#7
結局、今夜一晩だけルティアの家に泊まることにしたアレスとレイチェルは、店の裏手にある居住スペースに案内された。
特に大きな家というわけではないものの、一人で暮らすには明らかに広すぎる。ルティアには少なくとも父と兄がいたはずであり、仮に母もいたのだとしたら元々は四人で暮らしていたことになる。
二人分のベッドが備え付けられた部屋に通され、荷物を置いて着替えたり財布の中身を数えたりレイチェルの足をマッサージしたりしている間に、どこからともなく美味しそうな匂いが漂ってきた。
間もなく食卓に呼ばれた二人は、テーブルの上にずらりと並んだ料理に目を丸くする。特別なおもてなしはできない、などと言っていた割には、盛り付けの細かい所にもこだわったりと、誰がどう見ても気合が入りまくっていることが見え見えだった。
何よりも圧倒されるのはその量である。アレスのかつての用心棒仲間達が三人集まったのであれば、思いきり食べて満腹になるのにちょうどいい量だろうが、さすがにこの面子で食べる量としては明らかに度を越していると言わざるを得ない。
「だ……誰がこんなに食べますの?」
多少ひきつった笑みで訊ねるレイチェルに、ルティアは恥ずかしそうに答える。
「その、せっかくだからってありったけの食材を使ったらこうなってしまいました……で、でもちゃんと私も責任持って食べますよ!」
そして席に着いた三人はそれぞれに武天使への祈りを捧げ、テーブルの食事に手を付ける。
野菜と豆をじっくり煮込んでよく味の染みたスープ、白身魚と香草のチーズ焼き、赤身魚の燻製と新鮮な野菜のサラダなど、それほど値の張る食材を使っているわけではないが、どこか安心するような味付けのおかげもあって、これまでの逃避行で疲れた体と心が癒されるようにアレスは感じた。
「しかしこのメニューって……」
頭に浮かんだ疑問を口にしようとしたところで、レイチェルが横から割って入ってくる。
「まあ、田舎の平民が食べるような食事としては、これ以上は望めないレベルなのでしょうね。ブルワージュ学園の食事に慣れてしまったわたくしには、それほどの驚きはありませんでしたけれど」
「おい、いくらなんでも――」
失礼だろう、と言おうとしつつルティアの様子を伺うと、彼女は何故か目を輝かせていた。
「ブルワージュ学園? もしかしてあの王都の名門校として有名な!?」
「ええ、わたくしブルワージュ学園三年一組の特待生ですの。今は訳あって休学中の身ですが、早いところ情勢が落ち着いてくれないと戻るに戻れませんわ」
「まさか、こんなところにあのブルワージュ学園の生徒さんに会えるなんて、うわぁどうしよう」
ブルワージュ学園といえば、王都でロイエル学園と双璧をなすと言われる、王国中に名の知れた名門校である。貴族の子弟に英才教育を施すのが目的のロイエル学園に対して、ブルワージュ学園は身分的な門戸が広い代わりに非常に高い能力が要求され、教育内容のレベルも学費もそこらの学校とは桁が違うと言われている。
アレスが王国聖剣士となった今でこそ学費の支払いが滞る心配は無くなったものの、用心棒で食いつないでいた頃はこの支払いが非常に大きな負担になっていた――もちろんそんな素振りをレイチェルに見られるようなミスは犯していないはずではあるが。しかしそれも彼女が特待生として国から学費の九割を補助されているからできた芸当であって、仮に用心棒時代にレイチェルが特待生の座から転落するようなことがあれば、即座に学費滞納で放校処分になっていたのは間違いないだろう。
そんなことを懐かしく思い返しながら、アレスは黙々と食事を続ける。
懐かしいといえばこのメニューもだ。戦いを生業とする者にとって、身体づくりというのは何よりも大切なことだった。そのためには何よりもまず肉を食べるべし、というのは彼らの鉄則で実際に彼自身もそうしていたが、この国で日常的に肉を食べるというのは、控えめに言ってもかなり金のかかる贅沢な行為である。
危険で難易度の高い任務ほど報酬も跳ね上がるこの稼業、一線級になればその程度を稼ぐことは造作もないことである。しかしながら、腕前も信用も足りない駆け出しにとっては、十分な量の肉を毎日食べるなど夢のまた夢である。そんな彼らは肉の代わりに、魚や豆や乳製品などを腹いっぱいに詰め込むように食べ、一日も早く身体を作り上げようと励むのだ。
今、アレスの目の前に並ぶこのメニューは、あたかもそれを理想化して具現化したような品々である。本来の駆け出し向けメニューは味付けも盛り付けも何もかもが雑で、とにかく安くて量が多いことだけを至上としているものだが、あの品々も徹底的に洗練させればこの域にまで達するのか、と感動せざるを得ない。
もしかして、戦士である自分に気を使ってこのようなメニューにしてくれたのだろうか、と一瞬考えたが、事前に何の準備も無くあれほどの短時間で作れるような代物ではない上に、そもそも自分が来る予定をルティアが知っていたはずも無い。つまりこれは――
「ええっ、あなた十四歳ですの? でもわたくしの方が背は高いようですわね」
「うーん、確かにあと一年もすれば今の私より高くなっていそうだけど、少なくとも今は私の方が高いと思うよ」
いつの間にか身長談義になっていた二人の皿にふと目を移すと、レイチェルの皿にはまだ半分近い量が残されている。しかし元の量を考えると、普通の店で出てくる一人前をゆうに超える量を食べているはずで、アレスが知る限りレイチェルがこれほど食べたのは初めてではないだろうか。一方のルティアは既にほとんど食べ終わっているように見えるが、アレスは目の錯覚だと思うことにした。
「ふう、さすがにもう食べられませんわ……それにしても、こうお腹がぽっこりと出た状態でお風呂に入るのは気が引けますわね」
「お風呂? ……あっ、そういえば王都では一家に一つお風呂があるんだっけ。その……実は、村にはお風呂って一つも無いの。街のお風呂屋さんには何度か行ったことあるけど……」
無論、王都で一家に一つ風呂があるというのはある程度大げさな表現ではあるが、少なくとも二人が育った孤児院には皆でぎゅうぎゅう詰めで入るような風呂があったし、王国聖剣士になってから与えられた王都屋敷にはそれなりの風呂がついている。レイチェルが先日まで暮らしていたブルワージュ学園の寮にも立派な浴場があり、生徒同士の社交場のようになっていると言われている。
「そんなっ、あなたはお風呂に入っていないと言うの!? そ、その割にはあまり汚れているようには見えないというか……すんすん、あまり臭ったりもしないようですわね……?」
いつの間にか立ち上がっていたレイチェルが、ルティアに顔を寄せて匂いを嗅ぎつつ、鋭い視線を向けている。
「私はほら、炉の前で汗びっしょりになった時とか、裏手の川で水浴びしたりしてるから……身体の芯まで熱くなった状態で一気に飛び込むと気持ちいいんだよ」
「こ、この季節に外で水浴び!? 正気ですの!?」
「ちょうど今の季節くらいからかな、水浴びできるのは。真冬だと氷が張っていて、下手に飛び込むと氷の縁で肌とか切れちゃって危ないんだ」
「切れ……そういう問題なのかしら? じゃあ、真冬はどうしていますの?」
「桶に水を汲んで、それでじゃぶじゃぶ洗うだけ……かな。身体があったまってない時に水だと寒いから、お湯を使ったりする日もあるけどね」
絶句するレイチェルに代わりアレスが口を開く。
「では、できればそのお湯の入った桶を二人分用意してもらえないか?」
「わかりました。すみません、こんな不便な村で……」
「いや、まあ単にこいつが風呂依存症なだけだから気にしなくていい」
実際、用心棒時代のアレスなどは、任務によっては何日も風呂どころか身体を洗うことすらできない、などということはザラにあった。仲間同士で互いの臭さを笑い合い、任務が終わってからもしばらく皮膚炎に悩まされたりもしたものだ。
「そういえば気になってたんだが、今打っている剣というのはどういう剣なんだ?」
「以前より作りかけの剣を明日完成させる、ということは、一本に対して少なくとも二日以上はかけているということですわよね。わたくしたちの他にも、わざわざここまで来て一本単位で発注するような客がいるということかしら?」
「さすがに外のお客様で、そこまで私の腕を買って頂けている方はいらっしゃいません」
ルティアは苦笑しつつ答える。
「これは村からの依頼なんです。一本だけではなく、手が空いた時にできるだけ多く作ってほしいとも言われています。これまで商会の依頼にかかりきりで手を付けられなかったのですが、ようやく一本仕上がりそうなんです」
「村の依頼? 確かにこれだけ厳重に守りを固めるなら、当然武器も必要になってくるな」
「そうなんです。特に、以前の襲撃で八闘神の剣が六本も折られてしまったのが痛いんです。なので村長さんには『とにかく何でもいいから霊剣をたくさん作ってほしい』と頼まれてるんです。一本作るごとに数年分の税を肩代わりしてくれるというので、とりあえず一本でも作ってしまえば私の生活もかなり楽になります」
「その『八闘神』というのは一体――って霊剣!?」
アレスは思わず腰を浮かしかける。
聖剣が天使の宿る剣、そして魔剣が悪魔の宿る剣であるのに対して、霊剣はそのどちらでもないものが宿る剣、とされている。主に精霊に類する存在が宿っていることが多いため「霊」剣と呼ばれているのだが、中には地域で信仰される土着神のようなものが宿っている例もあるという。
霊剣の力は物によってまちまちではあるが、全般的に聖剣ほど圧倒的な力は有していないものの、代わりに聖剣ほど持ち手を選ばず、準一流以上の剣技の使い手であれば、精霊との相性次第で所有者として認められる可能性は高いと言われる。
「もしかして八闘神というのは……」
「ええと、言ってしまえばいわゆる村の自警団なんですけれど、昔誰かが格好つけてそう名乗りだしたのが定着してしまったんです。本来ならば定員は八名で、元々は王国捧武会を真似た試合みたいなことをやって選んでいたらしいですが、それで大怪我する事故が続出していたこともあって……父がこの村に来てからは、霊剣の持ち主として認められた者が八闘神の座に就くようになったんです」
「いや霊剣担いだ村の自警団ってあんた……」
聖剣が戦略兵器扱いされるのに対し、霊剣はせいぜい戦術兵器扱いである――とはいえ、一介の農村が複数の霊剣士を配備するというのは、常識的に考えれば過剰防衛を通り越し、真っ先に反逆を疑われるレベルの話である。
「……実は一年前まで、この村から日帰りで行って帰って来られるくらいの範囲に四つほど村があったんです。皆、ことごとく連中の襲撃を受けて……八闘神をはじめとする大きな戦力があったこの村だけが、何とか皆殺しに遭わずに済んだんです」
そう語るルティアの声は沈んでいたが、よく見るとその瞳の奥にはある一つの意志が宿っていた。その正体について知ることが怖くなり、思わずアレスは目を逸らしてしまう。
「そういえば、山賊による大規模な襲撃を受けたと言っていたな」
「はい。元々この一帯は地理的に山賊にとって仕事のしやすい場所らしくて、昔から略奪は日常的に行われていたそうなんですが……彼らのバックに深淵党という組織が付いたことによって、その戦力も残虐性も桁違いに上がっているんです」
「深淵党だと……!?」
アレスは思わずレイチェルと顔を見合わせるが、ルティアは気づかずに続ける。
「深淵党というのは一種の政治結社、あるいは犯罪組織のようなもので、なんでも悪魔の血を引く連中が寄り集まっている組織なんだそうです。なかなか表舞台に出てこないので、それ以上のことはよくわからないんですが……でも、深淵党の魔剣士が山賊たちの先頭に立って、そのせいでたくさんの人が殺されたことだけは事実なんです」
ルティアが肩を震わせると同時に、ぱきっ、と乾いた音が響き渡る。音の源に目を向けると、ルティアが握りしめていた木のスプーンが真っ二つに折れていた。
「あっ……すみません、この話になるとつい我を忘れてしまって。ええと、身体を洗うお湯の桶を用意すればいいんですよね。しばらくゆっくりしていて下さい」
そう言い残すと、ルティアは折れたスプーンもそのままにそそくさと部屋を出て行ってしまった。その後ろ姿を見送りながら、アレスは呟く。
「まさかこんな場所にまで奴らの勢力が広がっていたとは……」
「確かに、お兄様の聖剣を折ったあの魔剣士のような者が山賊に混じっていれば、普通の村人がどんなに頑張ったところでまともに抵抗できるとは思えませんわ」
「本名を名乗ってしまったのは失敗だったかもしれないな」
「以前のように偽名を名乗ってボロを出し続けるのとどちらがマシかと言われると、微妙なところですわね」
アレスもレイチェルもこの国では実にありふれた名前である――特にアレスに関しては訳あって通り名として名乗られることも非常に多い――ため、逃避行をはじめたばかりの一時期を除いて本名を名乗り通していたのだが、さすがにこの村のように人の少ないところで、しかも彼らを追う複数の組織のうちの一つと思われる深淵党の勢力範囲内であることを考えると、いささか以上に不安が残る。