04
「flourの水瀬です。失礼します。」
フレンチレストランのバックヤード扉から、そーっと顔を出し翡翠が挨拶をする。
「あ、水瀬さんお疲れ様です。奥様のケーキですよね。オーナーから聞いています。あ、琥珀ちゃんもご一緒でしたか。どうぞ。」
「「お邪魔します。」」
いつも明るいスー・シェフが笑顔で出迎えてくれる。
「オーナー呼んでますんで、こちらで少しお待ちください。狭い所ですみません。」
「いえいえ。忙しい時間帯にすみません。」
「今はまだ大丈夫ですよ。本番はこれからです。」
なんとも頼りがいがありそうな笑顔でスー・シェフが答えてくれる。
そして、芳醇な香りを振りまくクリームスープと共にスタッフの休憩スペースへ通され席を進められる。
「ポルチーニ茸ですか?とってもいい香りがします。」
白く滑らかなクリームスープに浮かぶポルチーニの濃茶色に翡翠の頬が緩む。
「とっても美味しいです。」
クリクリとした輝く黒い瞳で琥珀が溜息交じりに感想を述べた。
(くぅ~。めっちゃ美少女。お目目キラッキラッ!イケメンと美少女の組み合わせ……、なんか良いレシピが思いつけそう。)根っからの料理人のスー・シェフは二人を見て心の中でポンと手を打った。
「翡翠君、お待たせしてゴメンネ。あれぇ!琥珀ちゃんじゃない。久しぶりだねぇ。ますます美人さんに磨きがかかってて溜息出ちゃうね。」
バースデーケーキの注文者であるオーナーが軽薄そうな言葉とは反対に、落ち着いた紳士の雰囲気で現れた。
「橋本のおじ様、お久しぶりです。」
スープにうっとりしたままの笑顔で琥珀が挨拶をする。
「幸次君、奥様のお誕生日おめでとうございます。」
紳士を幸次君と親しげに呼び翡翠は持参したケーキボックスを丁寧に橋本の手前に置く。25cm角のペールブルーのボックスにはミモザを思わせる鮮やかな黄色のリボンが飾られている。いつも朗らかで優しい橋本の妻にとても良く似合う色合いだ。橋本のセレクトだという。翡翠の作ったケーキは大きさのわりにたっぷりとした空気を含ませている為、老齢の夫婦でもきっと食べやすいだろう。
「わざわざ持ってきてもらって、ありがとうね。」
『持ってきてもらって、すみませんね』ではなく「ありがとうね」と言う紳士に素敵な人だなあと琥珀も翡翠も心がほっこりとした。
***
また翡翠君のお店に行くね!と言う紳士に挨拶をし、琥珀と翡翠は店を後にする。
「すんごいラブラブだったね~。」
穏やかに妻の話をする橋本に当てられ琥珀がぽつりと呟く。
「うん。あれ全部、惚気話にしか聞こえなかったよね。」
こちらも瘴気を吸い取られたように翡翠が呟く。
ただケーキを届けに行ったはずが、なんだかんだと40分ほど話し込んでしまった。
紳士の話は面白く、ジョーク交じりに妻の近況を教えてくれた。妻を思い浮かべて話す紳士はケーキよりも甘い表情をしていて、琥珀にはこそばゆかった。
……ゾゾ。
こそばゆいと思っていた背中を寒気が撫でる。
思わず振り返ると黄色く紅葉した街路樹の前に佇む藍色の瞳と……、目が合ってしまった。
(……まずい。)
「ヒーさん、それじゃ。また来週ね!」
「およ。来週もいいの?」
この場から直ちに離れたい琥珀と、来週の話をされて喜色満面の笑顔を向ける翡翠。
「え?あ、う、うん。とりあえず、また電話するね。バイバイ」
先ほどまでの柔らかい笑顔から一変、ぎこちない笑顔になった琥珀が翡翠に手を振り駅へと駆け出して行った。
「琥珀ちゃん気を付けて帰ってね。」
翡翠の言葉は琥珀の背には届いていないようだった。
***
地下鉄の電車内、黒い窓ガラスの向こうには等間隔に灯された照明が1本の帯になって流れていく。時刻は17時。いつもより少し遅い車内は混雑していた。
琥珀の脳裏に浮かぶのは藍色の瞳。何度となく振り払おうとしても思い出される悲しげな顔。虚空を見つめているような、戸惑っているようなその顔は悲しみに苦しんでいるようにも見えた。
(気にしちゃダメ。見てない。見てない。)
自分に言い聞かせるように何度も心の中で復唱する。
(あれは瑠璃色。金色の粒をちりばめた夜の……、空の色……。)
見ていないと復唱する心の声に紛れて、ふっと思い出される藍色の瞳。
(あ……。これはもう駄目だ。)
振り払おうとしても気になって仕方がない自分の本心に琥珀の諦めがついた。