09
『やっぱり成仏してないんだね。』
祝日の今日は朝から思い立ってこの場所に来てみた。
「天使ちゃん、おはよ~。今日もとっても可愛いね。」
ニコリと細められた藍色の瞳に疲れた溜息がこぼれる。
彼は今日も街路樹の前で佇んでいる。黄色かった街路樹の葉はもうすっかり落ちてしまっていた。本当は実害が無ければ放っておけばいいと思っていたのだが、3日連続で夢の中で「天使ちゃん」と呼び掛けられれば、もう、実害だ。
琥珀は前と同じように街路樹の斜め手前で足を止める。
『ごきげんよう。幽霊さん。』
「幽霊?僕の名前は、ナマエは……、なんだっけ?」
イケメンスマイルで顔を覗き込まれて『知らんがな!』と心の中で叫んでいた。
「も~。天使ちゃんは可愛いのに面白いことを言うんだね~。」
『面白いこと?』
「だって僕は幽霊さんじゃないよ。ほら!足もちゃんとあるでしょ。今日だって電車にのって来たんだよ。電車通学する幽霊なんて聞いたことないでしょ?」
『じゃあ、何駅から来たの?』
彼の顔があるであろう斜め上を見上げて問いかけてみると、眉間に皺を寄せる顔が見えた。
「ひ……、ひみつ……。」
どう見てもはぐらかしたのが分かる笑顔が琥珀に向けられた。
『嘘が下手過ぎない?』
「えへへ。」
琥珀の鋭い指摘を無視して彼は歩き出した。
『え、どこ行くの?てか、自ら移動できるんだ。』
「カフェに行こうよ。それとも買い物が良い?」
楽しげに声をかけてくる彼の耳にイヤホンが付いていることに気づく。
スマホとイヤホンのどちらを買おうか琥珀が迷っていた最新のものと同じだった。発売されたのは確か、10月1日。
前回、彼と会ってからネットや新聞で事故や事件の記事を探してみたけれど、何も見つからなかった。まさかこんなに最近の事だとは考えなかった。でも、10月1日以降の記事にも何もそれらしい事件事故は無かった。
(この人、本当に幽霊なのかな?え、実は私が死んでたりしないよね?)
琥珀の背筋がだんだんと冷えてくる。
「うん!こんな時はヒーさんに会いに行こう。」
勤めて明るい声で言ってみた。何人かの通行人の視線が琥珀に刺さる。
『恥ずかしい思いをしたじゃないの。』
「うわ。真っ赤な顔の天使ちゃんも可愛いね。ハンソクってこういうのを言うのかな?」
分けの判らないことを呟く幽霊は無視することに決めて、琥珀は歩き出した。
***
「いい匂い。それに天使ちゃんのお兄さん?すごく似てるね。」
ドアを開けるなり食い気味に語りかけてくる彼を、またも琥珀は無視をする。
「あれ、琥珀ちゃん、手伝いに来てくれたの?」
「ううん。違うの。今日はヒーさんのご機嫌伺に来たの。」
ショーケースにイチゴのシフォンケーキを並べていた叔父の翡翠を見て、琥珀は安堵の息を漏らす。
「どうした?あんまり調子よさそうじゃないね。」
心配げに見つめてくる叔父に琥珀は反省する。
(ヒーさんに心配かけちゃ駄目だよね。)
琥珀はほわりと明るい笑顔になり、叔父の心配そうな瞳を見返す。
その横で彼も心配そうに琥珀を見つめていた。
「調子いいよ。ほら。」
琥珀は両手を広げて見せる。その左手は容赦なく「彼」に入っている。隣で「彼」が戸惑っているのが感じられた。
キラリン!キラリン!
聞きなれた電話の音が響く。店の電話の着信音だ。
翡翠がすまなそうに目配せした、琥珀もどうぞと目で答える。
「はい。Flourです。」
琥珀は電話に出た翡翠の声に耳を傾けながらも、「彼」の気配に注意を払う。なんとなく空気が震えているような感覚が伝わってくる。(気づいたかな?)
「ゴメン!琥珀ちゃん。お店番してくれないかな。新しく取引を始めた仕入先の車が迷ってるみたいだから行ってきていい?」
この辺は入り組んだ住宅街なので、一方通行も多いし初めて来る人は徒歩でも迷いやすい。
「え、私が行ってこようか?」
「ううん。その場で荷物を受け取ってきちゃうから、重いだろうし、行ってくるよ。」
翡翠はばたばたと出掛けて行った。
その音に紛れて「彼」の気配が消える。
「成仏できると……、いいね。」
琥珀は自分の左手を見つめながら、そっと呟いた。