獣国に嫁がされた豊穣の聖女ですが、「妻がいるのに勝手に来られても困る」と真っ当なことを言われ返品事案です
「レティシア、お前との婚約を破棄する!」
王太子による突然の宣言に、私は目の前が真っ白になった。私を突き放した婚約者の隣には、別の女性が淑やかに微笑んでいた。
曰く、豊穣の聖女はその彼女こそが本物だと。
勝手に豊穣の聖女が現れただの王太子の婚約者に迎えようだの、勝手に、それはもう勝手に私の人生を変えて、厳しく膨大な時間のかかる妃教育を受けさせ合間に聖女教育までしておいて、今度は婚約破棄!
努めて王太子妃に相応しくあるよう、認められた聖女として正しくあるよう振る舞ってきた私は、これまでの努力が報われなかったことにサラサラと砂のように散る心地になった。
浮気デートで訪れた植物園で「こんなにも緑豊かなのは、私の聖力によるものなんですよ!」と言われて信じるバカがどこにいるの? どこまでバカなの?
花冠つけて花まみれのドレス着てたら誰でも聖女になれるの? 私もそうすればよかった?
はぁぁぁ〜とつい漏れ出そうになった深いため息を呑み込んでいると、王太子は何も言葉を発さず呆れている私にニッと口角をあげた。
「しかしな、安心しろ。お前がこれまで学んできたことを無駄にするほど、俺は非道ではない」
その言葉に私はパッと顔を上げた。
バカだけど私の努力には気づいてくれていたのだと、それを活かせるようにしてくれるのだとちょっとだけ見直した。
「レティシア、獣国の王へお前を嫁がせる。我が国との国交がより良いものとなるよう、勤めを果たせ」
「……は?」
見直したのは間違いだった。
とんでもない暴論に、私はうっかり低い声で聞き返してしまった。
「馬車はすでに用意させている。このまま、今すぐ発つのだ」
「獣国ってそんな……。生贄も同然じゃないですか!」
「うまく妃になれ。生き長らえることを祈ってやる」
私は無理やり馬車に詰め込まれ、獣国へと送り出された。
野蛮で獰猛、国として最低限の国交はあるものの閉鎖的な、獣だらけの国に。
❇︎
「なに、嫁ぎにきただと? いきなり?」
荘厳な謁見の間に通され、獣国の王の御前。
獅子の耳と立派な口髭を蓄えた見事な体格の、人型の獅子王は、困惑した声を出した。
私は顔を上げることを許されておらず、獅子王の威圧感に震えながらその場に顔を伏せ続けた。
「勝手にそんなことをされても困る。そなたの国の王は何を考えているのだ」
発言を許され、私は怯えながら一つの訂正を入れた。
「申し訳ございません。王ではなく、王子です」
「王子だと?」
「はい……」
「王子にそんな権限があるのか」
「独断かと」
「……? そなたはどういう経緯で送られてきたのだ」
「か、かくかくしかじかでございます」
とても簡潔に説明すると、獅子王は大きく分厚い手のひらで自身の顔を覆った。
「……そなたは王子の元婚約者で、豊穣の聖女であると」
獅子王は呆れているようだった。
その動作や考え方が獣というよりは人間らしく、なんならバカな王子より話の通じる人間で、私の緊張感は少しずつ解けていった。
「豊穣の聖女というならば、国としてはなんとしても手放したくないはずだが」
「私は偽物だと仰られておりました」
「それはない。そなたが獣国に入った時より、草食獣人達がざわついておる」
食用植物の成長スピードが著しく上がった。水のない荒野に緑の芽が出始めた。とっくに咲き終えた花瓶の花が、また華やかな色を取り戻した。
そんな報告が、獅子王に届けられているらしかった。
「……国としては、豊穣の聖女というならばぜひ抱え込ませてもらいところだが」
「獅子王様の仰せのままに」
「しかしな、余には妻がいる」
「……妻」
「獅子だからハーレムを築くのだろうと、そなたのように送られてくる者もたまにはいるが」
……あの王子、それをわかってて私を送ったのか。バカなくせに自分の利益のためにはちゃんと頭が回るのね。
「余はハーレムは築かん。一夫一妻だ。妻しかいらぬのだ」
獅子王の言葉に、私はひどく感銘を受けた。バカな浮気野郎とは全然違う。一途でまっすぐな漢らしさ。拍手喝采だった。
獅子王の妻になった方は、とても幸せだろうと羨ましく思った。
「だから、そなたには悪いが……」
「こちらの独断でございましたので、悪いのはこちらでございます」
「すまぬな。そなたはきちんと国に帰れるように手配しよう」
「…………国に」
「そなたの国に、きちんと帰してやる」
…………………………あのバカ王子のいる国に?
「手配するまで少しかかる。護衛をつけるから、整うまで獣国でのんびり過ごすといい」
家族には会いたいけれど、あの国に帰るの? どんな顔して? またバカ王子と顔を合わせなきゃいけないの? あのお花女にも?
「アイルルス。聖女殿を任せたぞ」
ピッと私に礼を執った小さなかわいい騎士に目もくれず、私は獅子王の善意の言葉によって絶望の淵に立たされた。
❇︎
小さな体はオレンジがかった茶色とこげ茶の二色。しっぽはふさふさ太めのしま模様。
本来は四つ足歩きのはずだけど、騎士であるからか二足歩行に体に合わせた剣を差している。
耳と頬と鼻周り、それから眉のみ白が入っていて、目から顎にかけてはこげ茶のラインが伸びている。
獅子王が用意してくれた部屋で、お茶を飲みながらな私の視線にキリッと向き合う騎士は、まごうことなきレッサーパンダだった。
獅子王の許しどおり獣国でのんびりしている私は、やる気なく「かわい……」と騎士に対して不敬なことをつぶやいた。そのまま深く息を吐く。
「はぁぁぁ〜……帰りたくない……」
もう、そう、心の底から。
心の底からあのバカが上に立つ国に帰りたくない。帰ったら最後、私の尊厳や立場やその後がどうなるか。思いつく限りでもゾッとしてしまう。
「帰りたくないよぉ……」
獣国が存外、過ごしやすい所だと気づいてしまったのも悪い。国交はあれど最低限な関わりしかなかったせいで植え付けられた獣国のイメージはみるみるうちに覆ってしまった。
野蛮で獰猛? 否、種族による程度の差はあれど、みな穏やかに過ごしている。
閉鎖的だった理由は、獣国の自然がどの国よりも豊かで資源が豊富ゆえのことだった。
秘密にして独り占めしたいということではなく、守りたいのだろう。庶民の獣人達の暮らしぶりは慎ましやかで、資源を贅沢に使っているようには見えなかった。
ここ数日、獅子王の許可を得て獣国を見て回った私の感想だ。あまりに出入りが自由すぎて「間者とは思われないのですか?」と問うと、獅子王は「その場合は食うだけだ」と笑った。冗談なのか脅しなのかわからない。
ともあれ、なんとなく憐れまれていることだけは事実だった。
「どうせ送り返されるなら、この平和な国をたくさん満喫しておきたい……」
鬱々として気怠い体をなんとか動かし、私は立ち上がると小さな騎士に目線を落とした。
「騎士様、今日も付き合ってくれる?」
頷く騎士を従えて、私は城下をゆっくりと下った。
のどかに生活する獣人達の動きを眺めながら、人間と変わらないなと思う。力がある種もいれば、体格通りに非力な種もいる。活発に走り回る子供達には種の違いを感じず、みんな無邪気な笑顔を見せている。
人間と変わらないなと、つくづく思う。
活気あふれる城下を抜けて、少し歩けば視界のひらけた原っぱにたどり着く。
私がそこに腰を下ろせば、私の周りにはぽんぽんと小さな花が彩った。
「この国だと、私の周りは常にお花だらけね」
獣国はどこにでも草木がある。
城下は栄えているけれど舗装された道は石畳ではなく、短く揃えられた草がまるでカーペットのようになっていた。建物にだって、本来であれば厄介者の蔦がしっかりと家の一部として残されて大事にされている。
自然を壊して造られた私の国の有り様とは大違いだった。
「そのお花、摘んでもいい?」
可愛らしく声をかけられ、振り返ると先ほど無邪気に走り回っていた子達がついてきていた。
私が歩いた跡には花の道ができていて、興味を引かれたようだ。
「どうぞ。花冠をつくってあげようか?」
微笑みかけると、子供達は嬉しそうに私の周りに集まった。
軸となるクローバーを摘んで編み込み、その中に小さなお花をいくつも差し込む。カラフルな花冠をうさぎ耳の子に被せてあげると、笑顔が弾けた。
犬耳の女の子も猫耳の男の子も、みんな関係なく「作って!」と嬉しいおねだりをしてくれる。
私は喜んでそれぞれに花冠を作ってあげた。小さな騎士にも作ってあげた。
そうして子供達と楽しく過ごしていると、犬耳の女の子の動きがぴたりと止まった。私が不思議に思っているうちに、猫耳の男の子が目を見開いてしっぽの毛を逆立てた。
「ど、どうしたの?」
声をかけると、その子達は「お姉ちゃん、逃げたほうがいいよ!」とみんな城下に向けて走ってしまった。
困惑する私に、小さな騎士が背中を向けて前に出た。
「おいおい、人間がいるぞ?」
「どうりで人間臭いわけだ」
粗暴な口ぶりで現れたのは、立ち耳に荒々しい毛のしっぽを持つ獣人だった。犬のように思えるけれど、先ほどの犬耳の女の子とは雰囲気が全然違う。
「……あなた達は?」
和やかな空気から一変して、私は緊張しながら尋ねた。
「獣国にいる人間が、俺達の正体を聞くのか?」
「見りゃわかんだろ、狼だよ」
下卑た笑いを漏らしながら答えた二人は、座ったままの私に近づいた。
「なんで人間がいるんだろうな? 侵入者か?」
「獣国に侵入する人間は愚かだな。食われにきたのか?」
動きはたしかに、狼のもの。
獲物を取り囲むようにして私の周りをぐるぐると歩き始め、どこから飛びかかってやろうかと狙いを定めているようだった。
「人間の女は久しぶりだな。お前はどこを食う? 兄弟」
「俺は左の太もも。右はお前にやるよ、兄弟」
内臓は半分こだぞ、と低い唸りを聞き、私の背中に冷たい汗が流れた時だった。
「フーッ」
私の前にいた小さな騎士が、二本の足を踏ん張って両手を広げた。しっぽでバランスを取りながら大きく胸を張って、狼達に威嚇した。
「フーッ」
私はぽかんとした。
狼達だってぽかんとしている。
どんなに大きく見せて両手を広げたってこの中では一番小さくて、私のように大声も出せなければ狼のように恐ろしい唸り声も出せない。
最小最弱の騎士が、とても自信満々で肉食の狼達に威嚇している。とても頼りにならない。
「…………いや、無理よ!!!」
私は騎士を抱えて逃げ出した。ドレスをたくし上げてはしたなく全力疾走した。
騎士は「フーッ」をやめないし、狼達は幸いにもぽかんとその場に立ち止まり追いかけてはこなかった。
意外とゴワついた被毛の騎士は、獅子王の城で私が解放するまで「フーッ」と両手を上げていた。
❇︎
獅子王は私を国に帰す手配にかかるのは「少し」だと言っていた。その少しというのは「数日〜数週間」の認識で私はいたが、過ぎた日数をかぞえれば軽くふた月をこえていた。
獅子王は呆れながら言う。
「何度も文を送ったが、返事は決まって『豊穣の聖女は御許へ』と譲らない。こちらは実りある今の国で十分だと何度言っても、そなたの帰還を受け入れる意思はなかった」
こちらの勝手迷惑に巻き込まれながらも誠心誠意対応してくれる獅子王に、私は申し訳なくなってしまう。
聖女という身でありながらこの所在のなさはなんだろな? 国同士で押し付け合うって相当な厄介者じゃない?
もちろん獅子王は私のことを案じて国に帰してくれようとしているので、厄介払いとは言い難いのだけれど。
獅子王はバカな後継ぎもいるものだと罵りながら、現状を教えてくれた。
「これまでの返事は王子がしていたようだな。国に聖女の加護が薄れてきたのか、父王がそなたの不在に気がついたらしい」
……まぁ、やっと。そんな表情を見せた私に、獅子王は柔らかに諭す。
「自然とは雄大で、人とは大きく流れる時間が違う。恩恵を受けられぬ状態になるには、もう少しかかるだろう」
その点では父王の先見の目は曇っていないらしいと獅子王は褒めるが、私には理解ができなかった。
「父王と王子は今、争っているらしい。王子はそなたをいらぬと言っているが、父王は事が収まるまで待ってほしいと」
そなたの帰還は、もうしばらく先になりそうだ。それに……。ちらりと私の隣に控えた騎士を見た獅子王は、ゆるやかに首を振って言葉をしまいこんだ。
騎士はキリッと凛々しく可愛らしく獅子王を見つめ、それだけだった。
獣国に来るまでは獰猛で残忍極まりないと思っていた獅子王の寛容な報告のあと、私は自室で小さな騎士を抱きしめた。
「…………帰りたくない」
獣国に来てから毎日言っている。
狼に絡まれた件からすっかりペットのように扱っている騎士は、私の腕の中で「キュルルル」と鳴いた。
いっそのこと、この国でどなたかに娶ってもらいたい。獅子王はお妃様一筋なので、獅子王の兄弟を紹介してもらえないかしら。でも、獅子王は穏やかとはいえ、他の方がそうとは限らない。肉食の獣人は、やっぱりちょっと怖いかもしれない……。
すっかり獣国でのふた月で獣人にも獣にも慣れてしまった私は、そんなことを考えていた。
聖女だからと肩身の狭い自国と違い、ここでは私ものびのびと空を仰げる。深く息を吸い込んで、吐き出すことができる。
獣国に残るにはどうしたらいいのだろうと、自然と考えるようになってしまっていた。
「アイルルス様、私を貰ってくださいませんか?」
腕の中で私を見つめる騎士に、頬を寄せる。
「お嫌でなければ、アイルルス様が一番いいのです」
さすがに贅沢なので、冗談に留めるけれど。
獅子王が私につけた騎士ということは、それなりに地位の高い騎士のはずだ。小さく頼りないのは、もしかしたらまだ幼いのかもしれない。
将来ある騎士に、私はなんて重荷なんだろう。
「これでも聖女なので、何かしらの役には立つと思うんですけどね……」
ううん、だからこそ、獅子王は私を持て余しているのだ。妃にはできず、けれどそのまま獣国に置くには力を持ち過ぎている。他国との外交問題にだって簡単に発展してしまう。
私を元の国に返すのが一番の安牌で、何より心根が優しい獅子王は私を憐れんでくれている。
その優しさに付け込んで「帰りたくない」も言えずにいる私は、「キュルルル」と鳴く騎士の被毛に顔を埋めた。
「どうしたらいいのかな……」
自分ではどうしようもないその答えは、割とすぐに強引にやってくることになる。
❇︎
結局、バカ王子と国王の決着は王子の勝利で収まったらしい。隣に立っていたもはや名前すら知らないお花畑さんが正妃となり、国は新たな王を迎えたのだとか。
それを嬉々として私に語って聞かせにきたのが、件のバカ王子だった。獣国に乗り込む勢いでやってきたかと思えば、なぜかさぁ帰ろうとっとと帰ろうという謎の勢いを見せた。
聖女はいらなかったのでは? と後退りした私は戸惑いながら小さな騎士を抱きかかえた。
「お、お待ちください殿下。なぜ私を連れ帰るのです? 私が国に戻ったあとのことはどうお考えなのですか?」
「レティシア、お前には辛い思いをさせたな。俺の考えが至らず申し訳なかったと思っている。お前が二度と辛い思いをしないよう、俺の側妃にすることに決めたんだ」
「側、妃……!?」
「豊穣の聖女ならば俺の妻という立場が一番ふさわしい。だが、正妃はすでにいるからな」
開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろう。返す言葉が見つからない私は……というより罵り言葉しか出てこず飲み込んだ私は、呆然としていた。
私に抱かれた騎士が「カッ! カッ!」と怒りの声を上げている。
「すぐに国に戻って婚姻し、お前の加護をまた国のために使ってくれ」
獅子王がやれやれと大きく首を振った。
ここまでくると、本当に話が通じるのは人間よりも獣人である獅子王だと疑いようがなくなる。
バカ王子が私に伸ばした手に、腕の中の騎士が毛を逆立てて鋭い爪を振って威嚇した。
「む、なんだこの獣は」
「やめんか、アイルルス」
飛び出した騎士はバカ王子を見上げて鼻に皺を寄せ、小さな牙を見せた。獅子王が止めるが、騎士は「フーッ」と不満声を返すだけだった。
バカ王子の前に護衛騎士が出てきて、剣を構える。
「アイルルス」
「フーッ!」
「まったく、お前までバカになるなよ」
「フーッ……!」
獅子王は騎士をなだめつつ、しかし、と声を鋭くする。
「せがれが怒る気持ちもわかる。貴殿は、聖女を軽んじ過ぎてはおらぬだろうか」
意図せず獅子王に睨まれ、バカ王子は表情を硬くした。
「レティシア殿は理不尽にも我が国へ送られ、あまつさえ今のように再びぞんざいな扱いを受けようとしている。豊穣の聖女による恩恵を賜った我が国としては、それを見過ごすことはしたくない」
「ぞ、ぞんざいな扱いなどとは……側妃は、聖女にとっても栄誉ある地位だと」
「側妃がか? 一人の女性を愛する余には、浮気者の考えは到底理解に及ばぬ」
「け、獣に浮気者呼ばわりされる謂れはない!」
「そもそも貴殿は、すでに豊穣の聖女を正妃に迎えたのではないのか?」
ぐっと押し黙るバカ王子に、お花畑さんが役立たずだというのが易々と窺える。側妃として私を迎え、妃の仕事も聖女の仕事も私に押し付けようとしているのだ。
獅子王もそれを踏まえて、バカ王子に圧力をかけてくれている。
言い返すことのできないバカ王子は、ただ声を大きくした。
「獅子王よ、我が国のことはあなたには関係ない。帰るぞ、レティシア!」
その時、バカ王子の前にいた護衛騎士が剣を落として倒れた。
驚いてそこに注目するのは私も同じで、静かに獅子王の声が響く。
「すでに関係なくはないのだ。せがれがな、レティシア殿にずっと求愛していたものでな」
倒れた騎士に、どこから現れたのかオレンジみの強い茶髪を持つ青年が立ち上がる。白く飾り毛のある二つの立ち耳を頭につけた騎士服姿の彼は、薙ぎ払った剣を優雅に腰に収めた。
背筋を伸ばせば、私が見上げるほどに高身長で。
「レティシアは渡しません。あなたのような不届者には」
私を背に隠して、よく通る声で凛々しく言い放った。
「なっ、だ、誰だお前は……!?」
「アイルルス。獅子王の息子です」
「息子……王子、だと!?」
「手荒なことはしたくありません。レティシアを諦め、即刻国へお帰りください」
争う気はありません、と口だけは穏やかな騎士は、腰にある剣にずっと手をかけている。
その様子を獅子王は楽しげに眺めていた。
「せがれは余より短気でな。見た目は母譲りで可愛らしいが、一度キレてしまうと手がつけられん」
「父上。可愛らしいは余計です」
「アイルルスよ、お前がのんびりしているから悪いのだぞ。レティシア殿は人間なのだから、お前の求愛行動などわかるわけもあるまい」
「……レティシアも、僕が一番だと言ってくれました」
………………言ったっけ???
怒涛の展開に思考が追いつかずにいた私は、なんだか照れ始めた騎士の背中を大きくなったなぁと見上げた。
いまだ後ろ姿しか認識できておらず、騎士なのに実は王子だとか母親譲りの可愛らしい獅子王の息子だとか、とにかくもう何が何やら状態だった。求愛ってなに? 私、いつ求愛されてたの? それを知らずにアイルルス様を抱っこしてぎゅーってして頬ずりしてたの?
途端に、私の頬に熱がこもった。
「レティシアはずっと国に帰りたくないと言っておりました。僕に、その、貰ってくださいと」
「何をだ?」
「……彼女自身をです」
「ほう」
獅子王はにやにやとし、アイルルス様はツンと澄まして恥ずかしさを隠しているようだった。
私も顔から火が出るほどに恥ずかしくて仕方なかった。
でも、私はそんなこと思いもよらずというか、まさかアイルルス様がそんな感じだとは思わなかったというか、とにかく予想外すぎるので……!
「わ、わわ、わたし、そんなつもりじゃ」
うっかり口を挟んで、驚き振り向いたアイルルス様と目が合ってしまった。
獅子王の息子というには確かに可愛らしく、けれど整った端正なお顔にはレッサーパンダらしい模様はない。
すっと通った鼻筋が男性らしくて、薄い唇が物言いたげに開いて、一度引き結ばれる。
私を見下ろし威圧しないようにか、アイルルス様はその場に跪いて私の手を優しく取った。
「レティシア。……僕は、はじめてあなたに会った時よりあなたの魅力に惹かれていました」
アイルルス様の飾り毛のある白い耳がわずかに伏せる。目線も、私をちらっと見たきり握った手へと向けられた。
「あなたが歩けば足跡のように花が咲いてついて回る。その花を子供達が笑顔で追って、あなたは子供達のために足を止めて花冠を作る。優しい光景に、僕は本物の聖女を見たのです」
城下へは、狼達に遭遇したあともよく通った。
子供達とたくさん仲良くなれたのは、私の周りに常にお花が咲いているおかげだ。豊穣の聖女になって、はじめて嬉しいと思える時間だった。
「レティシア、僕はあなたにずっと求愛していました。あなたは気づいていなかったようですが、それでも僕に答えを返してくれたと思っていました」
アイルルス様のその求愛には心当たりがなくて、けれど私が「貰ってくれませんか」と冗談で言ったことはちゃんと覚えていて、穴があったら入りたいほどの気分だった。
「しかし、違ったのでしょうか? あなたが返してくれた言葉は、僕の都合のいい勘違いだったのでしょうか」
見上げてきたアイルルス様の瞳が悲しく揺れ、純心を弄んでしまったかのような罪悪感にぎゅっと胸を締め付けられる。
詰まる言葉を、私はどうにか吐き出した。
「いいえ、違うの……違うんです、アイルルス様。こんなことが予想外で、アイルルス様がまさか私に、そんな、そんなわけがないと……」
冗談にしたって荷が重いのに、本心で私をあなたに押し付けられるわけがない。紡ぎ出した不器用な言葉はうまく繋がらず、それでもアイルルス様は静かに聞いてくれた。
「……アイルルス様が一番というのは、本心です」
私が言い終えると、アイルルス様は眉を下げて私のちぐはぐな気持ちを包み込んでくれる。
「レティシア、ごめんなさい。きちんとこの姿で、言葉にしなかった僕が悪かったですね」
改まって私の手を握り、真剣な眼差しが向けられた。
「あなたが好きです、レティシア。あなたを僕の妃に迎えたい」
「ですが……」
「必ず幸せにします。約束します」
「…………はい、アイルルス様」
立ち上がったアイルルス様の、広くなった胸に抱きしめられる。少し硬めのもふもふな腕ではなくなって、しっかりと鍛えられた筋肉質な腕が力強い。
心地よいアイルルス様の匂いに安心感を覚えると、獅子王が満足げに口を開いた。
「互いに想いが通じているのであれば、余は何も言わん。そちらの客人にはお引き取り願おう」
「な、なんだと!?」
すっかり存在を忘れていたバカ王子が、私達のやりとりから目を覚まして威勢を取り戻す。
アイルルス様がぎゅっと私を抱きかかえる腕に力をこめた。
「二人の邪魔だてをするならば、余が許さん。国と国の争いは人の命も大地に芽吹く命も多く失うゆえ、できれば避けて通りたいが……」
見上げれば、アイルルス様が鋭い瞳でバカ王子を見張っている。バカ王子が何か行動を起こそうものなら、すぐに剣を抜けるという姿勢をとっていた。
「今お前を食ろうてしまえば、被害は最小限に済むだろうか」
獅子王の低い唸り声に、バカ王子は顔を真っ青にして退却していった。
❇︎
正式に獣国の聖女となり、獅子王公認のもとで婚約生活を送ったのは、婚姻の準備が整うまでのわずかな期間だった。
それより以前から城下に足繁く通っていた私は子供達を筆頭に、たくさんの獣人達に歓迎されてアイルルス様との婚姻を喜ばれた。
私を襲おうとした狼達は実はアイルルス様のことを知っており、あの時はなぜ王子が人間を庇うのかと困惑していたらしい。なので、私がアイルルス様を抱えて逃げたのはまったくの無駄行為だったということだ。
「勇敢なレティシアも可愛らしかったです」
振り返って笑うアイルルス様に、私はただただ恥ずかしく顔を覆う。
「ずるいです、アイルルス様。ずっとそのお姿を隠していたんですもの」
「あなたは獣姿の私を可愛がってくれていたので、人型になるのは勇気がいることだったんですよ」
「なぜですか?」
「愛しい人に嫌われるかもしれないと思えば、なかなか本当の姿を見せることができませんでした」
「……そんなことは、ありえません」
正装のアイルルス様の腕を、きゅっと抱きしめる。
純白のドレスに身を包んだ私の腰に、アイルルス様が手を回した。
「……その姿では、キュルルルとは鳴かないんですか?」
「この姿では、愛してると言葉にできますから」
レッサーパンダの求愛。
あとで教えてもらった、アイルルス様の私への求愛。
いつも腕の中で聞いていた甘え声は、アイルルス様からの告白の言葉だった。
「愛しています、レティシア」
腰を引き寄せられて、アイルルス様の優しい香りに包まれる。頬に添えられた手が私を逃さず、重なった唇が甘く熱を持つ。
これから婚姻式だというのに蕩された私は、腰を支えられて間近のアイルルス様にささやく。
「私も、愛しています」
触れたままの唇は、さらに深く重なり合った。