異世界のねこといぬ
短いお話ですが、どうぞよろしくお願いいたします。
「ここ、どこ?」
ゆっくりと周囲を見回してみても、そこは見たことも無いような平原の広がる世界。
猫(和猫♂)のマダナイは、広い平原の解放感に走り出すようなこともせず、じっくりと周囲を警戒しながら、自分の実に何が起きたかを思い出していた。
「確か、家がぐらぐら揺れて……」
小さな小さな揺れを感じたかと思ったら、眠っていられないくらいに床が揺れたことを思い出す。
長毛種である彼は、フローリングの床でひんやりとした感触を味わいながら午後の眠りについていたのだが、途端に叩き起こされたのだ。
そして……。
「何かが飛んできたような落ちてきたような……」
兎にも角にも、この状況から抜け出すには、知っている場所を目指すしかない。ご飯を用意してくれる飼い主の所へいかねば、今日の分のご飯を片付けられてしまうかも知れない。
「あれは辛かったなぁ。後で食べようと思っていたのに。飼い主どのも掃除とかどうでも良いから、もう少しのんびりと構えてくれたら良いのに」
せっかちな飼い主を持つ彼には、急ぐ理由があるのだ。
一先ずは、何となくでしかないけれど人が居そうな方へと向かうことにする。
「とはいえ、どちらへ向かえば良いのやら」
途方に暮れている彼の耳に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。いや、声と言うより悲鳴だ。
「助けてぇ! ご主人、ご主人どこ!?」
「へいぞう……あいつもいるのか」
へいぞうはラブラドールレトリバー系の雑種で、マダナイよりも二回りも身体が大きい。そのくせ、まだ一歳にもならない若さのせいか落ち着きが無く、マダナイは何度も昼寝を邪魔された。
もう十歳になるマダナイにとっては、突然現れた迷惑な隣人であり、目が離せない危険なヤツでもある。
「飼い主どのが一緒に来ているのか?」
そう言って声がする方に目を向けると、舌をぶるんぶるんと揺らしながら走る見覚えのある犬と、その後ろから迫りくる見たことも無いほど巨大で、渦を描くような毛並みの犬がいた。
「あっ、猫いる!? 助けてぇ!」
へいぞうはマダナイを猫と呼ぶ。ご主人が最初に「これは猫だ」と教えたからだ。
「ああ、もうっ!」
マダナイだって怖いのは怖いが、元は野良である。
ただ逃げるだけでは、いつまでたっても追いかけっこは終わらないことを知っている。逃げるにも逃げるための方策というものがあるのだ。
「伏せっ!」
助けを求めて自分へと向かってくるへいぞうに向かって、飼い主殿がいつも言っているように命令を下す。
同時に、マダナイは全身のばねを使って飛び上がっていた。
「うひゃっ!」
身体が憶えているのか、頭から滑り込むような姿勢になったへいぞうの上を、マダナイのしなやかな身体が飛び越えていく。
そして、見事な飛び蹴りが、巨大な犬の左目にヒットした。
「ギャイン!?」
「ひえぇ……」
意識がへいぞうに集中していたのか、マダナイの蹴りをもろに受けた巨大犬は悲鳴を上げて転がりまわる。
「ほら、行くぞ!」
それを見ていたへいぞうも怯えていたが、マダナイから尻を叩かれて慌てて走り出した。
「ここを抜けるぞ!」
「うん! わあ、楽しい!」
浅い水が流れている場所を渡って臭いを消していくのも、野良だった頃の知恵だ。猫であるマダナイが渋々水に足を踏み入れるのに対し、へいぞうは先ほどまでの怯えを忘れたかのように笑っている。
「急げ!」
緊張感のないへいぞうに呆れながら、マダナイは流れる小川を渡り、深い草むらへと飛び込んだ。
本心では木に登りたかったが、へいぞうが付いて来れなくなる。
「息を抑えろ」
舌を出してへっへっ、と熱い息を吐くへいぞうの頭の上に乗って無理やり口をふさいだマダナイは、草の隙間からそっと来た方角を確認していた。
先ほどの巨大な犬は、どうやら自分たちを見失ったらしい。遠くの方で鼻をひくひくさせながら首をめぐらせているが、しばらくするとどこかへ去っていった。
「……助かった」
「ぷはぁっ! あれ、なんだったの? どうなってるの?」
「少し声を抑えろ。ここは危ないから、まず移動するぞ」
ふん、と鼻を鳴らしたマダナイは、とりあえず近くの木の根元まで移動し、生い茂る草が壁になって、周りから見ないことを確認して寝転がった。
先に横になったへいぞうの腹が枕だ。
「ご主人とはぐれちゃったね……」
ぴぃぴぃと泣きべそをかいているへいぞうに、マダナイは「そうだな」とだけ答えた。
「猫は寂しくないの?」
「……吾輩は、飯がどうなるのかが兎角気になる」
「ふぅん。猫は変だね。僕は寂しいよ」
寂しいという気持ちがよくわからないと思ったマダナイは、へいぞうに同調しなかった。落ち着かない気持ちは感じているけれど、これは野良の時にいつも感じていたものと同じなはずだった。
明日どころか、今日すら無事に終えることが出来るのかわからない焦燥感。
またあの日々に戻るのかと思うと、マダナイはうんざりな気分だった。
「でもご飯も気になるよね! ご主人が居ないと、ご飯も食べられないよ! ああ、一生懸命走ったし、ご飯のこと考えたら余計にお腹がすいたよ。ご主人~……」
「うるさいなぁ。またあいつに見つかるかもしれないから、もう少し静かにしろ」
「でもぉ……」
うつ伏せでキュンキュンと泣き始めたへいぞうは、とうとうお腹まで鳴らし始めた。
「ああ、もう」
まくらがギュルギュル言っていては、眠るどころかゆっくりと落ち着くこともできない。
マダナイは嘆息しながら身体を起こし、周りに何も居ないことを確認して歩き出した。
「どこ行くの?」
「食い物を探してくる」
「ほんとに!?」
ガバッと身体を起こしたへいぞうの瞳は、期待にキラキラと輝いている。
「自分でご飯用意できるんだ、すごいね!」
「……そうじゃないと生きていけない時期もあったんだよ」
そしてこれからはそうなるかも知れない、とマダナイは半ば野良への回帰を覚悟していた。
「とにかく、ここで大人しく待っていろ。またあの大きなのが来たら、とにかく走って逃げて、またどこかに隠れるんだ。いいな?」
「でも、はぐれちゃわない?」
「……その時は、吾輩がちゃんと見つけてやるから」
「うん、ありがとう!」
流石は猫だとはしゃいでいるへいぞうを尻目に、マダナイは草むらから慎重に抜け出た。
「やれやれ。あんなにはしゃいでいたら、三日と持たないぞ」
似たような奴を、野良の頃に何度も見たことがある。親元を離れたばかりのまだ小さな野良猫たちは、食べ物を得る術を知らない。
臭いを頼りにゴミを漁っても、カラスや犬に取られることも多い。
最悪の場合、自分がその連中の餌にされることだってある。
「車が居ないらしいのだけは安心だがな」
不愉快な唸り声を上げて走る硬い塊を車と呼ぶらしいのは、今の飼い主の下に居着いてから知ったことだ。
ちくりと痛い針をさされたり、不快な液体を首元に塗りこんだりされる『病院』に行くのに何度も載せられた。
「そう言えば、あの時も……」
二度目に病院へと連れて行かれた時だった。
またちくりと痛みが走ったかと思ったら、眠ってしまっていたことがある。そして起きたら自分の股間に違和感があり、邪魔な包帯が取れたらタマが無くなっていたのだ。
それからしばらくは元気も出ず、機嫌が悪かったのを思い出す。
「飼い主、か。嫌なことが沢山あったな」
野良の時と違って、定期的に身体を洗われてしまったし、家の中から出してもらえず、外が恋しくなる時もあった。
タマを取られたのは当然ショックだったし、時々やられる“注射”ば大嫌いだ。
「うーん。帰りたくなくなってきた」
声に出さないままこれまでのことを考えながらも、マダナイは拾われた時のことを思い出す。
それは雨が降っていた夜中のことで、どうにも調子が悪い時だった。
「食い物が見つけられず、ネズミどころか虫も見当たらなかったんだったな。もし、あそこで飼い主と出会わなければ……」
脳裏をよぎるのは、何度も見てきた同胞の死体だった。
車に引かれたり、食べ物が悪かったり。時には、人間からいわれなき暴行を受けて死んでしまったものもいる。
「吾輩は、運が良かったのか、悪かったのか……」
生きていることを考えると、良かったのかも知れない。
「ふむ。思えば長いこと飼い主が用意する食事に甘えてきたわけだが、まだまだ野良の時のことを忘れたわけじゃない。どうにかするとしよう……うん?」
ネズミ、のように見えたが、何やら頭のあたりに角がある。
「見覚えはないが……多分、食えるだろう」
慎重に身構え、腰を振りながら自分の近くに寄ってくるタイミングを待つ。腹が減っているからと言って、焦って餌を逃がすのは本末転倒だ。
「食えずに死んだ奴も……居たなっ!」
全身のばねを使って一息に飛びかかる。
思い切り伸ばした前足の爪を食いこませてネズミ風の身体を押さえつけ、間髪おかずに喉笛にがっちりと噛みついた。
多少でも息があれば逃げられる可能性がある。完全に絶命させなければならない。
「ふぅーっ、ふぅーっ!」
少し身体が鈍った、と感じながら、マダナイは荒い息を吐きながら口の中に広ある久しぶりの血の臭いを味わっていた。
恨んでくれるなよ、と次第に力が弱まっていく獲物に頭の中で念じる。
どこかで一つ間違えれば、次は自分がお前のように押さえこまれるのだから。
「……死んだな」
殺した獲物はすぐに食べるべきだ。放っておいて羽虫が寄って来たような肉を食って、死んでしまった奴を見たことがある。
「まずい」
表面の皮を齧り、中の柔らかい部分を契り取って飲みこむ。生ぬるくてねちねちと柔らかいが、カリカリのような芳醇な香りも、上品な味わいも無い。ただ、肉と血の味だ。
一口だけ飲み込むと、マダナイは自分の三分の一くらいの大きさがある獲物を咥えて、へいぞうの所へと戻ろうと思った。
生まれながら飼い主から食べ物を貰っていたあいつに、生の獲物が食えるかどうかわからなかったが、あまり心配はしていない。
「貰えるものは何でもガツガツ食う奴だからな。吾輩のおやつも何度か食われたこともあるし……なんだか餌を分けてやりたくなくなってきたな」
ただでさえ体格が自分の数倍あり、食べる量も多いへいぞうだから、自分でも餌をとれるようになってくれないと、いつまでも自分が親のように餌を用意してやるわけにもいかない。
「一人で生きていくしかないだろうが……今のうちだけは仕方ないな」
近いうちに独立して貰わないといけない。少なくとも、すぐには死なない程度には狩りが出来るようになって貰わねば。
そう考えた矢先、視界の端に何かが迫ってくることに気付いた。
「何だ?」
考えるより先に、獲物を放棄してその場所を離れたあたり、マダナイの野生の勘は健在だった。
もし動けていなければ、鋭い爪が彼の身体を引き裂いていただろう。
目の前に落としたネズミの身体が、真っ二つになっていたからだ。
「カラスか? いや、もっとデカい!」
時々見かけたサギと同じくらいのサイズかと思ったが、茶色い羽根に包まれた胴はがっしりとしていて、足は短く、太かった。鋭い爪はネズミの身体をがっしりと掴み、易々と引きちぎる。
大きなくちばしでネズミを半分ずつ丸のみにすると、次の獲物はお前だとばかりに視線をマダナイへ向けた。
「くそ……」
鳥は怖い。
猫であるマダナイと違って、空が飛べる。
それだけでも驚異なのに、相手のサイズからして鋭い爪はマダナイ程度の動体ならガッチリと掴めてしまうだろう。
捕まれば、死ぬ。
久しぶりの、できれば二度と味わいたくない緊張感が尻尾の先から頭のてっぺんまでを駆け抜けた。
後ろ足が震えるのを必死にこらえ、鳥が動くのを待つ。
下手に背中を向けて逃げ出せば、すぐに上から襲われるだろう。
マダナイはこのままネズミを横取りしたことで満足してくたら良いのにと思って待っていた。
数年にも感じる数秒が経ち、鳥は意を決したように動き出した。
マダナイを捕まえるために。
「ああ、くそっ!」
伸びたのかとさっかくするほど素早いくちばしの攻撃が喉元を狙ってきたのを、どうにか飛び越えて躱す。
一撃を避けたからと言って、とても安心はできない。
マダナイが身体を捻って鳥を視界に収めたままで体勢を整えようとすると、次は腹へ向けて爪が迫る。
「痛てっ! と、まだいける!」
ビリッと痛みが走ったのを感じたが、毛皮をうっすら傷つけられただけで済んだ。
「はーっ」
威嚇をしてはみるものの、相手はまったく動じていない。
それどころか、両方の羽根を広げて威嚇してきた。
「でけぇな……」
思わず口を突いて出た言葉は、見たままの感想だった。
身体だけならばへいぞうと大差はないサイズだが、翼を広げると車の横幅程度の大きさになる。
この巨体で上から押しつぶされたら、ひとたまりもないだろう。
「ここで、終わりか……」
足がすくむのを感じて、鳥がのっそりと近付いて来るのを真正面に見ながら、不思議と、死んでいった野良たちの姿では無く、飼い主の姿が思い浮かんだ。
この鳥のように大きな身体だったが、怖くは無かった。
雨に濡れて疲れた身体を抱きかかえて、美味いミルクやご飯をくれた。
病院は嫌いだったが、ぐったりしている間、ベタベタするわけでもなく、丁度いい距離で側に居てくれた。
死ぬのは怖くなかったけれど、もう一度、会いたかった。
「飼い主……!」
撫でてくれた手を、優しいブラシの感触を、また味わいたかった。
「猫! 伏せて!」
「はっ?」
聞き覚えのある声がして、マダナイは反射的に伏せた。
どこかでやったことがあるような、見たことがあるような状況に頭が追いつくのが一瞬遅れたが、その間に彼の頭上を大きな影が飛び越える。
「とおりゃあ!」
へいぞうの声で、へいぞうの姿だった。
グエ、と押しつぶされた鳴き声が聞こえたかと思うと、へいぞうの身体が鳥を完全に押さえこんでいるのがマダナイに見えた。
瞬間、彼の脳裏に鳥を捕まえた時のことを思い出した。
「そのまま押さえてろ!」
反撃に飛び出したマダナイが狙うのは、翼を支えている骨だ。
鳥の骨は細くて脆い。マダナイの顎でも噛み砕けるくらいに。
「ぅぐるるるる……!」
へいぞうが珍しく唸っているのを真似て、マダナイも唸り声を上げて翼に噛みついた。
すぐに乾いた音が響いて骨が折れ、鳥は悲鳴を上げた。
「やった!」
「まだだ、油断するな! どこでも良いから噛みつけ!」
「わかった!」
そこを狙ったのは本能だろうか。へいぞうは鳥の首筋を狙って思い切り噛みついた。
マダナイの比では無い強さの噛みつきに、鳥の細い首は長くは耐えられない。じたばたと足掻く足に犬猫揃っていくつかの傷をつけられたが、それでも離さなかった。
血が飛び散り、羽根が飛散する凄惨な光景は、やがて鳥の絶命で終わりを告げる。
「はっ。ネズミは食われたが、これが食えるなら充分だ」
「え、これ食べるの? ご主人に怒られない?」
「そうだなぁ……」
大きな獲物を前に、くたくたに疲れてしまったマダナイは座り込んで考えた。
「怒られないだろう。お前がちゃんと食って元気にしている方が大事だ。飼い主なら、きっとそう言う」
理屈では無いが、マダナイは確信を持って行った。
「お前が仕留めた獲物だ。食え」
「一緒に食べようよ。一緒に捕まえたんだから」
それに、とへいぞうは傷つけられた場所を舐めながら、いつもの調子で続ける。
「ご主人は、きっと猫も元気じゃないと駄目って言うよ。『一緒に』っていつも言うじゃない」
「そうか。そうだったなぁ」
肉を分け合いながら、マダナイは先ほどまでの考えを完全に変えていた。
「ここがどこか知らないが、今まで居た場所に比べたら、ずっとずっと危ない」
こんな場所でへいぞうを放っていくわけにはいかないし、自分だって危険だと気付いた。それに、やるべきことも決まっている。
「あの飼い主が、吾輩たちを置いてどこかにいくはずがない。多分、どこかでウロウロしながらデカい声で呼びまくっているに違いない」
「ご主人の声、大きいもんね! 時々びっくりしちゃうもん!」
「お前の声も、充分大きい」
「そうかなぁ? でも、散歩の時とかおやつの時とか、嬉しくてつい声が出ちゃうよね!」
お前だけな、とマダナイは血で濡れた前足を舐めて掃除しながら、へいぞうと共に飼い主を探すことに決めた。
「飼い主が待っているだろう。野良の生き方を教えてやるから……」
立ち上がったマダナイは今、とても飼い主に会いたかった。だから、その為に行動することに決めたのだ。
「飼い主を探すぞ。お前の鼻を頼りにしているぞ!」
「任せて! じゃあ、早く行こう!」
「少し落ち着け。腹も一杯になったから、少し休ませてくれ。また腹を借りるぞ」
ごろりと横になったへいぞうのお腹を枕に、マダナイは仰向けになった。
「空が、広いな」
高い建物なんてどこにも見当たらない。
どこまでも広がる空を見ながら、マダナイはへいぞうの鼓動を聞きながら浅い眠りについた。
「ご主人……」
早々に寝入ってしまったらしいへいぞうの寝言が、今は安心できる声に聞こえていた。
犬と猫。彼らが知る由もないが、今までとは違う“世界”での旅は、こうして始まった。
ありがとうございます。
良かったら、他の作品もよろしくお願いします。