すごく、カッコよかった
ダメだ。身動きが取れない。百花ちゃんもわたしも危ない。
一ノ瀬千歳は、蜘蛛糸の拘束から逃れようと身をよじり、引きちぎるべく腕に力をこめた。だが、ビクともしない。
このままだと負けちゃう。そんなのはダメだ。そうなれば、あの蜘蛛の魔獣は水木先輩の夢のエネルギーを吸いつくしてさらに巨大化して、もっと多くの人の大切なものを奪ってしまう。
もしも私たちがここで倒れたら、絶望妖魔たちと戦う力を失ってしまえば、世界は大変なことになる。お母さんも、弟のタケルも、学校のみんなも、ポポルたち妖精の国も……。
「あばよ! ティアキュート!!」
絶望妖魔の幹部・モゥが声を張り上げた。蜘蛛の魔獣がまっすぐ私のところにやってくる。百花ちゃんのほうじゃなくて良かったけど、私だって蜘蛛が苦手だ。
痛い。すごく痛い。体中締め付けられて潰れちゃいそう。動けない
ヤダ、ヤダよ。でも、頑張れ、頑張れ私。最後まで、諦めちゃダメだ!!
千歳は、最後の瞬間まで絶望に屈することはなかった。
そうした心の強さこそが、彼女をティアキュートたらしめた力であり、絶望妖魔がもっとも嫌うものだ。
だが一方で、千歳は16歳の少女でもある。もちろん、痛いし、苦しい。
そのうえ、巨大な蜘蛛が目前にやってきて、大きな口をあけた光景はホラー映画そのものでしかない。
怖い。だから、叫ぶのをこらえることはできなかった
「イヤーーーーッ!!!」
だが、ぎゅっと目を閉じた千歳が聴いたのは自身が貪り食われ骨が砕ける音ではなく。
ザン!!!!! 何かが切り裂かれる、鋭く澄んだ音だった。
一瞬の後、体を拘束していた糸の圧力が緩むのを感じる。さらに張りつけられていた蜘蛛の巣から体が落下していくのを感じる。そして。
ぽふん。という感触が体を包んだ。恐る恐る目を開けてみる。
「えぇっ!?」
千歳は、見知らぬ誰かに抱えられていた。それも、いわゆる『お姫様だっこ』の形で。
見知らぬ誰か。彼は、男性であることだけはわかる彼は、不思議な姿をしていた。
まるでSF映画に出てくるような未来的なデザインのアーマー、バイザーで隠した目元。口元と顎の感じから、大人ではなく少年であるかのように感じる。
彼は、千歳を抱えたままビルの谷間を浮遊していた。
何が起こったのか見ていなかったが、推定することは出来る
この人は、私を助けてくれた?
「あ、あの……私……えっと」
お礼を言うのが適切だろうか。でも全然状況がわからない。
それはそうとして………
わたし、重くないかな。
千歳は場違いかもしれないそんなことを思った。そういえば、男の人にこんなふうにお姫様抱っこされるなんて初めてだ。女の子扱いに慣れてないせいか、こんな状況なのにちょっとだけどぎまぎしてしまう。
「ティアブルーム」
謎の男性がぼそりと呟いた。どこかで聞いたことのある声のような気がする。
「……ふぇっ?」
「掴まれ」
「は、はい!」
千歳はわけもわからないまま、謎の男の首元に抱きつくようにした。有無を言わせぬ迫力があった。そしてすぐに、彼の指示の意味を理解する。
「てめぇ何者だ!! やれ!! 魔獣よ!!」
モゥがステッキをかざして叫ぶと、巨大蜘蛛は彼に向けて次々と糸を射出した。だが。
「無駄だ」
お姫様抱っこされていた千歳が首元に抱きつくことで片手の自由を得た彼は、腰元のホルスターから銃を取り出した。これまた、SF映画やヒーロームービーで描かれるようなデザインをしている。
「ロック、ファイア」
片手で銃を乱射する彼。いや、それは乱射ではなかった。銃口から放たれたレーザーが、迫りくる糸をすべて蒸発させたのだ。素早く、的確な迎撃である。
「あ、あの、キミは……」
「答えるつもりはない」
蜘蛛の攻撃を凌いだ彼は、千歳をビルの屋上にそっと降ろした。そしてへたり込んだ千歳の前に回り込むと、今度は剣を構えた。メカニカルな柄から光の刃が出現している。
「ここでじっとしていろ」
彼はそう呟くと、アーマーの背部から翼が展開された。機械仕掛けの羽からは光と風が吹き出されている。
妖魔から千歳を守るように立つ男。夕日に照らされたその背中は千歳にはとても頼もしく、凛々しく見えた。
「……はい!」
だからだろうか、正体不明の男の指示であるにもかかわらず、千歳は自分でも驚くほどまっすぐな返事をしてしまった。それにしてもさっきから、はい、しか言っていない。我ながら素直だなぁ、なんて思う。
「だから!! てめぇ何のつもりだ!! ティアキュートの仲間か!!??」
「お前に名乗る必要はない」
男は、モゥの質問にも答えない。ただ、光の剣を構えて、光の翼で空を駆けていく。巨大蜘蛛が射出する糸をアクロバティックな動きで躱し、モゥが放つ魔力弾を切り裂き、そして。
「……は、俺のモノだ」
よく聞こえなかった言葉とともに、彼は巨大蜘蛛に光の剣を突き立てた。蜘蛛はそのダメージから動きを止める。
「今よ!! 千歳!!」
すこし離れたところから、百花の声が聞こえた。人間の心のエネルギーから生みだされた妖魔は普通の攻撃では倒すことができない。千歳と百花、ティアキュートの光の力によるトドメの一撃が必要なのだ。
「! わ、わかった! いくよ、百花ちゃん!」
千歳は一瞬遅れて百花の声に答え、右手に力を集中させる。
「ブルーム・ホーリー・ストリーム!! やああっ!!」
突き出した右手から、光の波動を螺旋状に解き放ち、巨大な蜘蛛をその奔流に飲み込む。
手ごたえ、あり。水木の夢のエネルギーを奪って誕生した蜘蛛の妖魔は、光のなかで浄化され、キラキラした結晶が水木の体へと戻っていく。
「……はぁ……はぁ……」
吐息が乱れる。でもよかった。これで水木先輩は目が覚める。また、新体操を懸命に頑張る素敵な先輩に会える。百花ちゃんも助かる。みんなの笑顔がまたみられる。
千歳は戦いが終わったこと、誰も倒れなかったことに安堵の吐息を漏らした。だがそれ以上に、胸が高鳴っていた。
「……あの人は……」
見上げると、そこにはまだ彼が浮遊している。夕焼けに照らされながらビルの間を跳び、自身を助けてくれた人物は、とても綺麗だった。
「てて、てめぇ!! 覚えてやがれ!! 俺の名はモゥ! この名を忘れんじゃねぇぞ!! このままで済ませると思うなよ!!」
使役していた蜘蛛が消滅してしまったせいか、モゥは謎の人物に捨て台詞を吐いてこちらに背中を見せた。毎回思うけど本当に逃げ足が速い。
夢エネルギーを奪って、魔獣を生み出して、暴れる、私たちが止めたら逃げる。私たちも戦いで力を使っちゃってるから、いつも追いかけられないでいた。
「イーヌ、ソニックボードを転送しろ。ヤツを追う」
でも、彼は違うみたいだった。耳元に手を当てて誰かになにかの指示をすると、彼の足元にスノーボードのような板が出現した。なんとなく移動するための道具だとわかるあれは、私たちと同じ魔法なんだろうか。
「ま、待って! キミはいったい……誰……なの?」
「答えるつもりはないと言った」
へたり込んでいた状態から頑張って立ち上がって聞いた千歳だったが、答えはさきほどと同じだった。しかももう千歳に背中を向けている。もう行ってしまうつもりみたいだ。ダメだ、これだけは言わなくちゃダメだ。
「あ、……あの!」
「なんだ」
「助けてくれてありがとう!」
人に嬉しいことをしてもらったら、笑顔でお礼を言う。これは、千歳が祖母や母から教わったとても大切なことで、いつも千歳のなかにある。
だから千歳は心からの言葉を伝えた。
「……お前のためにやったわけじゃない」
彼は最後にそう言うと、ソニックボードと呼んでいた板に足を乗せ、物凄いスピードで飛んで行ってしまった。千歳は呆気に取られ、せっかく立ち上がったのにまたぺたんと座り込んでしまう。
「千歳、さっきの人は……?」
気が付くと、拘束から解き放たれた百花が千歳の横に来ていた。
「わかんないよ」
そう、わからない。千歳にわかるのは、怖い蜘蛛に食べられそうになったところを助けられて、人生で初めて男の人にお姫様抱っこをされたということ。
他にわかるのは、夕日に照らされた彼の横顔が凛々しかったこと、自分を守るように立っていた背中が頼もしかったこと。
千歳は、絶望妖魔に立ち向かえるのは自分と百花だけだと思っていた。だから、誰かが助けてくれるなんて思っていなかった。でも違った。助けてくれた。お前のためにやったわけじゃない、なんて言ってきたけど……。
あの人が誰だかわからないけど、でも。
「そう……」
「うん、わかんない。でも……」
「でも?」
「すごく、カッコよかった」
ぽつり、と漏らした千歳の言葉は、自分でも意外なほどの本心だった。