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リボンの一件からしばらく後の朝だった。
「ミオン、今日は出かけるわよ」
いつもどおり、二人きりの食事の後、母マイサは、ぽかんとしている娘を急き立てた。
「服は……そうね、そのままでいいわ。髪を梳かして。そういえばこのあいた、リボンを貰ってこなかった?」
「待って。待って待って、おかあさん、待って。いきなりどういうこと。お買い物に行くの?」
今すぐリボンを取ってこいと言い出さんばかりの母を、文字通りミオンは体当たりで止めた。腰にがしっとしがみついて、おねだりモードの表情で見上げる。しょうがない子ねぇ、と言わんばかりの苦笑が浮かんだら、攻略完了である。
(チョロいよ、お母さん)
そんな腹黒い事を考えていると、頭を撫でられた。
「買い物じゃないわ。ミオン、あなたもう、十一才になったでしょ?」
母の手の気持ちよさに、ミオンは半目になりつつ、頷いた。誕生日のあの日は、楽しかった。
去年、プレゼントをくれたのは家族とサティだけだった。
今年は、家族とサティの他に、ご近所探検で仲良くなった友達と、ジュスローと、孤児院の子供達と、それから数日遅れで伯爵家からも、お祝いが届けられてしまった。俺だって同じことしていたのに何も無かったと、兄がこっそりいじけていたのも、いい思い出である。
ちなみに貰ったプレゼントは、両親からは服、兄からは木の実のペンダント、友達からは手書きの自宅付近地図、ジュスローは本、孤児院の子供達からはカード、伯爵家からは高級なお菓子である。特にお菓子は感慨深かった。クリームたっぷりのケーキなんて、次はいつ食べられるだろう。日持ちすれば、ちょっとずつ食べて、一週間は味わえたのに。本当に残念だ。
「学校ももうすぐ終わりになるし、そろそろどこで働くのか、考えないといけないでしょう?」
「……うん」
気づけば、母の手は止まっていた。ケーキの妄想を追い払って目を開けると、心配そうなマイサの顔が見えた。
ミオンが学校に通うのはあと半年か、長くても一年だ。
その後は、マイサの言うとおり、働きに出なくてはならない。いつまでも子供を遊ばせておけるほど裕福な家庭は、下町に存在しない。ジェラールは例外だ。
兄のように奨学金をもらって上級学校に進学することは諦めている。理由は、ミオンが女の子であるということと、サティのノートを参考にしすぎたせいだ。おかげで今のミオンの評価は、『頑張っているけれど、もう少し足りない』である。
とはいえ、悲観は全くない。そもそもミオンは学校が終わったら働きに行くと考えていたし、街人Aであると思い出してからでも変わらない。だから母の言うことを当然と受け止めることができた。
「それでね、お父さんとも相談したんだけど……ミオン、あなたこれから学校がない日に、ルルバさんのお店で手伝いをしなさい」
「ルルバさん……お茶屋のルルバさん?」
母の言うルルバの店というのは、表通りから少し引っ込んだところにある小さな商店通りにある店のことだ。ミオンはお茶屋と言っているが、正確には茶葉屋だ。時々、母と一緒に買い物に行く事がある。いつもにこにこして、必ず茶葉をひとすくいおまけしてくれる、ふくよかな小母さんが店主のルルバさんだ。
「そう。そこで、お店の手伝いをして、色々教えてもらいなさい」
繰り返しになるが、下町の子供は下級学校が終われば早々に働きに出される。大抵は、今のミオンのように、知り合いのところで手伝いをして、働き方を覚えてから職に就く。実家が商売をしていたり、兵士のように専門の訓練が必要な職業は少し異なるが、最初に子供向けお試し期間があるのはどこも同じだ。
「うん、わかった」
「それじゃ、今日はご挨拶に行くから、早く髪を梳かしてきなさい。あとリボンは――」
「待って、おかあさん、働きに行くのにレースのリボンは無いと思うの!」
もう一度リボンを取りに行こうとする母を、どうにか止めることに成功した。早く忘れてくれることを祈るばかりだ。敵を欺くにはまず味方からと言うし、自分が先に忘れてしまえばいいのだろうか。
(捨てちゃおうかな、あのリボン)
引き出しから取り出して、ゴミ箱に移すだけのことができないのは、リボンに籠められたセオラリアの好意と、生来の貧乏性という二つの難敵が邪魔をしているからだ。何かの間違いでリボンが似合うようになるという妄想は、虚しくなるので禁止している。
「じゃあリボンはいいから、そのくしゃくしゃの髪をどうにかしなさい」
鏡を見たら、寝癖が酷いことになっていた。梳かしただけではどうにもならなくて、結局、三つ編みにしてもらってごまかした。
「いらっしゃいませ」
ルルバの店には看板が無い。ティーポットを象った板が扉に張り付いているだけである。扉を叩くと、エプロン姿の若い女性が出迎えてくれた。
ルルバにしては若すぎる。マイサと同じくらいか、少し上だろうか。しかしお茶屋の店主は、マイサより十以上も年上のはずだし、もう少し横幅があった。母を見上げると、こちらも首を傾げていた。
「あの……ルルバさんは……?」
「母はいま腰を痛めて休んでいます。もしかして、ハルニーさんの奥様ですか?」
「ええ……母、というと、ルルバさんの娘さん?」
「はい、私はリンスベルといいます。まずは中にどうぞ」
リンスベルと名乗った女性は、笑顔になるとルルバと同じ位置にえくぼができる。妙なところで血のつながりを実感してしまった。
「そちらにどうぞ。今、お茶を入れてきますね」
狭い店内にはカウンターと茶葉の入った容器が並んだ棚と、一組のテーブル席がある。店中に漂っているのは、様々なお茶の葉の香りだ。混ざりすぎて、もはや独特の香りとなっている。示されたテーブル席に座っていると、カウンターの奥に一度引っ込んだリンスベルが、小さなティーポットとカップを三つ運んで戻ってきた。
「どうぞ。少しぬるめにしてありますので」
「ありがとうございます」
マイサの真似をして、ミオンも気取った手つきでカップを手に取った。ふわりと、甘酸っぱい香りが漂ってくる。口に含むと、思ったとおり甘い味付けがしてあった。
「母から聞いた話では、ミオンちゃんをしばらく手伝いとして店に通わせて欲しいと言う事でしたが」
「ええ、この子もそろそろ働く事を教えないといけませんから。お店の掃除くらいならまかせてもらえるとのことでしたので、それで様子を見てももらおうと」
「そうですか。確か、十一才、でしたっけ?」
「はい」
ミオンが返事をすると、リンスベルは微笑んだ。
「私も他のお店でお手伝いを始めたのも十一才だったわ」
「おなじですね」
「ミオンちゃんは、このお店で働いてみたい? 母は腰が治るまで出てこられないから、私と一緒に働く事になるのだけど、どう?」
「はい」
特に異論は無かったので頷くと、マイサはにっこり笑った。
「じゃ、さっそく今日から手伝いなさい」
「今日から!?」
顔を合わせてばかりだというのに、それはどうなんだ。リンスベルだって困るだろう。そう焦っていると、
「あら、いいんですか? それじゃ、さっそくお願いしちゃおうかな」
「もちろんです、どんどん使ってやってください」
「……」
こうして、ミオンの初就職は決まったのだった。
***
学校のない日、とマイサは言ったが、ミオンがルルバの店に通うのは週に二回となった。子供だからと言うこともあったが、一番理由は、ルルバの店がさほど繁盛していないことだ。
(なにか……することは……)
店に通い始めて一ヶ月も経つと、掃除も片付けも、あっと言うに終わってしまうようになった。暇なときは好きなことをしてもいいとリンスベルは言ってくれたが、だからといって父親に貰った古新聞を持ち込む気にもなれない。というか、きっと母が許してくれない。
最近、知識開拓の為に辞書を片手に読んでいるのだが、その様子がおっさん臭いのが母マイサの悩みになっているのである。他人にそんな姿を見せるわけには行かないと、きっと止めてくる。
(なんかないかなあ……札とか、剥がれてないかなあ……)
お茶の容器には、値段とお茶の葉の種類が描かれた札を貼ってある。その札を書きながら、お茶がどうやってつくられて店まで来るのか、お茶の種類や産地の話も、一ヶ月の間にリンスベルによって語り尽くされていた。お茶の入れ方も教わっているが、これは売り物を使うので毎回はできない。
(雑巾はさっき干したばっかりだし……うーん)
結局何も見つけられないまま、カウンターで黙々と書き物をしているリンスベルの元に戻った。このままでは拉致があかない。何か仕事を貰おう。しかしリンスベルは時折唸りながら手元を睨み付けているので、話しかけづらい。
(……何してるんだろ)
うなり声を上げているから、ラブレターを書いているというわけでもあるまい。そっとのぞき込むと、リンスベルは帳面に書き込んでいるところだった。お茶の種類と、金額、日付が並んでいる。
(帳簿、か)
先日、新聞で知ったばかりの単語だ。そして以前のミオンの知識により、辞書以上の意味をミオンは蓄えている。本当に、ゲームをしていた以前の自分とはいったい何者だったのだろう。
「……あの、リンスベルさん」
「ん? どうしたの?」
何度か呼びかけて、ようやくリンスベルの青い目がこちらに向けられた。
「えーと……二番目と六番目の数字が違うと思います。たぶん、お茶を買った時の値段ですよね? 同じお茶なのに、単価が違ってます」
「ええっ?」
ミオンの指摘を受けて、リンスベルは帳簿を見直した。半信半疑だった顔が、徐々に驚愕へと変わる。
「すごいわ、ミオンちゃん。よくわかったわね」
単なる書き写しミスなので、そんなに褒められても困るのだが。
「たまたまです。あ、でもこことここは、足し算が違います」
ついでにいくつかの計算ミスも指摘すると、リンスベルの顔つきが変わっていた。
「すごいわ……ミオンちゃん、ほんとにすごい。ジュスロー先生がベタ褒めしていたのもわかるわ」
「先生を知ってるんですか?」
「あたしは知らなかったんだけど、一昨日買い物に行ったら、あちらから話しかけてきたの。お兄さん以上にできるって褒め尽くしてたわよ。ほんとだったのね、すごいわ」
さらに「すごい」を連発したリンスベルは、最後に深いため息を吐いて、ペンを放り出した。
「あたしもちゃんと勉強しておけば良かったわ。母さんは、ミオンちゃんみたいにすごい計算ができる人じゃなかったけど、ちゃんと店を切り盛りしていたし、それに比べて、あたしは母さんが寝込んだ途端に店を暇にしちゃうし。やっぱり慣れないことには手を出さない方がいいわよねぇ」
「リンスベルさんは、前は何をしていたんですか?」
「あたし? あ、ちょっと待って」
どうせ暇だからおしゃべりしましょうと、リンスベルはお茶まで入れてきた。暖かいカップを抱えながら、リンスベルは遠くを見つめる。
「あたしはね、家の中でやることくらいしかできなかったから、とある男爵家の女中になったのよ。仕事は悪くなかったけど、そのおうちがゴタゴタしててね。旦那様が奥様以外の女性も好きだった、っていったらわかるかしら?」
「ええと、はい」
不倫、浮気、も最近仕込んだ単語だ。が、あまり詳しいのも子供らしくないのでミオンは曖昧に首を振っておいた。心の声は、「そこの所を是非詳しく!」である。
「そのうち、奥様が出て行って、新しい……若い奥様が来たのね。身分のある男性だからそういうこともあるのかなって、そう思ってたんだけど」
「はあ」
「そのうちに、あたしも結婚することになってね。旦那様の紹介だったんだけど、男爵家に出入りしいてる商家の次男坊って人で、うん、悪い人じゃなかった。向こうも気に入ってくれたから、そのまま結婚したんだけどね。家は長男が継いでいるから、あの人はその下で働いていて、生活もまあまあだった」
「リンスベルさん、結婚してたんですね」
「うん、でも半年前に追い出された」
「え。」
いきなりの爆弾発言に、ミオンは動きを止めた。頭の中ではリンスベルの話から、状況を組み立てあげている。キーワードは、浮気、不倫、結婚だ。もうイヤな予感しかしない。
「最初はうまくいっていたと思うわ。子供もいたし、仲良くやってたはずなのに、気づいたらあの人、新しく店に入った若い子に熱を上げてて……挙げ句の果てに『君にはもう何の魅力も感じない』とか言われて。結婚して七年も経ってる妻と若い子を比べるなって言うのよ。でもそうなっちゃうと、もう何を言ってもダメだった。あの時わかったのよ。男は身分の有る無しで浮気するわけじゃないって」
そりゃそうでしょうとミオンは思ったが、もちろん口にはしなかった。ただひたすら、リンスベルの言葉に頷くだけだ。
「いいこと、ミオンちゃん。あなたはまだ若いし可愛いから問題ないと思うけど、でも万が一ってこともあるから、その才能をちゃんと鍛えておきなさいね。そうすれば、嫁ぎ先から追い出されたってひとりでやっていけるわ。あたしみたい帳簿に苦労することもないでしょうし、あ、帳簿つけるの、今度おねがいしてもいいかな?」
「あ、はい……えっ!?」
そこ任せちゃマズくない?――ミオンの心配をよそに、リンスベルは機嫌良く頷いている。
「助かるわー、ほんと。ミオンちゃんならきっと、つまんない男なんか要らないわって言えるくらいの大物になれるわよ、あたしが保証する」
「はあ……ありがとうございます」
なんだか、浮気されて離婚されることが決定されている。しかも経験者に保証されている。ここは甘くてラブラブが展開される、乙女ゲームの世界ではなかったのか。
(あれか、主人公じゃないからか)
狙った相手を射落として幸せに暮らすのも、美しい思い出にするのも、主人公故の特権だ。ただのモブには、街角に落ちている悲運も他人事ではない。そうだ、何か事件が起きるときに、最初に犠牲になるのは名も無い通行人の役目だ。
(これは……日和ってる場合じゃないかもしれない)
タカが爪を隠すのは獲物に知られないように、だ。街人Aにすぎないミオンは、爪を持っていてもタカにはなれない。どこまでいっても、獲物の方だ。よって隠している意味は無く、反撃できることを知らしめなければ、狩られておしまい。例のセリフを口にするまでは安心かもしれないが、その後の保証は一切無い。
「リンスベルさん……わたしも、がんばります!」
「そのいきよ!」
保護した子猫と幸せのモフモフ生活を送るために、今ここで、立ち上がらなければ。
「あ、ミオンちゃん、椅子の上に立たないでね、危ないから」
「……はい」
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