18
「こちらでお待ちください」
エリューサスから呼ばれたのは、今朝方のことだった。授業を終えて、別邸を訪れたクロシェナは通された部屋のソファで、ぼんやりとしていた。視界に入ってくるのは、全て自分が描いた絵。懐かしいと思う以外、何の感傷も沸いてこない。肖像画の一件以来、筆を持つことはなくなった。描くなと言われたわけでは無い。父であるオリエン侯爵も気にせず描きなさいと勧めてくれる。エリューサスとテルスターは、人目が気になるならと、こうしてそれぞれの別邸に専用のアトリエまで作ってくれた。
それでも、筆を取る気になれなかった。
「――待たせた」
何の前触れも無く扉が開いて、エリューサスが現れた。クロシェナは立ち上がり、お辞儀をする。それから、眉を顰めた。
エリューサスに続いて、アルファドが入ってきた。ここまでは良い。さらにその後から入ってきたのは本を抱えた初級科の女生徒が二人。どちらも見たことのある顔で、できれば二度と見たくない顔だった。名前は確か、マギー・ナトワーズにミオン・ハルニーといったか。
「そっちの二人を紹介する必要は無いな?」
向かいの席に腰を下ろしたエリューサスに問われて、クロシェナはややこわばった顔で頷いた。
「そう怖い顔をするな。元はと言えばそちらから、仕掛けたことなんだろう?」
「私は、別に何も……」
「いい。他がどう思っていようが、君がこの二人を毛嫌いしてても問題ない」
「ちょっと、エル……」
アルファドにつつかれて、エリューサスは振り返った。
「……」
ミオンが情けない顔をしていた。問題ありますと、全身の気配がそう言っている。
エリューサスは顔を戻した。視線が、明後日の方向をさまよっている。
「……まあ、なんだ、これから話を聞いてもらうんだが……もう少し歩み寄ってやってくれ」
「殿下のおっしゃるとおりに」
クロシェナは固い声のまま頷き、勧められたのでもう一度ソファに腰を下ろした。そういえば、用件が何だったのかは聞いていなかった。
「では、クロシェナ嬢、こちらを見てもらえるかな」
アルファドはミオンとマギーから本を受け取ると、テーブルの上に置いた。大判の本が四冊、テーブルを埋め尽くした。布張りの立派な表紙には四冊とも「風景」と書かれているだけで内容が全くわからない。不可解に思いながらもクロシェナは一冊を手に取り、表紙を開いた。
「これは――!」
本を開けば、色鮮やかな風景画が現れた。一ページに一枚。全部で十ページほどの画集に納められているのは、全てクロシェナ自身が描いた絵だった。
クロシェナは次の本に手を伸ばした。次も、その次も、全部クロシェナ自身が描いた絵で埋め尽くされていた。
「これは全部、クロシェナ嬢の画集だよ。昨日できあがったばかりなんだ」
綺麗に出来ただろうと自慢げな声に、クロシェナは顔を上げた。アルファドが微笑んでいる。
「びっくりした? 実は僕らも驚いているんだ。出来映えもそうなんだけど、君の絵を画集にしようと提案してきたのは、ここにいるミオンなんだ」
クロシェナはミオンを見た。どうしても視線が険しくなってしまう。ぼけっと立っていたミオンは、瞬間、緊張に身を固くした。
(何か言った方がいいのかな……)
話せと言われるまで黙っていろと言われていたので、ミオンはエリューサスに視線をやった。
エリューサスは相変わらずの無表情で、しかしクロシェナを真っ直ぐに見て、言った。
「これなら、王宮にも置ける」
「え」
うっかり、声に出してしまった。慌てて口元を押さえてクロシェナは俯いた。
「王宮に飾ることが出来るのは、王室専用絵師の絵画のみ。でも、この規則の出所を遡ってみると、芸術性とは何の関係も無いんだ。昔々、とある王族に呪いの掛かった絵が届けられたっていうことに発しているんだ」
つまるところ、誰が描いたのかがわからない絵は飾らない。それだけのことだったとアルファドは嗤った。
「クロシェナ嬢が描いたとわかっている絵なら問題は無いんだ。ただまあ、一応規則がある以上、『絵』は飾れない」
「いずれ、撤廃する」
静かに、気迫のこもった声でエリューサスが言った。アルファドが宥めるように手を振る。
「王宮に関しては僕はまだ手が出せないんだから、穏便によろしく。さて、クロシェナ嬢、王妃殿下を始めとする王家の方々は、今でもクロシェナ嬢の絵をとても気に入っている。しかしおかしな規則があるから『絵』は飾れない。けれどもこの画集なら、飾れるんだ」
アルファドは本を一冊手にすると、丁寧に開いた。
「こうして、開いて立てて飾っておいても、これはあくまでも『本』だからね。それに、こうして本にしておいた方が、オリエン侯爵夫人も見やすいんじゃないかな?」
「ここにある絵で、試しに作った本はこの四冊だけだったが、王宮では好評だった。こんな簡単なことで君の絵を手元に置けるのなら、もっと作れとの要望も出ている」
エリューサスの表情は変わらないが、声には熱がこもっている。クロシェナはまだ俯いたままだ。
「君次第だよ、クロシェナ嬢」
クロシェナは顔を上げた。アルファドがにっこり笑って、ミオンとマギーに手を振った。
「この先は、まかせるよ」
「承知いたしました」
マギーが深々とお辞儀をした。ミオンも、見よう見まねでお辞儀をする。
「ということで、クロシェナ様、今回の画集の発刊につきましては、父よりナトワーズ商会が全面的に後援するという伝言を預かって参りました」
「ナトワーズ商会が……?」
「はい。今回のこの画集は見本版ということで一冊ずつでしたが、今後は冊数を増やして販売いたします。ただし、大量販売はいたしません。少数部数を限られた方に販売いたします」
選ばれた方にだけ、と囁いた方が売れるのよ――実はこれは過去のミオンの記憶の入れ知恵である。だが、これだけの本ならかなり値段も張るので、そんな囁きは必要なかったかもしれない。
「その他の提案に関しましては、ここにいる創案者であるミオンの話をお聞きください」
マギーに背中を叩かれて、ミオンはよろけながら一歩前に出た。クロシェナの視線が突き刺さる。ミオンは深呼吸して、口を開いた。
「えーと……提案というか……わたしはお城の規則もよく知らなかったし、本の作り方も知らなかったので、殿下とかアルファド様とか、マギーのお父さんにいろいろお願いしただけで、偉そうなことは全然言えないんですけど、クロシェナ様は好きな絵を描いてくれれば……くださればいいです。この本みたいに、侯爵様のお庭の絵だけの本にするとか、お城の景色だけにするとか、そういうのはギルドの人たちがやってくれるそうです」
「ギルド?」
クロシェナが首を傾げると、アルファドが説明した。
「今回、学術図録とも小説とも異なるので新しくギルドの創設もしたんだ。その辺も商会に任せてある」
「編纂から装丁まで、腕のある職人も用意しました。出来映えは、ご満足いただけたかと自負しております」
「そう、ね。とても素晴らしいわ」
クロシェナは本をそっと撫でた。真新しいページの上を細い指が通り過ぎていく。
「ということで、どうかな? この提案、クロシェナ嬢はどう思う? 乗ってみたくはないかい?」
「……」
クロシェナの指はまだ迷っていた。
エリューサスが言った。
「そもそも肖像画の一件は、絵師達のつまらない嫌がらせだ」
ぴくりと、クロシェナの肩が震えた。そうそうと、アルファドが相づちを打つ。
「クロシェナ嬢が真剣に悩んでいるのは知っているけど、あの一件はオリエン侯爵家にもオリエン侯爵自身にも、何の傷にもならないよ」
マギーも身を乗り出した。
「先日はあのような失礼なことを申し上げまして、本当に申し訳ありませんでした。あれから私も父に頼んで調べてもらいましたが、低俗な噂に興じているのは噂に準じた身分の方ばかりということで、クロシェナ様がお付き合いされるような方ではありませんでした」
クロシェナは顔を上げていた。信じられないといった顔を、順番に向けている。
「ね、クロシェナ嬢の絵を王妃様がお気に召した、それに絵師達が嫉妬した結果だってことは、わかる人にはわかってるんだ。ということで、クロシェナ嬢が筆を折ることは、まんまと絵師達の思うつぼにはまってしまうことになるんだけど、どうかな?」
アルファドの言葉が進むにつれて、クロシェナの目が大きく見張られていく。白く小さな顔が、徐々に朱に染まっていくのは、見え見えの罠にはまった自分への羞恥なのか怒りなのかはわからない。
ただ、ミオンはその様子を見て、ほっとした。もう、死にそうな顔をすることは無さそうだと確信できた。
やがて大きく深呼吸したクロシェナは、はっきりと言った。
「……そう……そういうことなら、私は描かないといけませんわね……」
「そう言ってくれないと準備したこちらも困る」
憮然と、エリューサス。少しだけ、満足そうな笑みが口の端に浮かんでいた。
「王宮のことはともかく、クロシェナ嬢が絵を描いてくれなければギルド創設の意味も無くなってしまうし」
「大々的に売り出すつもりなのですから、商会としても困ります」
さりげなく商売人になるマギーまで加わって、クロシェナはとうとうあきれ顔になった。
「勝手に人の絵を売り物にする気でしたの?」
「これは君を説得する材料だよ。まあ、これはこれで良いできだから、出すところに出したら良い値が付きそうだけど……」
「アルファド様、そういうお話はもっとこっそりお願いします」
語尾がどんどんと不穏になっていくアルファドを、マギーが諫めた。じっとりとしたクロシェナの視線が、ヤーベイン伯爵家の野望をにらみ据えている。アルファドが、はっと我に返って笑みを貼り付けた。
「と、ともかくクロシェナ嬢は今まで通り、好きなものを描いてくれればいいんだ。たまにはギルドの要望も受けてくれると嬉しいかな」
「要望というと、例えば、どのようなものでしょう?」
クロシェナの視線はまだ厳しいままだ。アルファドはこわばった笑みのまま、ミオンを振り返った。
「どういうものがあったかな、ミオン」
「えええ……」
ここでこっちに振るのかと、ミオンはげっそりとした。これでは自分がアルファドに儲け話を囁いているかのように見えてしまうではないか。そっとクロシェナの様子を窺うと、視線の鋭さは変わらないが、険が取れているので少しだけ安心した。
「えーとですね、風景画を描いたときの思い出を一言書き添えてもらうとか、あと、有名な詩の景色を描いてみるとか、あとはえーと……」
本を作っている間はいろいろとアイデアが浮かんでいたのに、いざ説明しろと言われるとすっかりどこかに飛んでいってしまっている。ちゃんとメモしておけば良かったと後悔しながら、ミオンは室内を見回した。
「あ、あそこにある壺の絵みたいに、侯爵様のおうちにある宝物とか、描いてみるのはどうでしょうか。描いておけば、何かで壊れてしまっても見本があるし、盗まれてしまうとか、そういう悲しいことが起きたとき、うちのものですって言えます!」
自分ではなかなかの名案だと思ったのだが、室内には重苦しい沈黙が落ちてきた。何がいけなかったのだろう。
重い重い沈黙を打ち破ったのは、クロシェナだった。
「……あなたね、それは逆に盗みに来てくれといっているようなものではありませんの?」
うちにはこんな素敵な宝物がありますよと、カタログを見せているのと変わらない。
ミオンは引きつりながらも弁明した。
「えっと、絵に描かなくても、侯爵様のお家ならすごいものがあるのは当然だと思います。でも、絵に描いて、それを本にして、例えば図書館とかに置いたら、立派な宝物図録になります。たくさんの人が見るようになったら、盗まれてもすぐに侯爵様の家の宝物だってわかっちゃうと思います」
だから盗まれにくくなるんだと必死に言いつのるミオンに、クロシェナは、はいはいと適当に頷いた。
「それでは、私の他にも図録を作る者が大勢必要ですわね」
「そう。王室専用絵師になるためのコネを持たない、才能のある絵師が大勢必要だ」
エリューサスが言った。どこか、遠くを見つめているようだった。
アルファドが言う。
「それを最初にやるのが、クロシェナ嬢、君だよ」
「大役ですわね」
クロシェナが笑った。花が咲くよう、というのはこういうことなんだと、ミオンは実感した。
なんとかPCも復帰しました……本当に良かった……。
とにもかくにも更新できてほっとしました。
次からは本当に子猫捜索編に入ります……入るはずです……入りたいなあ……。
今回も、読んでくださってありがとうございました!




