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王都から、遠く離れた辺境の村――キリサ村で一人の少女が鼻歌を歌いながら畑仕事から戻ってくる。途中から追いかけてきた子供と一緒に手を繋いで帰ると、村の様子が少し騒がしい。
『神託が降りたんだってさ』
村にある小さな神殿に行けば見られると聞いて、少女は神殿に向かった。
神殿の前は、村の人たちで一杯だった。人垣の隙間から覗くと、看板が立っている。
『あれが神託?』
『読めないよね』
『神様の言葉なんだって』
村人たちの囁きを聞きながら、少女は首を傾げる。みんな、あれが神様からのありがたい言葉だと言っているが、少女にはそうは見えなかった。
少女はいつも肌身離さず持っている笛を取り出した。口元にそっと当てて、息を吹き込む。
笛の音が響くと、ざわめきはぴたりと止んだ。少女の笛は村の中でも評判だったが、その日の音色は、いつもと何かが違った。荘厳さ、とでもいうのだろうか。息をするのも憚れるような圧倒的な存在を、誰もが確かに感じた。
少女が奏でていたのはわずかな時間だった。少女が笛を口元から放すと、神殿の扉が開いた。現れた白髪の老人は、村の神殿長だった。
『今の笛は、おまえが吹いたのか? 誰に習ったのだ?』
少女は自分が吹いた曲は誰にも習っていないこと、神託を見ていたら思い浮かんで吹かずに入らせなかったことを告げた。
『そうか……お前が……』
その曲が、自分の運命を大きく変えていくことを、少女はまだ知りもしなかった――
「……」
朝の光が眩しくて、ミオンは数回瞬きをして、目を擦った。
(今のは……)
物語の始まりってところね――過去の自分が懐かしげに呟く。『終焉を奏でる君と』の導入部分だ。主人公が神託を見て、導かれるように笛を吹いて、その結果、領主の援助を受けて学院に入学することになったという説明部分でもある。
学院に入るから署名しなさいって言われるのよね。そこで名前を変えることも出来たのよ――過去の記憶が更に呟く。だから、導入部分でアリーゼの名前は出てこないのだと。
(名前を変える?)
意味がよくわからない。もしかして庶民の子は学院に入るときに名前を変えるものだったのだろうか。ミオンは、ミオンのままだったし、兄もジェラールのままだったが。
過去の記憶はそれ以上の答えをくれなかったので、ミオンは起き上がった。今日もいい天気だ。
(アリーゼはもう、王都に来たのかな……)
神託の解読者が見つかったとアルファドは教えてくれた。が、それだけだった。
王宮からも神殿からも何の発表も無いし、当然、学院内でも新年から編入生がくるという話も出てこない。秘密教団の件も片付いていないので、本人に何かあったら大変だから隠しているというのがマギーの意見で、ミオンも概ね、賛成だ。
(神託って、本当はハベト族の神様からなんだよね……)
マルティド神殿側が黙りを決め込んでいるのも、その辺に理由があるのかもしれないと思っている。
(ハベト族の人にはどう伝わってるんだろ)
アビアナは、マルティド神とバイアム神が兄弟であることは一族に伝わっていると言っていた。しかし自分たちが信仰する神の助言を、兄弟神とは言え、別の神を信じる人間が解読するということを、どう受け止めているのかはわからない。シャグマのような狂信的な人物がいれば、大きな反発を生むかもしれない。もしかしたらその火種を消すのにアビアナも忙しいのかもしれない。
あれからアビアナとも話していない。依頼が取り消されたことで、庶民と話すことなどなくなったと言えばそのとおりだ。アルファドも忙しくて連絡が取れないので、様子を聞くこともない。
(元気にしているかな)
そんなアビアナの消息を尋ねる機会は、予想以上に早く訪れた。
「――こちらでお待ちです」
扉が開かれると、かぐわしいお茶の香りと、甘い菓子の匂いが流れ込んできた。お茶はともかく、中央のテーブルの上には山と積まれた菓子の皿が隙間も無いくらいに並べられている。
「いらっしゃい。さあ、遠慮無く座って」
再び、アビアナの別邸である。クッキーにマフィンにケーキにと、並ぶ菓子に強烈に誘惑されながら椅子に座ると、すぐにお茶が注がれて出てきた。本日招待されたのはミオン一人だった。エリューサスとアルファドは秘密教団の件で忙しいからというのが理由らしい。
「王都の店はよくわからなくて、いろいろ取り寄せてみたの」
前回、ミオンとジェラールが何も手を付けなかったのを気にしていると、部屋に入る前に案内人から耳打ちされていたので、ミオンはできるだけ楽しく振る舞おうと決めていた。が、そんな決意は不要だった。これだけの熱烈歓迎をされて、頬が緩まないわけがない。
ほとんど歓声しか上げずに、ミオンは勧められるままに菓子を頬張った。出来るだけマナーは心がけたつもりだが、マギーが及第点をくれるかどうかは神のみぞ知るである。
「ミオン、折り入ってお願いがあるのだけど」
最近の菓子事情や、ハベト族でも話題になっているというクロシェナの画集の話をしながら、和やかな時間を過ごしていた。会話と会話の隙間に生まれる空白、その前の会話が生んだ空気が薄まる寸前に滑り込むようにアビアナは言った。
「なんでしょうか」
エリューサスやアルファドと付き合うようになって、ミオンもこういった会話の転調に慣れてきた。アビアナから招待された瞬間から、予想していたと言ってもいい。頃合いとしては、お腹も満たされてきたし、そろそろかなと思っていた。
(そうでもなきゃ、庶民をわざわざ招いたりしないし)
呼びだして家臣に伝言しておしまいにしないだけ、誠意がある。アビアナの身分なら、そうされても私めを選んでくださって光栄の至りと言わせるだけの力があるのだから、破格の待遇だ。お菓子を差し引いて頼みを聞くのは何の問題も無い……やっぱり差し引くのはお茶の方でと、ミオンはこっそり選び直した。
ミオンの内なる取引には気づかず、アビアナは小さく手を振って室内から人を下がらせた。残っているのは、ミオンとアビアナだけだ。
(隣で聞いているだろうけど)
先日の小窓の件以来、貴族の屋敷においての人払いには疑心暗鬼のミオンだった。
「いまさらですけど、私が従兄弟殿宛てに書いたあの文書の内容は他言無用でお願いしたいの」
なんだそんなことかと、ほっとした。今度はどんな無理難題かと身構えていた自分が、恥ずかしい。シャグマの一件がミオンの上に流れてきたのは、偶然が重なった上にアルファドという危険因子が含まれていたせいだ。事件は解決して、アルファドが同席していない現状では余計な心配だった。
「文書だけじゃなくて、他のことも誰にも言うつもりはありません」
ジェラールも誰かに話すつもりは無いはずと思うというと、アビアナから感謝された。信用されていなかったのかと思うと、少しショックだった。
(そりゃあ、わたしもお兄ちゃんも家来じゃないからしょうがないけど……)
さっきまで美味しかったお茶もお菓子も、欲しくなくなった。お腹いっぱいだからかもしれないが。
「あなたたちを信用していないわけじゃないわ。本当よ。口の堅さは折り紙付きって、あのアルファド様も言うくらいだし」
その太鼓判の半分が嫌みで出来ているとは、アビアナにはわからなかったようだ。ミオンもわざわざ先日の会話を繰り返すつもりは無かったので、大人しく礼を言うだけに止める。
「信用してなければ、このお願いは出来ないのよ」
アビアナは正面の皿を横にずらすと、空いた空間に二枚の用紙を並べた。
「これを見てくれるかしら」
片方に書かれているのは、神託の文面だった。もう片方は、守人の言葉で書かれた文書だ。アビアナもそう説明した。
「これ、やっぱり似ているように見える?」
「並べてあると違うのはわかるんですけど、どこか似てるなって思います」
「そう……」
アビアナは一度言葉を切った。ミオンはその間手持ち無沙汰になったので、お茶を飲んで、ケーキを食べた。やっぱり美味しかった。
「聖獣が獣ではないとしたら、何だと思う?」
「え?」
ケーキの欠片を飲み下して、ミオンは頭を動かした。
「えーと、本当は存在しないとか?」
「存在はしているの。聖獣というのは……神託の解読者のことなのよ」
「え?」
アビアナはもう、他言無用の断りは入れなかった。
「『人など、言葉をしゃべる獣に過ぎない。われわれもまた、神の想いを伝える獣に過ぎない』。その言葉から、解読者たちは聖獣と呼ばれるようになったそうよ」
今語られているのは、王家の秘密だ。お菓子に心を奪われている場合ではない。ミオンはアビアナの言葉を聞き逃さないよう、両脇の皿を極力視界から外した。
「……解読者、たち?」
「昔は一部族が成り立つほどの数がいたそうなのよ。でも今は、散り散りになって。それもそうよね。神託なんて、何度も降りないのだし」
一生、神託を解読しないで人生を終える者が大半だ。世に必要されないと、一族は次第に数を減らし、散り散りになった。長い時間を経て言い伝えが曲がって伝わった結果が、獣の聖獣であり、その住処を守る守人たちとなった。
「あの、待ってください。えーと、えーとですね、そうするとそもそも神託の解読者って、探し出すものじゃなかったということですか?」
大勢の人中から選ばれるのではなく、生まれつき神々の言葉がわかる人種だったということか。そういう人がいたなら積極的に保護しておくべきではというミオンの意見に、アビアナはため息を吐いた。
「私も最近知ったのよ。従兄弟殿のご両親、つまり私からは伯母にあたるのだけど、従兄弟殿を探すために一緒に調べているうちにいろんな事がわかってきたの」
王家にすら正しく伝わっていなかったことを、アビアナは恥じているようだった。正しく伝わってさえいれば、今回のことは起きなかったと嘆くが、それはアビアナの責任では無いだろう。ミオンとしてはそのおかげでもう一つの王家のアビアナと知り合えたのだから、光栄の至りである。
「私もミオンに会えてよかったと思っているわ。この話がわかったのもあなたのおかげだから」
極上の笑顔を向けられた。同性でも見惚れる笑顔だ。
「わたし?」
「ええ、これらが似ていると言ったでしょう? 伯母も同じことを言っていたの。伯母は巫女の一族と伝えられていたけど、聖獣の一族の末裔だったわ。聖獣の一族は散り散りになって各地に散らばっていることもわかったの。ハベト族以外にも、聖獣の一族の血が流れている可能性があると言うことよ。ということは、これが似ていると思ったあなたも、一族の血を引いている可能性があるわ!」
もしかしたら自分も神託が読めたかもしれない。アリーゼのように、激動の運命を歩んだのかもしれない、とそこまで妄想して、ミオンは乾いた笑いを発した。
「そんなわけはないです。お兄ちゃんはぜんぜんわからないっていってましたし……わたしはこれ、楽譜には見えませんし」
アビアナは、あ、と小さく声を上げた。
「そのことなんだけど……解読の方法は一族でも様々だったそうなの」
「さまざま……?」
「解読者がそれぞれの方法で解読して、神から人に、人から神に伝えた、とあったわ。神託が楽譜というのは、単に音楽が得意な者が取る方法で、普通に文書として読む人もいたし、中には絵として受け取る人もいたそうよ」
(それってアリーゼの立場が無いんじゃ……)
シナリオ崩壊と、頭の片隅で誰かが呟いている。声の主を捕まえる前に、アビアナがパチンと音を立てて手を合わせた。
「そう……つまり、解読の方法には個人差があると言うことね。今となっては、解読できるかどうかも個人差になっているけれど。あなたが解読できないのに似ていると感じるのはそういうことよ」
何かがアビアナの中でぴたりと合わさったようだが、ミオンにはさっぱり伝わってこない。
(シナリオはともかく、とりあえず、アリーゼも聖獣の一族の血を引いていた、ってことでいいのかな……?)
新しい事実よね――過去の自分も驚いているのだから、ゲームには出てこなかった設定なのだろう。
「……なんだか世界中の人が聖獣の一族の血を引いているみたいですね」
「私も同じ考えよ。だとしても、読める人と読めない人がいることには変わりはないだけど」
言葉の後半部分を、アビアナは憂鬱そうに付け足す。
「話が逸れたわね。ミオン、こちらも見て。どう思う?」
アビアナは更にもう一枚、用紙を追加した。守人の言葉のように見えるが、違和感がある。
「守人の言葉、ですよね、でも違うかな……あっ」
用紙を見比べて違和感の理由がわかった。三枚目の用紙に書かれている文字はどれも、神託の文字と似ているように思えなかった。正直な感想を告げると、アビアナは納得したように頷く。
「やっぱり、見分けられるのね」
「見分けるというほどのものでもないですけど……」
三枚目だけなら分からないかもしれないと言ってみたが、アビアナは受け入れなかった。
「最初に見たときからおかしいと思っていたでしょ? その感覚があるだけでも違うわ」
「はあ……」
ミオンは、菓子の皿の間に並ぶ三枚の用紙を見下ろした。意味不明の記号が並ぶだけで、何も伝わってこない。ミオンに分かるのは、『これとこれは似ている』、『これとこれは似ていない』ということだけ。薄ぼんやりした感覚が何の役に立つのだろう。
「でも、こうやって並んでないと分からないですけど……」
それでいいと、アビアナは言った。
「その感覚すら私には無いのだから。あなたたちの能力の一部でも私にあれば、こんな事を頼まなくても済んだのだけど」
(あなたたち?)
他にも誰かいるのだろうか。首を傾げているうちに、アビアナは真摯な眼差しを向けてきた。
「前置きが長くなってしまったけど、ミオン、あなたに頼みたいことと言うのは、これと同じことをして欲しいの。王国中、いえ、とりあえず王都に刻まれたこれらの文字を見分けて欲しいのです」
「はい……?」
貴人からのお茶の招待は、いつでも難解な依頼事が茶菓子と共にやってくるとミオンは改めて認識した。
主人公の名前は変更可能です。
それでは、今回もお読みくださってありがとうございました!
※間違って前書きに入れていました。失礼しました。。。




