前編
「ヴェル、ここへ」
私の醜い顔を隠すため細かく編まれたベール越しに、婚約者であるヘズ王太子殿下がとてもとても冷たい瞳でこちらを見下ろされているのが見えます。
いつかこんな日が来るかもしれないと、考えたことがないわけではありません。このパーティーにパートナーとしてお誘いいただけなかったことで、もしかしたらとも思いました。
けれど、魔石が淡い光を放ちキラキラ輝くシャンデリアの下で、殿下の隣に立つのがまさか妹のスコラだとは。
「ヴェル。そなたが俺の婚約者という立場にあったのは、深く広い知識と教養、高い魔力、そして幼少の頃より身に着けた洗練された振る舞いのためだ」
「承知しております」
俯くと私の顔を隠す柔らかなレースが揺れました。少しでも他者からの視線を遮るよう、濃紺のシルクで編まれたベールはいつだって葬儀のように陰鬱な印象を与えます。
けれどもここは王城のホールで、社交期の始まりの合図である建国記念パーティーの真っただ中。参加する全ての貴族の好奇の目が、私たちに集まっています。
「忠臣たちの進言を振り切って、病を患ったそなたとの婚約を据え置いたのは家のため、国のため、そしてそなたのためであった」
「……はい」
反論はいたしません。殿下のお言葉に間違いはありませんから。
幼き日に恐れ多くも殿下の婚約者としてご挨拶して以降、私が病を患った後も、毎年の誕生日には必ずお花をくださいました。
7年ほど前に肌を固い鱗様のものが覆い、二目と見られぬ姿になったとき、当レギン公爵家を除く全てのお家が婚約の解消をご進言なさいました。それでも殿下は、私を婚約者のまま置いてくださったのです。
正確には、この病が一過性のものであると考えて婚約解消を保留していただけ、ではあるのですが。両親が病状を正しく報告していなかった、という可能性もあるかもしれませんね。
ただ、病を得て以来、昨年の私のデビュタントまで殿下にお会いしていなかった。それが全てだろうと思います。話には聞いていても、実際の様子を見てみないとわからないことも多くございますから。
「それがよもや実の妹を虐げていようとは」
「えっ」
「日頃より鬱憤を晴らすようにスコラへ折檻し、持ち物を盗んだりもしていると聞く」
「そんな、それは何かの間違いで――」
首を横に振りますが、殿下の瞳は冷たいままです。全く身に覚えがございませんが、殿下の横へ侍るスコラの表情を見て合点がいきました。薄く笑っているのです。それは冷え冷えとした美しい微笑みですが、ぞっとするほどの酷薄さを感じさせるものでした。
「侍医の話によれば、身体の成長も見られないとか。もはやそなたを王家へ迎え入れる理由は何もない。スコラを新たな婚約者とすれば、考え得る問題の多くは解決できるであろう。よって、俺はいまこの時をもってヴェル・ド・レギンとの婚約を破棄する」
「――承知いたしました」
居合わせた人々がざわめきますが、この展開に疑問を持つ方はいらっしゃらないようです。それどころか、「レギンの忌み子」という言葉まで聞こえてきました。
私も反論を試みて口を開きましたが、言葉は出ないままでした。
私の身体がまだ女性としての作りになっていないのも、ベールをとれば他者へ嫌悪感を与える見目であることも確かです。王家へ迎え入れる理由がない、という言葉のどこに反論できましょうか。
婚約者の座を妹に挿げ替えれば、婚約破棄によって生じる多くの問題が解決されることも間違いありません。
スコラへの折檻を真の話と信じ、周囲の方々の視線も嘲笑から侮蔑へと変じました。かつては憐憫の情を乗せてくださった方も少なくありませんでしたが、このお話のあとではさすがに……。このような視線には慣れているつもりでしたが、やはり少々、こたえますね。
その場を辞そうと私が殿下へ淑女の礼をとったとき、静かな、けれども力強い声がホールに響き渡りました。
「おや、アスガリー王国では言葉のみが本証として認められ、かつ反証の機会は与えられないのですね」
「君は……」
殿下の声は問いかけるというよりも、確認するように零れ落ちます。
それもそのはず、現れた男性の纏う長いマントはヘイムル共和国民の証です。かの国ではなんでも幼少の時分に、外見で優劣を決めぬためにローブを羽織っていたのが、大人になってからも文化として続くようになったのだとか。
大人が顔を隠さないのは、容姿だけでは判断せぬとの分別を身に着けたからと聞きます。
ですから、彼がヘイムルからの客人であることは一目瞭然でした。
けれども会場中の視線を集めたのは、その飛び抜けた容姿のせいでしょう。ベール越しの私でさえも、その美しさがわかりました。
太陽のような鮮やかなブロンドと健康的なオリーブ色の肌。澄んだ青空色の理知的な瞳に、引き結んだ薄い唇もすらりとした鼻も、全てが絶妙なバランスで並んでいます。
彼を前にすると、王国一の美女とうたわれる妹スコラの美貌でさえ霞んでしまうようです。
「ヘイムルより北楼アルビズの名代として参りましたクワスル・オラ・ロズリト・セ・スヴェルタルと申します。ヘズ殿下におかれましては――」
「クワスル様ですって?」
無礼にもご挨拶の途中でスコラが声をあげました。
とはいえクワスル様といえばスコラの婚約者ですから、それも仕方のないことかもしれません。先方のご都合で、直接お顔を合わせるのは初めてですが。
北楼とはヘイムルで国の裁定を司る立場。国の代表としていらしたということですね。
「挨拶はよい。先ほどの問いについてだが、俺は決して証言だけで言っているのではない。これを見るがいい」
ゆっくりと歩み寄って私の隣に立ったクワスル様へ、殿下はスコラの腰をとって一歩前へと進ませました。
頬を赤らめたスコラはちらちらとクワスル様へ熱い視線を送りながら、控えめな仕草でそっとグローブを外します。
そういえば宝飾品で着飾るのを好むスコラですが、自宅でさえ肌を晒すことはありませんでした。それが慎み深いと父が自慢気に呟いていたのを思い出します。
グローブの下からは、私のかさついた肌とは違う白く滑らかな肌があらわれるはずでした。しかし予想に反し、彼女の腕には無数のみみず腫れがあったのです。
「なんて酷い……!」
「なるほど」
息を呑んだ私の声は誰にも聞こえなかったことでしょう。クワスル様が一言だけ発して頷くと、殿下はスコラに手袋をするよう命じました。スコラは悲しげに目を伏せます。
「お姉さまは、自由に肌を出せるわたくしが恨めしいと。そのドレスだってわたくしの――」
「そんな!」
「これでもまだ僕には、彼女が犯人であると断定する証拠はどこにもないように思えるのですが……。まぁ良いでしょう、状況は大体承知しました。僕はレギン公爵と話をする必要があるようですね」
淡々と発せられるクワスル様の言葉に、私も口を噤みます。
折檻をしたり物を盗んだりという話は身に覚えがありません。けれど彼の言葉は逆説的に、私がいかにここで訴えても意味がないと教えてくれましたから。
「両親は……本日は屋敷に」
恐れながら私がそうお伝えすると、クワスル様は長い指を顎へあてて考えるような仕草をなさいました。
社交の場を愛し、権威ある方の主催するパーティーにはどこへなり出席する両親が、本日は珍しく私を名代としてここへ向かわせたのです。
もしかしたら、このような恐ろしい事態が起こると事前にご存じだったのかもしれません。
「それではご案内いただけますか、レディ?」
「わ、わたくしが!」
クワスル様が私に手を差し伸べると同時に、スコラがさらに一歩踏み出しました。今夜、彼女は殿下のパートナーです。にもかかわらず殿下の許可も得ずにパーティーの中座を申し出たばかりか、他の殿方と連れ立って帰宅することを公言するとは。
もちろん、スコラとクワスル様は書類上は未だ婚約していることになっていますから、問題ないとも言えます。ただそれは、殿下との婚約のお話が出ていなければ、です。
私が妹の挙動にハラハラしていると、クワスル様は洗練された所作で殿下とスコラへ紳士の礼をなさいました。
「今夜はどうぞ、お楽しみください」
会場中の全ての人がクワスル様に見惚れているうちに、彼は私の手をとってごく自然に王城をあとにしたのでした。
「せっかくおいで下さいましたのに、なんとお詫び申し上げたらよいか」
馬車が動きだしてすぐに私が頭を下げると、はす向かいに座るクワスル様は柔らかく微笑んでくださいました。
私の婚約破棄の騒動でパーティーが中断されただけでなく、クワスル様の婚約者であるスコラが殿下の新たな婚約者として指名されてしまった……。恐らく両親はクワスル様との婚約を白紙に戻すでしょう。
また、馬車止めでのご対応もとても素敵でした。
今夜、私が移動するために用意された馬車は公爵家のものとは思えないほど、小さく古い作りです。お乗りいただいて良いものか躊躇う私に、クワスル様は「馬車を帰してしまったから助かります」とさりげなくフォローまでいただいたのです。
こんなにも素敵な方を困らせることになってしまい、私は申し訳なさでいっぱいで顔も上げられません。
「レディが謝ることではありません。それに、僕はここへ来たのは正解だったと考えているのです」
それは確かにその通りかもしれません。もしおいでになっていなければ、全て書面でやり取りをすることになっていたでしょう。その書面の中で、真実は語られなかったでしょうから。
クワスル様のお気遣いに謝意を伝えようとして、私はハッとしました。先ほどからクワスル様は私のことを「レディ」と呼んでいらっしゃるのです。
「まぁ! 私、名乗っておりませんでした。とんだご無礼を……!」
「いいえ、構いませんよ。改めて、お名前をお伺いできますか?」
「ヴェル・ド・レギンと申します。どうぞお見知りおきください」
はす向かいに座るクワスル様は、狭い馬車の中にいることを忘れさせるほど丁寧に私の手を取りました。指先に触れるかどうかのキスをいただき、心臓が小さく跳ねます。
手袋越しとはいえ、普通の方は私に触れることを嫌がるというのに。
「クワスル・オラ・ロズリト・セ・スヴェルタルです。こちらこそ、よろしく」
「近隣諸国については少し学びましたが、ヘイムル共和国の文化には特に心を奪われました。完全能力主義であり、他者を尊重し対話によってのみ問題を解決する国民性というのでしょうか。天空や地底に居住可能な空間を造り出す技術も素晴らしいですし、魔法生物の研究ですとか――」
いつの間にか彼の青色の美しい瞳に、私の濃紺のベールが映っていることに気づいて私は口元を両手で覆いました。
つい、喋り過ぎてしまったようです。
「こんなにも興味を持っていただるとは大変光栄です。島国なのを良いことに、我が国は他国とあまり密な関係を築いてきませんでしたから」
クワスル様の心からの笑顔は、私には眩しすぎるということがよくわかりました。教会の天井画に描かれる天使様を前にしたような緊張感で、動悸と息切れが。ゆっくりと深呼吸することで、命を繋ぎとめることに成功しました。
楽しい時間というのは魔法の矢のように速いもの。自宅であるレギン公爵邸へ到着するなり、クワスル様は応接室へと案内されました。ご挨拶できなかったのが少々残念ですが、仕方ありません。
私はエントランスには入らず、屋敷の外壁沿いにぐるりと裏手へ回ります。侍従たちの使う出入口から中へ入り、同じく侍従用の階段で二階へ。
元々は物置部屋だった狭い部屋には窓がありません。勘を頼りに旧式のランプに明かりをつけ、室内をチェックします。
侍従たちは嫌なことがあると、私の部屋に悪戯をするのです。ベッドに鼠の死骸が置いてあったときにはさすがに腰を抜かしてしまいました。
今夜は特に何もないようです。ホッとしたところで、お腹がグウと鳴きました。
そういえばあんな事件があったおかげで、クッキー1枚でさえ食べ損ねていたのでしたね。
何か余った食べ物がないかと、キッチンへ向かいます。
「えー! 嘘でしょ!」
侍従用の階段を降りたところで、若い女性の声が聞こえました。メイドたちが集まって話に花を咲かせているようです。
「婚約を勧めてらっしゃるの? あのトカゲの怪物と? クワスル様の?」
いつもなら私の噂話をしていようと構わないのですが、話題が話題なだけに足が止まりました。
盗み聞きは褒められた行為ではないとわかっていても、どうしても気になってしまいます。
「そうよ。ヴェルもレギン家の娘には違いないからって旦那様が」
「あり得ない! クワスル様がお可哀想だわ。スコラ様とのお話がなくなってきっと傷ついてるのに」
「アタシがお慰めしたーい!」
「心配しなくたって、どうせ断るわよ」
声を出さぬように必死で息を止めて耐え、弾けるように階段を駆け上がって部屋へ戻りました。
ええ、メイドたちの言う通りきっとクワスル様はお断りになるでしょう。
けれども彼が私を怪物ではなく人として扱ってくださったのも確か。心臓は「もしかして」と言わんばかりにバクバクと跳ねています。
一方で、メイドたちの注意が私に集まってしまいました。今夜はもう、食べ物も湯浴みも諦めたほうが良いでしょう。準備しようとしても、邪魔されるのが目に見えています。
ベールを外し、いつものようにひとりでドレスを脱ぐと、鏡にみすぼらしい身体が映りました。ほんのり紫色に変じたガサガサの肌と金色の瞳は確かにトカゲ。平坦な胸や凹凸のない腰まわりはお世辞にも女性らしいとは言えません。高鳴る心臓がシンと静かになっていくのがわかります。
「……夢なんて見ない方がマシね」
ひとりごちて、ナイトドレスを被ります。板のように固く小さなベッドへ潜り込むと、先ほどのメイドたちの言葉が繰り返し私の耳を打ちました。
――あのトカゲの怪物と?
――クワスル様がお可哀想だわ。
――心配しなくたって、どうせ断るわよ。
心臓がきゅっと締め付けられました。わかっています、わかっています。誰も私を受け入れてはくれません。勘違いしないよう努めなくては。距離を見誤らないようにしなくては。もしかしてと考えることさえ、失礼になるのだと自覚しなくては。
激動の一夜が明け、日課となっている身の回りの掃除と洗濯をするうちに平常心を取り戻しました。
身の回りが落ち着いたら、修道院に行くのが良いかと思うのです。お掃除もお洗濯も、自分の分しかやったことはありませんけれど。
シーツが風にはためく音を聞きながら、木陰で本を読むことにいたします。もう何度も読み返したヘイムル共和国の歴史書。
私にとってヘイムルは憧れの国です。見た目で人を判断しないというだけで私にとっては夢のようですのに、有り余る魔力のおかげで生活様式が我々とはまるで違うのだとか。
私も他の人より魔力に恵まれてはいますが、ヘイムル人とは比較になりません。魔石に頼らない生活とは一体どんなものなのでしょう。
「おはようございます、レディ・ヴェル」
「あっあっあっ、お、おはようござ……います」
突然声を掛けられ、驚いて振り向くとクワスル様が微笑んでいらっしゃいました。立ち上がりながら急いで上にあげていたベールを下ろし、グローブをつけていない手を後ろに隠します。
「もし、ご予定などがないようでしたら街を歩きませんか? 案内をお願いしたいのですが」
「へぁっ? わ、私ですか?」
予想外のお申し出に、変な声が出てしまいました。いえ、心臓が猛スピードで胸を叩くせいだと思います。いつだって顔色を変えないよう、幼い頃から訓練してきましたのに!
「ええ。もちろん、お嫌でなければ」
「いやだなんて! ええ、ええ! 私などで良ければご案内させていただきますわ!」
そう言ってエプロンを外したところで、私はまだ乾ききっていないシーツ類の存在を思い出しました。日が落ちる前には戻って来るでしょうから、それは心配ないのですが……。メイドたちの関心がまだ私にあるかもしれないと考えると、ここを離れるのは些か不安です。
「陽の光を浴びた寝具は気持ちのいいものですが、本日は僕のために我慢してください」
クワスル様がシーツに手をかざすと、キラキラと光の粒が現れて洗濯物に降り注ぎました。すると、シーツが全く重さを感じさせずにふわりと揺らいだのです。
「乾いて……ます」
「ええ、乾かしました」
イタズラをした少年のように笑うクワスル様に、見惚れてしまいました。
アスガリーの民にとっても魔法は慣れ親しんだものですが、魔力の総量はヘイムル人よりずっと少ないのです。だからこんな日常的な作業に用いることはありませんし、ここまで細やかな魔力制御ができる人も多くないでしょう。
それに光や熱の多くはヘイムルから取り寄せる魔石に頼っているのが現実です。
しかし他者にこんなにも親切にしていただいたのは、一体いつぶりでしょうか。そう思ったら自然と涙が込み上げて来て、慌ててシーツを取り込みます。
「で、では片付けて準備をして参りますので、十分ほどあとでエントランスに!」
「はい、時間は気にせずごゆっくりどうぞ」
籠に洗濯物と本を放り込んで駆け出します。嬉しいやら恥ずかしいやらで、クワスル様のお姿を視界に入れることもできません。ベールがあるのですから、彼に私の顔なんて見えやしないとわかっているのに。
社交用のドレスと外出着はそれぞれ数える程度しか持っていません。どれもスコラのお古を仕立て直したものですから、もしも過去の肖像画を持ち出されたら窃盗疑惑を完全に払しょくすることはほぼ無理になるでしょうね。
けれども私の目下の悩みは窃盗の罪で収監されることではありません。今日という日をどちらの外出着で過ごすか、です。
クローゼット代わりの箱の中から引っ張り出した衣類を、鏡の前で自分にあてて確認します。
「いつも思うけど、どれも同じだわ」
ベールで顔を隠し、グローブで肌を隠す私はどんな衣装を纏っても、似合う似合わない以前の問題なのでした。それに手元にあるのはスコラがすぐに飽きた地味な色のドレスばかりで、選ぶほどの違いもありません。
ただ、青色のコサージュがついた帽子にほんの少しだけ、私の気持ちを乗せることにしました。
「お待たせいたしました」
「ちょうど、馬車も用意ができたところです。行きましょうか」
エントランスに用意されたソファーから立ち上がったクワスル様が、マントを翻しながら右手を差し出します。左手を乗せることを許されたのが本当に誇らしくて、メイドたちの鋭い視線も気になりません。
公爵家の紋章のついた馬車に乗るのも随分と久しぶりな気がいたします。公爵令嬢という立場でありながら、質の良い馬車の乗り心地に驚いてしまいました。
少しでも緊張を抑えるために、道中はできるだけクワスル様のお顔を見ないよう心掛ける必要があります。
苦し紛れにお外を眺めると、この馬車と同じ紋章のついた大きなお店の前に差し掛かったところでした。
「これは当家の運営する美顔用品店です」
「美顔、ですか」
「はい。お化粧品やお肌、髪の毛のお手入れをするためのいろいろな商品を取り扱っています。もちろんお値段も安価というわけではありませんから、マーケットではなくこちらに……」
と、説明しながら大切なことを思い出しました。この店の商品の多くは、ヘイムル共和国から取り寄せているのです。スコラの婚約者でありヘイムル人であるクワスル様なら、すでにご存じのことでしょう。
申し訳ないことをしてしまったとクワスル様を仰ぎ見ると、彼は首を傾げつつ私を見つめていらっしゃいました。
「レディ・ヴェルはこちらの品をお使いになったことは?」
「と、とんでもありません! スコラは愛用していますけれど、今の私には必要のないものですわ。私の肌なんかに使ったら、商品に失礼なくらい。両親ももったいないと」
「そうですか」
クワスル様の言葉の裏側にどんな感情があったのか、私にはわかりません。ただ何か呆れたような怒りのようなものが感じられて、私は口を閉じました。
マーケットのそばで馬車を降り、クワスル様とともに散策をはじめました。社交期は、各地から集まった貴族の侍従たちも利用しますからいつも賑わっています。
アスガリー王国、とくにこの王都のマーケットには、島国かつ常春のヘイムルとは全く異なる食材や料理が並びます。普段は口にできないものをふたりで食べ歩くこの時間を、きっと生涯忘れないでしょう。
クワスル様はマーケットの端にある大きな教会――ナルファー大聖堂の前で足を止めました。
「こちらの教会に立ち寄ってもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
一歩足を踏み入れれば外の喧噪が嘘のように静まり返り、ベンチでは熱心にお祈りする方がいらっしゃいます。
クワスル様はベンチの脇に並ぶ柱のさらに外側にある側廊を進み、小さな扉から外へお出になります。一体どちらへ向かうおつもりなのか、私には想像もつかないまま後をついて行くことにしました。
「僕は昔、父にくっついてここへ来たことがあるのです」
「まぁ!」
「父の仕事が終わるのを、この木陰で休みながら待っていました。いや懐かしいですね」
扉の外は大聖堂の中庭です。修道院や孤児院も併設されていますから、中庭には子供から大人まで様々な方が思い思いに過ごしていらっしゃいます。
ふたり並んで大きな木の根元へ腰かけると、日差しが遮られて涼やかな風が通り抜けました。
「私もこの木の下に思い出があるのです。確か第二王子殿下の3歳の式典でした。家族でこちらへ来たものの、当時の私はお転婆でおとなしく待っていられず」
「今では考えられませんね」
「ふふ、根っこの部分は変わっていませんわ。そうしたら、ここで居眠りしている男の子を見つけたのです。手の甲や頬に火傷のような痕があったので、保湿のクリームを塗りました。今思えば、患部を悪化させる可能性だってあったのですから恐ろしいことです」
「それで、どうなったのですか?」
「男の子は私が触れたことで目を覚ましたのですが、ちょうどスコラが私を追ってどこかへ行ってしまったのです。スコラを探す母の声が聞こえたので、ご挨拶もせず慌てて母の元へ戻りました。あの男の子が何事もなく過ごしていらっしゃるといいのですけど」
当時はまだ、私は両親にも愛されていました。幼い私にも、お肌を手入れするための道具やドレスを惜しみなく与えてくださいましたし、家族でお出かけすることも多くありました。
代々、容姿に恵まれてきたレギン家において、怪物になってしまった私はまさしく忌み子です。まさかこんな姿になるとは誰も思いませんから、王家も私との縁談を望んでくださったのでしょうに。
「そんなに悲しそうな顔をなさらないでください」
「あ……。失礼いたしました。でも私、悲観ばかりではないのですよ。この姿になっていなかったら、他者の痛みにもっと鈍感だったはずですもの」
負け惜しみのように聞こえたでしょうか? 私はいま上手に笑えているかしら?
何か言おうと口を開いたクワスル様でしたが、近くで扉の開く音がしたことで私たちの意識はそちらに向かいました。
孤児院から多くの人が出ていらっしゃったようです。院長先生と10歳にならないくらいの男の子、それに貴族の男性とお付きの方々ですね。
興味津々で眺めるクワスル様ですが、私は一体なんとお伝えしたら良いか困ってしまいました。彼は……。
「あの方は宮中伯アリオル・ド・シャーチー卿です。たまにああして身寄りのない子どもを引き取っていらっしゃいます。きっと慈善事業に積極的でいらっしゃるんだわ」
「そうでしたか」
頷くクワスル様に、私は曖昧に微笑みました。
彼にはなぜかあまりいい噂がないのです。引き取った孤児を他国へ売っているのだとか。中には食べてしまうだなんて酷いことを仰る方もいるそうです。
けれど私の耳に入って来るお話は、いつだって尾ひれがたくさんついています。だって私は滅多に社交の場に出ませんから。いくつものお口を渡ってきたお話しか知らないのですわ。
「口さがないことを仰る方もいらっしゃいますけど、逆に言えば伯爵が誰にも媚びていないということ、かもしれません」
「いくつかの異なる視点を持ち、柔軟な思考ができる方を僕は尊重、尊敬します」
尊重も尊敬も、私の人生において頂いた覚えのない言葉です。驚いて見上げたクワスル様の青い瞳は、春のように温かく柔らかでした。
しかしその瞳はすぐに逸らされ、ため息交じりに「実は」と話を切り出されました。
「昨夜、貴女のご両親に婚約に関する、ある提案をもらいました」
「もしかして、スコラではなく私と、ではありませんか?」
「ご存じでしたか」
「いえ……メイドが話しているのが聞こえてしまって。重ね重ねお詫び申し上げますわ。こちらのことはお気になさらず、どうぞ――」
断ってくれと、そう言うつもりでした。けれどクワスル様は目にかかるブロンドを左手でかきあげ、困ったように眉を下げます。
「レギン公爵には僕たちふたりに考える時間がほしいと、お伝えしました。突然のことで、僕らはお互いに動揺していますから」
「お優しいのですね、ありがとうございます」
「いえ、僕ほど優しいという言葉から遠い人間もいませんよ」
呟くように発せられた言葉に、私は思わず笑ってしまいました。こんなに素敵で気遣いのできる方が、優しくないなんて一体どんな冗談でしょう。
それからもう少しだけお喋りを楽しんで、私たちはナルファー大聖堂を出ることに。少し歩いたところで、ご用事があるとのことでしたのでクワスル様と別れました。
私はマーケットの活気をもう少し味わおうと、散策を続けます。
すぐに屋敷へ帰るには勿体ないほど、柄にもなく心がふわふわとしているのです。だって彼は私と、普通にお話をしてくださるのですよ?
だからこんな私でももしかしてと、少しの期待をしてしまったり。一方で、あんなにも美しい人がわざわざ怪物を娶るはずもないこともわかっています。
夢を見てはいけない。でも今だけ、少しだけ。
いつもより軽い足取りで王都を散策していると、男女の言い争う声が聞こえました。
目の前の角を曲がった細道で口論をしているようです。どこか聞き覚えのある声だと思い、ついつい足を止めてしまいました。
「だから、ああいうのは困るんだよ!」
「でもっ」
角からそっと覗き見ると、それは当レギン家に勤めるハウスメイドでした。確か最近ではスコラの宝飾品の管理を任されるなど、侍女にも似た仕事をしていたような。
お相手の男性は商人のような風体ではありますが、その声にもお顔立ちにも覚えがあります。
「昨日はたまたま妻が欠席だったから良かったが、もう二度とああいうことはするなと言っておけ!」
「……はい」
メイドが力なく頷くと、男性はフンと威嚇しながら赤い髪をなびかせ、細道から出ていらっしゃいました。私は慌ててその場を離れ、商店の陰に隠れます。
「ナルヴィネリ子爵だわ」
ザック・ル・ナルヴィネリ様です。彼のことを人々は陰で「成り上がりのナルヴィネリ」と呼ぶそうです。目立ったお家ではないのに、彼が当主となってから不思議と社交の場に招待されることが増えたから、だとか。
そのご縁がどこからなのか、また、支度にかかる費用をどこから捻出しているのか等々、人々の興味は尽きません。
人当たりが良い方なのだろうと思っていましたが、先ほどの威圧的な物言いからするとイメージの訂正が必要かもしれませんね。
とはいえ、私にはもう関係のないこと。
気が付けば空にも赤みがさしてきました。早く帰って湯浴みの準備をしなければ。クワスル様が戻られたらメイドたちも忙しくなりましょうし、そうすれば私が作業スペースに入ることを厭うでしょうから。
馬車へひとりで戻った私に、御者がクスリと笑います。一気に現実へ引き戻されたような心地で、私は俯いて目を閉じました。
自宅へ戻ると屋敷の中は異様な雰囲気に包まれていました。いえ、敷地に足を踏み入れたところからもう、とげとげしい空気が私の肌を刺していたのですが。
馬車を降り、いつものように屋敷の裏手へ回ろうとした私を、家令が呼びとめエントランス内へ誘ったのです。彼が私に声を掛けるのは、医師が匙を投げてから初めてのことかもしれません。
「遅かったのね、お姉さま」
二階からスコラが降りて来て、中央の階段の中ほどで足を止めました。
当家の護りを務める兵士が3名、階段の下でスコラを守るように立ちます。私の護衛についてくださったことはないので、それぞれのお名前は存じ上げないのですが。
「お出迎えという雰囲気ではありませんわね」
「つまんないジョークやめてくれる? ねぇ、まさかとは思うけどクワスル様と結婚するつもりじゃないでしょうね。見え見えなコサージュなんてつけて」
スコラは馬鹿にするような笑みを浮かべて腕を組みました。私を貶めたいという意図については理解しますが、わざわざエントランスへ招き入れるほどのこととは思えません。
「私の決めることではないでしょう」
「そうね、あたしが決めることだもの。クワスル様はあたし専属の護衛として、城へお呼びするつもりよ」
「どういうこと?」
私が驚いて一歩前へ出ると、護衛の兵士たちが各々の武器に手を伸ばしました。
いかに修復不可能なほど関係が悪化していても、血の繋がった妹へ何かしようとは思いません。けれど、そんな最低限の信用さえ私は得ることができていないのですね。
スコラは整った顔に醜悪な笑みを浮かべ、信じがたい論を展開しました。
「ヘズ殿下はあたしのために、クワスル様を呼び寄せていいと仰ってくださったのよ。ヘイムル人だし、王国魔導士に匹敵するほど強いに違いないから構わないと。でももしお強くなくたっていいの。彼のあの美貌が常に傍にある生活って素敵だと思わない? ヘズ殿下はほら、どちらかといえば凡庸なお顔立ちでしょ? だから――」
「待って、待ちなさい。クワスル様にもヘイムルでのお立場があります。それを一介の護衛などと」
「大丈夫よ、殿下は叙爵も考えてくださるって。彼、貴族ではないでしょ。こんないいお話はないじゃない。みんなが幸せになれるのよ」
開いた口が塞がらないとはこのことを言うのでしょうか。どこから指摘すればよいのか、私にはもうわかりません。
完全能力主義のヘイムル共和国では、貴族とカテゴライズされる階級がありません。そんな中で、「北楼」の名代としていらしたクワスル様は超エリートであり……。
「あなた、今まで一体何を学んできたの。そんなことをヘイムルへ伝えてご覧なさい、国際問題で済まなくてよ」
両親は妹にも私と同等の教育を受けさせていたはず。だからこそ、婚約者の交代劇がスムーズにいったのです。そうでなければ、多くの貴族が私の婚約破棄には賛成しても、スコラとの婚約には難色を示したでしょう。
思わず口をついて出た言葉に、スコラは深い溜め息をついてみせました。
「はー、つっまんな! 説教できる立場? もっと怒ったり泣いたりして笑わせてくれなきゃ興醒めなんだけど。もういいわ、出ていらして」
「はい、レディ・スコラ」
スコラの呼びかけで、サロンから数名の男たちが出てきました。中央に立つ男性には見覚えがあります。
「シャーチー伯爵……?」
先のナルファー大聖堂でもお見掛けした、アリオル・ド・シャーチー卿です。平均的な身長ですが横にはほんの少しだけ大きな彼が、こちらを見て大仰に頭を下げました。
「ごきげんよう、レディ・ヴェル。公女の依頼で貴女をお迎えにあがりました」
「迎え、ですか」
今までに聞いたことのあるシャーチー伯爵に関する数多の噂が思い起こされました。人身売買ですとか、食人趣味ですとか、嗜虐趣味ですとか。
お屋敷から毎晩悲鳴が聞こえるとか、引き取った孤児は二度と出て来ないとか、死んだ孤児たちの霊が屋敷内を彷徨っているとか。
足元からぞわぞわと這い上がる恐怖と対照的に、頭の片隅では私のような怪物も対象になるなら少なくとも食人趣味ではないのだ、なんて妙に冷静な考えが浮かんだり。これも現実逃避なんでしょうか?
「悪いようにはしません。おとなしくしていてください」
伯爵の指示で、彼のそばに控えていた男性たちが私をあっという間に拘束してしまいました。当家の護衛の兵士も武器を構えて、私が暴れないよう見張っています。
「今夜の王都では、失踪した公爵令嬢を探す兵士の姿が多く見られるでしょうね。明日のパーティーではお姉さまが話題の中心になるわ」
スコラがゆっくりと私のほうへ近づいて来ました。目の前に立ち、手を伸ばして帽子についたコサージュを外します。
「そして数日後、これがどこかの水辺から発見されるの。婚約を解消されたお姉さまは失意のうちに命を絶ってしまわれたから」
レギン家の未来に私は邪魔だということなのでしょう。何をしなくとも、私は修道院へ向かう予定でしたのに……。美しい顔をしたこの女性は、もはや妹でもなんでもありません。
ただただ残念な気持ちのまま屋敷から引きずり出され、そして不意に意識が遠くなったのです。