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「じゃあ、今日はリーヤの家の方ね」
リーヤも同じ学校に通う一つ年下の少年だ。本日のお散歩、もとい探検コースは学校からリーヤの家までの帰り道に決定すると、リーヤは黒い目を輝かせて意気込んだ。
「じゃ、いこうぜ!」
飛び跳ねそうなリーヤを先頭に、ミオンと、サティの他数人の子供達がぞろぞろと後に続いた。ミオンは早速地図を開く。リーヤも当然同じイドリ地区在住だが、ミオンの家とは方角が九〇度違うので、見知らぬ土地である。
「ミオン、ちゃんと地図見ててね」
「まかせて」
ミオンの町歩きは日に日に範囲が広がっていた。学校からの帰り道でも、一つ手前の角で曲がれば知らない景色が広がっていて、そこから見知った景色に戻るだけで大きな冒険をした気分になれる。最初はサティだけを誘ったのだが、次第に他の友達も参加してきて、今では『探検ごっこ』は大人気の遊びになっていた。
「とうちゃくー!」
「リーヤの家ってここなんだ」
「うちと近いね」
リーヤの家まで無事に到着したら、探検は終了だ。そこから万が一にも迷子になる子がいるといけないので、リーヤを除いた全員でもう一度学校まで戻ってから解散にすることにしてある。
そうやって、何度も同じ通りを歩くうちに土地勘もついてきた。学校の周囲なら、どの辺りにいるのかもわかる。
そろそろ広場の向こう側の通りまで足を伸ばしてみようか――サティも家の手伝いがあると帰ってしまったので、本日の探検は一人きりだ。誰の家も無い場所に行くのもいいなと、帰り支度をしながらコース設定していると、ジュスローに呼び止められた。
「ミオン、ちょっといいかい?」
「はい、先生」
「実は頼みがあるんだが、このあと何か用事はあるかな?」
「なんにもないです」
ミオンが首を振ると、ジュスローはそれなら、とある提案を持ちかけてきた。
「私はリベッタ通りの奥にある孤児院でも時々教えているんだけど、よければミオンも手伝ってくれないだろうか」
「わたしが?」
そう、とジュスローは頷いた。
「難しいことじゃないよ。今日習ったことを他の子に教えてくれればいいんだ。それに最近のミオンはとてもよく勉強しているから、そういう子供が側にいるだけで雰囲気が変わるんだよ」
「そ、そん、そんなことは、ない、です……」
褒められた経験が少ないことが一つ。
褒められた理由に後ろ暗いところかあるのが一つ。
ミオンがどもって逃げ腰になったのは、以上の理由からだ。
(やっぱり早く辞書を買ってもらうんだった……!)
計算は問題なかったが、読み書きだけは、ミオン自身の能力を上げないと意味が無かった。兄が置いていった本を片端から読んでみたのだが、辞書は置いて行ってくれなかったので、わからない単語を両親とジュスローに、代わりばんこに尋ねていた。今までやっていなかったことだから、数回やっただけでも目立ってしまったらしい。兄を習って勉強熱心になったと誤解しているジュスローは、ミオンを優しく宥めた。
「本当だよ。特に孤児院の子供達はいろんな事情で学校に来ることもできない子が多くてね。だから昔、ジェラールにも頼んだことがあるんだ」
「……おにいちゃんにも?」
意外な情報だった。が、言われてみれば、ミオンがまだ学校にも通っていなかった頃に、ジェラールが学校の先生のまねごとをしているような話があったような無かったような。いや、ジュスローがそう言っている以上、間違いなくあったのだろう。
「聞いたことなかったかな? なかなか手伝いを頼めるような子がいなくて困ってたんだが……ああ、むろん、急な話だから、時間のあるときに何回か来てもらって、それから決めてくれればいいよ。そのときには私から改めてご両親にお伺いに行くからね」
「はあ……」
手伝いに行くとなると、自由になる時間が減る。しかし孤児院というのも未知の場所だ。ちょっとだけ覗いてみて、面倒だったら止めますと言えばいい。ジュスローなら気にしないで承諾してくれるだろう。
そんな打算を抱えながら、ミオンはジュスローと一緒に孤児院に行くことにした。
リベッタ通りは、ミオンの家とは反対側の、少々うらぶれた通りだった。ジュスローの言ったとおり、通りの一番奥に孤児院はあった。門には『ルザリア院』と、質素な看板が掛かっている。
「ここはね、先代のヤーベイン伯爵の奥様が建ててくださった孤児院でね、今も伯爵家が後援してくださってるんだ。ルザリアというのがその奥様の名前なんだよ」
伯爵家の援助があるせいか、ルザリア院は建物こそ古いが、目の前にある門も、一歩中に入った先にある中庭も、手入れが行き届いている。中庭の半分は菜園で埋められていて、残りの半分は花畑のようだ。菜園の野菜は食用で、花は売り物だとジュスローは説明してくれた。
「花も野菜も子供達が育ててるんだよ。さ、入り口はこっちだよ」
中庭を真っ直ぐに突っ切って、これまた古めかしい扉を叩くと、程なくして老婦人が現れた。背筋はぴんと伸びているが、結い上げられた髪は真っ白だ。顔に皺は少ないので、思ったよりは若いのかもしれない。最初は扉を細くあけて顔を覗かせただけだったが、ジュスローを見て扉は全開になった。同時に、中から小さな子供達の声も響いてくる。
「まあ、ジュスロー先生、いらっしゃいませ。今日もありがとうございます」
「お邪魔いたします、院長。実は今日は小さなお手伝い候補を連れてきました」
和やかに挨拶を交わした二人は、同時にミオンを見下ろした。
「はじめまして、ミオン・ハルニーです」
挨拶をすると、老婦人は頬に手をやった。
「ハルニー、というと、もしかして以前に来てくれたあの子の妹さんかしら? 確か、ええと……」
「ええ、ジェラールの妹ですよ」
「そう、ジェラール!」
嬉しそうに手を叩いてから、老婦人はミオンの前にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさいね、年を取るとなかなか思い出せなくて。初めまして、私はこのルザリア院の院長をしているライナ・マーキンよ。お兄さんから貴女のことを聞いたことはあったけど、まさか来てくれるとは思わなかったわ」
マーキン院長の話しぶりから察するに、『家でも、できの悪い妹を教えているんです』なんて言っていたんだろう、あの兄は。そう言っても嫌みに聞こえないから、近所のおばちゃんたちには受けが良かった。
「最近のミオンはジェラール以上に熱心ですよ」
ジュスローの相づちが、ミオンの推測を裏付けた。グレていた子供が立派に更生したような話しぶりである。
「帰りたくなってきた……」
「ミオン? どうかしたかい?」
「あら、こんな所に立たせたままでごめんなさい。さあ、まずは中に」
慣れた様子で歩く院長とジュスローの後ろから、ミオンは連行される囚人の気分でついていった。自己紹介した瞬間、『できの悪い妹じゃないのか』と糾弾されるかもしれないと思うと胃が痛い。それもこれも全部、兄のせいだ。
サボりまくっていた過去の自分を棚上げしているうちに、運命の扉は開かれてしまった。
「みんな、静かに。ジュスロー先生がいらっしゃいましたよ」
部屋の戸を開けると同時に、院長は手を叩いた。一瞬だけ、室内が静まる。ジュスローの後ろから、ミオンは室内をのぞき見た。
大部屋に、子供ばかりが二十人ほどもいた。よちよち歩きの乳幼児から、ミオンより年上の子供まで。男女比は同じくらい。全員がマーキン院長を見て、それからジュスローを見た。
「先生、こんにちは」
話せる年齢の子供達は、一様にジュスローに向かって挨拶をした。それから、全員の視線がジュスローの背後に向けられる。
「先生、その子、だれ?」
「ミオンと言うんだ。今日は先生のお手伝いをしに来てくれたんだ」
「……よろしく」
誰からも返事は無い。マーキン院長が慌てたように付け加えた。
「みんな覚えてないかしら、ミオンは前に来てくれたジェラールの妹さんなのよ」
知らない子じゃ無いのよ、仲良くしてね、という院長の優しいもくろみは、ある意味、成功した。
「ジェラール?」
「しらない。だれ?」
「あたししってる! 前に来てくれたお兄さんだ」
「うん、俺も知ってる。妹がいるっていってた」
「言ってた。あと妹は……俺たちよりバカだって言ってたよ?」
最後の一人が放った巨大な爆弾にミオンは打ちのめされ、ジュスローとマーキン院長はその処理に大慌てすることになった。
***
結果から言うと、ミオンはジュスローの手伝いを続けることになった。
週に一回、学校が終わった後、夕刻の鐘が鳴るまでには家に送ってもらうという条件で、両親の承諾も取れた。
「まさか、ミオンまでジェラールと同じことをするとはねえ」
母にもしみじみとされた。ジュスローに直接聞かされても、まだ信じられないと言った顔である。
「悪いことじゃないんだし、本人もやる気があるならいいじゃないか」
ミオンに甘い父親は、何の疑いも無く、ご機嫌な様子だった。
「おにいちゃんもやってたし、だからいいかなって……」
しおらしく言ったミオンだったが、手伝いを引き受けたのは別の理由がある。
「――お、今日も来てくれたのか」
ルザリア院に通うようになって数ヶ月。年下の子供達に読み書きを教えていると、陽気な声がした。
子供達が一斉に駆け寄っていく。主に、男の子達だ。
「こんにちは、ラダートさん」
やってきたのは、ルザリア院で育ったという兵士のラダートだ。外見は、一言で言えばマッチョ。力こぶを作るポーズが似合いそうな青年兵士である。若いながらも小隊長の地位にあり、都市防衛の任に就いている。街の警備兵、武装したお巡りさんである。
リパリアは大きな街故にラダートの仕事も決して暇では無いはずだが、こうして時間を見つけては院に戻って子供達に基礎訓練のまねごとのようなことをしている。兵士にならなくても、体力さえあれば様々な仕事に雇ってもらいやすいからだそうだ。
「おいおい、みんな戻れ。いつも言ってるだろ。先生がいるときは、授業が終わった後だぞ」
群がる子供達を一人ずつ剥がして、ラダートは口だけは怒ってみせる。ジュスローがその様子に苦笑するのも、もはやお約束だ。
「それじゃあみんな、今やってる問題ができた子から順に終わりにしていいぞ」
「ミオン、これ教えて早く!」
「俺も!」
訓練に加わりたい子供達、特に男の子が一斉に目の色を変えてミオンに群がる。ミオンは順番に教えて、もう誰もいないことを確認してから立ち上がった。
「先生、わたしもいってきます」
「ケガしないようにな」
ラダートが行う基礎訓練のまねごとに、ミオンも加わらせてもらえることになっていた。武器を使うのはもっと年齢が上がってからと言われているので、柔軟運動と簡単な体術のみだ。素人の子供ばかりなので、どうみても、とっくみあいのじゃれ合いにしかならないが。
それでも、繰り返すことで人の動きというのは変わる。倒されてばかりの子が、時々見事な返し技を見せるようになる。
ラダートに向かって突進して、彼の手をぎりぎりで避ける運動も楽しかった。掴まればその場に転がされて、そこからまた掴まらないように急いで立ち上がるのも面白い。無理に戦う必要に無いミオンには、うってつけの訓練だった。
個人練習する方法も、教えてもらった。柔軟運動は毎日欠かさず行っている。
いずれは剣も教えてもらえるかもしれない――そんな期待をしつつ、ミオンは今日もジュスローと共にルザリア院の扉を叩いた。
「二人ともいらっしゃい」
迎え出てくれたマーキン院長は、いつもと様子が違っていた。いつもより、少しだけおめかししているように見える。羽織っているストールもレースのついた、よそ行き用だ。
「ごめんなさい、今日は急に伯爵家の方がいらっしゃると連絡があって」
「そうでしたか。では、今日はこのまま失礼します」
「いえ、できればいつもどおり教えていただけません? 普段の様子を見たいとのことでしたから」
「ということだが、ミオン、いいかな?」
「わかりました」
帰りますと言っても引き留められそうな雰囲気だったので、ミオンは頷いた。貴族というのを間近で見てみたいという好奇心もある。
「では、中へ。間もなくいらっしゃると思いますわ」
程なくして、伯爵家の馬車が大通りに止まった。
ブックマーク、ありがとうございます!
早く子猫を助けに行きたいのですが、もう少し準備編におつきあいください…。