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ワトズナ離宮は、長い間、主が不在だった。離宮とは言え、王宮の一部である。いつなりとも新しい主人を迎えられるよう、管理の手は怠っていなかったが、まさか次にやってきたのが、王都で生まれ育った、単なる庶民の少女だとは誰も夢にも思わなかった。
「ミオン・ハルニーです。これからよろしくお願いします」
「みぃ」
訂正。
ワトズナ離宮の新しい主人は、王都からきた少女と、聖獣の仔だった――。
***
「私たちは原初の聖獣の末裔なのよ」
離宮への引っ越しが一段落したある日、アローザが再び訪ねてきた。ミオンは新しい離宮の主人として、ティーネと一緒にアローザを迎えた。自分の住まいなのに、執事長に案内してもらわないと客間にたどり着けないのは、いずれこなせる課題だと信じたい。
「原初の、聖獣、ですか」
ミオンと違って、今まで通り好き勝手気ままに生活しているティーネは、アローザに向かって一声鳴いた後は、ミオンの膝の上で丸くなっている。ミオンはアローザに向き合いながら、ティーネの背を撫でていた。こうしていると落ち着くのだ。
「ええ、私たちの存在は、今のところハベト族の王族、それも王位を継ぐ者にしか伝えられない事よ」
ハベト族の女性王族には、王位の継承権が無いので、アビアナが知らされたのは、ミオンがアビアナに仕えるという名目上の理由からだ。
すごい秘密を聞いてしまった。ミオンが緊張したのを見て取ると、アローザは目尻を下げた。
「そうね、昔話から始めましょうか。世界の始まりの話」
「……すごい昔ですね」
そんな時代の出来事を誰が記録したのか気になるところだが、ミオンは疑問を隠してアローザの言葉に集中した。
――神々は世界作り、人を作った。
ごくありきたりな出だしで始まった物語の主人公は、巫女だった。初代の巫女、原初の巫女とも呼ばれる女性は、自らを「言葉を話す獣に過ぎない」と称した最初の聖獣でもあった。巫女は、最後は神の言葉を預かる者として自らの言葉を捨て、楽の音で語ったとも伝えられている。
(楽器で話し掛けられた方も困ったんじゃないのかな)
お互い分かった振りで頷いて、背を向けた途端に首を傾げる様子が目に浮かぶようだ。
「……ちゃんと聞いているかしら?」
「聞いてます!」
ミオンは急いで余計な思考を追い払って、殊勝な態度を取り戻した。
――神の創造物である、人や獣、木や草ですら、かつては神の言葉を理解出来た。
『神の言葉』によって、人と動植物同士の意思の疎通も可能だった。巫女の役目は、世界の繁栄を神々へ報告し、神々が創造物を常に愛でていることを伝えるだけだった。
(あ、だから楽器でもよかったんだ)
異常なしの定例報告だけなら、片手を上げるだけでも伝わる。
「……」
アローザが一瞬口を閉ざす。ミオンは聞いていますと目で答えておいた。気持ちは伝わったようだ。
――長い長い年月の後に、『神の言葉』は忘れられていった。神々も、思い出すことを強制しなかった。『神の言葉』を最後まで守り続けていたのが巫女の一族と、その守護獣だった。いまでもトクリム山脈の奥深く、ウェーカー山の麓で神々に仕えて暮らしている。その存在を知っているのは、ハベト族の王だけ、だ。
「『神の言葉』と同時に、人々は本当に神々の姿も忘れていったわ」
『神の言葉』を知る人間が、我こそが神の代理人であると誤解するほど、神々は人から離れた存在となっていた。
「この身の程知らずの勘違いをした人間は、神々に挑もうとして破れ、一部の伝承では魔神と記録されているそうよ」
メザヤは、シャグマとはまた別の異説を信じていた。マルティド神とバイアム神の他に、第三の神、魔神が存在し、王都の地下深くに封じられているという説だ。シャグマの信奉する異説と重ね合わせた結果、王都に聖獣の血を捧げれば魔神が蘇るという自説ができあがったわけだ。
「ティーネを攫ったのは秘密教団の人だったんですか」
「そうみたいね。その子も、よく分からないままに連れ去られたようだから断言は出来ないけれど」
「みぃ……」
寝ぼけたのか、それとも会話に加わったのか。ミオンはアローザと顔を見合わせて笑った。
「魔神を退けたのが、私たち聖獣よ。といっても、相手はただの勘違いした人間だったわけから、威張れるような話でもないのでしょうね」
王都にいくら生贄を捧げても、魔神は復活しない。もともと、存在しない神なのだから。
存在しないもののために、命を奪う行為を止められたのは本当によかった。手のひらと膝に伝わる暖かさが、今は何よりも安らぎを与えてくれる。
「今思えば、異説が生まれ始めたときに私たちがきちんと訂正すればよかったのかもしれないわ。神々は敢えて正そうとされなかったから、そこに甘えてしまったのでしょう」
神々はただただ、世界がゆっくりと様変わりする様子を愛で、しかし決して無視しているのでは無いと、巫女を通して世界に語り続けていた。
「例えば、先日の神託のように『花は、好きか』、とかね」
イプスが読み取った神託も、神の言葉の全てではなかった。それは人に尋ねると同時に、花に対して他の生き物は好きかと尋ねていることに繋がる。アリーゼが笛で神託を奏でていたのは、人以外の存在にも神の言葉を届けていたからかもしれない。
(……やっぱり答え方に困ると思うんだけど……)
花には花の答え方があるに違いないと割り切ることにした。
「そうすると、シャグマさんが信じてた話も、ただの作り話ですか?」
「ええ。でも、私がその話は嘘だと言っても、神々の在り方を知ることが出来ない人たちには、私が嘘をついているようにしか聞こえないでしょう」
真実を知るには、自ら『神の言葉』を思い出して、神々の語りかけに耳を傾けるしかない。
「私たちは今まで神々の心のままに、人々が『神の言葉』を思い出すのを待っていたけれど、今回のことで考えを改めたわ」
待っているだけでは逆に忘れ去られていくのを早めるだけ。思い出すよう、働きかけることが必要だと。
「そう決めたのはよかったのだけど、そもそも私たちが『神の言葉』を受け継いでいることに余計な懸念を持つ者が現れるから隠れていたのよね。だから改めて出て行くために、具体的にどうするのかが決まらなくて困っていたの。そこにあなたが攫われたその子を連れ戻してくれて、これだと思ったわ」
「はあ……」
「『神の言葉』を受け継ぐ私たちの所に来てもらうか、私たちが山から出て行くかのどちらかしか無いと思っていたのだけど、あなたがこの離宮にいてくれれば、私たちと他の人との中継が出来ると思うの。最初はこの離宮から、次は少し離れた土地で。こうしていけば、私たちも無理なく山から出て行けるし、外からも来やすいでしょう?」
「そう、ですね」
ティーネと暮らせるなら山に入ってもいいとまで思い詰めていたミオンだって、いきなり山の中で生活をするのは苦しい。逆に今まで山で暮らしいていた人たちには、山の外での暮らしは辛いだろう。
アローザの話は暮らしの面だけではない。それぞれが信じる『神の正しい姿』に訂正が入らなかった今、神と直接話せる人間が存在しては不都合が生じる人もいるのだろう。ミオンの立ち位置は、その緩衝材にもなる。
「ちょうどその子もあなたに懐いていることだし、ここならハベト族の庇護があるし、安心でしょ? ここでゆっくり『神の言葉』を取り戻してもらって、それから徐々に、ね。あなた自身にもクアンバドの王家に繋がりがあると聞いているから、アビアナ様はそちらにも援助を頼むとおっしゃっていたわ。もちろん、私たちも全員であなたを支えるわ」
アローザは身を乗り出さんばかりの勢いだった。短期間にそこまで見込まれていたのかと思うと嬉しい反面、不安もある。
多少の危険を差し引いても、ミオンにしてみれば最上の結果に収まったわけだが、現時点で神託の解読者は、他にアリーゼとイプスの二名が存在する。
二人の名を出すと、アローザはため息を吐いた。
「女の子の方はクアンバド王家の方でどうにかしてもらえるようだから任せてあるわ。男性の方は、獣たちが怯えてしまって……」
「……」
イプスについても、今までどおりのようだ。実際に刃と爪を向けた者同士、相性が悪いのだろうと思うことにした。いずれ、イプスも『神の言葉』を会得したときに、誤解が解けるに違いない。たぶん。
「あの……もし、私が家に帰りたいって言ってたら、どうなったんでしょうか」
ティーネを山に返したら家に帰るつもりだった。学院を辞めるかもしれないとは考えていたが、王都から出て行くつもりは全くなかった。結局、アビアナの思い通りに仕える形になってしまったが、これもミオンの意思一つで変えることは出来たはずだ。
「そうね……そのときは、何か別の提案をしなきゃいけなかったでしょうね」
眉根を寄せたアローザだったが、すぐに笑顔になった。
「でも、大丈夫だと思っていたわ」
「どうしてですか?」
「その子、まだ幼いからうまく話せないのだけど、戻ってきてすぐにこう言ったの――」
『おもいだしてくれたひとがいたよ。だから、かえってこれたよ』
「え」
膝に視線を落とせば、いつのまにか目を覚ましていたティーネと目が合った。
「みぃ」
もしかしたら――一つの可能性が、ミオンの脳裏に浮かんだ。
この世界は、かつてミオンがやりこんだゲームの世界だった。
ミオンが名前も無い街人Aだったのと同様に、ティーネは救われることのない、いわゆる生贄Aだった。
ミオンが不意に思い出したように、ティーネも自らの運命を思い出したのかもしれない。
たった一つの科白を言えばいつもどおりの明日が待っているミオンと違って、ティーネの役割は命がけだ。しかも、無駄な犠牲。出来ることならそんな死亡フラグは回避したいと思うだろう。
(まさか、ね)
ミオンは、たった一つだけシナリオには無い選択をした。そのために五年の時間を掛けた。
これが実は、ミオンの考えではなく、ティーネが、自分の死亡フラグを回避するために仕組んだとしたら?
考えすぎかもしれない。マギーにも不要なことを考えすぎていると言われている。
でも、もしかしたらという思いもある。過去の自分の記憶に寄れば、ゲームなら自分の思い通りの結果を辿れるまで、何度も分岐を選び直して繰り返すそうだ。
ティーネが自分の命を救うルートを必死で探してシナリオを繰り返して、どうしてもシナリオが変えられないと知ったとして。唯一の希望を、シナリオに関係ない街人Aに託したと思うのは、自分を美化しすぎているだろうか。
(……話せるようになったら……わかるかな)
本当の答えは、将来じっくり聞かせてもらおう。
街人Aと生贄の子猫の話は、これでおしまい。
ゲームのシナリオはアリーゼに任せて、ミオンはティーネと新しい世界で新しい物語を始めるのだ。
「わたしも、思い出せてよかったと思ってるよ」
抱き寄せて頬ずりすれば、
「みぃ!」
暖かい頬ずりが返ってきた。
今なら神託の問いに答えられるとミオンは思った。
(神様、わたし、花も人も獣も、この世界も神様のことも、みんな好きです!)
窓の外は、今日もいい天気だ。
〈終〉
街人Aの物語はこれでおしまいになりました。
長い間お付き合いくださいまして、ありがとうございました。
補完し忘れていた部分があれば付け足すかもしれませんが……。
ゲームのシナリオはどうなるのかという点につきましては、文中にもあるようにアリーゼの選択次第です。誰と結ばれるのかは、皆様にお預けしたいと思います。
善き終焉を迎えられることをお祈りしています!
それではまた、次回の物語でお会い出来るよう祈って。
ありがとうございました。




