#23
そうして十分ほどが経過しただろうか。霊剣の時と同じように、何一つとして動きが無い中、ルティアの横顔に焦りの表情が隠せなくなってきている様子が伺える。
だが、そのまま諦めることなく儀式を続け、更に五分ほどが経過したところで――
それまで青く澄み渡っていたはずの空が、いつの間にか暗く分厚い雲に覆われていることにアレスは気づいた。そしてそれからいくらも経たないうちに、突如として耳をつんざくほどの轟音と、目が潰れるかと思うほどの強烈な雷光が、目の前の祭壇を中心に放たれた。
思わずひっくり返りそうになりつつ何とか踏みとどまったアレスが、はっとして祭壇の目の前に立っているルティアに視線を向けると、少なくとも無事ではあるようだが、何やら驚愕の表情を浮かべたまま尻餅をついていた。
一体何が起きたのかと再び祭壇に目を向けた瞬間、アレスの背筋を、悪寒を何十倍にも増したような凄まじい感覚が走り、今度こそへたり込み――というより跪き頭を垂れていた。事情を把握するため何とか顔を上げ、その場にいるであろう超絶的な存在に視線を向けようとするが、たったそれだけのことで心が畏れに震え上がる。
そして「それ」は語った――
『何やら妙な邪気が渦巻いているようだが――娘よ、何用にてこのような場所に我を呼び出した』
空気を震わせて発する音声としてではなく、こちらの魂を直接震わせるような形で、目の前の存在の意志が流れ込んでくる。しかもこれはアレスに向けられているのではなく、この存在を呼び出したルティアに向けて発せられたものの余波を受けているだけらしい。直接受け取っているルティアにしてみれば、一語一語を受け取るたびに魂が押し潰されそうな感覚を味わっていたとしても不思議ではない。
ようやくアレスは視線を上げ、現在目の前で起きている状況を把握することができた。
剣が置かれた祭壇のやや上空に、とてつもない光を湛えた存在が浮かび上がっている。姿形は人間の女性に似ているが、その身には見たことのないような形の布を纏い、その背には半透明上に輝く翼状の立体が展開され、その頭上には何やら複雑な立体の組み合わせで構成された輪形の存在が映し出されている。
一方、その存在が見下ろす先には尻餅をついたルティアの姿があったが、気丈にも何とか体勢を立て直し、投げかけられた問いに答えようとしていた。
「ええと、私は剣工のルティアと申します。この度はこの剣を媒介とし、力をお貸し頂くべく、ええと、け、契約を申し込みたい所存でありますっ!」
何とか最後まで言い切ったものの、ルティアの表情には全く余裕が無い。初めての聖剣の儀式で緊張している、というのも無くはないだろうが、それにしては儀式を始めたばかりの時とまるで様子が違う。
ともあれ、その存在――少なくとも何らかの「天使」と呼ばれる存在であることは間違いないだろうが――は、ルティアが指示した剣に面白くもなさそうな表情を向け、それを目にした瞬間ほんのわずかに興味深そうな顔を見せたが、次第にそれは苛立ちの表情に変わって行った。
一体何が起きているのかと、アレスは再び目の前の天使を観察する。そしてここでようやく、アレスは本来なら最初に見た瞬間に気付くべきことを思い出した。
王国聖剣士となる際に叩き込まれた、神学の基礎中の基礎。天使が降臨した際、その「格」を人間が見分けるための確実な方法は、その頭上に浮かぶ輪の形を見ることである。形自体は千差万別で二つとして同じものは存在しないのだが、その構成要素には一定の法則があるのだ。
最下級の壱次元天使であれば、それは輝く点を並べて構成したものである。一つ上の弐次元天使であれば、輝く線を組み合わせて構成されている。そして現世に降臨し得る中では最上級に位置する参次元天使の場合、それは輝く立体を組み合わせた構成となっているのだ。
参次元天使が実際に現世に降臨したことなど、王国の歴史でも数えるほどしか記録されておらず、逆に言えばただ降臨したというだけで記録に値する出来事として扱われるほどである。そして、そんな存在の宿った聖剣などほとんど知られておらず、王室もわずか一本だけ保有していると噂されているが、真偽のほどは定かではない。
しかも、この天使が身に着けている衣に刻まれた紋様などを見るに、まず間違いなく秩序と規律を重んじる「武天使」に連なる系列の天使だろう。しかもよりによってその中でも事実上の最上級に位置する存在に向かって、微妙な出来の剣を差し出し「これに宿って下さい」などと言えば、それだけで無礼討ちとばかりにその場で裁きを下されても不思議ではない――似たような話は教会の記録にいくらでも転がっている。
『この我に……このような剣に宿れと、そう申すつもりか?』
「あの、私の願いはその通りです。駄目……でしょうか?」
『――見くびるで無いわ! そこに直れ!』
天使が気迫と共に放った意志に当てられ、横で座り込んでいるだけのアレスの意識が飛びかけた。危うく気を失いそうになりながらもルティアの様子を伺うと、彼女は顔面を蒼白にしながらも、天使に言われた通りに居ずまいを正していた。
『このような粗末な剣に我を宿らせようなど不遜もいいところだ。第一に出来が荒い。なかなか考えられて作られているようだが肝心の修練が不足している。まあ貴様の歳では仕方ないだろうが、この程度の代物を作れる者など、古今東西においてゆうに百は超えるほどおるぞ』
「は、はいっ」
『そして何だこの素材は。申し訳程度に聖なる銀を混ぜただけの鉄ではないか。下位の連中ならいざ知らず、我のように森羅万象に携わる存在を宿すには圧倒的に聖性が足りておらぬ。最低でも純聖銀に匹敵する聖性を確保しなければ我を宿すなど到底不可能であるぞ。それからだな……』
そのような調子で、天使は剣に関する大小様々な指摘――というよりもはやお説教に近い――を続け、ルティアが神妙な表情でそれを聞き続けるという状況が一時間近くにも渡って続けられた。
そしてあらかた話し終わったのだろう、天使の姿がゆっくりと空に浮かんでいく。
『しかし実に惜しくそして歯がゆい。次に我を呼ぶ時はせめて我を受け入れ得るだけの器を用意するのだな。話はそれからだ』
そう言い残し、再び降臨時と同じような轟音と雷光を放ち、次の瞬間には天使の姿は跡形もなく消え去っていた。
空は先程までの雲の存在が嘘だったかのように晴れ渡り、そして祭壇の上に置かれていた剣は、微妙に原型を保ったままの状態で、全体が真っ白な灰に成り果てていた。
そんな中、二人はしばし呆然としたままその場に座り込んでいたが、やがてアレスの方から恐る恐る口を開いた。
「あ……その、確か下位の天使を呼び出す、という話だったのでは……」
「は、はい。もちろんそのつもりでした。そもそも儀式のやり方にしろ使った道具にしろ、この手順で上位の天使様をお呼びすることなんてできないはずなんですが……」
そう言いながら、ルティアは儀式に使った道具類を慎重にあらためる。そして、小物類を入れていた袋の中に、一枚の紙が入っているのを見つけた。
「その紙は確か雑貨屋で渡された請求書……だったか?」
「そういえばまだちゃんと見ていませんでした……って何ですかこれっ!?」
ルティアは請求書の末尾に書かれた総請求額を見て、悲鳴に近い声を上げる。
「二万ってこれ一桁間違えてませんかっ!? 一体何をどうしたらこんな金額に……えっ、聖別された香油って……」
「な、何か間違えていたのか?」
アレスが恐る恐る訊ねると、ルティアは蒼白な顔で頷いた。
「聖油、という名前で呼ぶものが二種類あるということを、すっかり忘れていました。普通、聖剣関連の文献に出てくる聖油といえば『祝福された香油』のことを指すのですが……」
「ええと、一般的に『聖油』っていうと降臨祭の夜に教会で配っているあれのことかと思ったんだが」
「そうです、それが大体どこの教会でも作っている『祝福された香油』です。このあたりで降臨祭以外の時期に手に入れようとすると、教会から定期的に仕入れている雑貨屋に頼むのが一番手っ取り早いのですが……まさか『聖別された香油』まで扱っているなんて夢にも思いませんでした」
「ええと……それはどう違うんだ?」
仮にも聖剣士と名乗る立場で知らないというのも恥ずかしいが、アレスは恐る恐る訊ねてみる。
「祝福された香油より更に本格的な……私も詳しくは知らないのですが、本来『聖油』といえばこちらを指すと聞いたことがあります。大きな教会のちゃんとした儀式では、こちらが使われるそうです。ただ、こんな田舎では一般に出回ることはほとんど無くて、出回ったとしてもとんでもない値段に……この量をこの値段で買えたのは、実はかなり安い部類に入ると思います」
「なるほど、本来ならその、弱い方の聖油で儀式を行うはずが、間違えて強い方の聖油で儀式を行ったせいで、あんな上位の天使が降りて来てしまったということか」
「それにしては変なところもあるのですが……それにしても困りました。既に材料費だけで二万五千ほど請求が確定してしまっています……このままだと店も工房も差し押さえられた上に、もしかしたら身売りまでしないと代金が払えないかもしれません」
さらりととんでもないことを言っているが、ふとアレスの脳裏に、先程の参次元天使がルティアに向かって行っていた言葉が浮かんでくる。
冷静に考えると、あの言葉を額面通りに受け取れば――
「……もう一度、試すことはできないのか? 今度こそ正しく下位の天使を呼び出すことができれば……」
「ううっ、あそこまでいろいろ言われてしまって、なけなしの自信が跡形もなく吹き飛んでしまいました」
そう語るルティアの表情は、確かに大きく落ち込みはしているが、だからといって諦めようとしている風には全く見えない。
「天使の、最初のあの表情を見た時は、もっと物理的な制裁か何かが来るのかと警戒したが……まさか精神的に抉って来るとは思わなかったな。とはいえ、むしろ明らかに君に期待しているような口ぶりだったが」
「何にせよ、極めて貴重で有用なご意見だったのは確かです。うまく生かし切ることさえできれば、次はきっともう一歩進んだ剣が作れると思います。でも……やっぱり変なんです」
「変?」
「いくら『聖別された香油』を使ってしまったからといっても、あのやり方では本来、最上位の天使様をお呼びできる確率は相当低いはずなんです。というのも本来、下位の天使様の方が動かれるのがお早いですから、高確率でそちらが先にいらっしゃるはずなんです――何らかの手を講じてそれを防がない限り、ですが」
「つまり、何らかの理由で下位の天使が寄って来なかった、ということか。それに先日、霊剣を作ろうとした時の儀式でも――」
「ここで考えていても埒があきません。一旦戻って、改めて文献を調べ直してみましょう。できればレイチェルさんの手が借りたいのですが、体調の方は大丈夫なんでしょうか……?」




