第1章 第1節
風に舞う花びらが、降り注ぐ陽光に向かって上昇する。冷たさの残る春風は桜並木を通り抜け、幻想的な光景を道行く人々に映し出していた。
桜の花吹雪は勢いに任せて宙を漂う。風が止めば花びらはひらりひらりと落ちていく。あるものは地面に、またあるものは屋根の上に。――稀に人の手の中に。
二枚の花びらがゆっくりと落ちていく。向かう先にはやや大きめで少し骨ばった手の平が待っている。その温かな手の中に収まろうかという時、そよ風が吹いて花びらを攫っていこうとした。
(おっと)
手の平が慌てて追いかける。幸い、すぐに追いついて捕まえることに成功した。軽く握った手を再び開く。そこには二枚の桜の花びらがあった。
(ああ……、片方折れたか)
青年は自分の手の中を見て、微かに寂しげな表情を浮かべる。二枚のうち一枚が折れ曲がっていた。傷つかないように加減するのは難しい。
(まあ、いいか)
花びらたちは手の平を離れて、風に乗り空へ舞い上がる。空を見上げた青年は、その様子を目で追った。しかし、程なくして何処に行ったか分からなくなる。花吹雪が何事もなかったかのように、ただ静かに宙を踊っていた。彼は目を細めてそれを見ていた。
「羽悠真くん」
誰かに話しかけられた。その声の主は、彼の背後からやって来て隣まで駆け寄る。羽悠真と呼ばれた青年より少し小柄で細身の体格。きめの細かい髪を短く綺麗に整えている。
「羽悠真くん、おはよう」
目は二重で奥には綺麗な瞳が見える。挨拶に添えられた笑顔は飾らない自然体のものだ。羽悠真も無意識の内に頬が緩んでしまう。
「おはよう、零士」
羽悠真も挨拶を返した。零士と呼ばれた彼は、返事をする代わりに笑顔で答える。彩りを加えられた笑みは、同性の羽悠真でさえ、いや同性だからこそ、息を吐くのを忘れさせた。例えるならそれは、空よりも澄んだアクアブルー。純粋で穏やかで何だか落ち着く。
「どうかした?」
微笑んだまま小首を傾げる零士。何年も一緒にいる羽悠真は、こういう仕草を彼はまるっきり無意識でやっていることを知っている。だからこそ、普通の人よりも彼を愛らしくさえ思ってしまう。羽悠真の口から自然と溜息が零れた。
「本当にどうかしたの?」
零士が心配そうに見上げている。それを間近で見てしまえば、きっと心臓が早鐘を打つだろう。もっとも、羽悠真の場合はそうはならない。
「ああ、今年も目標は達成できなさそうだなって」
「そうかなあ? まだ一年の四分の一しか経っていないのに?」
零士とはもう長い付き合いだ。今更になってときめくわけもない。あるのは大きな親愛の情のみ。これこそ長年積み重ねてきた何気ない日常の賜物。並大抵のことでは崩れない友情の証だ。
「むしろ、下方修正した方がいいかもな。また告白されるぞ、主に男性から」
「それはもう勘弁してほしいなあ」
笑顔に困惑の表情が混ざる。それ一つ取っても魅力的に映るのだから、同性から言い寄られるのは仕方のないことだろう。勿論、そんな事は口に出さず胸の中に留≪とど≫めておく。
「男らしくなるって難しいのかなあ」
「考えすぎもどうかと思うけど、頑張れよ。お兄ちゃん?」
「あはは、そこまで言われると意地でも頑張らなくちゃね」
そう言うと、零士は胸の前で拳を小さく、しかし強く握った。その光景は羽悠真の瞳に微笑ましくて眩しく映る。少しだけ羨ましくもあった。一人っ子の羽悠真が、真に理解することが叶わないものだから。
「そういえば、アルバイトは順調なの?」
「ああ。問題なくやれてるよ」
話題は羽悠真の身の上話に変わる。
「そうなんだ、すごいね!」
「大したことはしてないさ。それに僕は一人暮らしだから、学費とか生活費とか自分でどうにかしないといけないし」
「うん、大変だよね」
「いつものことだからあまり気にしてないけど」
談笑している二人の周りを桜の花びらが舞っている。風はまだ少しだけ冷たい。けれども、羽悠真にはそれが心地良く感じられた。
しばらく二人で歩いていると、大きな時計がシンボルの広い建物が見えてきた。近くには同じくらいの大きさの建物が幾つも並んでいる。二人の目的地はここだった。
国際理工科大学東京分校≪Tokyo branch school of International Institute of Science and Technology≫――通称『TIIST』。統合と高度化が進んだ二十三世紀の大学において、TIISTはそのピラミッドの最上位に君臨している。日本に限って言えば、文句のつけようがなく最難関・最優秀のトップ大学である。『国際』と銘打ってあるように、国際理工科大学は米国を中心に世界のあちらこちらに分校を有している。海外でもその名を知らない者はいない。
大学に近づくと、人の喧騒が大きくなってきた。正門をくぐり、二人は大学の敷地内に足を踏み入れる。騒々しい理由はすぐに分かった。
「今日も勧誘頑張っているんだな」
「本当だね」
構内のあちらこちらで上級生たちが部活やサークルのアピールをしている。その多くが実演や体験ができるとあって、生半可な勧誘ではないことが伝わってくる。実に情熱的だ。
「羽悠真くんは、部活とかサークルに興味あるの?」
「……うーん。アルバイトに支障がなければ入ってもいい」
「そうだよね、そうなるよね」
二人は校舎へと歩みを進める。講義の時間まではまだ余裕がある。とりとめもない話をしながら、勧誘に精を出している学生たちを歩きながら眺めていた。
ふと、羽悠真は一際賑やかな声が聞こえてくるのに気が付いた。視線をそちらに向けると、二人の前方で学生たちが集まっていた。
「あそこ、かなり人だかりができているな」
「本当だ。どうしたんだろう?」
歩くペースはそのままに近づいていく。その集団の構成が分かると、羽悠真は溜息を吐いた。
「……なるほど。頭は良くても所詮は人間ということか」
「その言い方はどうかと思うよ」
女子学生数名にほぼ同じ人数の男子学生。話の主導権は男子学生たちの側にある。女子学生たちはそれをにこやかに聞いていた。その周りには、学生数名のグループが男女問わず幾つもできていて、彼女たちを見ながら喋っている。勧誘の順番待ちだった。
「あんな下心丸見えの勧誘、むしろ清々しいね。僕たちも新入生なのに誰一人として来ない。やっぱり、人間は見た目なんだよなあ」
同じ新入生でも、彼女たちは例外なくルックスが良かった。勧誘する側としては、興味あるなしに関わらず是非とも入部してほしいところ。人が集まるのは当然と言える。
「来てほしいの?」
「いや、全然」
「だと思った」
思わず失笑する零士。羽悠真もつられて笑みを零す。
「そういえば、あの人、有名人だったりするのか?」
「誰のこと?」
「あの中心にいる、綺麗な黒髪の人」
笑みの止まった羽悠真は、件の女子学生たちの一人を指し示す。
その彼女は集団の中でも特に目を惹いた。セミショートで艶のある黒髪。目はぱっちりと開いていて、快活そうな目尻に縁どられている。上級生の話に笑顔で聞いている姿は、吸い込まれるような魅力がある。実際、彼女の正面にいる男子学生は、先程から目を奪われたままだ。
「そんなことはないと思うけど、でも、かなり容姿が整っているし、有名になるとしたらこれからじゃないかな」
「何て名前なんだ?」
「えっと、確か橘朱音さんだったと思うよ」
「よく知っているな」
「男子学生の間で写真が出回っていたから。あ、これ秘密ね」
そう言うと、零士は口元に人差し指を当てる。
「もしかして、その橘さんみたいなのが好みなのか?」
「あはは、それはどうだろう」
笑って誤魔化す零士。だが、付き合いの長い羽悠真には通用しない。
「言うだけ無駄だよな、シスコン」
「うっ、ぼく、そんなにひどいかな?」
零士は不服そうに口を尖らせる。そんな彼に構わず羽悠真は矢継ぎ早に質問を始める。
「高校時代、バイトをせず、同級生とほとんど遊ばず、休日はいつも家の中。その理由は?」
「え? 妹との時間を大切にしたいから?」
「珍しく女子から告白された時、なんて答えた? その理由は?」
「嬉しいけど、気持ちには応えられない。大切な人がいるから」
「世界と妹、どちらかを選ぶとしたら?」
「妹」
「最近、悲しかったことは?」
「反抗期なのか、ぼくに冷たい気がすること」
質問の時間は終わった。羽悠真は深々と息を吐き、そして口を開いた。
「重症だな」
「うーん、ぼくはそんなに酷いのかな……」
「少なくても異常ではある」
「容赦ないなぁ」
苦笑いする零士を羽悠真は温かい目で見ていた。偶に揶揄うことはあっても、決して馬鹿にはしない。零士が妹を大事に思っているのは他の誰よりも知っている。深い理由までは分からないが、彼の思いを羽悠真はむしろ尊敬していた。
(僕もそんな風に思える人ができるのだろうか?)
零士の妹に対する思いを目の当たりにするたび、羨望とも不安とも哀愁ともとれる複雑な感情に揺さぶられる。
「そういう羽悠真くんこそ、橘さんが好みなの?」
「……え?」
不意に訊かれて羽悠真は言葉に詰まった。視線は彼女、橘朱音の方に吸い寄せられる。彼女たちは別の上級生たちから勧誘を受けていた。その中でも、朱音の存在は際立って見える。やはり美人に相違なかった。
「告白されたらOKする、かな」
考えた末に出たのは受け身な答えだった。
「大抵の人はそうだと思うよ」
「それしか言えないよ。あの人のこと、容姿以外何も知らない訳だし」
「だよね」
二人は講義棟へと並んで歩いて行く。話題に上がったこともあり、羽悠真はすれ違いざまに朱音を一瞥する。すると、上級生に囲まれている中にいる彼女と、ほんの一瞬だけ目が合った。
(やっぱり綺麗な人だ。住んでいる世界からして違うんだろうな)
次の瞬間には、羽悠真と朱音の視線はそれぞれ別の場所を向いていた。
「ところで羽悠真くん、部活やサークルからの広告メールはどれを見るつもり?」
「ああ、それ全部、受け取りを拒否してる」
「ええ……」
羽悠真の眼中に大学の部活・サークル活動は映っていなかった。そのことに驚く零士の顔を彼は少し愉快そうに見ていた。