前に、そもそも抱っこしてもらわないと部屋の外に行けない。想像以上にスローすぎる。
いや、文字どおり“はいはい”すらできない時点で、この生活のペースは「最スロー」レベルだろう。泣き声だって「あうー、ぎゃー」しか出ないんだから。
いっそ開き直って、「こうなったら最高に優雅な赤ちゃん生活を楽しもう」と思う瞬間もあるのだけれど、何もできない体に戸惑い、あるいは何かしなきゃと落ち着かなくなる自分もいる。
でもまあ、せっかくの第二の人生だ。しばしの間、この体に慣れる期間として“超絶スローライフ”を満喫してみるのも悪くない……のかもしれない。
それでも、侍女たちが優しくて助かっている。
おむつが濡れて泣けばすぐ駆けつけてくれるし、たまには「ベビーマッサージ」らしきものをしてくれることもある。手足を優しく伸ばされると血行が良くなるのか、体がポカポカして気持ちいい。
加えて、哺乳瓶のミルクにも何パターンかあるのか、味が微妙に違う気がする。疲労回復用とか栄養補給用とか、そんな魔法的な配合があったりするのだろうか。
――本当に至れり尽くせりだ。
しかも、この部屋には不思議な小鳥が描かれたモビールが吊るされている。風や魔力の流れでクルクルと回り、優しい鈴のような音色を奏でるのだ。赤ん坊の私が見ても退屈しないよう配慮しているのだろう。
そして、私がグズって泣きだしそうなときは、必ず誰かがあやしに来る。そのたびに異世界語の子守唄やおどけた表情で笑わせてくれる。
「コバトラ、ハルメー、メー!」
……意味は不明だが、優しいトーンで歌われるとなんだか落ち着く。侍女が私のほっぺをぷにっと触れてきて「ふにふに~」なんて呟くので、つい吹き出しそうになる。赤ちゃんの頬は柔らかいから、触り心地がいいのだろうか。
いっそのこと、このまま大きくならずに一生あやされていたい……なんて考えがよぎるほどに、平和な時間だ。
――こうして私の毎日は、平和そのもの。
だが、長い目で見れば、このまま何もしないわけにもいかない。いずれ体が成長すれば、外の世界との関わりが増えるだろう。そこに待つのは穏やかな日々か、それとも波乱か……。
いまは何もわからないが、少なくともツクヨから「この世界はそこそこ平和」とは聞いている。ならば、せめて前世のように過労死しそうになるような生活は回避したいものだ。
そして、私はぼんやりとした意識の中で、私の前世、そして転生の始まりを回想し始めるのだった……。
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